みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

橋吉

武田勝頼ゆかりの城 (2013/10/06 訪問)

武節城があった愛知県豊田市武節町は、長野県・岐阜県との県境です。
したがって、ここは信濃・美濃の侵攻を防ぐ三河の国境の城だったわけです。

国道153号にある「道の駅 どんぐりの里」北にトンネルがあります。
このトンネルの上に武節城はあります。

山城ではなく、小高い丘に建てられた平山城ですので、5分ほど坂を登れば到着します。それでも、息は切れ切れですが・・・

武節城は3つの曲輪が階段状に作られています。
一番低いところにある三の丸
一段高いところに二の丸があります。
さらに、その上にある本丸


1571(元亀2)年、信長包囲網に呼応した武田信玄は2万5千の大軍を率いて三河侵攻を開始しました。
この際、武節城はなんと戦わずして武田の軍門に下ってしまいました。
しかし、この後信玄は体調を崩したため、退くこととなりあげくのはてに病死してしまいます。

1575(天正3)年、信玄の息子勝頼は三河に侵攻し、徳川・織田連合軍と激突することとなります。長篠の戦いですね。
敗れた勝頼は田峯城主菅沼定忠に伴われ撤退しますが、すでに田峯城では謀反が起こっており入城できず、命からがら武節城にたどり着き、梅酢を飲んで一息ついたとの言い伝えがあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

佐伯城 (2020/11/28 訪問)

【続百名城46城目】
<駐車場他>佐伯市歴史資料館駐車場
<交通手段>レンタカー

<見所>天守台・石垣・虎口・三の丸櫓門・櫓台
<感想>2泊3日豊後国百・続百名城攻城の旅6城目。朝一行った大分府内城が時短になったので急遽入れ込んで訪城しました。三の丸は歴史資料館駐車場から櫓門が見えているのですぐわかります。三の丸跡は廃文化会館と公園になっているが、階段状に石垣遺構が残る。山頂の本丸を中心に北に北の丸、南西側に二の丸・西の丸を配し、連郭を総石垣で囲んでいる。天守曲輪はほぼ正方形の高石垣で特に見応えがある。二の丸西面の出隅石垣は算木積み未完成の石垣だが3m程あり味がある。各曲輪にある虎口や石敷の櫓台遺構も見応えある。本丸外曲輪北側石垣は三段の高石垣で段の平面部分も石垣で埋めて緩やかな曲線のある全面石垣となっている。圧巻で一番印象に残りました。眺望の佐伯港もまた良し。夕暮れで雄池・雌池の水の手遺構は行けずだったが、再訪したい続百名城マイベストに入る城跡でした。

<満足度>★★★

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

小学校の後背 (2020/12/29 訪問)

伊佐市立大口小学校の後背に所在する城です。グランドの東側に登城口があります。年末休業中の学校で誰もおらず登城の許可を得ることはできませんでした。申し訳ないと思いつつ、可能な限り学校の外を回りグランド東辺に立ち入らせていただいて登城させていただきました。外から見ただけでは想像がつかない大規模な空堀が巡っていました。展望所が本丸のようで眺望が開けていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

小倉城 (2013/08/13 訪問)

現在の小倉城は、関ヶ原以降、入領した細川忠興(三斎)によって築城されました。
天守閣は層塔型四層の外観ですが、最上層の五階部分が同層の四階部分よりも突出してます。
南蛮造りと呼ばれるものでめずらしい様式です。


石垣は軟弱な地盤の関係でゆるやかな野面積の直線勾配となっています。
加工した切り石を使わずに自然石のみを集めて築いたというところに細川氏の自負があるといわれています。

1866(慶応2)年の第二次長州征伐では小倉城に熊本、久留米、柳川などの九州諸藩の軍勢が集結、長州進攻の準備につきました。
ところが長州側は先手を打って高杉晋作率いる奇兵隊をはじめとする軍を小倉攻略に向けてきました。
戦闘は熊本藩兵の善戦で一進一退を繰り返しましたが、幕軍指揮官(老中)の脱出を境に諸藩の軍勢も小倉は去ってしまいました。
孤軍となってしまった小倉藩は、城に火を放って退去してしまいました。

幕府のご威光を借りながら、農民・町民混成部隊に負け、城を奪われるという失態は日本史の大きな転換点だと私は思います。

+ 続きを読む

昌官忠

笠間水戸日帰り③ (2018/03/31 訪問)

「笠間水戸日帰り」の3城目(ラストです)は笠間城です。水戸城からの転戦です。
この時は続100名城スタンプを集めていなかったので押していません。
水戸城から水戸駅に戻り、JR常磐線とJR水戸線で笠間駅に着きました。笠間駅前の観光協会でレンタサイクル(電動)を借りて、笠間城を目指しました。

笠間城は2回攻城しています。
①2018/03/31は今回で一人で攻城
②2019/09/13は続100名城スタンプ押印の為
(井筒屋に行ってスタンプ押印しただけなので攻城と言えないですね)

笠間城は鎌倉時代に笠間時朝(1203~1265)が築いてから、約750年間笠間氏の居城となってきました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に笠間綱家が北条氏についたため、滅亡させられました。
その後、宇都宮氏が支配しましたが、のちに蒲生郷成が入城し、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入りました。
松井松平氏以降も小笠原、戸田松平、永井、浅野、井上、本庄、井上、などの諸氏が入れ替わり城主をつとめ、1747年(延享4年)から廃藩までは、牧野氏代々の居城となりました。

笠間城は関東地方では珍しい本格的な石垣がある城で、石垣以外にも堀などの遺構を確認できます。
建造物の遺構として、本丸八幡台上にあった八幡櫓が真浄寺に移築され現存しています。
また自分は見ていませんが、薬医門形式の城門2棟が、市内の民家に移築され現存しているそうです。

攻城ルートを写真で辿ると、笠間駅でレンタサイクルを借りる➡千人溜➡大手門跡
➡苔むした石垣を横に見る➡本丸跡城碑と説明板➡八幡台櫓碑➡本丸天守曲輪間の竪堀
➡天守曲輪に向かう石段を登る➡天守台横の石段を登る➡佐志能神社への石段を登る
➡佐志能神社(眺望)➡下城開始➡大黒石➡九ちゃんの家➡大石邸址➡八幡台櫓
➡笠間稲荷神社➡笠間駅でレンタサイクル返却➡帰路。

攻城した時は、東日本大震災により天守付近の石垣や石段にシートがかかっていましたが、今はどうでしょうか。
攻城時間は2時間15分 くらいでした。(千人溜から笠間駅まで)
レンタサイクル(電動)の領収書を今も持っていますが、1日500円でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

笠間水戸日帰り② (2018/03/31 訪問)

「笠間水戸日帰り」の2城目は水戸城です。宍戸城からの転戦です。
100名城スタンプは「弘道館料金所窓口」で押しました。
宍戸城から宍戸駅に戻り、JR水戸線で水戸駅に着きました。水戸駅南口自転車駐車場でレンタサイクルを借りて、弘道館を目指しました。

水戸城は3回攻城しています。
①2018/03/31が今回で100名城スタンプ押印目的
②2019/09/06に妻と二人で袋田の滝見学の帰り
③2020/11/04に妻と二人で大手門見学(投稿済)

攻城ルートを写真で辿ると、水戸駅でレンタサイクルを借りる➡弘道館(スタンプ押印)見学➡三階櫓跡➡見晴台➡杉山門➡二の丸御殿跡➡薬医門➡本丸跡➡柵町坂下門➡仙波湖➡見川城を捜す➡水戸駅でレンタサイクル返却➡黄門神社で終了

水戸駅でレンタサイクルを借りたのは、仙波湖&見川城攻城が目的でしたが、見川城は見つからず(後で確認したら、全然違う場所を探してました)、タイムリミットで笠間城に向かいました。
レンタサイクルの領収書を今も持っていますが、1日500円でした。

攻城したのが桜の時期でしたので、弘道館と仙波湖の桜を堪能しました。攻城時間は見川城探索時間も含め2時間30分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

笠間水戸日帰り① (2018/03/31 訪問)

「笠間水戸日帰り」の1城目は宍戸城です。
自宅最寄り駅よりJR宍戸駅に到着。そこから徒歩で宍戸城に着きました。(徒歩で2~3分です)

宍戸陣屋の前身の宍戸城は鎌倉時代初期に八田家政が築いたといわれています。
戦国時代には、八田義利は佐竹氏の軍門に降り、佐竹氏の持城となりました。
1602年(慶長7年)に佐竹氏と入れ替わりで秋田実季が出羽国より5万石で入り、秋田実李の居城となりました。
その後、子の秋田俊季が1645年(正保2年)に三春へ転封されると幕府直轄領となりました。
さらに1682年(天和2年)に水戸藩主・徳川頼房の七男で、徳川光圀の弟である松平頼雄が一万石を与えられると、城を陣屋に改めて支配しました。
以後、水戸徳川家の四支藩(讃岐高松・陸奥守山・常陸府中・常陸宍戸)の一つとして9代頼徳まで続きます。
幕末の1864年(元治元年)、天狗党事件の鎮撫に失敗した9代頼徳は、責任を幕府から問われ切腹し、廃藩となっています。
その後、幕府の代官支配で明治維新を迎えるが、1868年(慶応4年)に朝廷のとりなしで再度立藩することとなりました。

現在城址は市街地化のため遺構もほぼ消滅していますが、土塁が一部だけ残っており、その上に末廣稲荷神社があります。
自分はみていませんが、歴史民俗資料館には宍戸城についての展示があり、岩間町の民家には陣屋の表門が移築されているそうです。

この後、笠間城に行く予定でしたが、笠間駅行の電車まで40分待ちだったので、水戸駅行(5分待ち)に急遽変更し、水戸城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Nabeppu

東側から撮影した御三階櫓 (2021/01/10 訪問)

東側の境河岸乗船場から御三階櫓と富士山のコラボは関東の富士見百景に選ばれています。反対の西側から撮影すると筑波山とのコラボでの撮影も出来ます。周囲が江戸川と利根川に挟まれている為、建物も無く非常に映えます。富士山とのコラボは日の出前後、筑波山とのコラボは日没前後がベストです。

+ 続きを読む

小城小次郎

水門には山の上からではなく下からのアクセスとなる (2020/11/21 訪問)

鬼ノ城が近くにありながらこちらにも古代山城を築いたのは鬼ノ城が備中、大廻小廻山城が備前であることにも何か関係があるのだろうか。見どころの水門石垣は山の上からではなく下からのアクセスになるのでご注意を。

+ 続きを読む

橋吉

鉄筋コンクリートによる復興天守 (2013/08/09 訪問)

唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、名護屋城の解体資材を用いて築城といわれています。
本丸跡地が舞鶴公園として整備されています。

石段が多いので、エレベーター(有料)が用意されています。
このエレベーター斜めに移動するのです。はじめて経験しました。

鉄筋コンクリートによる復興天守
なお、唐津城に天守台はありましたが、天守閣が存在したという記録も絵図も存在しません。

+ 続きを読む

たつのり

69 (2021/01/10 訪問)

キラキラ光る太平洋(駿河湾)を遠く見て、戦国の世に想いを馳せる。



沼津の長浜城を後にし、次の目的地、興国寺城址はHonda純正のカーナビでは出て来ませんでした。

長浜城より続100名城ということで期待するも、駐車場の案内すらなく、勝手に駐め放題の空き地には「駿州興国寺城」ののぼり旗が一つだけ。正直言ってテンション下がりました。

何となく安土城のような道の両側が段違いな何も建物がない平地を緩く登って行くと神社が見えました。

神社の横にはスタンプが収納されている箱と台があり、興国寺城と北条5代の大河ドラマを誘致しようというパンフレットが置いてありました。

興国寺城は歴代今川、武田、北条、徳川と色々関係しており、先程登城した長浜城の方がよっぽど北条に近いのにこんなのなかったぞとか、城址のパンフレットが同じ沼津市教育委員会なのに大きさやデザインが違うなど疑問に思うながら奥へ進みました。

奥には小さいながらも石垣があり、一段と高い場所に天守台がありました。

天守台からの眺めは遠くにキラキラと反射している太平洋(駿河湾)、そしてその海に向かってはちょうど城を起点として海に向かってまっすぐに延びている道が見えました、(来る時に通って来た興国寺城通り)

城主たちが遠い昔に見た風景や通りの両側にある多種多様な店で賑わう城下町など、しばしロマンに浸っていました。

テンションは急上昇したのは言うまでもありません。

長浜城のような整備ではありません弟子たが、計画はあるようなので、同じ沼津市教育委員会に期待大です。

合わせて大河ドラマも・・・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

太陽光発電設備の先に (2021/01/09 訪問)

平安後期の築城とされ、入口の石碑には興味深い説明が書いてあります。
石碑から砂利道を進みますが左手に太陽光発電設備。
その先に土塁が残ります。
一番奥まで進むと民家があり、この辺りが主郭。
周囲は土塁で守られています。
主郭手前の堀を進んでいくと横矢がかかる折れもありました。
住宅地なのであまりうろうろ出来ませんが結構な城でした。
尚、駐車場はなく、近くに路駐かコンビニ駐車場をお借りするかとなります。

+ 続きを読む

たつのり

75 (2021/01/10 訪問)

富士山が最も綺麗に見える城址。
第一曲輪から、段々畑のように曲輪が連なっており、一番低い部分は海へ降りられます。(足元危険なので注意)
ちいさな神社もあり、沼津市教育委員会の説明書きも随所にあり丁寧でした。
城址とは思えない、富士山と駿河湾が綺麗な名所です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

堀尾忠晴の大チョンボ?大芝居? (2013/07/23 訪問)

多聞櫓が残されています。

実は、ここには天守閣があったのです。
ところが1633(寛永9)年のこと、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じ、天守を解体してしまったのです。
しかも、幕府の命令はここ伊勢亀山城ではなく丹波亀山城であったことが後に発覚します。
つまり間違いで破壊されてしまったのです。
なんとか再建の申請はするのですが認められず代わりに多聞櫓を建てたのでした。

堀尾忠晴は後世にも残る大チョンボをやらかしたといわれいますが、果たしてそうでしょうか。
亀山城の敷地は結構広いです。
1万2000石の小大名としては不相応です。
なおかつ、東海道直近であり、嫌が上でも威圧感を感じさせられます。
当時、参勤交代の大名は、亀山の宿に泊まるのを嫌がったそうです。
ですから、幕府は適当な難癖をつけて取り壊したかった。でも、理由が見つけられなかったので一世一代の大芝居を打ったのではと予想します。

+ 続きを読む

橋吉

刑部城 (2013/03/25 訪問)

阿王山紫城とも称される刑部城は、堀川城とともに家康への備えとして、地元の豪族らによって築かれました。
しかし、家康側の猛攻の前にひとたまりもなく落城したそうです。
刑部城はその後、家康公の家臣・菅沼氏が守ったそうです。
なお、1572(元亀 3)年、三方ヶ原において徳川軍を壊滅させた武田軍は、この刑部の地で越年しました。

現在、県道261号線(姫街道)によって、城跡は分断されています

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

甲州における戦国時代最後の合戦 (2021/01/04 訪問)

獅子吼城の始まりは、鎌倉時代末期とされています。武田信玄の時代には、烽火通信の重要な場所であったと云われ甲信国境の信州峠、西方は能見城・新府城まで遠望できるとのこと。(自分が登城した時は、方角が分からず、説明板等なくさっぱり分かりませんでした)
 1582年9月に武田氏が滅亡。さらに、織田信長も本能寺の変で明智光秀の謀反により命を落とすことになり、甲斐国は、北条氏と徳川氏の係争の地となり、獅子吼城は北条方の守備するところとなりましたが、徳川方の服部半蔵率いる伊賀組と武田遺臣とが、獅子吼城に夜襲をかけ落城させた。この戦いが、甲州における戦国時代最後の合戦だと云われています。

現在、獅子吼城は、石垣、曲輪、土塁、空堀、竪堀が残っています。アクセスとしては、北杜市須玉町江草にある根古屋神社を目指すと城跡の案内板があり、迷うことはありません。ただ、駐車場・トイレは無く、峠にある登城口50m程手前に1台ほど駐車できるスペースがあり駐車しました。

どの方の投稿を拝見しても、「猿の群れ」の記述がありますが、本当にいます。"(-""-)" さらには、主郭部付近で「キツネ」を見ました。「きっ、キツネ~」と訝しる方もいるかと思いますが、本当にいました。自分も北海道と動物園以外で見たのは初めてです。
驚きとびびったのとで画像がないのが残念です。どなたか、見られた方はいませんか?投稿をお待ちしています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅④ (2018/04/29 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の4城目(ラストです)は根城です。弘前城からの転戦です。
100名城スタンプは「八戸市博物館」で押しました。

根城は1334年南部師行によって築かれたと言われ、代々、南部氏の居城として利用されました。
現在は「史跡 根城の広場」として整備されており、遺構として館跡の礎石、曲輪、空堀、土塁が確認できます。
本丸には主殿・中馬屋・工房・鍛冶工房・板倉・納屋・東門が復元されています。

広々とした台地に御殿や馬屋が復元されていて、いい雰囲気です。攻城時間は60分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅③-2 (2018/04/29 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の3城目=弘前城、前夜に続いて2回目の攻城です。
100名城スタンプは「弘前城天守」で押しました。

2回目の攻城を撮影した写真から辿ると、
津軽南ねぶた村の駐車場➡弘前中央高校口から三の丸へ入城➡日本一(世界一?)太いソメイヨシノ➡
二の丸(日本一(世界一?)古いソメイヨシノ)➡東内門➡下乗橋を渡って本丸へ➡
天守(100名城スタンプ押印)➡本丸内を散策➡鷹丘橋を渡って北の郭へ➡北の郭内散策➡
波祢橋を渡る➡春暘橋を横に見ながら桜のトンネルを歩く➡埋門跡から西の郭へ➡
西の郭散策➡二の丸へ入り、未申櫓見学➡南内門➡杉の大橋を渡る➡中濠越しに辰巳櫓を確認➡
追手門から一旦退城➡外濠沿いを歩➡三の丸東門から三の丸へ入城➡
中濠越しに丑寅櫓を確認➡弘前中央高校口から下城➡津軽南ねぶた村の駐車場へ。
公園案内図を確認すると四の丸と植物園を見学していませんが、時間の都合上、あきらめました。

桜筏を前日夜間と昼間見れたこと、天守と隅櫓を確認できたので満足です。攻城時間は2時間くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅③-1 (2018/04/28 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の3城目は弘前城です。久保田城からの転戦です。

弘前城は現存12天守としては最北の城です。津軽氏の居城でした。津軽信枚によって築城された当初は「鷹岡城」と呼ばれていましたが、南光坊天海のアドバイスにしたがって地名を「弘前」に改称し、城名も弘前城となりました。現存12天守に数えられてはいますが、築城当初の5層5階の天守は焼失しており、現在残っているのは後に建てられた御三階櫓です。
江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されています。城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城です。

弘前城は2018/04/28と04/29の2日間連続して攻城しており、投稿写真の都合上、2回に分けて投稿します。
まずは1回目(2018/04/28)、ツアーでは翌日に攻城する予定でしたが、夜桜を見学したくて、宿泊ホテルから20分強歩いて攻城しました。

夜間撮影技術が稚拙で、写真がボケまくりですが、なんとか見れそうなものを投稿します。攻城時間は90分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅② (2018/04/28 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の2城目は久保田城です。盛岡城からの転戦です。
100名城スタンプは「久保田城御隅櫓」で押しました。

久保田城は、慶長七年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長八年(1603)年五月に開始され、翌年の八月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永八年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在は「千秋公園」として整備されており、桜の名所としても親しまれています。建造物としては、物頭御番所が現存し、市政100周年を記念して御隅櫓が復元されています。
以上、秋田市公式サイトから抜粋しました。

見所は、復元された御隅櫓(鉄筋コンクリート造りはちょっとだけ残念)と表門、現存する物頭御番所(久保田城内の二ノ門の開閉管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所)です。
攻城時は桜が綺麗でした。攻城時間は80分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1170