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2021/02/21 23:03
墨俣一夜城 (2020/09/21 訪問)
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2021/02/21 22:21
蒲生氏郷の故郷 (2015/03/28 訪問)
蒲生氏郷が生まれ育った日野城です。
近年は中野城と表記される事が多く、現地でもそうでしたが、私自身の映像や書物を通しての記憶では、“日野城”で凝り固まってるので、ここでは日野城とします。
【アクセス(車)】
音羽城に続く訪城なので、R477に戻り、2kmほど西に走ると、“←日野川ダム”の看板が現れます。
その交差点に“中野城”の看板もあるので左折して入って行き、ダム湖の畔に出ます。この湖の北岸に日野城址はあります。
湖畔は大きな駐車場になっていて、傍に料理旅館があるので、一瞬旅館の駐車場? と思いますが、観光案内看板が何枚もあり、城址入口も示されているので、停めて大丈夫みたいです。
【城の歴史】
蒲生氏は古くからの東近江の名族で、鎌倉~室町期は近江守護の重臣を努めていました。
応仁の乱の頃、蒲生貞秀は音羽城を築城して本拠としていましたが、嫡子の秀行を将軍奉公人として京で公奉させる傍ら、二男:高郷には守護の六角氏への奉公を命じていました。
しかし、幕府と六角氏が明応の政変で争う様になると、蒲生の兄弟も巻き込まれて相争う様になってしまいます。
結局は、将軍の力が衰退して、高郷の子の定秀が蒲生氏の家督を継承するのですが、定秀は長い争いで荒廃した音羽城を放棄して、新城を築城します。それが日野城なのです。
以後、定秀ー賢秀ー氏郷と受け継がれた日野城ですが、当時としては相当に堅固な城だった様で、蒲生氏はこの城に籠って大勢力に対決姿勢を示す場面が何度も有ります。
『本能寺の変』の直後、賢秀、氏郷親子は信長の妻妾子弟をこの城に保護して、守りを固めたのは顕著な例ですね。
天正12年(1584)、秀吉の配下で大活躍した氏郷には、大幅加増で伊勢松ヶ島12万石が与えられ、蒲生氏の故郷を離れる事になります。
日野は羽柴秀次領となり、次いで長束正家領となって、それぞれの城代が入りました。
関ヶ原の戦いで長束正家が改易されると廃城になりましたが、元和6年(1620)、織田家旧臣で大坂の陣で戦功の有った市橋長政が近郷で2万石を与えられると、長政は日野城跡の一部(北東)に陣屋を構えて、市橋氏支配は明治まで続きました。
【見どころ】
歴史を学ぶ際にはよく耳にする日野城ですが、その遺構は名前ほどには遺っていません。
城域の多くは江戸期には開墾が進み、さらに昭和の戦後に日野ダムが造られた事で、大半の遺構が消失しました。
現在遺るのは、おもに本丸北側の土塁で、物見の櫓台も稲荷社に姿を変えて遺ります。
さらに北側の空堀(一部水堀)とそれを渡る土橋もキレイに遺っていますが、空堀の底から土塁上端までの険しい姿に、往時の堅城の面影を垣間見る事が出来ます。
【感想】
名将:蒲生賢秀・氏郷親子が生まれ育ち、存亡を掛けて戦った日野城。
近くの“ひばり野公園”には軍装の蒲生氏郷の銅像が建っていますが、奥州会津の領地から九州征伐に向かう際、途中の中山道・武佐宿から故郷の綿向山を臨んで歌を詠んだ姿だそうです。
『思いきや 人のゆくえぞ 定めなき わが古さとを よそに見んとは』
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2021/02/21 22:19
長篠城本丸跡 (2018/11/24 訪問)
両親と子供達と訪れました💁🏻♀️
ここが有名な長篠城か〜
紅葉も綺麗でした🍁
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2021/02/21 21:58
防御力の高さに圧倒されました! (2021/02/22 訪問)
山城としては超Aクラスの保存状態ですが、比較的楽に、気持ちよく登れます。林道のゲート前に車を止めて林道を歩くと10分弱で、曲輪が段々畑状になってる城の入り口です。そこから20分ぐらいで頂上です。主郭の前で2度道が折り曲がります。特に主郭の直前、谷底から登るような道で、上側3方向から攻撃されます。そこから右に90度曲がるため思い切り横矢に狙われます。2枚目はその道を下から、3枚目は上から撮った写真です(わかりにくくてすみません!)攻略は本当に難しそうです。信長以前の城だそうですが、防御力の高さに驚かされました。石垣も立派で堀切が深いです。滋賀県の城は小谷城といい鎌刃城といい、極めて防御力が高く、しかも保存状態が良く、訪れるたびに深い感動を味わえます。保存に尽力されている地元の皆さまに、感謝です。
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2021/02/21 21:09
なかなかハードな攻城 (2020/03/03 訪問)
道路が途中で通行止めでしたので、行き止まりに駐車し徒歩で城址へ。登城路は細いうえにかなりの傾斜、踏みはずすと大変な状態。途中石の礫などで登城路がわからなくなる足元。ロープにつかまりながらの急な傾斜。途中拾った太い木の枝を杖代わりに登ることができました。木の棒がなければ登城は無理なほど、傾斜が急で滑りやすかったです。郭は東西に2つ。大軍が収容できるとは思えませんが、攻城するには斜度がある山城だと実感。下城時は滑落注意です。未整備の山城恐るべしです。
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2021/02/21 21:04
ここが小幡城であることに迷いはなさそうなのだが (2020/12/06 訪問)
「ここが小幡城跡です。」という力強い表示板は、ここが小幡城であることがわからない人が少なからず存在することを暗示しているのだろうか。そうは見えないお城なのだが。
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2021/02/21 17:56
関戸塁(関戸砦) (2021/02/21 訪問)
関戸城の天守台標柱がある山の南側にある原峰公園内にあります。馬蹄型郭と思しき地形が残っています。
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2021/02/21 17:15
2021/02/21 17:14
吉岡妙林尼を偲ぶ (2021/02/20 訪問)
島津軍の2将を討ち取った女傑がいた城です。
妙林尼の義理の父は豊州二老と言われた吉岡長増です。
今は、鶴崎城は鶴崎高校と鶴崎小学校の校地あたりにありました。
写真はないのですが、近くまで来たので備忘として。
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2021/02/21 16:46
将監と将軍。 (2021/01/02 訪問)
前回、投稿した埼玉県の「越ヶ谷御殿」から江戸川を渡り千葉県の「金野井城」へ向かいました。
野本 家定さんが築いたようです。
浄水場の入口に「金野井城」の城址碑がありました。車で浄水場のグルリと回ろうかと思いましたが、道幅が狭く戻りました。
城址碑が無ければ、きっと来ることもなかった土地だと思います。
野本 家定さんを調べてみると、鎌倉時代の御家人で通称『野本将監』。権力の強さから『野本将軍』の渾名があったようです。
前に行った、埼玉県東松山市の「野本氏館」近くに『野本将軍塚古墳』がありました。
野本氏は代々『野本将軍』って呼ばれていたのでしょうか?
野本 家定さん、遊女を好きになってしまい、お城を抜け出し毎夜、遊びに行きました。
家定さん、見かねた家臣達に、殺されてしまいました。
、、、将監や将軍と呼ばれた方ですが、他に逸話は なかったのか、、、。嫌いじゃないけど、、、。
浄水場のお隣に、お墓がありました。『西福寺』です。こちらの奥の方が「金野井城」を感じられるかもしれません。
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2021/02/21 16:43
武田氏の命運を決めた戦い (2021/01/10 訪問)
長篠城は寒狭川と宇連川が合流する地点の川面から60mほどある崖上に立地し、本丸東側には野牛郭、北側に二の郭・三の郭、西側には弾正郭・服部郭で守られていました。この城を一躍有名にしたのは、1575年に起きた織田・徳川連合軍と武田勝頼率いる武田軍との合戦で、織田・徳川連合軍が馬防柵を用いた、鉄砲三段撃ちで武田の騎馬隊を撃破した長篠の戦いです。
この城は、織田・徳川連合軍の後詰めによる決戦でした。この戦いで敗れ、多くの重臣を失った武田軍は、この後、衰退の一途をたどることとなります。
現在は、城址公園として本丸・土塁・堀・井戸が残っており、二の郭には、資料館と無料駐車場があります。本丸と野牛郭の間にJR飯田線が走り線路で分断されていますが、線路を渡ることもでき、野牛郭に行くこともできます。また、この城から西に数キロ離れていますが、長篠の戦いがあった地に、馬防柵が再現されています。併せて散策することをお勧めします。
この城址と長篠の戦いがあった場所には、家から比較的近いこともあり、何度も訪れていますが、徳川氏・武田氏の重臣達の墓や首洗いの池などが残り、目を閉じると、火縄銃の爆音や馬の蹄の音、武将達の歓喜・無念さが伝わってくるようです。
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2021/02/21 14:47
素晴らしい石垣 (2018/04/16 訪問)
続100名城スタンプ押印目的で登城。昭和初期に立てられた模擬天守は何とも言えませんでしたが、本丸石垣が素晴らしいです。時期は4月、思わず本丸で横になってしまいました。本丸大石段もとても力強い。あちこち破城感を感じさせる風景がありました。徳島藩洲本城代時代の金天閣へも行き蜂須賀卍も確認。登り石垣をや麓の石垣を見ることができなかったので、次回は是非散策したいと思います。
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2021/02/21 11:48
城の主は猪に (2021/02/19 訪問)
2018年5月にキンヤさんが、訪れた後、菅原神社後ろの郭を囲む鉄柵が設けられ、立ち入れなくなってました。猪が住み着いたとの説明書きあり。
よくある獣よけの柵と異なり、開閉できる扉が見当たりませんでした。柵の外から、堀と切り岸を見ました。高く急な切り岸です。北西側は、川が削った崖になってますが、護岸工事中でこちらもしばらくは立ち入れません。
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2021/02/21 09:35
龍野古城~中世山城編~ (2021/01/10 訪問)
【龍野古城】
<駐車場他>龍野歴史文化資料館駐車場
<交通手段>車
<見所>曲輪・竪掘り・土塁・石垣・八幡宮跡
<感想>緊急事態前の駆け込み攻め城4城目。近世城郭のほうの龍野城攻城の後登城しました。龍野古城現地案内板の説明を要約すると、「龍野古城のある鶏籠山は鶏の伏せ籠に似た形だったためその名がつけられました。1499年に赤松一族によって築城され、赤松村秀が最初の城主として以降4代78年間赤松氏が支配します。1577年羽柴秀吉の播磨攻めの際に2万の軍勢を見た当時の城主赤松広英(広秀)は赤松氏の滅亡を憂いて秀吉の軍門に下ります。広秀は後の竹田城主となります。龍野城はその後秀吉の家臣が数人城主を務め、1598年に山頂の城を取り壊して麓の現在の地に城が築かれたといわれています。」
龍野古城へは龍野城の西端の高麗門のそばに獣よけのゲートがありますので開けて入山します。登山道は整備されているのでストックは不要ですが靴はそれなりのものを履くようにした方がよいです。ゲートを入ってすぐ登った所も東西に長い曲輪跡が数段あったようです。20分程登ると南曲輪群の最下段とおぼしき曲輪にあたります。城跡は山頂に主郭、そこから南の麓側に主に連郭の曲輪が数段連なっていて明確に曲輪土塁が残っています。主郭から北へも3段程曲輪があり、その先は堀切で仕切っています。主郭周辺は残存の石垣が所々にあり探し見付けるのが楽しいです。主郭東側の腰曲輪には八幡宮跡があって、石鳥居の残骸、石畳み、石段が残っておりここも見応えあります。
麓の龍野城と一緒に投稿するのには勿体ない見所ある城跡でしたので今回別途投稿しました。麓の龍野城来訪時には一緒に行くのをお勧めします。
<満足度>◆◆◇
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2021/02/21 08:21
鎌倉古道湯坂路の途中 (2021/02/20 訪問)
本来は箱根湯本からの山登りなんでしょうけど箱根登山鉄道乗りたかったのもあり小涌谷駅に降りました。
ここから箱根駅伝5区の一部を50分ほど登っていくと湯坂路の入口があります。
ここからハイキングコースがあり、10分くらいで鷹の巣山山頂。ここに説明板があります。
遺稿はないようですが少し道を外れるとそれっぽい地形も見られます。
正確な場所は解っていなく、さらに南の浅間山が跡地であったともされています。
小田原征伐で徳川家康が攻め落とし、その後本陣としていた城です。
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2021/02/21 06:37
京成&東武野田線日帰り攻城⑧:馬加城 (2019/06/14 訪問)
武石城から徒歩12~13分で幕張町椎先公園(35.668389、140.058198)に着きました。
そこからだとマンションを見上げることになるので、もう5分歩いてマンション奥の農地入口(35.670286、140.055703)に向かいました。
馬加城の築城は、大須賀庄本郷に所領を与えられた千葉常胤の四男大須賀胤信によって1180年(治承4年)に行われたとされます。 胤信は後に埴生郡に移されました。
1455年(康正元年)には千葉満胤の長庶子の馬加康胤が拠り、享徳の乱に乗じて原氏と組んで千葉胤直を滅ぼし、宗家の座を奪いました。
翌年には室町将軍・足利義政が派遣した東常縁によって討たれ、おそらくその頃に廃城となったと思われます。
現在城址周辺は開発され、マンション等が建てられており遺構はありませんが、南東に位置する三代王神社か堀跡らしき遺構が発見されており、このあたりまでが城域だったと推定されています。
また近くに馬加康胤の首塚があるそうです。(行っていませんが。)
城跡とされる高台に大きなマンションが建てられていて、遺構は見つけることはできませんでした。
マンションの写真を撮って攻城としました。また、三代王神社には行っていません
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/02/21 06:33
京成&東武野田線日帰り攻城⑦:武石城➡城びと未登録(千葉県千葉市) (2019/06/14 訪問)
夏見城➡塚田駅➡JR幕張駅と移動し、JR幕張駅から徒歩20分ちょっとで真蔵院(35.665988、140.066299)に着きました。
武石城は千葉常胤の三男、武石三郎胤盛の居城として知られています。
源頼朝に従い奥州合戦(1189年)に参加した千葉常胤の子らは千葉六党と呼ばれ、庶家は治めた領地名から相馬氏、武石氏、大須賀氏、国分氏、東氏に分かれて発展したそうです。
武石氏の祖である武石胤盛は、下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区付近)を領したことから武石氏を名乗ったそうです。
武石氏は「1538年の第一次国府台合戦」において小弓公方に味方した武石胤親が討死して滅亡しました。
武石嫡流没後、里見家に残っていた武石氏末裔により武石城跡に代々の神霊が祀られ「おたけし様」と称され、当地には古くから石塚が祀られていたが、神社の創建年代は不明。
1756年に末裔の武石胤清が武石神社に詣でて奉賽したと伝わるそうです。
なお武石氏の一部が亘理郡に移り住んで亘理氏を名乗っています。この子孫が涌谷伊達氏で、「伊達騒動」で知られる涌谷藩当主・伊達宗重は武石氏の子孫でもあります。
現在城址は真蔵院となっており、墓地からのぼった先の平坦地が主郭部とされますが遺構はありません。
また近くにある武石神社は胤親の居館跡、真蔵院は胤盛の曾孫にあたる4代・武石長胤の居館跡とされます。
遺構はわかりませんが説明板から城があったことが窺えます。
攻城時間は30分くらいでした。
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2021/02/20 23:20
教安寺 (2020/02/20 訪問)
網代駅から徒歩で城址碑のある教安寺へ行きました。朝日山公園の方には石積みもあるとの情報がありましたが、今回は時間の都合で行っていません。
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2021/02/20 23:17
下田公園 (2020/02/20 訪問)
伊豆急下田駅より徒歩にて登城しました。
主郭下の横堀が見どころで畝状になっている所もあります。他にも散策していると横堀を見ることができます。東側の尾根に横堀があり、先に行くと堀切のような形状の場所があります。余湖さんのHPを見ると堀切や竪堀があるようですが、藪になっていて道も整備されていないため十分な散策ができませんでした。
新型コロナウィルス感染症第3波の影響で、今年は初めから勤務先より移動自粛を求められていましたが、2月後半に少し緩和され今年初めての登城となりました。絶好の山城シーズンであったのに残念ですが、仕方ありません。静岡県内の城址ということで、住んでいる所からは遠いのですが、今まで気になっていた下田城を訪れました。
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2021/02/20 23:11
地元のお城でテーマを持って歩く (2021/02/19 訪問)
鳥羽山城は、カズサンの投稿文中に「天竜川行き来の船から石垣が白っぽく映え聳える鳥羽山城」とあった部分について検証した。今まで南の丸駐車場に車を止めてすぐに大手門に向かってしまい気が付かなかっが、駐車場から西の丸に向かって歩いていくと白色の石灰岩で積まれた腰巻石垣が現れた。しかも、本丸をめぐって鉢巻石垣との上下二段積は、天竜川からの景観を意識した作りを感じた。次に大手道北側の石垣も今回気になった。所々で石垣の発掘調査跡があり、現在の大手道とは幅も高さも違う事が判明している。その延長上に通じているのが1号堀だ。かなりの高低差があり、北側深くへ竪堀状に落ちている。東側の現在車道部に浜松道が通っていて、そこから大手道へと通じていたが、切通しのような使い方もされていたかもしれない。それにしても、鳥羽山城からの景色は綺麗だ。
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