本願寺を中心にした松永久秀らが第三次信長包囲網の一環のために、今井郷旧環濠を新たに三重堀を強固に城構えとしたもので、信長軍(明智光秀配属の筒井順慶率いる織田の軍勢)と半年あまり戦った。そして、顕如上人が信長に和睦を申し入れたために戦う大義を失って明智光秀の茶の師匠である津田宗及の仲介によって和議をしている。
明智光秀今井郷宛書状によると、和議の条件として堀を埋めることと、武装の放棄である。織田信長から今井郷宛朱印状には石山本願寺同様に自治が許されるという寛大な沙汰をくだされている。
現在、西環濠が復元されていて、南側には橿原市教育委員会が発掘調査した三重堀が確認され、城好きには往事の城構えの様子が脳裏に浮かんできます。
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