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カズサン

大手復元冠木門が撤去されてました (2021/01/14 訪問)

 神奈川県と愛知県に挟まれている静岡県、緊急事態宣言下では県境を越えて城探訪も憚られ昨年の4月5月頃より武漢コロナウイルス感染が広まっています、県内遠江の国辺りを再々の城廻りにと冬枯れ時に遺構が良く観察できるタイミングに勝間田城の五重堀切観察前に諏訪原城に寄り勝間田城を終えて東に約8km程に在る小山城に登城しました。
 
 今回は土の遺構を観察重点にして回りました、先ずは麓の町営駐車場に車を駐て、麓の能満寺を参拝、三大大蘇鉄を観て、女坂より登る、虚空蔵堂を通り本丸へ、本丸周囲の土塁を観察し東端へ、根こそぎ倒れた樹木、台風による被害か?、復元された本丸の横空堀、丸馬出、三日月掘、二の丸横空堀、三重三日月堀控えの馬出、西北の復元大手門へと移動するが何と木製復元冠木門が無い、門柱が立ってた基礎を見ると基礎石ギリギリに削った真新しい跡を発見、古く成ってか?台風などの被害でか?撤去されて居ました。
 大手門跡から西北に登城路を降り北側の城塁、堀を眺めて北側登城口へ北側に非舗装の駐車場が在る、北側の裾に水堀か?用水路水が流れてる直ぐ近くの北西には大井川の支流湯日川が流れ外濠の様子、戻り大手門跡から勘助井戸、井戸を含めた三重三日月堀を横断し観察、西南の資料館に向かう日曜日祝日以外は休館で入れず、戻り南西の馬出、堀、木橋を渡り模擬天守閣を眺めて本日は終了。
 
 朝9時に出て17時に帰宅、亭主留守がいい状態で家内はゆっくり自分の時間、亭主も楽しく城探訪良い一日でした。

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ぶーたろー

アジサイの季節に登城することをお勧めします。 (2020/11/21 訪問)

https://youtu.be/r1AMXh0_Yr0
↑この動画が参考になります。公園として整備されてます。遺構もそこそこ残っていますが、看板が無く何の曲輪なのか分かりません。アジサイがたくさん植えてあり、その季節に行くのが良いと思います。

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ぶーたろー

城内は西伊豆歩道の一部として整備されてます (2020/11/21 訪問)

https://youtu.be/V346CBPVxYI
https://youtu.be/7gNiulgPFYE
↑この動画が参考になります。(前編・後編)

登城口見つけるのに一苦労します。動画を見れば迷うことはないかと。
パンフレット箱はカラなので、伊豆観光協会で入手することをお勧めします。電話で聞いてみてください。
出城と本丸が道路で分断されています。道路わきに登城口があります。道は整備されていますので、軽装でもOK。
見ごたえのある遺構はあまり確認できません。曲輪の形状はよく分かると思います。

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ぶーたろー

160年間藩政の中心地でありました。今はその面影はありません。 (2020/12/05 訪問)

https://youtu.be/caS16qRe6M0
↑この動画が参考になります。
公開されている曲輪は藩政を扱うのに適したものとなっており、敵を迎え撃つには心細いものとなっています。
周りにある山々には敵を迎え撃つための遺構があると思われます。



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ぶーたろー

城攻めは梅と桜の季節がお勧めです。 (2021/01/04 訪問)

https://youtu.be/yOgnJCq_Sqc
↑この動画が参考になります。
日本で唯一の丸石垣(玉石垣)のお城。TVで見てこの目で確かめたくてやって来ました!転がることなく積まれた石垣は圧巻!
梅と桜の木が沢山植えられていたので、その季節にあわせて、登城することをお勧めします。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り③ (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの3城目(ラスト)は高崎城です。箕輪城からの転戦です。

高崎城は1598年(慶長3年)、箕輪城の城主井伊直政が主君である徳川家康の命により和田城跡に移り改めて築城した城郭です。
和田城は鎌倉時代初期、和田正信が築いた城郭で小規模ながら堅城としても知られ、度々上杉軍の侵攻を食い止めています。
和田氏はその後、小田原北条氏に属した為、1590年(天正18年)の小田原の役で前田利家や上杉景勝などの大軍に包囲され落城、北条家が滅亡すると廃城になりました。
関東入封した徳川家康が中仙道や三国街道を抑える要衝であることから直政に築かせたと考えられています。江戸時代には譜代大名が城主を務めています。

現在は高崎城址公園として整備されており、民間に払い下げられていた乾櫓と東門が移築復元されています。
東門の写真を撮りましたが、ブレブレで投稿できません。
投稿枚数に余裕があるので、公園での絵画展、途中に寄った生品神社の新田義貞公像とツアーでの昼食の写真を投稿します。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り② (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの2城目は箕輪城です。太田金山城(新田金山城)からの転戦です。
100名城スタンプは「高崎市箕郷支所」で押しました。休日だったので、裏口から入った記憶があります。

箕輪城は在原業平の子孫とされている長野業尚によって築かれ、以降、長野氏4代の拠点となった城です。
長野氏は3代 長野業政 の時代に全盛期を迎え、武田信玄の度重なる侵攻を防ぎました。
しかし子の業盛 の代となって次々と要所を落とされ、1566年(永禄9年)、ついに箕輪城は陥落。
武田氏に奪われてからは有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆や内藤昌豊らが城主を務めました。
武田氏滅亡後には織田家臣 滝川一益が入城しましたが、本能寺の変が勃発し北条氏の城となりました。
豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅亡すると、箕輪城は徳川家臣の井伊直正に与えられました。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したものの、1598年(慶長3年)井伊直正が高崎へ城を移すと、わずか8年で廃城となりました。

自分が攻城した時には「郭馬出西虎口門(櫓門)」が復元されていました。屋根は瓦でなく板葺でした。
堀(堀切)好きな自分が投稿する写真は堀(堀切)が多くなりますが、石垣や土塁等も確認できます。
攻城時間は75分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り① (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの1城目は太田金山城(新田金山城)です。
100名城スタンプは「南曲輪の休憩所」で押しました。

1469年に新田一族の岩松家純によって築城され、下剋上により城主となった由良氏の時代に全盛を迎えたとされます。
「上杉謙信」や「武田勝頼」などの近隣の有力戦国大名から10数回に及ぶ攻撃を受けるも、金山城は一度も落城することなく、まさに難攻不落の名城でした。
しかし、小田原北条氏の謀略に落ち支配下となっていた1590年、「豊臣秀吉」の北条氏征伐により金山城は廃城となりました。

攻城当日は雨と霧で視界が悪かったですが、逆に幻想的な写真が撮れました。眺望が見れなかったのは、ちょっと残念ですが。
関東では珍しい石垣のお城として有名ですが、個人的には堀切の素晴らしさに感動しました。攻城時間は2時間くらいでした。

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橋吉

日本三大水城の一つ (2015/08/10 訪問)

中津城は、黒田官兵衛(如水・孝高)が築城しました。
中津川の河口に築城され、堀には海水が引き込まれているため、水城ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。

官兵衛は瀬戸内海に待機させた舟をリレーすることにより、ここに居ながら上方の情報をわずか3日で得ていたそうです。
城内には黒田官兵衛資料館が設けられていました。

不思議なことに、事前に見た中津城公式ホームページには、江戸時代の大半ここを治めた奥平氏のことばかり記されて、官兵衛のことは載っていません。
中津城模擬天守は1964(昭和39)年、奥平家歴史資料館として奥平氏子孫が表取締役を務める中津勧業によって建てられました。
しかし、維持するのが大変となり、自治体か民間企業に売却する話しが出ているそうですが、上手く進んでいないようです。
このことが影響しているのでしょうか。

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個人投資家

100名城巡り (2019/10/24 訪問)

過去に行きました。

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個人投資家

地元の城巡り (2019/12/19 訪問)

長野の龍岡城を思い出しました。

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個人投資家

地元の城巡り (2019/12/19 訪問)

大給城とセットで巡りました。

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個人投資家

地元の城巡り (2020/01/22 訪問)

乏しい想像力を補完してくれる、味のある復元建物群でした。

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個人投資家

地元の城巡り (2020/01/22 訪問)

足助城とセットで巡りました。竪堀がはっきりと確認できました。

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松永秀久絡み (2021/01/16 訪問)

松永秀久傘下に入った、豊田氏の豊田城は、松永秀久の指導で防御性も規模もアップしたと。
県道51号線脇に登山道の標識があるが、山裾を行く、東海自然歩道にも立派な表示がある。登山道が頂きの平坦部に至るまでは、東海自然歩道同等の草刈りがされているが、そこから先は、城びとの先達のレポートのように、しばらく手入れされてない感じ。とは言え、副郭と堀底・法面は、藪になっておらず、見ごたえがある。副郭の南の「コ」の字型凹部とその前面の馬だしを認識できた。

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小城小次郎

伊勢盛時(北条早雲)生誕の地として (2020/11/22 訪問)

伊勢盛時(北条早雲)生誕の地との説が定着し地元の「早雲の里」にかける熱量は半端なものではないが、実際に「北条五代」が大河ドラマになれば大河の舞台として大きな注目が集まるのだろう(行くなら今だ。コロナだけど)。

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いんげん丸虫

上山田付城 静岡県伊豆の国市 (2020/12/27 訪問)

小田原の役で韮山城攻めのため豊臣軍が築いた陣城の一つ。写真ではほとんどわからないですが枡形虎口、折れのある土塁など土の城の縄張りを堪能できます。看板等は無く直登、藪漕ぎと訪城しずらいですが、よく遺構が残ってます。

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チェブ

果樹園と農道。 (2020/12/26 訪問)

たくさん「勝山城」がありますが、甲府市の「勝山城」、農道をダッシュで攻めてきました。
車を駐車する場所がありません。路駐してダッシュです。

武田家支流の油川 信恵さんのお城です。
油川?もしや、武田 信玄さんの側室に油川夫人という方がいらっしゃったような気がして調べてみると、油川夫人のおじいちゃんが、油川 信恵さんのようです。
諸説あるので 絶対とは言えませんが『油川』なんて、珍しいお名前だったので、、、。『油川』を調べると青森がルーツのようです。
だんだん話が飛んでしまうので「勝山城」に戻します。
武田家滅亡、本能寺の変と続き、この辺りは北条家に侵攻されます。そこで徳川 家康さんが服部 半蔵さんに「勝山城」の修築を命じたそうです。
元武田家領土、北条家も徳川家も欲しい場所です。

緩やかに登る農道を進むと石碑がありました。
『沼田めぐり 攻めるにかたし 勝山城』
と、刻まれてます。
ゆっくり攻めたら、何か発見できたかもしれませんが路駐が心配で退陣です。

武田家の内紛により油川 信恵さんは討死しました。
油川夫人は、どのような気持ちで信玄さんに嫁いだか、複雑です。
戦国の女性には現在の女性、どのように映ってるのでしょうか?
とりあえず、私のダッシュは見られたくないかな。

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橋吉

島原の乱 (2015/08/09 訪問)

島原半島を南下して、島原の乱の舞台となった原城へ向かいました。
まずは、有馬キリシタン遺産記念館で予習。
              
島原半島には、早くから、キリスト教信者がたくさんいました。
やがて、江戸時代になりキリスト教が禁じられると、島原の領主でありキリシタン大名であった有馬直純は改宗し、領内のキリシタンを迫害することを余儀なくされます。
しかし、良心の呵責に耐えかね、幕府に転封を願い出て、日向延岡転封されることとなります。
後任の桝倉重政はやり手だったようで、江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしました。
しかし、そのたびに領民から年貢を過重に取り立てます。

もともと、島原は海が迫り山が多くて耕作地が多い上、火山灰が滞積したやせた土地でした。
さらに、天候の加減で不作が続いていたのですが、新領主は、年貢をまけてくれません。

しかし前任者の轍を踏まないと思ったのか、重政は、キリスト教徒の弾圧に一層力を入れます。
これ見よがしに、残虐な仕打ちをし、農民たちから深い恨みをかうことになりました。

隣の天草も同じ状況でした。
ついに1637(寛永14)年、積もり積もった重いが爆発し、島原・天草の農民たちが立ち上がったわけです。

原城跡は、有馬キリシタン遺産記念館から車で5分ほどです。
島原の乱当時、すでに原城は廃城になっていましたが、そこに3万7千人が籠城しました。
対する幕府軍は12万5千人でした。

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赤い城

湿地帯に築かれた要害 (2020/01/09 訪問)

主郭部は河和田小学校、中城幼稚園の辺りですが周辺に遺構は多く残っています。
報仏寺の山門前に石碑があり、墓地の奥に堀が残っています。
進むと途中から泥濘み、水堀へと繋がっていました。
天徳寺の山門前の堀も進んでいくと湿地になっています。
墓地の裏手辺りは二重に。
他にも遺構は在るのですが多くが私有地で入れません。
平地に深い堀と湿地、現在は市街地となっている場所にこのような要害、驚きです。

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