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くっしー

平日は入れないのわかったいましたが… (2021/02/22 訪問)

この城びとの投稿を見ながら城攻めやっているので、わかってはいたのですが、

近くまで来て、アプリの「ニッポン城めぐり」で石高と100貫が稼ぎたくてやってきました。

竜泉寺が由来のあって、美しく素晴らしいお寺ですね。

駐車場に周辺の史跡マップの載った看板がありました。また時間があれば行きたいなと思います。

模擬天守は境内の奥にあって資料館(宝物館)になっているみたいですね。

蛇足ですが、猫がたくさんいました。なんか、それ目的で写真を撮りに来てる人がいました。

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くっしー

天守はレストラン (2021/02/22 訪問)

公園になっているので遺構は残っていないのかと思ったのですが、

土塁を伴った曲輪が残っていますね。

その曲輪(本丸)の横に説明看板がありました。

まあ、よく今まで残っていたなあ~という感じですね。それなりに楽しむことができました。

隣に模擬天守がありますが、レストランです。旭城という名前が付けられてるみたいですね。

公園に駐車場があり、8:30~21:00まで駐車できるようです。この情報が城巡りをしていると重要ですね!

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todo94

墓地と化してる (2021/02/11 訪問)

牟岐八幡神社に駐車し、ここから続いている遊歩道のごとき道を進んでいくと、曲輪とおぼしき平地には墓が点在していました。主郭とおぼしき山頂には観音堂と忠魂碑が建ちます。ここから海蔵寺へと下っていきましたが、完全に墓地となっていました。麓には二十三士滞在の生田家がありました。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城②:神崎城➡城びと未登録(千葉県香取郡神崎町) (2019/05/27 訪問)

高岡陣屋から転戦。車5~6で分くらいで着きました。
わくわく西の城(35.894508、140.399265)に路駐して説明板の写真を撮った後、神宮寺へ移動。
神崎町消防団消防機具庫前(35.894560、140.402387)に駐車して神宮寺付近を散策。

神崎城は千葉氏の一族である神崎氏の居城として知られています。
東の城、中の城、西の城で構成された一城別郭の城で、さらに小松城、田向城も出城として機能していたと思われます。
現在城址には遊歩道が整備されており、東の城、中の城では土塁や空堀などの遺構を確認することができるそうです。
また西の城跡には「わくわく西の城」という公共施設が建てられています。

中の城➡東の城付近を散策すれど遺構はわかりませんでした。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城①:高岡陣屋➡城びと未登録(千葉県成田市) (2019/05/27 訪問)

JAかとり駐車場(35.880116、140.357865)に路駐して攻城しました。
三峰神社前のスペースにも駐車可能です。

高岡藩は1638年(寛永15年)の「島原の乱」の鎮圧で功をあげた旗本、井上政重によって1640年(寛永17年)に立藩されましたが、このときは定府大名であったため陣屋は置かれませんでした。
ちなみに政重の江戸屋敷は多くの宗徒が裁かれ処刑されたことから「切支丹屋敷」と呼ばれていました。
政重は1660年(万治3年)に、加齢を理由として家督を井上政清に譲って隠居する。
政清の次男である第3代藩主・井上政蔽(まさあきら)のとき、高岡に陣屋が築かれると(高岡陣屋)、以後明治に至るまで井上氏によって治められました。
現在陣屋跡はJAかとりの敷地となっており遺構は残っていませんが、三峰神社の鳥居脇に 「高岡陣屋之蹟」の石碑が建てられています。
また下総歴史民俗資料館に復元模型が展示されているそうですが、自分は行っていません。

周辺をブラブラしましたが、石碑以外あるとされる堀跡は見つけられませんでした。。
攻城時間は10分くらいでした。

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前ちゃん

前田家の城といえば (2021/02/22 訪問)

前田利家の城。信長に認めてもらい、ここから始まった。銅像は荒子駅前

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前ちゃん

信長降臨 (2021/02/22 訪問)

信長生誕?の地と言われてる

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ふゆづき

蒲生の城 (2021/02/21 訪問)

蒲生氏郷の松阪城を朝早くに訪問しました。
松阪駅からは徒歩約15分くらいの場所にあり、城の周囲には同心町、御城番屋敷など城下町を思わせる地名が残っています。
城の石垣は蒲生氏が城主であった頃に築かれたらしく、天然石が多く使われた野面積みですが、江戸時代に一部修繕したと思われる石垣にはキチンとした算木積みが見られます。
天守台が角にある本丸は比較的高い位置にあるため、石垣の高さは結構なものがあるように思います。
攻城時間は城の周囲の散策を含めて約90分程度。
城内には、本居宣長の神社と記念館が置かれています。
この地域は、江戸時代には、和歌山藩の傘下にあったため、城の近くには和歌山街道が通っていますが、和歌山からの距離を考えると直接統治は難しかったのでは無いかと思わされます。

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AJ

事件は現場で起きている (2015/10/13 訪問)

東京・台場の海浜公園をゆっくり散策。防波堤を渡ると、突如目の前に砲台や弾薬庫跡が表れます。

1853年、ひとまずペリーを浦賀から立ち去らせた幕府は再来航に備え、品川沖合に台場築造を決定。伊豆の韮山に大砲鋳造の反射炉を造った江川太郎左衛門英龍の指揮のもと、1年余りで5基を完成させますが、財政難の折、日米の和親条約も結ばれて計画は中止。今は2基が残っています。

ちなみに、この砲台建設をめぐる会議の様子が埼玉の川越城内に再現展示されています。中心にいるのは藩主・松平“知恵伊豆”信綱。それにしても、江戸前の現場から随分と離れたところで話し合ってますね。

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イオ

謎の村雨城 (2021/01/31 訪問)

室町期に築かれたと考えられますが、文献等には登場せず、城主や歴史など一切が不明です。「謎の村雨城」ですね(笑)

新名神・甲南IC近く、大谷池西岸の丘陵地に築かれた城で、丘陵南側の頂部に主郭、西下に副郭と小曲輪群を配し、北側の尾根続きには寺前城があります。村雨城を主郭とし、寺前城を副郭とする別城一郭の城とも考えられるようです

駐車場はないため、新治口交差点から北に少し行った説明板近くに路駐して登城しました。登城口すぐの小曲輪からは主郭北西部の土塁が聳え立って見えます。小曲輪から南に斜面を登ったところが副郭で、北辺と西辺、南辺の三方に土塁がめぐっています。副郭北辺の土塁上を東に進み、虎口を抜けると四方を分厚い土塁に囲まれた主郭に至ります。主郭の南側は堀幅の広い堀切で尾根を断ち切り、南辺の土塁からの攻撃にさらされています。主郭の北側も堀切が設けられ、土橋を越えた先は浅い土塁のある未削平の曲輪です。そして、その北側の堀切の先は寺前城になります。

高さもさりながら、土塁の分厚さが印象的で、特に主郭南辺の土塁などは土塁上に三段の小曲輪があるくらいの広さでした。
 

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うさぎ

柳川城址 (2021/02/21 訪問)

柳川城址です。

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todo94

朝駆け (2021/02/11 訪問)

建国記念の日に日帰りドライブで徳島の城めぐりをしてきました。淡路SAにて車中泊。朝4時過ぎに出発して途中、ローソンで朝食をとり朝7時前に到着しました。城址碑と説明板のある津波避難所には簡単にたどり着けますが、その奥の山頂に分け入ることはできませんでした。

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橋吉

鳴海城 (2021/02/20 訪問)

前回、大高城と対峙する鷲津砦・丸根砦と徒歩でまわりました。
今回は、鳴海城とこれをとり囲む丹下砦・善照寺砦・中島砦を周遊してみました。

この日、鳴海城近くのコインパーキングが満車であったため、名鉄鳴海駅南のコイン駐車場に駐めました。
鳴海駅北の旧東海道は、昭和の香りが残されており、それを見て楽しんでいるうちに鳴海城跡に到着しました。

天神社(あまつかみしゃ)
所在地: 名古屋市緑区鳴海町城
鳴海城は、天神社から道路を挟んで西にある鳴海城跡公園にかけて存在したといわれています。

天神社境内には史蹟碑や案内板が設置されています。

鳴海城は今川義元の家臣である岡部元信が城主を務めていた城で、今川氏の重要拠点になっていた城で、別名根古屋城(ねごやじょう)ともよばれました。
もともと、この地には成海神社が建っておりましたが、築城の際、400m程北の現在の位置に移動してもらっています。

鳴海城跡公園は、ふつうの公園で遺構は残っていません。
ただ、周辺より高台となっているくらいです。
ひょっとして、堀切があったかもしれませんね。

桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗れると、織田信長との交渉の結果、義元の首級と引き換えに岡部元信は城を明け渡します。
その後は佐久間信盛・信栄父子が城主を務めましたが、天正末期には廃城になったそうです。

公園の北にある東福院の門は、鳴海城の城門だったといわれています。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城⑩:鷺沼城(ラスト) (2019/06/14 訪問)

実籾城➡実籾駅➡京成津田沼駅と移動し、京成津田沼駅から徒歩10分で鷺沼城址公園西側入口(35.678620、140.025074)に着きました。

鷺沼城の詳細は不明ですが、1288年~1293年(正応年間)には鷺沼太郎源太光義が居城としたといわれています。
また『吾妻鏡』にある、「石橋山合戦」で敗れたあと安房に逃れた源頼朝が軍勢を整えた鷺沼館(鷺沼御旅館)がこの城である可能性も指摘されています。
現在城址は「鷺沼城址公園」として整備されており、土塁や切岸などの遺構を確認することができるそうです。
また公園内には2基の鷺沼古墳が残されており、鷺沼城の土塁も古墳を利用して築かれていたと思われます。

新婚当初、この近くに住んでいましたが、お城に興味がなかったので城跡だとは、全然気づきませんでした。
城址というより古墳押しのようで城址をしのばせるのは土塁と鷺沼城址公園という名前くらいです。
どれが切岸かわからなかった。攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城⑨:実籾城 (2019/06/14 訪問)

馬加城から徒歩で妙見神社入口(35.680222、140.065798)を目指すが、ナビで誘導されたルートに道はなく強引に斜面を降りて道に出て35分かかって妙見神社に辿り着きました。
車のルートを歩いた方がよかったと後から悔やみました。城址も宅地なので入れませんでした。

実籾城の詳細は不明ですが、千葉氏の一族にかんする城であったと推定されています。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」において、千葉氏は北条氏に味方したことから滅亡しますが、このときに千葉氏一族の尼僧が抜け穴から脱出して逃げのびたという伝承もあるようです。
現在城址は住宅地となっており遺構はありません。城址北東に妙見神社が建てられています。

攻城時間は10分くらいでした。

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こんじゅ

岩村城 (2021/02/21 訪問)

歴史資料館に車を停めて足で登りました🏃‍♀️
本丸下まで車で行けますが、対向車が来たら大変みたいなのでやめました。いざ登ってみると、車が結構多くミニバンの車などもあってので車でも来れたかな?と思いました。
6歳と3歳の子供でも割と余裕で登り切れました👦🏻👧🏻
竹の杖がたくさん用意されているのでそれを借りて登ると楽だと思います。
大変立派な石垣でした。

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こんじゅ

金沢城 (2020/09/19 訪問)

家族で石川富山旅行🏯
肝心なお城の写真撮り忘れてショック🤳🤦🏻

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こんじゅ

墨俣一夜城 (2020/09/21 訪問)

家族と🏯
子供達と出世橋をRUN🏃💨💨
ひょうたんから流れる御水を浴びて出世を願う

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pascal

蒲生氏郷の故郷 (2015/03/28 訪問)

 蒲生氏郷が生まれ育った日野城です。
近年は中野城と表記される事が多く、現地でもそうでしたが、私自身の映像や書物を通しての記憶では、“日野城”で凝り固まってるので、ここでは日野城とします。

【アクセス(車)】
 音羽城に続く訪城なので、R477に戻り、2kmほど西に走ると、“←日野川ダム”の看板が現れます。
その交差点に“中野城”の看板もあるので左折して入って行き、ダム湖の畔に出ます。この湖の北岸に日野城址はあります。
 湖畔は大きな駐車場になっていて、傍に料理旅館があるので、一瞬旅館の駐車場? と思いますが、観光案内看板が何枚もあり、城址入口も示されているので、停めて大丈夫みたいです。

【城の歴史】
蒲生氏は古くからの東近江の名族で、鎌倉~室町期は近江守護の重臣を努めていました。
応仁の乱の頃、蒲生貞秀は音羽城を築城して本拠としていましたが、嫡子の秀行を将軍奉公人として京で公奉させる傍ら、二男:高郷には守護の六角氏への奉公を命じていました。
 しかし、幕府と六角氏が明応の政変で争う様になると、蒲生の兄弟も巻き込まれて相争う様になってしまいます。
結局は、将軍の力が衰退して、高郷の子の定秀が蒲生氏の家督を継承するのですが、定秀は長い争いで荒廃した音羽城を放棄して、新城を築城します。それが日野城なのです。

 以後、定秀ー賢秀ー氏郷と受け継がれた日野城ですが、当時としては相当に堅固な城だった様で、蒲生氏はこの城に籠って大勢力に対決姿勢を示す場面が何度も有ります。
『本能寺の変』の直後、賢秀、氏郷親子は信長の妻妾子弟をこの城に保護して、守りを固めたのは顕著な例ですね。

 天正12年(1584)、秀吉の配下で大活躍した氏郷には、大幅加増で伊勢松ヶ島12万石が与えられ、蒲生氏の故郷を離れる事になります。
日野は羽柴秀次領となり、次いで長束正家領となって、それぞれの城代が入りました。
 関ヶ原の戦いで長束正家が改易されると廃城になりましたが、元和6年(1620)、織田家旧臣で大坂の陣で戦功の有った市橋長政が近郷で2万石を与えられると、長政は日野城跡の一部(北東)に陣屋を構えて、市橋氏支配は明治まで続きました。

【見どころ】
 歴史を学ぶ際にはよく耳にする日野城ですが、その遺構は名前ほどには遺っていません。
城域の多くは江戸期には開墾が進み、さらに昭和の戦後に日野ダムが造られた事で、大半の遺構が消失しました。
 現在遺るのは、おもに本丸北側の土塁で、物見の櫓台も稲荷社に姿を変えて遺ります。
さらに北側の空堀(一部水堀)とそれを渡る土橋もキレイに遺っていますが、空堀の底から土塁上端までの険しい姿に、往時の堅城の面影を垣間見る事が出来ます。

【感想】
 名将:蒲生賢秀・氏郷親子が生まれ育ち、存亡を掛けて戦った日野城。
近くの“ひばり野公園”には軍装の蒲生氏郷の銅像が建っていますが、奥州会津の領地から九州征伐に向かう際、途中の中山道・武佐宿から故郷の綿向山を臨んで歌を詠んだ姿だそうです。
『思いきや 人のゆくえぞ 定めなき わが古さとを よそに見んとは』

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こんじゅ

長篠城本丸跡 (2018/11/24 訪問)

両親と子供達と訪れました💁🏻‍♀️
ここが有名な長篠城か〜
紅葉も綺麗でした🍁

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