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江尻のJ

私は、どこへ行くの? (2019/09/26 訪問)

市電に何も考えないで乗ってしまった、お城がだんだん遠くなるみたい。市電には行先が数か所あるみたい、行先はしっかり確認して乗りましょう。

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江戸城築城石

伊豆國稲取、松平土左守・山内忠義切出し御進上石(角石)

伊豆國稲取には松平土左守・山内忠義が切り出した江戸城築城用の角石(城郭の角に使用する大型の築城石)が民家門前やお寺の境内、神社の忠魂碑礎石、山中に四百年の刻を経て存在しています。山内忠義は山内一豊に続き二代目の土佐藩主として江戸城改修の公儀普請に参加しています。山内忠義は土佐藩主二代目として朝廷に申し出たのですが「土佐」を「土左」と記載され、土佐藩第二代藩主のみ松平土左守と記されているのです。伊豆國稲取に残る土佐藩切出し角石に刻まれている銘文は「進上(御進上) 松平土左守」、つまり土左藩第二代藩主・山内忠義であることが明確になっているのです。
写真一枚目は栗田家門前角石、「御進上 松平土左守 十内」と刻まれています。この角石の文字刻印により山内忠義切出し角石が伊豆國稲取に十個存在していたとされますが、現在目視確認出来るのは七個です。二枚目は一枚目同様、栗田家門前の角石で「進上 松平土左守」の文字刻印。三枚目は国道135号線下の竹藪内に埋没している角石で文字刻印は「進上 松平土左守」。四枚目は民家石垣下から発見され東伊豆町庁舎に展示されている角石、文字刻印は「進上 松平土左守」。五枚目は稲取八幡神社境内の戦没者忠魂碑に使用されている角石で文字刻印は「進上 松平土左守」。六枚目は稲取吉祥寺より発掘され、境内に鎮座する角石です。文字刻印はありませんが小口には山内家の代表紋とされる「柏一様」の刻印が刻まれています。七枚目は愛宕山山中に残された角石。以前、二柱が並んで鎮座していたのですが一つは造園業者によって砕かれてしまいました。二つ目を砕く際、小口に「進上 松平土左守」の文字が見つかり、粉砕は免れたのです。

他江戸城築城石の情報はhttps://www.edojyo.tokyo/

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響ちゃん

曇り (2019/09/28 訪問)

蛇出たっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/09/28 訪問)

彼岸花咲いてるぽい

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にのまる

お彼岸でした。 (2019/09/23 訪問)

お線香の匂いに導かれて心岩寺にたどり着きました。

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カルビン

公園内より私有地に明確な遺構が (2018/11/17 訪問)

最寄り駅から徒歩15分程度で行ける未訪問のお城がほとんど無くなったここ1年、徒歩時間を拡大して訪問出来る場所を模索しておりました。

そんな中選んだ場所が中峠城。
現地解説には芝原城となっていたのでコチラで通します。

芝原城自体は駅から1kmちょっとなので徒歩15分圏内ではありますが、セット訪問の場所が軒並み駅から遠かったので。
(ここだけ訪問しに行くにはちょっと遠すぎてもったいなかった)

JR成田線湖北駅から北上した場所にある古利根公園が城址と言う事で、早速公園内に突入。


もしかして超浅くなった堀?とか、うーん、これ土塁か?のような場所を何度もみつつ疑心暗鬼のまま進んだ先にひっそりと解説版がありました。
やはり堀、土塁で間違い無かった模様。。。しかし消化不良ですw

雰囲気はあるものの、肝心の遺構がスッキリしなかった為、この後公園沿いに西へ向かい、遺構を探してみると・・・公園の領域外にある道の向うにあった竹林の中に明確にわかる土塁と空堀がありました。
おそらく私有地なので立ち入る事はしませんでしたが、道路からも遺構を確認する事が出来たので無問題(笑)

最低限の物は確認出来たので、まま満足出来ましたw


芝原城の北を流れる利根川の向う・取手には鬼作左こと本多重次のお墓があるので、車でこられるならセットで立ち寄られると良いかも。
(但し本多重次墓近くには車駐車する場所が見当たらなかったのでご注意を)

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比高はないが要害の地 (2019/09/26 訪問)

クノールさんのレポートに加えて説明板等をアップします。比高は小さいですが三方は急斜面。西側の尾根とは重厚な土塁と堀切で遮断されています。歴史も重厚。
集落に隣接していて良く整備されています。出丸南西出口にすてきな表示が。

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江戸城築城石

羽柴左衛門太夫(福島正則)担当石丁場、切出し角石と刻印石

伊豆國大川地区に残る羽柴左衛門太夫(福島正則)の担当石丁場より切出し角石(ぼなき石)と刻印石です。四百有余年経過した現在でも山中にひっそりと現存しています。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo

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コロスケコロコロ

墨俣城! (2019/09/19 訪問)

川沿いの道を走っていると突然現れてテンションが上がって、良かったです。

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コロスケコロコロ

大垣城! (2019/09/19 訪問)

商店街から突然あらわれてテンションが上がって、良かったです。

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くろもり

説明が丁寧な城跡 (2015/12/29 訪問)

戦国時代、日向国(宮崎県)で勢力を誇った伊東氏が都於郡城(とのこおりじょう)と共に本城にしていた歴史あるお城です。二の丸跡に資料館の鶴松館があり、無料駐車場(20~30台くらい)もあります。

関ヶ原の合戦に佐土原城主・島津豊久公は西軍として参戦しますが、西軍の敗色が濃厚となり、島津軍大将・島津義弘公を戦場から離脱させる為、捨て奸(すてがまり=本隊を逃がす為、退路にとどまり自らの命を犠牲にして敵兵の追撃を遅らせる)の戦法をとり、義弘公の代りに戦死しました。関ヶ原の合戦関連の映画やドラマ等でよく見る西軍を追撃する東軍の井伊直政や松平忠吉が銃撃され負傷するシーンはこの時の豊久公以下、島津兵最期の働きになります(捨て奸に参加した島津兵はおそらく全滅)。

遺構は切通し、堀切、堀、曲輪、天守台跡が残っていました。南九州で唯一天守があったとされる城ですが、残念ながら現在は天守は存在しません。

城跡に所々設置してある説明板のパネルが、漫画「ゲームセンターあらし」(私より少し上の世代なので読んだことはないのですが名前は知ってます)で有名な「すがやみつる」先生のイラスト付きで丁寧に説明されており、とても分かりやすくて感心しました。

島津豊久公を主人公にした中世ファンタジー風の異世界に召喚されるアクション系歴史ファンタジー作品である「ドリフターズ」という漫画が人気があるようなので、豊久公に興味がある方はどうぞ。

また、豊久公は物語序盤で討死してしまいますが、しまたけひとさんの「敗走記」という関ヶ原から大阪までの「島津の退き口」を実際に歩いて辿るというおもしろい漫画もありますので、「島津の退き口」に興味がある方にはこちらもおすすめです。

佐土原城と関係なく申し訳ありませんが、千葉県下で台風の影響による被害が長引いているようで気になっています。被害にあわれた方々の一日も早い日常生活の復旧をお祈りします。

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カズサン

高須四兄弟の城 (2018/03/17 訪問)

 勝幡城(愛知県稲沢市)を終えて西に木曽川、長良川を越えて幕末維新で活躍した高須四兄弟の城を探訪、城址の遺構は殆ど無く城址公園、の案内板、城址が在ったと言われる海津明誠高校辺りを眺め、高須小学校の辺りの主水橋辺りの堀跡再現の水辺の公園、約1km離れた海津市歴史民俗資料館も見学。(情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん)
 高須藩は尾張徳川光友の次男からの流れで高須藩3万石は明治まで続く高須四兄弟、長兄徳川義勝が尾張藩、三男徳川茂栄が一橋家、四男松平容保が会津藩、五男松平定敬が桑名藩に養子として藩主を務め幕末維新期に活躍される、明治に成って撮った四兄弟の写真は有名です。

 この後3、4km離れた今尾城(岐阜県海津市)を探訪して名神東名新東名で浜松へ帰宅。

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朝田 辰兵衛

龍岡城五稜郭展望台へ行けず…<泣>。 (2018/11/19 訪問)

五稜郭であいの館には職員不在(←これが通常?)。キャリーバッグを預ける手段が見当たらず…。

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カズサン

信長誕生の城と言われてる (2018/03/17 訪問)

 西三河未踏の城廻り最終古瀬間城(豊田市志賀町)を終えて時間と交通の混みを考慮して東海環状道、湾岸道弥富ICを経由して勝幡城に到着、車は案内板の有る道に路駐、交通量少なし。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん)
 遺跡は無く案内板と石碑、織田信長誕生の地の黄色い看板、少し進んで日光川の橋に勝幡城の復元図が掲示されてる。

 勝幡城は信長の祖父織田信定が築き近くの津島神社門前、津島湊を抑え権益を確保し勢力を伸ばし嫡子織田信秀は更に勢力拡大その時期に信長誕生なのか?那古屋城で信長育つとあったが?どっちでしょうか?

 この後津島神社、津島湊跡(天王川公園)も探訪

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ぴーかる

横堀を利用してミニアスレチック場に。 (2019/09/14 訪問)

【八浜城】
<駐車場他>城跡Pあり。
<交通手段>車

<見所>横堀
<感想>日帰り備中境目7分の3城攻めの旅、5城目。この城は宇喜多勢側の城跡で備中境目七城とは関係ないです。秀吉の毛利攻めの時には東の平地をはさんで毛利方の常山城と対峙して合戦があったところです。麓の合戦時に応援に来た宇喜多基家が討死している。
 駐車場から城跡まで舗装路になっているので楽に行けます。城跡は主郭に石碑と八浜合戦で討死したであろう戦死者のお墓が並んでいます。一段下った曲輪には東屋、曲輪の横堀は南側はしっかりと残っており、折れのある部分があります。堀を利用してアスレチックの遊具が架かっているが蜘蛛の巣だらけでしばらく誰も遊んだ様子はない。横堀のいいショットを撮るにはこの遊具の中心に行かねばならず、カメラを持ちながらの攻略はちと大変でした。(+o+)
堀の南側斜面は写真では写らない程度の薄い波状になっているように見えたので、竪掘りがあったかもしれない。曲輪の北側は舗装路になっているので、特に何もない。南側とバランスが悪いので横堀は潰されているのかもしれない。城跡のすぐ北東に八幡宮・神社がある。木々の間から僅かに児島湖が見えていい眺望。お参りして終了した。
 これにて日帰り旅終了、一日走行距離433㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

展望櫓が築かれてます (2018/03/17 訪問)

 丸根城(豊田市野見町7)を終えて西に約1.9kmの浄願寺を目指してお寺前の参拝者駐車場に停める。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん) 古瀬間城は初登城です。
 この城は松宗家三代松平信光より分かれた長沢松平勝時の子松平宗忠によって築かれた(1506年)、城願寺南の丘陵、単郭の城で城址は公園化整備されて先端に櫓状2階展望台が出来眺望良好。

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橋吉

田んぼの中に記念碑が建っているだけだが (2010/05/02 訪問)

明智光秀・柴田勝家を破った羽柴秀吉でしたが、織田信雄(信長の次男)・徳川家康と対立し、小牧・長久手の戦いが発生してしまいます。
この戦いの最終局面がこの近辺の蟹江城(海部郡蟹江町)を中心にして、おこった蟹江合戦と呼ばれるものです。

もともと大野城は蟹江城の支城としてつくられ、徳川側の城でした。
しかし、秀吉は蟹江城を味方に付けてしまいました。
大野城主の山口重政は母親を人質に取られましたたが城を守りきり、蟹江城も取り返すことができました。
この戦いが小牧・長久手の戦いの決着をつけ、和議となったといわれています。
ゆえに秀吉は、この後に天下統一を成し遂げるのですが、家康に一定の地位と力を授けざるを得ませんでした。
この地での戦いが江戸幕府成立につながると思うと感慨が深いです。

蟹江合戦の翌年の天正十三年(1585)大地震により大野城は崩れ落ち、その大部分は地中に埋まってしまい、廃城になりました。

このあたりは水郷地帯であり、河川が堀の役割をしていたことが容易に推定できます。

現在では、田んぼの中に記念碑が建っているだけです。

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カズサン

【三河・丸根城】 愛知県豊田市  矢作川へ南西突出丘城 (2018/03/17 訪問)

 豊田市佐久良城を終えて途中豊田市金谷町に在る「金谷城」を探訪し矢作川を東に渡り直ぐの丸根城址公園(豊田市野見町7)北の駐車場に停める。
 南西に突出た丘城、北曲輪、南曲輪(主郭)ぐるっと空堀が囲ってる南側は矢作川で守り急激な崖、切岸に成ってる、保全管理整備が行き届いてる。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん)

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カズサン

【三河・佐久良城】 愛知県豊田市 石垣隅櫓台見たくて (2018/03/17 訪問)

 数十年以前より城郭書籍で認知していた佐久良城(桜城)の独立存続してる石垣隅櫓台を是非見たいと周辺の西三河未踏の城もリストアップして出掛けました。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん)
 当日桜城址公園はイベントでテント、出店で賑わってましたが公園沿いの道に幅寄せ路駐し駆け足で探訪、やっと見る事ができましたがテント、出店でベスト写真を撮る事は出来ませんでしたが掲載致します。
 佐久良城は矢作川の度重なる水害でなんせいの丘陵地に挙母城を築き佐久良城も取り込まれた、ここを元挙母城とも呼ばれてる。
 桜の前でしたが数十年頭の隅に有った思いを果たす事が出来ました、良くこのまま残ったなと感嘆しながら豊田市民の保全管理活用に感謝です。

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チェブ

ぴんころ地蔵もお忘れなく。 (2019/09/22 訪問)

長野県佐久市の「伴野城」に行きました。
小笠原 長清さんの六男、伴野 時長さんが築城したそうです。
「伴野城」は城山公園になっていてお城跡というより居館跡の方が、しっくりきます。
なぜなら、四角いんです。
土橋跡の左右に水堀跡が、ぐるっと「伴野城」を守ります。
現在、水堀は用水路のようになっていて、水流に勢いがあります。
そして土塁で、囲まれてます。
「伴野城」の端っこには大伴神社があり櫓台だったんだとか。
たくさんの子供達が遊んでいる公園でした。でもでも「伴野城」の見どころも、たくさんありましたよ。

車を近くの薬師寺の無料駐車場に停めました。
「ぴんころ地蔵」というネーミングが面白いお地蔵さんを撫でようと思い行ってみました。
なんと、ぴんころ地蔵さんの先にある薬師寺の山門は、続100名城の龍岡城の東通用門を移築した山門でした。
ぴんころ地蔵さんではなく、通用門を撫でてきました。

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