みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

YAICHI

進入不可 (2019/12/19 訪問)

鳥羽佐田浜港より定期船で10分220円。観光ホテルのログレストラン前の広場に石碑があるはずですが2011年に廃業したので現在進入できません。島からは鳥羽水族館ごしに鳥羽城本丸跡が見れます。

+ 続きを読む

いんげん丸虫

綱之上御前山 山梨県大月市 (2019/12/15 訪問)

上野原駅近くに聳える綱之上御前山。武田の烽火台としての伝承があり細尾根の平場は広範囲を見渡せます。

+ 続きを読む

イオ

歴史と石垣の城下町 (2019/11/03 訪問)

(続き)

備中松山城は山上の山城と山麓の居館で構成され、居館は江戸期には藩主の御殿兼藩の政庁として御根小屋と呼ばれていました。廃城令により建物は破却され、現在は高梁高校の敷地になっていますが、小堀政一(遠州)により改修された石垣が今も見られます。

御根小屋から南に徒歩3分の石火矢町には武家屋敷が建ち並び、うち2軒を見学できますが、この日は山城をじっくりめぐり過ぎて時間の余裕がなくなったため、外から眺めるだけでした。また、石火矢町の西側には城下の古い町並みが(部分的に)残っています。

石火矢町から南に徒歩4分の頼久寺は、小堀正次・政一父子が仮の居館とした寺で、政一(遠州)作庭による枯山水の庭園が有名ですが、時間の余裕がなく…(以下略)。お寺ながら石垣と土塀は城郭に劣らぬ作りで、城番の居館とされるのも納得です。

頼久寺から東に坂道を6分ほど登って行くと、元親池のほとりに三村元親公の碑があります。それまで名前は聞いたことがある、という程度でしたが、調べてみるとなかなか波乱万丈な人生だったようで、対立していた宇喜多直家に父・家親を暗殺され(日本初の銃による暗殺なんだとか)、二万の大軍を率いて弔い合戦を挑むも大敗。毛利氏の支援により何とか立て直したかと思ったら、その毛利氏が仇敵の宇喜多氏と結んだため、家臣の反対を押し切り毛利氏を離反して織田信長と結ぶも、毛利氏の侵攻を受けて居城の備中松山城も陥落(備中兵乱)、菩提寺の松連寺にて自刃したとのことで、頼久寺には三村親子の墓があるようです。

松連寺には、文禄の役の総大将・宇喜多秀家の軍船の座所の格天井と船戸が伝えられており、現在の寺は水谷氏の代に支城代わりに整備されたもので、見事な石垣が聳え立っています。

高梁川の下流、成羽川との合流付近の阿井の渡場には山中鹿之助の墓があります。上月城で捕らえられ、備中松山城に連行される途中、この地で謀殺されたんだとか。また、西に1.5kmほどのところには鹿之助の胴塚もあるようですが、今回は未訪問です。

そして、幕末の松山藩といえば山田方谷を抜きにしては語れません。「義を明らかにして利を計らず」の方針により藩政改革を成功させ、松山藩が朝敵とされた際は、自らを信頼し取り立ててくれた主君を隠居させてでも領民を守るべく無血開城し、明治政府に再三求められても出仕することなく、子弟の教育に生涯を費やした人物で、何年か前に「英雄たちの選択」で初めてその存在を知り、「こんな偉大な人がいたとは…」と深く感動。今回の訪問ではその足跡をたどるのも大きな目的のひとつだったんですが、時間に追われながら山田方谷記念館やゆかりの地をめぐるくらいなら、次に来た時に思う存分見て回ろう、ということで、この日は郷土資料館前の銅像を見て、方谷園のお墓に手を合わせただけで我慢です。

…ということで、雲海に始まり、真田丸オープニングの石垣、唯一の山城現存天守、猫城主、二重櫓特別公開、中世山城、御根小屋と様々な歴史のある城下、そして山田方谷…。見どころがありすぎて、丸一日かけても全然足りませんでした。下太鼓丸跡と大石内蔵助腰掛石も見逃してしまいましたし、次回は城下から歩いて登城して、城下もじっくりと見て回ろうと思っています。

方谷先生、必ずやまた参ります…。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

中世山城 (2019/11/03 訪問)

(続き)

水の手門跡から下っていくと、石垣造りの大堀切と復元された木橋があり、ここが近世と中世の境目でしょうか。堀切を越えた番所跡からまた坂道を登っていくと、相畑城戸跡周辺のあちこちに石積が見られます。

さらに登っていくと、天神の丸に到着。臥牛山最高峰の城跡で、最高所に本丸、その南側に出丸、尾根沿いに段曲輪が設けられ、本丸と出丸の間には深い堀切があります。江戸期には本丸に天神社があったようで、社殿の基礎や石段、手水鉢などが残っています。

天神の丸から坂道を下り、大池の手前の分岐を大松山城へ。大松山頂部の本丸から西に二の丸、三の丸、さらに尾根沿いに段曲輪が続き、本丸と二の丸間、二の丸と三の丸間には堀切があります。また、本丸・二の丸下の腰曲輪には石組みの井戸が見られます。

大池は城内の水利のうちの最大のもので、総石垣造りで小舟を浮かべたり、屋根が掛けられたりしていたんだとか。
大池から下っていくと、苔むした石垣が残る番所跡とその下の切通に至ります。ここが備中松山城の北端にあたるでしょうか。切通は途中で石積みにより遮断されていますが、これは幕末に松山藩が朝敵とされた際に防備強化のために施したもののようです。

切通から大池に戻る途中、吊り橋にも寄り道を。高所恐怖症気味ながら吊り橋があると渡りたくなるという難儀な性分のため、往復してみましたが、相当な高さがあり長さもそこそあるものの、板張りで足元から直下が見えないので怖さはさほどでもありませんでした。

来た道をずっと戻って、ふいご峠からシャトルバスで城見橋公園へ。朝一番では駐車場も余裕がありましたが、昼過ぎには満車で駐車場待ちの行列ができていました。
続いては、山を下って城下町に向かいます。備中松山城は城下にも見どころ盛りだくさんです。

(続きます)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

天空の山城 (2019/11/03 訪問)

備中松山城の歴史は古く、鎌倉中期に地頭の秋葉氏が臥牛山の大松山に城を築いたのが始まりで、その後、城主は移り変わりながら縄張を小松山にも広げ、戦国末期には三村氏が臥牛山全域を要塞化しましたが、備中兵乱の際に落城、三村氏は滅亡し毛利氏の城となりました。
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が退去すると、小堀正次・政一(遠州)が城番を務めた後、池田氏、次いで水谷氏が城主となり、二代・水谷勝宗が行った天守建造などの大改修により現在見られる姿となっています。水谷氏が無嗣断絶した際には、浅野内匠頭長矩と大石内蔵助良雄が一時城番を務め、その後、安藤氏、石川氏を経て板倉氏で明治を迎えました。
廃城令により御根小屋(山麓の居館)は取り壊され、山上の城も売却されましたが、取り壊すには不便すぎるため放置され荒れ果てていたところ、昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が城の現状を詳細に調査・発表したことを機に保存の機運が高まり、学生も夏休みに二万枚もの瓦を山上に運び上げるなど、地域をあげての大修理がなされました。平成になってからも、櫓や門、土塀が史実に基づいて復元され、現在に至っています。

う~ん、こうして城の歴史をたどるだけでも様々なエピソードがあって楽しいですね。

さて、この日は二重櫓の特別公開を目当てに登城しましたが、下調べしていると、この頃はちょうど雲海が発生しやすい時季らしく、雲海撮影のためだけに行くつもりはなくても、どうせ行くなら雲海に浮かぶ姿も見てみたい、ということでまずは展望台に向かうことにすると、賀陽ICを降りたあたりから霧が立ち込めはじめ、そして展望台から望む備中松山城は……まさに天空の山城!! 写真で見るとおりの景色が目の前に広がっているのはなかなか感動的でした。

展望台から北西に進み、吊橋を渡って大松山に向かう登城路もあるようですが、やはり初登城は大手側から、ということで、城見橋公園駐車場に車を駐めてシャトルバスでふいご峠へ。ふいご峠から整備された道を登ること約10分、右手に中太鼓丸櫓跡の石垣が見えてきます。さらに数分行くと、眼前に聳え立つ岩盤とその上に築かれた石垣と土塀…。真田丸のオープニングで知られる光景ですが、実際に真下から見上げるとあまりの迫力に圧倒されてしまいました。そして、大手門枡形虎口の高石垣、一部現存の土塀、櫓跡や門跡、曲輪を見て回りながら登っていき二の丸に到着。二の丸から復原された平櫓と土塀越しに望む天守は、定番の構図ながら重厚で絵になります。

本丸に入ると猫城主・さんじゅーろーがお出迎え。並みの猫なら、人に囲まれて撫でられたり写真を撮られたりするのは嫌がるはずですが、城主ともなると堂々としたもので、逃げもせずに撫でられ、毛づくろいをし、周囲のカメラに視線を投げかけ、ネズミのおもちゃに襲いかかる猛々しさを見せることも忘れません。和歌山電鐵の故 たま駅長にも劣らぬ大物ぶりでした。
猫城主さまが城内巡回に出掛けたので、いよいよ天守へ。二層二階の小さな天守ながら、正面中央の唐破風出格子窓は装飾性と実戦性(石落とし)を兼ね備え、一階の囲炉裏や装束の間、二階の御社壇など見どころも多く、さすがは現存天守です。
続いて、天守の下をまわって特別公開されている二重櫓へ。天守と同じ二層二階ながら二回りほど小さく、内部には昔の瓦や鯱、修復工事の機材、パネルなどが展示されています。二階に上ることもでき、二階からは通常見られない角度からの天守も見ることができました。

いったん二の丸に戻り、本丸の石垣と土塀を見上げながら搦手門の脇を進んで行くと、先ほどまでいた二重櫓が岩盤の上に築かれた石垣に建っているのを発見。知識としては知っていましたが、実際に目の当たりにするとなかなかインパクトのある光景です。後曲輪の石垣も見ごたえがありますし、ここまででも既に充分過ぎるほどに満足していますが、備中松山城はまだまだこれで終わりではありません。水の手門跡を抜けて、中世の山城に向かいます。

(続きます)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

稙宗さま (2019/12/04 訪問)

 東北本線桑折駅から20分くらいで麓の登城口です。
 城址が整備され復元祭も行われたばかりということなので心の準備をせずに行ったら熊看板に迎えられました。念のため周囲に気を配りながら歩きましたが…。
 砂利道を上がっていきますが、赤や青の幟がはためいていて何だか歓迎されている気分です。(フレーフレー🏁みたいな。)
 
 大手門には出来たての標柱と工事中の説明板。台場には工事車両があって、整備完了間近という感じでした。
台場の一番高いところからは本丸、二の丸が遮るものなく見渡せます。気持ちいいです。
 大手門から表門に上がる真っ白な石の階段は、ここだけ小さなパルテノン多摩。歩幅が全然合わなかったことと合わせ、わりと強烈に印象に残りました。

 平面復元された建物跡や搦手口はそこだけ切り取ってみると安全な感じしかしないのですが、搦手口の外の山の中から本丸まで地面には点々と何かが続いており…。人の足跡でも轍でもなさそうな何か…∑(゚Д゚)
 搦手口の階段の先も整備されていて行けそうではあったのですが念のためやめて、本丸の空堀や城址碑を確認してから、空堀にかかる橋を渡って二の丸へ。

 さらにそこから中館へ。中館は本丸、二の丸よりも高台にあり、坂を少し登るのですが、ここで強烈な獣臭。カルビンさん(たびたび引用させていただき申し訳ありません)のご投稿にあったのはこのことか!(4年間臭い続けているのかʕ•ᴥ•ʔ)
 遠くの山から聞こえる銃声と相まって緊張感MAX…のまま中館から奥の西館へ。土塁の向こうの空堀を覗きに行く勇気と根性はありませんでしたが、最高所の幟のところから本丸と下界まで見渡して、とりあえず天下取っときました。

 やたら広い二の丸の空堀跡の道(写真⑦)がどこに続いているのか気になりパンフレットを見ると「うぶかの郷」に続くとあり、うぶかの郷って何?と思って検索してみたら、スーパー銭湯でした。しかもすぐ近くで結構大きめ。〈秘められた美肌の湯〉なんだそうです♨︎

 ということで、私はビビりながらまわってしまいましたが、山城を堪能でき、何なら帰りに温泉も楽しめ、夏にはホタル観賞もできるほんとは楽しいお城だと思います♪
 電車の都合で行きませんでしたが、駅に案内が出ていた「陣屋の杜公園」も紅葉がきれいな公園のようです。


トーダイさん、続100名城再訪完結、おめでとうございます🎉
3巡目も行かれるのでしょうか(*⁰▿⁰*)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城好きのメガネ

「伝大森氏館」 (2019/12/15 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
岩原城は大森氏頼の館跡であり、明応年間に後北条氏により落城したとされる。現在、遺構は宅地及び畑になっており、見学の際は注意が必要である。

<アクセス>
大雄山線塚原駅 徒歩20分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「行方氏館」 (2019/12/15 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
行方氏館は後北条氏の家臣・行方直清の館跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
京急線梅屋敷駅 徒歩15分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「伝梶原氏館」 (2019/12/15 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
後北条氏の家臣・梶原助五郎の館跡とされる。梶原助五郎は江戸衆の一人として活躍していた。現在、遺構は消滅している。付近には、「旧越前鯖江藩間部家下屋敷跡」や「山内豊信(容堂)墓」、「土佐藩下屋敷跡」などが点在している。

<アクセス>
京急線鮫洲駅 徒歩15分

+ 続きを読む

ぴーかる

今西家屋敷 (2019/11/16 訪問)

【今西家土居屋敷】
<駐車場他>Pなし。近くにコインPあり。
<交通手段>バイク

<感想>バイクで摂津国の城巡り第2弾、5城目。一般公開はされていないとのことで正面の長屋門のみ撮影。夕方で急速に暗くなり、バイクを駐輪できるところもなかったので、堀跡も確認せず早々に切り上げた。一応バイクで西側へも回ってみたが、狭い道の密集住宅地でエンジン音・路駐迷惑になるので近づかず止めた。
 これにてバイクでの巡り終了。走行81㎞1日楽しんだ。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

チェブ

今も「川島氏館」。 (2019/11/30 訪問)

岡山県でもなく香川県でもない栃木県の「高松城」に行きました。
「館林城」の城主、赤井氏の家臣 川島 宗満さんが築きました。
「高松城」は「川島氏館」とも言われ現在も川島氏の末裔の方が暮らしてます。
小さな「居館跡」の看板が道沿いにあります。
入口に説明板がありますが、中は個人宅なので入れません。
もしかしたら、家主さんにお断りしたら入れるかもしれません。
、、、立派なお庭が見え、お宅は奥の方にありましたので、勇気が出ませんでした。

+ 続きを読む

勝龍寺城

(予告)リニューアル第1弾企画展開催! 勝龍寺城の茶道具~文化交流の場~ (2019/12/18 訪問)

昭和63年(1988)勝竜寺城公園の整備にかかる発掘調査によって、さまざまな遺構・遺物が出土し、勝龍寺城はその後の城郭の標準となる諸要素を備えた、当時最先端の城郭であったことがわかっています。その際、茶道具も確認されており、勝龍寺城では茶の湯が催されていたことがうかがえます。
 永禄11年(1568)織田信長に奉じられ、足利義昭が上洛して以降、勝龍寺城には細川藤孝が入りました。藤孝は当代随一の文化人で、茶の湯にも通じたことが知られます。加えて、藤孝の嫡男、細川忠興は後年、千利休の高弟「利休七哲」の一人として名を馳せます。もちろん、これらの茶道具が、彼らによって使用されたか否かは不明です。しかし、勝龍寺城が戦闘における防御施設であったと同時に、文化的な活動の場であったことを物語っています。本展ではこれら茶の湯に関わる出土品を紹介します。

【会 期】令和2年1月11日(土)~4月5日(日)※予定
【場 所】勝竜寺城公園 管理棟2F展示室内
【時 間】午前9時から午後5時(4月以降は午後6時まで)
【入場料】 無料

 お問合せ  長岡京市教育委員会生涯学習課 電話:075-954-3557

+ 続きを読む

勝龍寺城

勝龍寺城リニューアル1か月、来場者数1万人突破! (2019/11/29 訪問)

令和元年11月2日に勝龍寺城をリニューアルオープン!
新たに城に関わる明智光秀・細川ガラシャ・藤孝・忠興の映像コンテンツや城の出土物の展示などをしています。
リニューアル後、約1か月の11月29日に来場者1万人を突破しました。

引き続きたくさんのご来場をお待ちしております。

+ 続きを読む

いんげん丸虫

斧窪御前山 山梨県大月市 (2019/12/15 訪問)

御前山は山梨 中央道付近に7つあって、正確な記録はないが武田の烽火台という可能性が強いようです。斧窪御前山は梁川駅の近くにあります。山頂は現在アンテナがたっています。眺望は良いです。

+ 続きを読む

カズサン

夕暮れ時の初登城 (2019/12/14 訪問)

 北尾張城廻り岩倉城を終えて約15km程の南西尾張西部に在る蜂須賀城を初登城、蓮華寺を目指し門前の駐車エリアに車を停めて急ぎ探訪、曇りで小雨も降り始め夕方4時ごろ光が弱く所々フラシュ撮影。
 蓮華寺北奥に小高い丘が有り蓮華寺奥の院、ここが本丸櫓台か、周囲に堀と土塁が散見され周囲の田圃より一段高い城域だった様子が伺える。
 蓮華寺の寺域で有ったので此処まで自然と共に残されたのでしょう大切にしたい城跡です。
 蓮華寺門前には蜂須賀城石碑、蜂須賀小六正勝の顕彰碑、蓮華寺には蜂須賀正勝公、家政公の位牌が祀られ菩提寺と成ってる、秀吉創成期をを支えた名将小六正勝は家政と繋ぎ明治維新まで徳島藩主として蜂須賀家を継承された。
 暗くて写真写りが悪くご容赦ください。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

新宮城の御城印はいかがでしょうか。

新宮市観光協会は、2019年7月13日(土)に新宮城跡の御城印の発売を開始します。和歌山県内では初の御城印となります。

新宮城跡は、2017年に「続日本100名城」(公益財団法人 日本城郭協会)に指定されました。また、今年は水野家入部400年の記念の年となっています。水野重仲は、1619年(旧暦7月19日)に新宮入りし、新宮城の築城に携わりました。これにちなみ、当観光協会は今年7月に御城印を発売することを決定しました。

御城印とは、登城の記念スタンプです。新宮城跡の御城印は、1枚1枚スタンプを手押しで作成しており、水野家(丸に立ち沢瀉)と、新宮城の築城を始めた浅野家(餅の内に杵)の家紋が入っています。今年のみ「水野家入部400年記念」の限定ロゴ入りで販売します。また、新宮城の年表が付いています。

水野家、新宮市へ入部400年の記念の年にぜひ当地を訪れてみませんか(^^)


お問い合わせは新宮市観光協会まで
〒647-0020
和歌山県新宮市徐福2-1-11熊野交通1F
Tel 0735-22-2840  Fax 0735-22-2842
E-mail info@shinguu.jp

+ 続きを読む

カズサン

近くのアピタに停めて初探訪 (2019/12/14 訪問)

 北尾張城廻り楽田城を終えて南西に約10km程の岩倉城に初登城、県道25号線上で駐車場が無く25号線沿いのアピタ駐車場を利用させて頂いた、其処より徒歩2、300m程東の県道25号線の南側に小公園的に石碑、案内板、庵が在る。
 石碑が在るだけでも感激しますが案内解説板も有り発掘の状況、想定図、道より一段高い敷地に施設されて居り地元の方々に大切にされてる事が分かります。
 信長より以前の織田宗家守護代の城で小口城、清洲城でも防御の堀としてる活用されてる五条川が東に200m程に在る、市街化された城跡の仕方なさか、石碑、案内板だけでも感謝感謝です、近くにアピタが有って良かった買い物にご協力を!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

新宮城グッズのご案内

2019年は、水野家が新宮へ入部して400年の記念の年となります。
それを記念し、水野家入部400年記念グッズを新宮市観光協会で販売しております。

数に限りがありますので、お早めにお買い求め下さい。
郵送も可能ですので、新宮市観光協会までお問い合わせください。

グッズは4種類です。

〇ポロシャツ(白・黒・紺)   2,000円(税込)

〇トートバッグ(黒・紺)   800円(税込)

〇クリアファイル  200円(税込)

〇グラス      500円(税込)

問い合わせ先
新宮市徐福2-1-11 熊野交通(株)1F
新宮市観光協会
TEL:0735-22-2840

+ 続きを読む

スミヤキ

よくぞ!ここまで!  (2019/11/16 訪問)

1ヶ月程前、福井県坂井市で開催された【丸岡城シンポジウム】ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎 を拝聴してきました。

4年かけた調査により、現在の天守は本多氏が治めていた寛永期に造営整備されたものとのこと。また、天守を支えていた天守台の石垣は、1600年の関ヶ原合戦以前に遡り、織豊期の柴田勝豊が城主の頃か、秀吉政権下の青山氏の頃の構築のようです。調査に携わった先生方のお話は、興味深くとても面白かったです。解明できなかった謎の部分も、まだまだ有るそうです。

400年もの長い年月、国の体制仕組みが変わっても、自然災害に見舞われても、奇跡的に残って、現存している数少ない天守です。今後も大切に保存され、新たに解明されるニュースを楽しみに待ちたいですね。昔々、五角形した城構えの丘頂の本丸を中心に連郭式で広大な内堀を持つ、素晴らしいお城だったようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

途中下車散歩にも物足りない距離。 (2019/11/26 訪問)

JR武生駅西口から,約100mで越前市役所です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1170