大垣駅からバスで横曽根で下車し、福束大橋を渡って堤防沿いの道を歩いて、案内板のある福満寺に至りました。揖斐川の治水工事で遺構は消滅しています。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2021/02/27 07:09
登城記録 (2021/02/24 訪問)
大垣駅からバスで横曽根で下車し、福束大橋を渡って堤防沿いの道を歩いて、案内板のある福満寺に至りました。揖斐川の治水工事で遺構は消滅しています。
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2021/02/27 06:35
房総日帰り攻城⑩:飯沼陣屋➡城びと未登録(千葉県銚子市) (2019/05/27 訪問)
中島城(琴平陣屋鳥居前)から転戦。車で20分くらいでした。
陣屋町公園北側の道路(35.730505、140.837876)に路駐して攻城しました。
1590年(天正18年)徳川家康の関東入国に伴い松平外記伊昌が飯沼領二千石で入部した。
この時の陣屋は中世の飯沼城跡(飯沼観音の地か?)か、後に高崎藩が用いた陣屋の地かは不明。
その後、幕府領、旗本知行地などとなっていたが、1709年(宝永6年)海上郡17ヵ村、5000石が上野国高崎藩領となった。
その後、1717年(享保2年)幕府領となるが、同年中に海上郡17ヵ村、5619石余が再び高崎藩領となり大河内松平氏によって陣屋が築かれます。
明治五年(1872)高崎県支庁が廃されるまで、百五十余年の間、この地に陣屋が置かれました。
飯沼陣屋は高崎藩の飛び地である銚子領を管轄する出張陣屋で、郡奉行1名と代官2名が派遣常駐していました。
現在の「陣屋町公園」一帯に築かれており、公園の一角に「旧陣屋跡」の石碑と公園内に陣屋の案内板が設置されています。
遺構はなく、公園東側に石碑(写真撮り忘れました)と案内板がありました。
攻城時間は5分くらいでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2021/02/27 06:34
登城記録 (2021/02/24 訪問)
城跡は城山小学校になっています。職員の許可をいただき、校舎裏の本丸跡も見学することができました。土塁や虎口が良好に保存されています。
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2021/02/27 06:32
利根川沿日帰り攻城⑨:中島城 (2019/05/27 訪問)
須賀山城から転戦。車で22~23分くらいでした。
中島城跡説明板前(35.750532、140.762329)に路駐し、説明板の写真を撮った後、本丸跡➡琴平神社と移動して攻城しました。
本丸に向かう為に道路脇(35.751508、140.763169)に路駐。
琴平神社鳥居前(35.751009、140.762676)に路駐。
築城年代は定かではないが、1190年〜1199年(建久年間)に千葉六党の東氏の一族、海上与市常衡によって築かれたと云わっています。
海上氏(うなかみ)は平安時代末期に千葉常兼の子が海上与市常衡を名乗り、その子常幹は海上太郎と呼ばれたが一時途絶えました。
鎌倉時代に千葉介常胤の六男東胤頼を祖とする東系海上氏が現れます。
胤頼の子東平太兵衛尉重胤の次男は海上次郎胤方、その三男は海上四郎胤久、四男は海上五郎胤有(森戸城主)と長子東中務尉丞胤行以外は海上を名乗っている。
戦国時代は北条氏に従属していたため、1590年(天正18年)に北条氏の滅亡とともに徳川方によって廃城とされました。
現在城址には琴平神社(金比羅神社)があり、土塁や空堀などの遺構を確認できます。
また、東側にある銚子市三門町青年館の前と、西側の琴平神社前の道を南へ降りていく途中に案内板が建てられています。
説明板は確認できましたが、本丸(耕作地)を散策するが、石碑は発見できませんでした。
琴平神社(金比羅神社)では、石段に沿って竪堀らしきものがありましたが、遺構かどうか不明です。
攻城時間は25分くらいでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2021/02/26 22:52
水上バスから (2021/02/21 訪問)
浅草から水上バスに乗り隅田川を下りました。
満席だけど密にならないよう予約人数は制限されていました。
隅田川エリアから東京湾エリアに進むと船上に出ることができました。
天気もよく気持ちいい!
しばらく進むとレインボーブリッジが見えて来ます。
品川台場には何度か行きましたが船上からは初めて。
幕末の江戸湾防衛のための軍事施設は今では若者たちで賑わうスポットになっています。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2021/02/26 22:03
ライフジャケット必要⁈ (2021/02/26 訪問)
石見国 大田市温泉津町温泉津
櫛島キャンプ城近くの海城。温泉津町観光案内所【ゆうゆう館】から車で約10分で、キャンプ場駐車場に到着。
歩いて約5分でキャンプ場に着きます。そこの屋外テーブルに櫛島城案内図(2枚目)右に進み、岩と海を結ぶコンクリート橋(3枚目)を渡り、
コンクリートの通路を(4枚目)進みます。通路から降りると、岩肌を踏み締めて進みます。満潮や波が高い時は恐らく通れません。海を渡る感じです。浮き輪とか必要かも?と思ってしまいましたよ。
あまりにも波の音が大きく、怖くなり、遠景(1枚目)だけ撮影し、引き返しました。
次回、浮き輪と、心の準備をして攻城します。
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2021/02/26 21:43
2021/02/26 21:37
鵜丸城跡(うのまるじょうあと) (2021/02/26 訪問)
石見国 大田市温泉津町温泉津にあります。
石見銀山の銀搬送で栄えた、沖泊港の近くの、海城です。
温泉津町観光案内所の【ゆうゆう館】の方に登城口を丁寧に教えて頂きました、ありがとうございました。
ゆうゆう館から、温泉津港管理所を通り過ぎ、釣り人、船を通り過ぎ、車1分程で白い倉庫(2枚目)が見えます。空きスペースを探し、攻城します。猿を2回 見ました。
登城口は、倉庫の左後ろです。(3 4枚目)登城口に説明板あり(5 6枚目)
階段を登り(7枚目)明るくなった(8枚目)と思ったら、本丸に到着
本丸迄は登城口から約5分。灯台があります。
海が見えます。(1枚目)ここで、船の往来を監視していたのでしょyか?
二の丸、三の丸は藪に覆われ、進めませんでした。(10枚目)無理に進み、海城で今年初滑りをしてしまいました。
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2021/02/26 21:12
2021/02/26 20:59
2021/02/26 20:41
2021/02/26 20:26
2021/02/26 20:09
福光城Ⅰ 登城口 登城路 (2021/02/26 訪問)
登城口は、9号線の大看板(1枚目)から、橋を渡り、左手です。大看板の所の駐車スペース(2枚目)に駐車し攻城。
橋を渡り、左手に説明板(3枚目)があり、少しその右側に細いコンクリート道(4枚目)を進むと、藪に覆われた標識(5枚目)が見つけました。そのまま水路に沿って(6枚目)進むと、また標識が(7枚目)、落ち葉の中をどんどん進むとまたまた標識が(10枚目)
分岐点毎に、標識があり、わかり易いです
続く
+ 続きを読む
♥ いいね
5人が「いいね」しています。
2021/02/26 18:47
市街地への城郭復元のお手本 (2018/01/20 訪問)
ほとんど更地から本丸の約半分が復元された宇都宮城。
実はこの時期に、宇都宮に住んでいたので、その一部始終を目の当たりにした城です。
【アクセス】
宇都宮市役所の東隣にある宇都宮城、地図の◎印が目印の判り易い立地です。
市役所の広い駐車場が城址との間にあります。
電車は、東部宇都宮駅から南東に400m、JR宇都宮駅からだと、西に真っ直ぐ伸びる大通りを進み、PARCOとドンキーの間の通り(バンバ通り)を真っ直ぐ南進すると城址が見えて来ます。
【城の歴史】
平安中期の“前九年の役”で功の有った藤原宗円が、宇都の宮(現:二荒山神社)の別当に任ぜられ、赴任して居館を建てたのが宇都宮城の始まりです。
宗円の孫:朝綱の代からは“宇都宮氏”を名乗り、以後500年にわたり、関東の名族としてこの地に勢力を拡げ君臨しました。
居城として拡張・改修が繰り返された宇都宮城は、関東七名城に数えられる壮大な名城でした。
戦国が終わり、秀吉の天下でも領地安堵されていた宇都宮氏でしたが、『石高の過少申告』という理由で改易されてしまいます。
後には会津から蒲生秀行が入りますが、関ヶ原以降は奥平家昌を入れています。
大坂の陣が終わり徳川幕藩体制になると、家康は腹心の本多正純を入れて要地:宇都宮を統治させましたが、将軍が家光になると、突然改易されてしまいます。
俗に言う“宇都宮吊り天井事件”ですが、これは明らかに幕閣との政争の結果ですね。
以後は譜代と親藩の8家がつないで明治になるのですが、戊辰戦争では藩主(戸田家)が新政府に恭順したため、宇都宮城は幕府軍に攻められ占領されてしまいます。
そこに新政府軍が攻め寄せたので、激戦が繰り広げられた城と城下は殆ど灰燼に帰してしまいました。
戦後は幕閣の城の常で、城地は民間に売却されて市街化が進み、平成15年の時点では城址の痕跡を見付けるのも難しい更地状態でしたが、翌年から復元工事が始まり、本丸の西半分が外観復元されました。
【見どころ】
☆平坦地の平城ですから、堀を掘った土砂での掻き揚げ土塁で囲まれる本丸ですが、ここの土塁は3倍以上の土砂を積み上げた感じの高土 塁です。この高さは他では見られません。
夏の夜は暑くて寝られなかった事でしょうね(^^;
☆土塁も堀も現代工法で、正直ガッカリな印象も抱きますが、外寸は寸分違わず復元されています。櫓2棟は木造です。
☆利用者の客層や使われ方を観察して見てください。この城、活きてますよ。
【感想】
数々の城めぐりをして来ましたが、復元整備の動きが無い名城の多さを嘆く一方で、忠実に復元された城址の惨状も目につきます。
税金を掛けて整備したものの、興味を持って訪問する人は殆ど無く、住民の益になっていないのです。
その割に維持管理の費用は莫大で、特に城址を覆っていた木々を伐採すると風雨による損壊は驚くほど早く進みます。
そう考えると、文化財指定の無い宇都宮城を、城の姿形は忠実に再現しつつも、現代工法で丈夫で壊れにくい構造にし、さらに文化施設やイベント会場、緊急災害時の避難場所にと、活用の付加価値を与えて行くという宇都宮市の判断こそ正しい様に思えます。
都市の城址の、あるべき姿ですね。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2021/02/26 08:34
海賊の城 (2021/02/21 訪問)
九鬼氏が築いた平山城である鳥羽城を訪問しました。
鳥羽駅から歩いても10分程度の距離で郭内にたどり着けますので、観光の便を考えれば最寄りの中ノ郷駅よりも鳥羽駅の方が便利だと思います。
近鉄の鳥羽駅改札の外には観光案内所があり、御城印(今は3種類あります)が入手可能であり、鳥羽城までの徒歩での行き方を教えて頂けます。
城はこんもりした岡の上に築かれており、城の一部には廃校となった旧鳥羽小学校があります(本丸は校庭だったようです)。
全山石垣という訳ではありませんが、海沿いの三の丸から本丸に向けて段々畑の様に築かれた石垣は見事だと思います。
この城が築かれた時点では高石垣を作事する技術がなかったのかもしれませんが、その分、石垣の重なりを楽しむことができるように思います。
本丸や二の丸からは真珠で有名なミキモトや鳥羽水族館を見ることもできますが、この城の見所は、この三の丸から重なり合う石垣と本丸付近の石垣のように思います。
山の手にある市役所の方には家老屋敷跡が残されており、そこも見逃すことは出来ないように思いました。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2021/02/26 08:21
杉谷砦(滋賀県甲賀市甲南町杉谷) (2021/01/31 訪問)
詳細は不明ながら、杉谷砦は杉谷氏(甲賀五十三家)が築いた出城と伝わります。なお、織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる杉谷善住坊は杉谷氏の一族とも言われます。
県道から正福寺の東側に続く道に入り、少し行くと車両通行止めになっていますので、道路脇の空きスペースに路駐させてもらいました。駐車場所から正面の藪に突入すると主郭北西部に至るのですが、進入路を見付けられず、竹藪沿いに東に少し進んだところから突入すると、東側の堀切から続く竪堀の北麓に出ました。杉谷砦の一番の見どころと言われるだけあって、相当な深さで東尾根を完全に断ち切っています。堀切の西側には主郭があるはずですが、ルートがわからないので土塁によじ登ってみると、はるか下に主郭が見えます。大変な高さ(7mくらい)です。主郭に下りていくと広さはないものの、東辺から南辺、西辺までを高土塁で囲んでいます。主郭北東隅から東側の堀切に続く道があり、堀切を越えて東尾根にも行ってみましたが、雑木林になっていて特に削平された様子もないので、城域ではなさそうです。それにしても、堀切のあちこちに石仏が転がっていたのは何か謂れがあるものなんでしょうか。
…ということで、この日は甲賀の新治地区・杉谷地区の城をめぐりましたが、こんな小さな砦に至るまで見上げるような高土塁を備え、徒歩圏内に10以上の城が密集し、それぞれ登城口からすぐに遺構にたどり着けるというのは……甲賀の城、最高すぎますね。満足満腹を通り越して胃もたれを起こしそうなほど濃密な一日でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2021/02/26 06:45
遺構消滅 (2021/02/11 訪問)
ここも遺構はありませんでした。それでも、説明板があるだけありがたい限りです。平安末期の築城で、勝瑞城の西の守りとなり、長宗我部元親の阿波侵攻で勝瑞城とともに落城したとのことです。
+ 続きを読む
♥ いいね
7人が「いいね」しています。
2021/02/26 06:38
利根川沿日帰り攻城⑧:須賀山城➡城びと未登録(千葉県香取郡東庄町) (2019/05/27 訪問)
森山城から転戦。車で5分くらいで着きました。
須賀山城跡駐車場(35.828913、140.651390)に駐車して攻城しました。
須賀山城は千葉常胤の六男、東胤頼によって1190年(文治6年)築かれた城です。胤頼は上代前掛城(桜井城/現:旭市・旧:千潟町)より移りました。
その後、1218年(建保六年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移り、ここには一族が居城したようです。
三代東胤行は1221年(承久三年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。
戦国時代には千葉胤冨が東氏一族である海上氏の養子として入っていましたが、1557年(弘治3年)千葉宗家を継ぎ本佐倉城に移りました。
しかし、胤冨はこの城を境目の城として重視し森山城の外郭として森山城に取り込む形で須賀山城も改修したようです。
天正年間に入ると東氏、その家臣の原氏が在城し、宗家千葉氏とともに北条氏に従いました。
1590年(天正18年)、城主の東直胤は小田原城に籠城しましたが、北条氏滅亡後に森山城とともに廃城になりました。
現在城址には土塁や空堀などの遺構が残っており、天之宮神社付近の鳥居前に城址碑があります。
深い空堀、高い土塁が残っており見ごたえ十分でした。
攻城時間は25分くらいでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2021/02/26 06:28
利根川沿日帰り攻城⑦:森山城 (2019/05/27 訪問)
小見川陣屋から転戦。車で7~8分くらいで着きました。
森山城説明板前の空スペース(35.834595、140.633978)に路駐して攻城しました。
森山城は千葉常胤の六男、東胤頼が1190年(文治6年)に須賀山城を築城、その後、1218年(健保6年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移ったようです。
三代東胤行は1221年(承久三年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。
戦国時代には千葉胤冨が東氏一族である海上氏の養子として城主をつとめていましたが、1557年(弘治3年)に千葉家当主・千葉親胤が家臣によって殺害されると千葉宗家を継ぐために本佐倉城に移りました。
胤冨が移ったのちも境目の城として重視され、天正年間には東氏その家臣の原氏が在城して千葉氏にともなって北条氏に臣従しまsた。
1590年(天正18年)城主の東直胤は小田原城で籠城、北条氏滅亡後に森山城は廃城になりました。
現在城趾は農耕地や牧場になっていますが、主郭部には空堀や土塁などが比較的良好な形で残されています。
また、山麓にある真性院芳泰寺は東氏代々の菩提寺であり、東胤頼夫妻の墓があるようですが、自分は行っていません。
星宮大神側の鳥居右側の竹林から攻城しましたが、藪蚊が多く大変でした。
主郭跡前の案内板横に箱があり森山城址説明チラシが置いてありました。
土塁、空堀、土橋が確認できました。
攻城時間は35分くらいでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。