久野城は茨城県牛久市にあったお城です。
土岐氏勢力の城と考えられています。
見学時は少し歩くのを承知で車を牛久浄苑に止めさせてもらいました。
主郭跡地はたくさんのお墓がありました。
同姓の名字が記載された墓石が多かったのですが、城主子孫の一族だそうです。
周囲は土塁で囲まれています。
もっと奥に遺構が残っているのが見えましたが、藪と倒木で進むのが難しそうなので、これにて撤退しました。
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2021/03/09 19:35
2021/03/09 19:33
事前リサーチ不足で後悔 (2021/02/28 訪問)
塙城は土岐氏勢力の城と考えられています。
駐車場は近くにある阿見町 君原公民館を使わせていただきました。
見学者向けに順路を示す看板が立っていて、これに沿って歩けば主要部を一通り見学できます。
後世になって削られてしまったと思われる個所もありましたが、遺構がしっかり残っていました。
畝のように見える堀もありました。
満足な城攻めだったのですが、帰宅後、付近に北の郭が存在していることを知りました。
そちらの二重堀はなかなかの評判だそうで・・・出発前に全くリサーチしていなかったことを後悔する羽目になりました。
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2021/03/09 19:29
近隣住民憩いの場 (2021/02/28 訪問)
木原城は霞ヶ浦近くにある土岐氏の家臣、近藤氏の居城です。
本丸跡地は城址公園として整備されていて、のんびりとした雰囲気で、近隣住民の憩いの場でした。
二の丸、三の丸跡地は畑として使用されていますが、土塁、堀が良好な状態で残っています。
花畑を通る遊歩道は発掘された堀跡に沿って造られていて、下には堀が保存されているそうです。
トイレ側駐車場付近にある神社からは深い堀が良く見えます。
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2021/03/09 11:12
2021/03/09 10:53
2021/03/09 10:37
天正伊賀の乱の激戦地 壬生野城(三重県伊賀市川東)➡城びと未登録 (2018/10/15 訪問)
天正9年(1581)、織田信長による伊賀忍者討滅作戦=第二次天正伊賀の乱で激戦地となった壬生野城です。
【アクセス(車)】
自動車専用道路の名阪国道を御代ICで降り、県道2で南に2㎞走ると、左手に見えて来る小丘が壬生野城址です。
丘の北端に殉難者を供養する地蔵尊があり、小公園になっていて駐車場もあります。
城址へは、公園の北側の農道を登って行くとアクセスできます。
【城の歴史】
築城主や時代の詳細は不明で、信長公記にある『壬生野の城』が初見です。
地元では『清水の城』と伝承されているそうですから、川東の郷士:清水家の館なのかも知れません。
天正9年(1581)9月、川東地区の郷士と郎党500名は、壬生野城に集結して織田軍を迎え撃ちます。
指揮官としては富田勝長、中村丹後などの名が伝わっています。
最初に壬生野城に攻め寄せたのは滝川一益の軍7,000で、霊山寺焼き討ちの余勢を駆って攻め掛けますが、城兵の士気は旺盛で容易には攻め口を見出せません。
翌日には柏野城を攻略した丹羽長秀軍8,000も加わり、城兵の30倍の兵力に達しますが、攻防は一進一退で進み、落城までにはさらに3日を要してしまいます。
この間、伊賀上野の比自山では伊賀忍者1万vs織田軍1万3千の、この戦役最大の激戦が展開されており、夜襲を受けた筒井順慶の軍は家老2名が討死にするほどの大損害を喫しています。
滝川、丹羽という織田家が誇る歴戦の将を釘付けにした、壬生野城の大きな戦功ですね。
【見どころ】
居館と見られる方形の主郭を中心に、周囲に小曲輪が付加されています。
主郭の北と東は、伊賀の城には珍しく水堀が囲んでおり、造られた時代と仮想敵が見える気がします。
推測の範囲ではありますが、結束力の強い川東の郷士連合が、有事を想定して総力で築いた“詰め城”なのでは?…と思います。
麓の川東公園には夥しい数の供養塔が集められ、供養されています。
壬生野城の伊賀忍者は全滅した…という事ですが、“見事に死んで家名を上げる武士”とは違い、故郷を守るためだけに死に臨んだ忍者の壮絶な生き様を垣間見る思いでした。
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2021/03/09 08:12
山上の総石垣 (2021/02/20 訪問)
(山麓編から続く)
登城路合流地点から10数分歩いて山上のロープウェー駅に到着。地蔵堂のほうに進むと、右手に二ノ丸の石垣、正面に本丸の石垣が聳え、テンションが上がります。本丸に向かう前に二ノ丸の展望台と展望館へ。「恋人の聖地」のオブジェは城好きオヤジには無縁ですが、展望台からは城下町はもとより安土城や観音寺城まで広く見渡せ、眺望はなかなかのものです。また展望館には八幡山城や豊臣秀次の資料が展示されていますので、時間があればどうぞ。
本丸には豊臣秀次の菩提寺である瑞龍寺が京都から移設されており、見学できる場所は限られますが、南部の枡形虎口や本丸を取り巻く石垣は見応えがあります。その本丸石垣を眺めながら本丸外周をぐるりと一周。西ノ丸からは琵琶湖側の眺望がひらけ、周囲の木は伐採されて石垣も見やすくなっています(麓からもよく見えます)。なぜか西ノ丸でたくさん見かける猫たちとしばし戯れた後、出丸に行こうとしましたが、まだ通行止めのままでした。北ノ丸からは安土城と琵琶湖の両側を見渡せますが、周囲の石垣も見どころで、北之庄城へと続くハイキングコースを少し下りて行くと見られますので、北之庄城には行かない方も石垣目当てにちょっと下りてみる価値はあるかと。私は続いて北之庄城に向かうので、石垣を見た後、ロープを頼りに急斜面を下りて行き、下りきったあたりには北尾根を断ち切る堀切がある…はずなんですが、気付かず通り過ぎてしまいました。
出丸に行けなかったのは残念でしたが、眺望は素晴らしく、山麓の居館といい山上の主郭部といい見事な総石垣で、実に見応えがありました。次の機会には城下町を(八幡堀や日牟礼八幡宮も)ゆっくり散策してみたいものです。
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2021/03/09 06:37
2021/03/09 06:36
利根川沿日帰り攻城⑫:幸谷城➡城びと未登録(千葉県柏市) (2019/05/25 訪問)
戸張城から転戦。車で10分くらいでした。
駐車場奥の未舗装の空地(35.835541、139.985080)に駐車して攻城しました。
伝承によれば、鎌倉時代の増尾村は千葉氏一族・師胤を始祖とする相馬氏の所領であったと推定されています。
1272年、所領譲与に関する遺言なく相馬胤村(4代目)が急死します。後妻で尼の阿蓮(あれん)が惣領代となり、その子・相馬師胤とともに増尾村の所領を鎌倉幕府から安堵されたとあります。そのため、幸谷城が阿蓮の居館というのが一説です。
相馬師胤(後の陸奥相馬氏)は遺言で嫡子になったと主張したため、異母兄の相馬胤氏(下総相馬氏・嫡子)と対立しました。
師胤の子・相馬重胤の代になると形勢が不利となり、重胤は郎党らを連れ陸奥に下向しました(1323年)。
拠点の小高城を築き、勢力を拡大。陸奥相馬氏の祖となりました。
南北朝時代になると、師胤は足利尊氏の北朝方につき、南朝方の千葉氏や下総相馬氏と対立しています。
1337年、鎌倉の守備にあたり、南朝方の北畠顕家を迎え撃ったが戦死しました(杉本城の戦い)。
一方、相馬胤氏(下総相馬氏)の子・師胤(同名だがもちろん別人)は、重胤との争いで濫訴を繰り返したため所領を没収されています。
いずれにしても、胤村の後妻・阿蓮が相馬氏を分裂し、この地から相馬氏が消えた要因となった人物のようです。
この幸谷城が相馬分裂の舞台だったんですね。
戦国時代には小金城の高城氏による支配と考えられますが、そのころには増尾城がこの地域の拠点となっています。
現在、城址は万福寺の南側一帯に位置し、長年民家の屋敷林となっていましたが「柏ふる里つくり隊」により整備され、現在は土塁や空堀などの遺構を確認できます。
どこに駐車すればいいかわからず駐車場奥の未舗装の空地(誰の駐車場がわかりません)に駐車して攻城口を捜しました。
民家横の細い路地(35.834442、139.983657)から攻城しましたが、正しい攻城口かは自信がありません。
攻城後に調べたら、万福寺南側の道路沿い(35.835681、139.983384)の貯水地左横の民家の門から入ると、城趾北西部に入れるようです。
城址内は案内板/説明板があり、よく整備されています。虎口、空堀、土塁が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。
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2021/03/09 06:26
利根川沿日帰り攻城⑪:戸張城 (2019/05/25 訪問)
箕輪城から転戦。車で10分くらいでした。
「旧・柏学園正門」前(35.853198、139.991508)に路駐して攻城しました。
戸張城は、築城年代や築城者について詳細は伝わっておらず定かではありません。
千葉常胤の子で相馬氏初代当主・相馬師常の三男、戸張八郎行常の居城だと伝わっています。
以降、代々戸張氏が200年にわたって本拠としたとされますが、立沢氏が城主だったなど諸説あるようで詳細は不明です。
城址は文京区立柏学園の敷地となっていますが、2013年(平成25年)に閉鎖となったため、現在は立入禁止です。
しかし東西にわかれた曲輪のうち、西の曲輪跡に土塁と空堀を門の外から確認することができます。
また弥生時代の遺構の調査もおこなわれており、復元された弥生式住居跡があります。
遺構は「旧・柏学園」内なので、校門/フェンス越しに土塁と空堀の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/08 22:54
なかなかに濃いものがある (2020/12/12 訪問)
虎口を入って最初に視界に飛び込むのが畑なので一瞬不安がよぎるものの、主郭に近づくにつれてお城らしさが濃くなってゆく。那須本家を暗殺したり自身が粛清されたりと、千本氏の歴史自体にもなかなかに濃いものがある。
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2021/03/08 19:30
芳賀氏の居城 (2021/03/07 訪問)
宇都宮市街の東を流れる鬼怒川の東岸に位置しています。
川からかなりの高台に位置しており西側と北側は天然の堀。
東側と南側には空堀が幾重にも設けられ頑強なお城に感じられます。
6号堀と呼ばれる堀に沿って櫓台が5ヶ所確認され
その一部分が綺麗に復元されています。
城内も空堀、土塁、掘立柱建物が復元されています。
お城のすぐ横にとびやま歴史体験館に駐車場があります。
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2021/03/08 18:33
普門寺城 (2021/02/20 訪問)
【普門寺城】
<駐車場他>普門寺拝観されるなら山門前に駐車できそうです。
<交通手段>車
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング第3弾、大阪府内限定2城目。ちょこ城ではないですが、山門前にて撮影のみにしました。拝観料は400円で重要文化財の方丈、城遺構はお寺内に土塁が残ってようです。普門寺城は1561年に細川晴元を隠居させるためにおそらく三好氏が城郭として築城したとされている。1566年には14代将軍足利義栄が征夷大将軍の宣下式を行なっている。
<満足度>◆◇◇
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2021/03/08 18:22
2021/03/08 18:22
2021/03/08 13:03
本丸整備されてます (2021/03/07 訪問)
室町時代壬生氏によって築かれたとされています。
豊臣秀吉による小田原攻めのあとは城主が度々入れ替わり
江戸時代中期から鳥居氏が城主となり幕末を迎えます。
城跡は綺麗に整備され駐車場も完備されています。
本丸裏手には最後の城主となった鳥居氏の先祖鳥居元忠が
祀られた精忠神社があり社殿の裏側には畳塚というのがあります。
この畳塚は鳥居元忠が関ヶ原の戦いの前哨戦伏見城の戦いで
討ち死にした伏見城に残された血染めの畳が埋められているようです。
移築された門が小山市内と鹿沼市内にあります。
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2021/03/08 12:27
北方面武田軍陣所廻り (2021/03/04 訪問)
長篠城本丸、野牛曲輪、牛渕橋などの探訪も終わり久し振りに城内に在る保存館を見学、入館時にアルコール消毒、入館者のコロナ感染者が有った場合の追跡の為の氏名、住所、電話番号の記入をする。入館料220円。
館内で入手したパンフレット、長篠の戦い史跡めぐりコースが目に付きまだ時間も有りましたので思い切って車は駐車場に置いたまま巡る事にしました。
コースは北側に在る武田軍陣所廻り⇒大通寺⇒大通寺盃井戸⇒大通寺陣地⇒大通寺山遊歩道⇒医王寺(武田勝頼本陣地)⇒勝頼本陣詰陣地(麓より遠望)⇒荏柄天神社⇒天神山陣地⇒大手門跡⇒搦手門跡でマップ案内の歴史の小径を一部カットしました。
大通寺陣地は馬場信春、武田信豊陣、大通寺裏手に盃井戸、水盃を交した馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次の決意と涙を誘います、標高110mの地に陣地跡らしき溝と土の盛が有るが?陣地の案内板、杉林の遊歩道を抜けて医王寺、ここは武田勝頼本陣地、案内板解説板在り、ここより本陣詰陣城が医王寺の奥上に展望台として景観整備され良く見える、良く見えたので詰陣城に登るのは省略、寺を馬蹄形に護ってる縄張りが見える、詰陣城から尾根を通って天神山陣地に行くのですが詰陣城を省略したので麓の道から荏柄天神社へ石階段を登り本殿参拝、裏手の奥の陣地跡へ真田信綱、土屋昌次の陣、本陣をぐるっと天神山陣、大通寺陣が守ってる。
今まで徒歩で廻って無かった大手門跡、搦手門跡も観察して来ました、案内では約3km程と有りましたが普段の不養生足腰の筋肉痛、足裏の痛みが走りましたが久し振りの1日城廻りの楽しい時間を過ごしました。
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2021/03/08 08:41
天下人後継者の居館 (2021/02/20 訪問)
安土城に代わる近江国支配の拠点として羽柴秀次が築いた城で、秀次が清洲に移った後は京極高次が城主となりましたが、秀次切腹事件を受けて廃城となりました。
織豊期の城ながら山上の詰城と山麓の居館が分離した構造で、山上は本丸を中心に二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の各曲輪を帯曲輪で結び、山頂から東西にのびる二つの尾根の間に居館を配し、その南に八幡堀をめぐらせています。
八幡公園の駐車場に車を駐めて登城開始。駐車場脇の階段を上ったところの広場は北脇邸跡らしいですが、遺構はなさそうです。公園内を西に進んで山麓居館へ向かうと、麓から真っ直ぐのびる大手道の両側に雛壇状に曲輪群が配され、大部分は竹藪ですが、随所に石垣が見られます。大手道正面・最上段の秀次館は巨石を用いた高石垣を備え、隅部分は算木積で積まれています。さすがに天下人の後継者の居館だけのことはある、と実感させられる壮大な石垣でした。
続いて山上の主郭部に向かいますが、ロープウェーの営業時間前のため、公園内の豊臣秀次公銅像の脇から歩いての登城です。ロープウェーの下をくぐって少し行ったあたりで日牟礼八幡宮からの登城路と合流。ここから日牟礼八幡宮方面に下って行くと大平、小平と呼ばれる平坦面があるようなのでちょっと寄り道してみると、それぞれ思いのほかしっかりと削平地が残っていました(藪の中かと思ってました)。東尾根の突端でもあり物見台でもあったのかな、などと登城時は思っていましたが、帰宅して調べてみると、築城に際して山腹にあった日牟礼八幡宮の上社が麓の下社に合祀されたとのことで、その上社の跡地なのかもしれません。
ともあれ、小平から登城路の合流地点まで引き返し(こんなことなら日牟礼八幡宮側から登れば良かった…)、今度こそ山上の主郭部を目指します。(続く)
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2021/03/08 06:34
房総日帰り攻城⑩:箕輪城➡城びと未登録(千葉県柏市) (2019/05/25 訪問)
手賀城から転戦。車で15分くらいでした。
手賀沼病院の広い駐車場(35.855399、140.017267)に駐車して攻城しました。
箕輪城は小金城を居城とした高城氏の支城のひとつで、手賀沼周辺で最大規模の城址です。
鎌倉時代は相馬氏の所領であり箕輪三郎が最初の城主だと推定されています(相馬氏と箕輪城の関わりを示す史料や伝承は残っていません)。
戦国時代には戸張弾正の家臣高城伊勢守の居城であったと伝わっています。
現在城址には手賀沼病院が建てられています。
手賀沼病院の広い駐車場に停め、病院の建物沿いに進み、奥の階段を降りましたが、空堀らしきものはあったが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/03/08 06:30
利根川沿日帰り攻城⑨:手賀城➡城びと未登録(千葉県柏市) (2019/05/25 訪問)
芝原城から転戦。車で15分くらいでした。
城址碑前(35.845316、140.072157)に路駐して攻城しました。
手賀城は原氏の一族である手賀原氏の居城として知られています。
千葉介勝胤の子である原筑前守胤親が城主をつとめたとされます(諸説あり)。
胤親の子の原内蔵助久胤が城主のときに「小田原征伐」が起こり、この城も攻められ落城しました。
江戸時代には久胤の跡を継いだ弟の胤次(胤重)が徳川家の重臣である板倉勝重に召し出され、江戸北町奉行所の与力に抜擢されています。
現在城址は本丸跡周辺が畑になっており、城址碑が建てられています。
遺構としては土塁を確認することができます。
城址碑は畑入口にあり、伏見稲荷大明神はその先にありました。
攻城時間は5分くらいでした。
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