能見城からあっと言う間にアクセス。駐車場から出構、搦手の枡形から、二の丸、本丸と進みました。本丸北辺の土塁からは八ヶ岳、丸馬出を備える大手枡形からは富士山をきれいに望むことができました。韮崎市民俗資料館にて無事スタンプをゲット。2021年の初スタンプとなりました。
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2021/02/10 06:50
2021/02/09 23:04
民家の前に説明板 (2021/01/30 訪問)
島名城、阿内城の次もやっぱり畑。
民家の前に説明板と石碑が立っています。
上杉氏と北条氏により争奪戦が繰り広げられた城のようです。
城域は民家と畑で遺稿はなさそうです。
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2021/02/09 19:24
岩倉城 (2020/12/26 訪問)
【岩倉城】滋賀県野洲市
<駐車場他>駐車場はなし。小堤城山城投稿と同じ。
<交通手段>車
<見所>桜本池・土塁・石垣
<感想>岩倉城は小堤城山城の数百㍍程東方に位置し、永原氏の小堤城山城築城より前世代に馬淵氏によって築かれた。城びと未登録の城です。登城ルートは中腹の舗装道から単独のルートがあるようですが、北の城跡入口箇所がかなり鬱蒼としていたので途中道が確保されているかどうかわからない。私は小堤城山城の東端の尾根沿いに小道が確保されていたので小堤城山城ついでに寄ってみた。
城跡は中心に桜本池という不枯の池を中心に大きな削平地の単郭式といってもいい感じの構造となっている。おそらく池の窪地から周辺をどんどん広げていって段をつけたり、削った土で周辺の土塁を盛ったと感じた。城跡の南側は山の尾根を利用した高土塁で曲輪が段構造となっており見応えありです。北側の大手と思われる場所は食違いの土塁や石垣遺構が見られたのでかつては小堤城山城と同じくかなり石垣を多用していたと思われます。
<満足度>◆◆◇
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2021/02/09 19:06
本日、看板びと。 (2021/01/02 訪問)
ずーっと行こうか迷っていた「領ヶ谷城」です。
、、、遺構もない事は、城びと武将の方々の投稿で確認済み。
でも、やっぱり!
2021年一番最初の城攻めは、住宅街のど真ん中にある「領ヶ谷城」からスタートです。
源 頼朝さんが挙兵した際、佐々木 盛綱さんが築城しました。
佐々木 盛綱さん、ある戦中、対岸で敵方から挑発されます。
頭にきた盛綱さん。船を探すが見つからず、そのまま騎馬で海を渡ってしまったんだとか。
この時代、豪快エピソードがたくさん あります。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に盛綱さん出ないかな~と、来年が楽しみです。
「領ヶ谷城」は鰻屋さんです。
お店の看板に『旧領ヶ谷城址』とあります。
この配慮が嬉しいですね。
皆さんの写真を見ると大きなお店です。大通りにあると思いきや住宅街の細い道を通って行きます。
開店前のお店の駐車場に、車を停め写真を写し退陣しました。
、、、本当は、鰻が食べられたらいいんだけど、苦手で。
きっと味は好きな はずなんですが、子供の頃、鰻をさばく時の、目打ちを見てから怖くて食べられません。
そんな私が『討死です!』なんて簡単に書くの、矛盾してますが、、、(笑)
「領ヶ谷城」は近くに川がありました。
佐々木 盛綱さんも栄養補給に鰻を食べたかもしれません。
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2021/02/09 13:56
北条vs佐竹 最前線の城 (2018/03/26 訪問)
平成11年に発掘、復元された小坂城。
戦国期に小規模な国人領主が築き、守った、最前線の緊張感が体感できる城址です。
牛久大仏の南西3km、R408沿いの段丘上に城址はあります。
看板を目印に坂を登る形で入って行くと、左手に専用の駐車場があり、道を隔てた東側に、いかにも近年の整備を思わせる立派な登城口があります。
案内板によると、小坂城は近郷を治めていた岡見氏が築いた城の様です。
岡見氏は南北朝期に筑波の小田氏から分家した家で、家伝によると、小田氏の傘下で1万石程度の領地を支配していたそうです。
岡見氏の城としては、少し西側に大きな『岡見城』や『足高城』が有りますし、『牛久城』も岡見氏の最後の居城と言われていますから、小坂城は東の勢力(佐竹氏?江戸崎土岐氏?)に対して築かれた、最前線の支城…の様に思います。
“庶民派の氏治”で有名な宗家:小田氏は、永禄年間には佐竹氏によって追われてしまいますが、岡見氏は単独で佐竹氏に立ち向かい、後に北条氏の後援を得て領地を守り抜いたものの、秀吉の小田原征伐でこの地を追われ、小坂城も廃城になったものと思われます。
その後の岡見氏の一族は、結城秀康など進出して来た徳川の大名に仕えたと言います。
入り口の看板を見て予備知識を入れたら、木製のきれいな階段を登って城址に入って行きます。
城址は概ねフラットで、空堀と掻き揚げ土塁で4つに仕切られていますが、それらが綺麗に復元されていて、当時の城の様子が手に取る様に伝わって来ます。
これは、薄学な私達の縄張り学習には最適、ありがたい城址ですね(^^;
ただ、永禄年間の築城…という記述がありますが、『縄張りが古い』という印象は否めません。
150m四方ほどの城域を堀で4つの曲輪に仕切っていますから、堀は狭くて浅く、その土砂を盛り上げた土塁は低いものです。
横矢などの仕掛けも、『この距離なら要らんだろ?』みたいな無理矢理感が残りますね。
飛躍して考えると、主郭部は以前から有った城址か居館の跡をそのまま使い、時代に合わせて外郭に手を加えた築城なのかも知れません。
宅地開発が進んでるこの城の北側には鎌倉街道が通ってるので、たぶんそちらが大手になります。
崖端城ですから、台地続きの大手は大規模な堀切で遮断されてた事は間違いないでしょうが…。
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2021/02/09 12:54
小春日和の備前、備中山城散策 (2021/02/06 訪問)
備前、備中の山城廻りの一つ目に、城びと未投稿の辛川城へ。
桃太郎が描かれた給水タンクの北側を通り、山陽自動車道のトンネルの上を経て、階段の道にとりつく。
登っていく尾根は比較的なだらかであり、横堀が出迎える。その先は、少し手が込んだ作りで、枡形かも。
土塁で囲った単郭の城。三方の尾根を堀切で遮断している。東側尾根は、竪堀で遮断し、掘り残しを土橋にしている。
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2021/02/09 07:48
房総日帰り攻城Ⅲ⑩:一宮陣屋➡城びと未登録(千葉県長生郡一宮町) (2019/08/21 訪問)
一宮城から転戦。土塁の一部しか遺されていなかった一宮城の跡地に作られたのが一宮陣屋なので、一宮城攻城で自動的に攻城です。
一宮城山公園の駐車場(35.372495、140.361004)に駐車して攻城しました。
一宮陣屋は1826年(文政9年)に伊勢八田より移封された加納久儔によって築かれた陣屋です。
久儔は江戸湾警備の都合から、飛領であった上総に藩庁を移転し、土塁のみが残っていた一宮城跡の一部を整備して陣屋をかまえました。
以降、廃藩置県まで一宮藩の藩庁として機能していましたが、廃藩置県によって廃城となりました。
現在陣屋跡は城山公園となり、土塁の一部が残っています。
また公園入口には模擬の大手門が築かれており、公園内の一角には最後の藩主・加納久宜の墓所があります。
一宮城の入口、大手門横の城山公園になります。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/02/09 07:43
房総日帰り攻城Ⅲ⑨:一宮城 (2019/08/21 訪問)
万木城から転戦。車で20分くらいでした。
一宮城山公園の駐車場(35.372495、140.361004)に駐車して攻城しました。
一宮城の築城時期などは不明ですが、戦国時代は里見氏に属していた正木氏の支配下にあったとされます。
第2次国府台合戦後、正木氏は分裂して、北条氏に内通した正木時忠は、里見氏方の正木憲時方にあった一宮城を攻略、嫡男の正木時通を置きました。
その後も里見氏と北条氏によって攻防が繰り返されます。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際は鶴見氏が守備していましたが、本多忠勝に攻められ落城しました。
徳川家康が関東に入封すると城代が置かれましたが、文禄年間までには廃城となったと思われます。
江戸時代に入り、1826年(文政9年)に加納遠江守久儔によって城址に一宮陣屋が築かれました。
大手門から振武館を見学し、駐車場横の櫓台と空堀を見ようとしましが、藪がすごくて近づけませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。
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2021/02/09 07:36
房総日帰り攻城Ⅲ⑧:万木城 (2019/08/21 訪問)
小浜城から転戦。車で20分くらいで着きました。した。
万木城跡公園の駐車場(35.298072、140.325342)に駐車して攻城しました。
駐車場までの路はかなり狭く急坂で軽だとアクセル全開でなんとか着きました。急坂手前に公衆トイレ付駐車場有ります。
伝承では応永年間に摂津国から移った土岐時政が築いたとされています。(戦国時代に美濃国からきた土岐氏によって築かれたとされる説もあり)
だが、上総土岐氏の系譜は不明な点が多く、築城年代および築城者は不明です。
明応年間前後に土岐頼元が活躍し、後に上総土岐氏の菩提寺となる海雄寺を創建したとされています。後年の小田原攻めの際には土岐氏の兵力は1000騎とも1500騎とも伝えられています。
土岐為頼の時代には里見義堯と婚姻関係を結んでいましたが、第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、離反して以後は北条氏に一貫して君従しています。
このため、万喜城周辺はしばしば里見氏や上総武田氏の侵攻を受けました。
特に土岐頼春(為頼の子)の代の1588年(天正16年)から1590年(同18年)にかけて里見氏による3度の攻勢が行われるが、いずれも土岐氏の勝利に終わっています。
1590年(天正18年)の小田原攻めにおいては北条氏に味方したことから、本多忠勝が率いる徳川軍に攻め落とされ、土岐氏は滅亡しました。
その後、徳川家康の関東入封後、忠勝が大多喜城に入る前に一時的に万喜城を居城としていた可能性があるとされています。
現在は万木城跡公園として整備されており、本丸跡に建てられた天守風の展望台からは太平洋が一望できます。
また、毎年5月3日には満開のツツジにあわせて300本の鯉のぼりが雄大に泳ぐ「万木城まつり」が開催されるそうです。
天守風の展望台から妙見台方面に行こうとしましたが、倒木の為、危険でロープが張ってあり通行不可。
南部の尾根や北の郭を確認したかったのですが、今回は時間の都合でパスしました。
攻城時間は30分くらいでした。
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2021/02/09 06:54
中央東線穴山駅前 (2021/02/06 訪問)
山頂まで車の通れそうな道が続いていますが、無理をせず登城路の道幅にゆとりのある部分に車を駐め徒歩で登っていきました。雑木が茂っている部分は横堀にも帯郭にも見えないことはありませんでしたが、基本的にめぼしい遺構はなさそうでした。ここから新府城は車ならすぐにアクセスできます。
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2021/02/09 00:44
2021/02/09 00:40
西高木家陣屋 (2020/12/12 訪問)
西高木家陣屋
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2021/02/09 00:36
大垣城 (2020/12/12 訪問)
大垣城
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2021/02/09 00:33
墨俣一夜城 (2020/12/12 訪問)
墨俣一夜城
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2021/02/09 00:29
2021/02/08 23:04
2021/02/08 22:27
畑めぐりになってしまった (2021/01/30 訪問)
箕輪城の後に行った島名城とここ、次の今村城、いずれも畑になっています。
遺構もありません。
畑の傍らに上毛かるたの看板もありますがやっぱり遺構はありません。
農作業のおじさんの怪訝な視線を気にしながらフォトパチリ、すぐに退散しました。
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2021/02/08 19:25
2021/02/08 19:07
番外編 森川氏城の巻。 (2020/12/30 訪問)
城びと未登録の「森川氏城」と言いたいのですが、調べてみると、昨日 投稿した「生実城」の一部みたいなので、「生実城」番外編です。
「生実城」は千葉氏VS真里谷武田氏・小弓公方、それから千葉氏・北条家VS里見氏・小弓公方が戦った お城でした。
最終的には北条家傘下に入った 千葉氏の家臣 原氏の「生実城」になります。
そこから北条征伐があり、家康さんの時代になり、「生実城」の一角に森川 重俊さんが陣屋を築きます。
生実藩の誕生です。森川さんは千葉市内で唯一の大名なんだそうです。
「森川氏城」は生実神社に向かう途中の信号待ちで石碑を見つけました。
「森川氏城」は陣屋があった場所ではないかと思います。
後で分かったのですが『森川山重俊院』という お寺さんが近くにありました。
森川 重俊さんは徳川 秀忠さんの近習を勤めました。
秀忠さんが逝去すると、後を追って殉死します。
「生実城」攻めの際に、忠誠心がある森川 重俊さんの「森川氏城」も思い出していただけると嬉しいです。
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2021/02/08 18:04
工事中 (2020/02/06 訪問)
天守閣の廻縁が工事中で少し残念でした。
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