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todo94

小机小学校 (2019/12/21 訪問)

羽沢横浜国大駅から歩いてアプローチしました。小机小学校の校舎のほど近く、きれいに整備された城の遺構っぽい土の起伏を視認しましたが、入り込むことはできません。とりあえず雲松院の写真は撮っておきました。

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にのまる

お城expoプレミア前夜祭 (2019/12/20 訪問)

大坂冬の陣図屏風をゆっくり見たかったので、前夜祭に行ってきました。
端末をポチしたら千田先生の解説が出てくるのが楽しくて、人がいない隙を見て何回もポチポチしてしまいました。

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丹羽長重

The戦国の城 (2019/03/30 訪問)

埼玉県にお出かけに行った時に足を伸ばして行きました。この城はとあるテレビを見て知り、素晴らしいと思っていた城です。
早速駐車場へ。駐車場からテクテクと歩いていくと大きな櫓が見えてきます。黒く板張りで望桜型なあたりが戦国時代の荒々しさをかもし出しています。近くまで行くと塀や門、大きな櫓がそびえ、まるで戦国時代にタイムスリップしたような気分になります。
では登城。なかも綺麗に整備されていて楽しく見学できます。さらに櫓にも入れてかなり満喫できました。
次に本丸を目指すべく入り口である櫓門へ向かいます。途中見えてくる内堀?は草も刈られていて見やすかったです。堀もまぁまぁ深く関東の城の特徴である土を生かした縄張を分かりやすく見学できます。
本丸前の櫓門に到着。僕はこんなところに櫓門があるなんて登城したとき知らなかったのでビックリしました。小さいですが逆にコンパクトサイズの櫓門ということで結構好きです。本丸は今は何も無いですが、整備されているので心地よくまわりを見渡せます。
僕はこのお城、続日本百名城に入れても良いんじゃないかと思います。ぜひ皆さんも来てみてください。

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34

紅葉

最高の時期でした

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34

掘り

堀、道路、ホテル
過去と現在

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34

これは貴重

障子掘りが最高です

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ぴーかる

村雨城 (2019/11/17 訪問)

【村雨城】
<駐車場他>駐車場なし。
<交通手段>車

<見所>土塁・堀切
<感想>甲賀郡中惣遺跡群のうちのひとつ。主郭は四方を土塁で囲み、最大の高さは5m程。虎口は南西に一つあり、南西の入城口から虎口に至るまでに地形を利用した削平地の郭が大手道を南北で挟み込むようにある。曲輪内部は草が多くて入れない状態。主郭東側横は主郭に沿うように細長の腰曲輪があり、その横から切岸で大谷池ほとりになっている。主郭南側は案内板の縄張り図では曲輪があるようだが、樹木がひどくて立入れなかった。主郭北側は少しの尾根道があり堀切を2つ挟んで寺前城がある。50mの間で隣接しているので、村雨城が主城、寺前城が副郭という説もあるが定かではない。主郭以外の曲輪の樹木整備に力を入れてほしいと思いました。次に寺前城に行く。

日帰り甲賀市の城攻めの旅1城目。城跡入城口は甲南ICを降りてすぐの交差点北側にある。駐車場がなく路駐も無理そうなので、入城口前の道路脇農道にギリ停めさせてもらいました。農閑期なので失礼して。

<満足度>◆◆◇

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零汰

標高802m、爽やかな場所です。 (2019/08/03 訪問)

福岡県耳納山脈沿いにある耳納スカイライン、東に向かい高良山神籠石~住厭城~毘沙門城~発心城を過ぎ標高を上げながら東へ走っていくと標高802mに筑後鷹取城が有ります。城郭は道路から見える位置にあり、2.3台駐車出来るスペースに置き登城しました。城域はコンパクトで、樹木など遮る物など何もない空間です。雲ひとつない絶好の天候の中、30分程曲輪・小口などの遺構を見ました。

その時は十分な下調べも無く登城しており、畝状竪堀の言葉すら知らず、夏草育成の真っ最中で見る事が出来ませんでした。いつか再登城した際には見たいと思っています。

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小城小次郎

要害山城

武田氏時代の原型に徳川・豊臣の諸将がパーツを加えたことで、大小さまざまな技巧が散りばめられた稀有なお城が出来上がったということのようだ。

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山口駿河守幻夢斎

二本松少年隊と伊達政宗の悲劇の地 (2019/05/20 訪問)

二本松城跡は、JR東北本線二本松駅から徒歩15分~20分くらい。けっこうの急傾斜を一度登って降りて、歩いていくと、箕輪門と三の丸跡の石垣が見えてきます。
二本松城は、戦国時代は、二本松畠山氏の居城、二本松義継は、伊達政宗の父輝宗を拉致しますが、伊達政宗に追いつかれ、もろともに射殺されたとも、輝宗を刺殺したうえで、自害したともいわれますが、その死体は、政宗に切り刻まれたうえで、藤蔓でつなぎ合わせて晒されたとされます。
難攻不落を誇りましたが、父の仇討に燃える政宗の前に落城、二本松氏は滅亡しました。
その後、数家の城主の変遷を経て、丹羽長秀の孫光重が入城、近世二本松城が完成しました。
明治維新時の戊辰戦争では、藩主長国は、城を捨てて米沢に逃亡、主力は猪苗代方面に出撃の中、少年部隊を含む留守部隊は、新政府軍と激戦を展開し玉砕、城は半日ほどで落城しました。
二本松少年隊は、隊長木村銃太郎以下、多数の若い命が失われました。
現在、二本松少年隊の像の傍らに息子を送り出し、息子のための軍服を仕立て直す母親の像が設置されています。
城跡は、近世二本松城と、中世山城の遺構を散見することができます。

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にのまる

藤田城(福島県伊達郡国見町) (2019/12/04 訪問)

藤田駅から阿津賀志山防塁に向かう途中、藤田城の案内板を見つけました。「ここから200メートル」とあれば寄らない理由はありません。
城びとにも城めぐにも登録されていませんが、現地の説明板を読むと↓↓↓のようなことが書かれており、重要なお城だったということがわかりました。


✳︎阿津賀志山の戦い(1189年)の折に、鎌倉軍の源頼朝が本営を置く。

✳︎南北朝時代には霊山城の支城として南朝方の拠点となる。

✳︎室町期の城主藤田氏は伊達稙宗、晴宗父子が争った天文の乱で稙宗方について敗れ、藤田城も廃城となる。


住宅街の方形の空き地で、土塁に囲まれ、堀跡や枡形虎口も確認できます。現在見られるそれらの遺構は天文の乱の頃のものだと考えられているのだそうです。

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カルビン

残念な素行も結果オーライ (2016/08/15 訪問)

室町幕府最後の第15代将軍・足利義昭が織田信長に反旗を翻したのがここ槙島城。
(2回目の反旗とされてますが、実はもっとやっていたのでは?)

自分に人望・権力があると勘違いし、明智光秀や細川幽斎にも裏切られ・・決起したもののほとんど有志が集まらずに子供を人質にして降伏するという残念なイメージがあります。
(あくまでも情報は各種小説なので、実際は違ったのかもしれませんが・・・)

そんな舞台になった槙島城、開発の手が進んでお城の痕跡が残っていないっていうのもありますが、地形的に決して決起するには適した場所では無かったと思われ・・・
書面をばら撒いて決起を促す能力だけは抜群だったとされ・・・所詮己の才能を生かせられるだけの性格を持ち合わせていなかったんだろうなぁ(汗)
でも最終的に信長よりずっと長生きしてるんだから。。。結果オーライですかね?

と言う事で現在小さい公園に槙島城の解説が残るのみになっております。
平等院や宇治・上宇治神社等の名所が近いので、そちらのバーター的な訪問で十分だと思います。



自分の名前が上がる度に記事が参考になっているんだなぁ(と思いたい(汗))・・・とほくそ笑んでおりますカルビンでした( ̄▽ ̄)ニヤリ

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YAICHI

進入不可 (2019/12/19 訪問)

鳥羽佐田浜港より定期船で10分220円。観光ホテルのログレストラン前の広場に石碑があるはずですが2011年に廃業したので現在進入できません。島からは鳥羽水族館ごしに鳥羽城本丸跡が見れます。

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いんげん丸虫

綱之上御前山 山梨県大月市 (2019/12/15 訪問)

上野原駅近くに聳える綱之上御前山。武田の烽火台としての伝承があり細尾根の平場は広範囲を見渡せます。

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イオ

歴史と石垣の城下町 (2019/11/03 訪問)

(続き)

備中松山城は山上の山城と山麓の居館で構成され、居館は江戸期には藩主の御殿兼藩の政庁として御根小屋と呼ばれていました。廃城令により建物は破却され、現在は高梁高校の敷地になっていますが、小堀政一(遠州)により改修された石垣が今も見られます。

御根小屋から南に徒歩3分の石火矢町には武家屋敷が建ち並び、うち2軒を見学できますが、この日は山城をじっくりめぐり過ぎて時間の余裕がなくなったため、外から眺めるだけでした。また、石火矢町の西側には城下の古い町並みが(部分的に)残っています。

石火矢町から南に徒歩4分の頼久寺は、小堀正次・政一父子が仮の居館とした寺で、政一(遠州)作庭による枯山水の庭園が有名ですが、時間の余裕がなく…(以下略)。お寺ながら石垣と土塀は城郭に劣らぬ作りで、城番の居館とされるのも納得です。

頼久寺から東に坂道を6分ほど登って行くと、元親池のほとりに三村元親公の碑があります。それまで名前は聞いたことがある、という程度でしたが、調べてみるとなかなか波乱万丈な人生だったようで、対立していた宇喜多直家に父・家親を暗殺され(日本初の銃による暗殺なんだとか)、二万の大軍を率いて弔い合戦を挑むも大敗。毛利氏の支援により何とか立て直したかと思ったら、その毛利氏が仇敵の宇喜多氏と結んだため、家臣の反対を押し切り毛利氏を離反して織田信長と結ぶも、毛利氏の侵攻を受けて居城の備中松山城も陥落(備中兵乱)、菩提寺の松連寺にて自刃したとのことで、頼久寺には三村親子の墓があるようです。

松連寺には、文禄の役の総大将・宇喜多秀家の軍船の座所の格天井と船戸が伝えられており、現在の寺は水谷氏の代に支城代わりに整備されたもので、見事な石垣が聳え立っています。

高梁川の下流、成羽川との合流付近の阿井の渡場には山中鹿之助の墓があります。上月城で捕らえられ、備中松山城に連行される途中、この地で謀殺されたんだとか。また、西に1.5kmほどのところには鹿之助の胴塚もあるようですが、今回は未訪問です。

そして、幕末の松山藩といえば山田方谷を抜きにしては語れません。「義を明らかにして利を計らず」の方針により藩政改革を成功させ、松山藩が朝敵とされた際は、自らを信頼し取り立ててくれた主君を隠居させてでも領民を守るべく無血開城し、明治政府に再三求められても出仕することなく、子弟の教育に生涯を費やした人物で、何年か前に「英雄たちの選択」で初めてその存在を知り、「こんな偉大な人がいたとは…」と深く感動。今回の訪問ではその足跡をたどるのも大きな目的のひとつだったんですが、時間に追われながら山田方谷記念館やゆかりの地をめぐるくらいなら、次に来た時に思う存分見て回ろう、ということで、この日は郷土資料館前の銅像を見て、方谷園のお墓に手を合わせただけで我慢です。

…ということで、雲海に始まり、真田丸オープニングの石垣、唯一の山城現存天守、猫城主、二重櫓特別公開、中世山城、御根小屋と様々な歴史のある城下、そして山田方谷…。見どころがありすぎて、丸一日かけても全然足りませんでした。下太鼓丸跡と大石内蔵助腰掛石も見逃してしまいましたし、次回は城下から歩いて登城して、城下もじっくりと見て回ろうと思っています。

方谷先生、必ずやまた参ります…。
 

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イオ

中世山城 (2019/11/03 訪問)

(続き)

水の手門跡から下っていくと、石垣造りの大堀切と復元された木橋があり、ここが近世と中世の境目でしょうか。堀切を越えた番所跡からまた坂道を登っていくと、相畑城戸跡周辺のあちこちに石積が見られます。

さらに登っていくと、天神の丸に到着。臥牛山最高峰の城跡で、最高所に本丸、その南側に出丸、尾根沿いに段曲輪が設けられ、本丸と出丸の間には深い堀切があります。江戸期には本丸に天神社があったようで、社殿の基礎や石段、手水鉢などが残っています。

天神の丸から坂道を下り、大池の手前の分岐を大松山城へ。大松山頂部の本丸から西に二の丸、三の丸、さらに尾根沿いに段曲輪が続き、本丸と二の丸間、二の丸と三の丸間には堀切があります。また、本丸・二の丸下の腰曲輪には石組みの井戸が見られます。

大池は城内の水利のうちの最大のもので、総石垣造りで小舟を浮かべたり、屋根が掛けられたりしていたんだとか。
大池から下っていくと、苔むした石垣が残る番所跡とその下の切通に至ります。ここが備中松山城の北端にあたるでしょうか。切通は途中で石積みにより遮断されていますが、これは幕末に松山藩が朝敵とされた際に防備強化のために施したもののようです。

切通から大池に戻る途中、吊り橋にも寄り道を。高所恐怖症気味ながら吊り橋があると渡りたくなるという難儀な性分のため、往復してみましたが、相当な高さがあり長さもそこそあるものの、板張りで足元から直下が見えないので怖さはさほどでもありませんでした。

来た道をずっと戻って、ふいご峠からシャトルバスで城見橋公園へ。朝一番では駐車場も余裕がありましたが、昼過ぎには満車で駐車場待ちの行列ができていました。
続いては、山を下って城下町に向かいます。備中松山城は城下にも見どころ盛りだくさんです。

(続きます)
 

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イオ

天空の山城 (2019/11/03 訪問)

備中松山城の歴史は古く、鎌倉中期に地頭の秋葉氏が臥牛山の大松山に城を築いたのが始まりで、その後、城主は移り変わりながら縄張を小松山にも広げ、戦国末期には三村氏が臥牛山全域を要塞化しましたが、備中兵乱の際に落城、三村氏は滅亡し毛利氏の城となりました。
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が退去すると、小堀正次・政一(遠州)が城番を務めた後、池田氏、次いで水谷氏が城主となり、二代・水谷勝宗が行った天守建造などの大改修により現在見られる姿となっています。水谷氏が無嗣断絶した際には、浅野内匠頭長矩と大石内蔵助良雄が一時城番を務め、その後、安藤氏、石川氏を経て板倉氏で明治を迎えました。
廃城令により御根小屋(山麓の居館)は取り壊され、山上の城も売却されましたが、取り壊すには不便すぎるため放置され荒れ果てていたところ、昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が城の現状を詳細に調査・発表したことを機に保存の機運が高まり、学生も夏休みに二万枚もの瓦を山上に運び上げるなど、地域をあげての大修理がなされました。平成になってからも、櫓や門、土塀が史実に基づいて復元され、現在に至っています。

う~ん、こうして城の歴史をたどるだけでも様々なエピソードがあって楽しいですね。

さて、この日は二重櫓の特別公開を目当てに登城しましたが、下調べしていると、この頃はちょうど雲海が発生しやすい時季らしく、雲海撮影のためだけに行くつもりはなくても、どうせ行くなら雲海に浮かぶ姿も見てみたい、ということでまずは展望台に向かうことにすると、賀陽ICを降りたあたりから霧が立ち込めはじめ、そして展望台から望む備中松山城は……まさに天空の山城!! 写真で見るとおりの景色が目の前に広がっているのはなかなか感動的でした。

展望台から北西に進み、吊橋を渡って大松山に向かう登城路もあるようですが、やはり初登城は大手側から、ということで、城見橋公園駐車場に車を駐めてシャトルバスでふいご峠へ。ふいご峠から整備された道を登ること約10分、右手に中太鼓丸櫓跡の石垣が見えてきます。さらに数分行くと、眼前に聳え立つ岩盤とその上に築かれた石垣と土塀…。真田丸のオープニングで知られる光景ですが、実際に真下から見上げるとあまりの迫力に圧倒されてしまいました。そして、大手門枡形虎口の高石垣、一部現存の土塀、櫓跡や門跡、曲輪を見て回りながら登っていき二の丸に到着。二の丸から復原された平櫓と土塀越しに望む天守は、定番の構図ながら重厚で絵になります。

本丸に入ると猫城主・さんじゅーろーがお出迎え。並みの猫なら、人に囲まれて撫でられたり写真を撮られたりするのは嫌がるはずですが、城主ともなると堂々としたもので、逃げもせずに撫でられ、毛づくろいをし、周囲のカメラに視線を投げかけ、ネズミのおもちゃに襲いかかる猛々しさを見せることも忘れません。和歌山電鐵の故 たま駅長にも劣らぬ大物ぶりでした。
猫城主さまが城内巡回に出掛けたので、いよいよ天守へ。二層二階の小さな天守ながら、正面中央の唐破風出格子窓は装飾性と実戦性(石落とし)を兼ね備え、一階の囲炉裏や装束の間、二階の御社壇など見どころも多く、さすがは現存天守です。
続いて、天守の下をまわって特別公開されている二重櫓へ。天守と同じ二層二階ながら二回りほど小さく、内部には昔の瓦や鯱、修復工事の機材、パネルなどが展示されています。二階に上ることもでき、二階からは通常見られない角度からの天守も見ることができました。

いったん二の丸に戻り、本丸の石垣と土塀を見上げながら搦手門の脇を進んで行くと、先ほどまでいた二重櫓が岩盤の上に築かれた石垣に建っているのを発見。知識としては知っていましたが、実際に目の当たりにするとなかなかインパクトのある光景です。後曲輪の石垣も見ごたえがありますし、ここまででも既に充分過ぎるほどに満足していますが、備中松山城はまだまだこれで終わりではありません。水の手門跡を抜けて、中世の山城に向かいます。

(続きます)
 

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にのまる

稙宗さま (2019/12/04 訪問)

 東北本線桑折駅から20分くらいで麓の登城口です。
 城址が整備され復元祭も行われたばかりということなので心の準備をせずに行ったら熊看板に迎えられました。念のため周囲に気を配りながら歩きましたが…。
 砂利道を上がっていきますが、赤や青の幟がはためいていて何だか歓迎されている気分です。(フレーフレー🏁みたいな。)
 
 大手門には出来たての標柱と工事中の説明板。台場には工事車両があって、整備完了間近という感じでした。
台場の一番高いところからは本丸、二の丸が遮るものなく見渡せます。気持ちいいです。
 大手門から表門に上がる真っ白な石の階段は、ここだけ小さなパルテノン多摩。歩幅が全然合わなかったことと合わせ、わりと強烈に印象に残りました。

 平面復元された建物跡や搦手口はそこだけ切り取ってみると安全な感じしかしないのですが、搦手口の外の山の中から本丸まで地面には点々と何かが続いており…。人の足跡でも轍でもなさそうな何か…∑(゚Д゚)
 搦手口の階段の先も整備されていて行けそうではあったのですが念のためやめて、本丸の空堀や城址碑を確認してから、空堀にかかる橋を渡って二の丸へ。

 さらにそこから中館へ。中館は本丸、二の丸よりも高台にあり、坂を少し登るのですが、ここで強烈な獣臭。カルビンさん(たびたび引用させていただき申し訳ありません)のご投稿にあったのはこのことか!(4年間臭い続けているのかʕ•ᴥ•ʔ)
 遠くの山から聞こえる銃声と相まって緊張感MAX…のまま中館から奥の西館へ。土塁の向こうの空堀を覗きに行く勇気と根性はありませんでしたが、最高所の幟のところから本丸と下界まで見渡して、とりあえず天下取っときました。

 やたら広い二の丸の空堀跡の道(写真⑦)がどこに続いているのか気になりパンフレットを見ると「うぶかの郷」に続くとあり、うぶかの郷って何?と思って検索してみたら、スーパー銭湯でした。しかもすぐ近くで結構大きめ。〈秘められた美肌の湯〉なんだそうです♨︎

 ということで、私はビビりながらまわってしまいましたが、山城を堪能でき、何なら帰りに温泉も楽しめ、夏にはホタル観賞もできるほんとは楽しいお城だと思います♪
 電車の都合で行きませんでしたが、駅に案内が出ていた「陣屋の杜公園」も紅葉がきれいな公園のようです。


トーダイさん、続100名城再訪完結、おめでとうございます🎉
3巡目も行かれるのでしょうか(*⁰▿⁰*)

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城好きのメガネ

「伝大森氏館」 (2019/12/15 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
岩原城は大森氏頼の館跡であり、明応年間に後北条氏により落城したとされる。現在、遺構は宅地及び畑になっており、見学の際は注意が必要である。

<アクセス>
大雄山線塚原駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「行方氏館」 (2019/12/15 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
行方氏館は後北条氏の家臣・行方直清の館跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
京急線梅屋敷駅 徒歩15分

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