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ぶーたろー

雨の高岡城 (2020/10/10 訪問)

https://youtu.be/cTvidRR7BeE
↑この動画が参考になります。隣接されている博物館に駐車して本丸を攻略しました。

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ぶーたろー

本丸からの景色は最高です! (2020/10/10 訪問)

https://youtu.be/Ad6kH7Dq8qM
↑この動画が参考になります。夢にまで見た七尾城、この山城城を攻略する日がやっと来た。しかしあいにくの雨。おっさんも泣くこと、雨には勝てませんです。。。

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ぶーたろー

山城ファンのテーマパーク (2020/11/01 訪問)

https://youtu.be/9G4aoL7fxRA
↑この動画が参考になります。東京と神奈川の隣接地町田。ここに巨大な城跡があると聞いて参上。
山城ファンなら一日遊べるテーマパークを発見しました。開発されてしまった、曲輪もありますが、所々遺構が確認できます。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」④ (2017/11/03 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の4城目は金沢城です。七尾城からの転戦です。
100名城スタンプは「石川門入口案内所」で押しました。

金沢城は2回攻城しています。
①2008/09/に妻と二人で兼六園を見学した時に一緒に見学
②2017/11/03の今回、次男と二人で攻城

写真は翌日の一乗谷城の攻城時、カメラを落としてしまい、撮った写真が全滅になりました。(悲しい)
スマホで撮った写真は自分撮影用の写真の為、投稿できませんが、3枚だけ大丈夫そうな写真を投稿します。
攻城した時にはなかった「鼠多門」を見る為に3回目の攻城を現在思案中です。
攻城時間も写真が残っていないので、はっきりわかりませんが、90分くらいだったと思います。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」③ (2017/11/03 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の3城目は七尾城です。高岡城からの転戦です。
100名城スタンプはガイドの方が本丸駐車場まで持参してくださっていたので、そこで押しました。さすがツアーです。

七尾城は能登畠山氏の居城で、能登の政治、文化の拠点として機能しました。
菊、松、竹、梅、亀、龍、虎と名づけられた7つの郭があったので、七尾城と称したといわれています
築城時期は明確ではありませんが、各地の有力大名がその拠点を山城に移す16世紀前半頃には能登畠山氏も遅れることなく、七尾城を築き支配体制を固めたと考えられています。
足利氏一門の有力武士で、越中の守護を務めていた畠山基国が室町時代の初めの1391年(明徳2年)に能登の守護に任命され、その後、河内、紀伊の守護も兼務しました。
1398年(応永5年)には室町幕府の管領に起用され、斯波氏・細川氏と三管領の一つとしての地位を築いています。
能登畠山氏は、基国の次男・満慶が、治めていた四か国(河内・越中・紀伊・能登)のうち、1408年(応永15年)に能登国のみの守護となったことをはじまりとします。
当時、守護は在京し、領国では守護代の遊佐氏が府中の守護所(現在の市街地付近)で政務にあたっていました。
応仁・文明の乱(1467-1477)後の1478年(文明10年)に、守護・畠山義統が能登に下向、在国し分国経営の基礎を固めました。
3代義統、7代義総のとき、領国支配は安定し、公家や歌人などの多くの文化人が、都から七尾に訪れたそうです。
日本五大山城のひとつに数えられるほど強固な城でしたが、「七尾城の戦い」で上杉謙信に攻められ、落城しました。
のちに織田氏の領地となったときには前田利家が城主になっています。
多くの遺構が残り、本丸の石垣を中心に各曲輪の石垣のほとんどが現存しています。

見所は本丸石垣・調度丸石垣・堀切・九尺石など、現存の遺構が多いので楽しめます。本丸から見える七尾湾もきれいでした。
攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」② (2017/11/03 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の2城目は高岡城です。富山城からの転戦です。
100名城スタンプは「高岡市立博物館前」で押しました。

加賀藩2代藩主・前田利長が、大火で焼失した富山城に代わって越中の拠点とすべく1609年に築城しました。縄張りは高山右近。
しかしその僅か6年後、一国一城令によって未完成のまま5年後に廃城となります。
歴代の藩主は城址を町奉行の管理下に置くことで堀や土塀の保存に務め、明治以降も城址はそのまま公園として残りました。

現在は高岡古城公園」として整備されており、当時の堀や石垣を見ることができます。
ほぼ公園なので見るべき個所は縄張りと堀、石垣かと。攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」① (2017/11/03 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の1城目は富山城です。
続100名城スタンプは、このころは集めていなかったので押していません。

最初の築城はよくわかっていませんが、一般的には1543年(天文12年)頃に越中東部のおよび新川郡への進出をもくろむ神保長職が、家臣の水越勝重(勝重が神保長職本人という説もある)に命じて築城したとされています。
その後神保氏が3代に渡って居城としましたが、天正4年、越後春日山城主上杉謙信が富山城の神保氏を追い、家臣の小笠原長隆・上杉信定を置きました。
天正7年、織田信長が越前小丸城主佐々成政を富山54万石封じましたが、天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になります。
慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主前田利長は、加賀・能登・越中の3ヶ国120万石を得ます。
慶長10年に利長は隠居して富山城に移るが、慶長14年に主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移ります。
寛永16年、3代前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させました。 
利次は、廃城と化していた富山城を修復、寛文元年に入城して富山藩が成立します。以後富山前田氏13代の居城として明治に至ります。 

現在は富山城址公園として整備されており、模擬天守(富山市郷土博物館)が建てられています。
模擬天守から眺める庭園、石垣、水堀等の景色は素晴らしかった。攻城時間は40分くらいでした。
続100名城スタンプを押していないので、もう一度来なくてはいけません。

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個人投資家

100名城巡り (2019/04/23 訪問)

過去に行きました。

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個人投資家

100名城巡り (2019/07/22 訪問)

過去に行きました。

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ぴーかる

杵築城 (2020/11/29 訪問)

【杵築城】
<駐車場他>城跡無料駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>2泊3日豊後国百・続百名城攻城の旅ラストの8城目。城跡は公園化されています。石垣が所々にありますが、当時のか、発掘復元なのか、現代の積み直しなのかがよくわからない。17世紀初めには廃城となり、麓に居館武家屋敷が発展したところなので、ほとんどの石を麓に降ろしてしまっているかもしれません。天守台の石垣は残っているらしい。本丸跡に磨崖仏・宝篋印塔・庚申塔などが無造作に並べられている。城跡の遺構説明がもう少しほしかったお城でした。麓の武家屋敷跡がメインとのことでしたが、時間の関係で行けなかった。

 豊後国の旅はこれにて終了。2泊3日の駆け足でほぼ百・続百名城を流す程度しか見れなかったが、予定通り見学でき、期待以上の満足感、カメラの故障も3日目の小難(これが1日目だったら超最悪)で済んで良かった。

<満足度>◆◆◇

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すっちゃん

天守外観 (2021/01/10 訪問)

大好きなお城

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ぶーたろー

開発が進む城郭 (2020/10/31 訪問)

https://youtu.be/lJjzSU_A9z4
↑この動画が参考になります。鎌倉の玉縄城を攻略して来ました!整備状態は良好で、気軽に登城することが出来ます。本丸部分は学校になっていて、入ることはできません。

曲輪や堀等遺構が有りますが、その上は開発されて立ち入ることはできません。外から城の造詣を眺めるのが良いと思います。

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カズサン

大手復元冠木門が撤去されてました (2021/01/14 訪問)

 神奈川県と愛知県に挟まれている静岡県、緊急事態宣言下では県境を越えて城探訪も憚られ昨年の4月5月頃より武漢コロナウイルス感染が広まっています、県内遠江の国辺りを再々の城廻りにと冬枯れ時に遺構が良く観察できるタイミングに勝間田城の五重堀切観察前に諏訪原城に寄り勝間田城を終えて東に約8km程に在る小山城に登城しました。
 
 今回は土の遺構を観察重点にして回りました、先ずは麓の町営駐車場に車を駐て、麓の能満寺を参拝、三大大蘇鉄を観て、女坂より登る、虚空蔵堂を通り本丸へ、本丸周囲の土塁を観察し東端へ、根こそぎ倒れた樹木、台風による被害か?、復元された本丸の横空堀、丸馬出、三日月掘、二の丸横空堀、三重三日月堀控えの馬出、西北の復元大手門へと移動するが何と木製復元冠木門が無い、門柱が立ってた基礎を見ると基礎石ギリギリに削った真新しい跡を発見、古く成ってか?台風などの被害でか?撤去されて居ました。
 大手門跡から西北に登城路を降り北側の城塁、堀を眺めて北側登城口へ北側に非舗装の駐車場が在る、北側の裾に水堀か?用水路水が流れてる直ぐ近くの北西には大井川の支流湯日川が流れ外濠の様子、戻り大手門跡から勘助井戸、井戸を含めた三重三日月堀を横断し観察、西南の資料館に向かう日曜日祝日以外は休館で入れず、戻り南西の馬出、堀、木橋を渡り模擬天守閣を眺めて本日は終了。
 
 朝9時に出て17時に帰宅、亭主留守がいい状態で家内はゆっくり自分の時間、亭主も楽しく城探訪良い一日でした。

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ぶーたろー

アジサイの季節に登城することをお勧めします。 (2020/11/21 訪問)

https://youtu.be/r1AMXh0_Yr0
↑この動画が参考になります。公園として整備されてます。遺構もそこそこ残っていますが、看板が無く何の曲輪なのか分かりません。アジサイがたくさん植えてあり、その季節に行くのが良いと思います。

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ぶーたろー

城内は西伊豆歩道の一部として整備されてます (2020/11/21 訪問)

https://youtu.be/V346CBPVxYI
https://youtu.be/7gNiulgPFYE
↑この動画が参考になります。(前編・後編)

登城口見つけるのに一苦労します。動画を見れば迷うことはないかと。
パンフレット箱はカラなので、伊豆観光協会で入手することをお勧めします。電話で聞いてみてください。
出城と本丸が道路で分断されています。道路わきに登城口があります。道は整備されていますので、軽装でもOK。
見ごたえのある遺構はあまり確認できません。曲輪の形状はよく分かると思います。

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ぶーたろー

160年間藩政の中心地でありました。今はその面影はありません。 (2020/12/05 訪問)

https://youtu.be/caS16qRe6M0
↑この動画が参考になります。
公開されている曲輪は藩政を扱うのに適したものとなっており、敵を迎え撃つには心細いものとなっています。
周りにある山々には敵を迎え撃つための遺構があると思われます。



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ぶーたろー

城攻めは梅と桜の季節がお勧めです。 (2021/01/04 訪問)

https://youtu.be/yOgnJCq_Sqc
↑この動画が参考になります。
日本で唯一の丸石垣(玉石垣)のお城。TVで見てこの目で確かめたくてやって来ました!転がることなく積まれた石垣は圧巻!
梅と桜の木が沢山植えられていたので、その季節にあわせて、登城することをお勧めします。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り③ (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの3城目(ラスト)は高崎城です。箕輪城からの転戦です。

高崎城は1598年(慶長3年)、箕輪城の城主井伊直政が主君である徳川家康の命により和田城跡に移り改めて築城した城郭です。
和田城は鎌倉時代初期、和田正信が築いた城郭で小規模ながら堅城としても知られ、度々上杉軍の侵攻を食い止めています。
和田氏はその後、小田原北条氏に属した為、1590年(天正18年)の小田原の役で前田利家や上杉景勝などの大軍に包囲され落城、北条家が滅亡すると廃城になりました。
関東入封した徳川家康が中仙道や三国街道を抑える要衝であることから直政に築かせたと考えられています。江戸時代には譜代大名が城主を務めています。

現在は高崎城址公園として整備されており、民間に払い下げられていた乾櫓と東門が移築復元されています。
東門の写真を撮りましたが、ブレブレで投稿できません。
投稿枚数に余裕があるので、公園での絵画展、途中に寄った生品神社の新田義貞公像とツアーでの昼食の写真を投稿します。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り② (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの2城目は箕輪城です。太田金山城(新田金山城)からの転戦です。
100名城スタンプは「高崎市箕郷支所」で押しました。休日だったので、裏口から入った記憶があります。

箕輪城は在原業平の子孫とされている長野業尚によって築かれ、以降、長野氏4代の拠点となった城です。
長野氏は3代 長野業政 の時代に全盛期を迎え、武田信玄の度重なる侵攻を防ぎました。
しかし子の業盛 の代となって次々と要所を落とされ、1566年(永禄9年)、ついに箕輪城は陥落。
武田氏に奪われてからは有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆や内藤昌豊らが城主を務めました。
武田氏滅亡後には織田家臣 滝川一益が入城しましたが、本能寺の変が勃発し北条氏の城となりました。
豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅亡すると、箕輪城は徳川家臣の井伊直正に与えられました。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したものの、1598年(慶長3年)井伊直正が高崎へ城を移すと、わずか8年で廃城となりました。

自分が攻城した時には「郭馬出西虎口門(櫓門)」が復元されていました。屋根は瓦でなく板葺でした。
堀(堀切)好きな自分が投稿する写真は堀(堀切)が多くなりますが、石垣や土塁等も確認できます。
攻城時間は75分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り① (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの1城目は太田金山城(新田金山城)です。
100名城スタンプは「南曲輪の休憩所」で押しました。

1469年に新田一族の岩松家純によって築城され、下剋上により城主となった由良氏の時代に全盛を迎えたとされます。
「上杉謙信」や「武田勝頼」などの近隣の有力戦国大名から10数回に及ぶ攻撃を受けるも、金山城は一度も落城することなく、まさに難攻不落の名城でした。
しかし、小田原北条氏の謀略に落ち支配下となっていた1590年、「豊臣秀吉」の北条氏征伐により金山城は廃城となりました。

攻城当日は雨と霧で視界が悪かったですが、逆に幻想的な写真が撮れました。眺望が見れなかったのは、ちょっと残念ですが。
関東では珍しい石垣のお城として有名ですが、個人的には堀切の素晴らしさに感動しました。攻城時間は2時間くらいでした。

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