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昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅① (2018/04/28 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の1城目は盛岡城です。
100名城スタンプは「もりおか歴史文化館」で押しました。

盛岡城は南部氏の居城として知られています。土塁の多い東北地方の城郭の中では珍しく、白い花崗岩で石垣が組まれており、東北三名城のひとつに数えられています。
現在は岩手公園(愛称:盛岡城跡公園)として整備され、自分は見てはいませんが、芝生広場の南側に宮沢賢治の詩碑、二の丸に石川啄木の歌碑などが建てられているようです。

見所は、やはり石垣ですね。石垣の素材の石は遠方から運ぶことなく、全て近隣産の花崗岩を用いているそうです。
加工は野面積・打込接・切込接の三種類確認でき、石垣の角には算木積・笑い積や盛岡城にしか見られない三角錐の角石があります。また、はばき石垣(石垣の崩壊を防ぐ石積み)も確認できます。
写真をうまく映せませんでしたので投稿できませんが、場所は二の丸の東側に笑い積とはばき石垣、本丸の西側に三角錐の角石がありますので、石垣好きな方は確認して見て下さい。
攻城時は桜が綺麗でした。攻城時間は70分くらいでした。

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姫街道

鎌倉時代築城の古城 (2021/01/09 訪問)

鎌倉時代に築城し、一旦廃城。戦国期にまた再活用した模様。笠寺小学校付近との事。
笠寺小学校近郊に神社があり、石碑が立つ。
笠寺小学校と並ぶようにある神社も急傾斜地。一体として城を構築していたか、出丸か。いずれにしろ城だったであろう。小学校を眺めても仕方ないので、神社周辺を散策。
城跡地の雰囲気を感じ、それなりに楽しめた。
とにかく、この付近は道が狭くて駐車場が無い。神社から南区役所方向へ少し行った所に名鉄協商パーキングを見つけて停めた。
城は、小高い丘にある丘城で、小学校と二郭一城だったか。
二城五砦の訪問ついでに登城。

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姫街道

大高兵糧入れ (2021/01/09 訪問)

桶狭間の戦いで有名な二城五砦をまわった。
まずは、「大高兵糧入れ」で有名な大高城。
この城は桶狭間以前からの重要な城であったが、織田対今川・松平の勢力争いの中、前線で揺れ動いた城である。幕末まで機能した城で、城下町には古い屋敷や酒蔵などがあり、徒歩で歴史散策を楽しんだ。
さて縄張りは、主曲輪を囲むように階層的に曲輪が配置されていた。腰曲輪も現在では幅が広くなってしまい要塞の雰囲気が無いが、戦後期には城のすぐ近くまで海岸線が来ていて、桶狭間の戦いでは松平元康が織田方の砦と激しく戦った要塞の城だったのは間違いない。

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姫街道

炎上した鷲津砦 (2021/01/09 訪問)

清洲から熱田神宮で参拝した信長は、鷲津砦と丸根砦の炎上を横目に桶狭間山に走ったとあるが、、、砦は山の山頂から南面に大高城を向いて築かれており、直接は見えなかったのではと感じた。
さて、砦は大高城に向かって横堀や土塁らしき遺構があり、砦東側には長寿寺もある事から、根古屋城だったと言われてもおかしくない。
清洲同盟以降は使われなくなったとあるが、それにしては保存状態が良く、大高城と鳴海城の中間点として役目があったとしても不思議ではない。

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姫街道

大高城を睨む砦 (2021/01/09 訪問)

大高城・鷲津砦と共にセットで国指定を受けている砦らしい砦だ。砦中腹には案内板があり、宅地化が進んだとは言え当時の眺望を推測出来るが、木々を少し伐採して山頂から見えるようにして欲かった。
現在は周辺には大高緑地が広がるが、保存会の方が作成して頂いたCGにより、当時の状況がよくわかる。

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姫街道

東西に長い城 (2021/01/09 訪問)

「東西75間半、南北34間」と言われている。
城跡地は、東海道を挟んで西側の鳴海城跡公園から東側の石碑がある天神社のあたり。
また、別名を根古屋城と言われているように、城の周りにはいくつもの寺や神社が今でも残る。この城も勿論古いし、海岸線・川・東海道の全てを抑える重要な城だ。織田対今川の勢力争い時には、今川方は後に第二次高天神城の戦いで勝頼方として最期を遂げた猛将岡部元信を城主として配置。「こんな前線の不利な所で、よくも戦ったものだ」と感じた。結果的に、義元は岡部元信への絶対的信頼からか信長は善照寺砦にいると判断したのかもしれない。

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姫街道

対鳴海城の砦 (2021/01/09 訪問)

光明寺の裏をブラブラと探していたら、何と個人宅の中に「丹下砦跡」の案内看板を発見。そのお宅の際には、曲輪の外構え跡らしき遺構が見えた。地形的にアップダウンの急な箇所で、海岸線際にあった崖地のような立地だったのではなかろか。
丹下砦の際まで海岸の入江が来ていたと思われ、入江向こうには猛将岡部氏が籠る鳴海城が見えて、桶狭間の戦い前夜の緊張感を狭い路地を歩いていると感じる。

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姫街道

桶狭間急襲前に信長が兵を集めた砦 (2021/01/09 訪問)

信長が善照寺砦に兵を集め、鳴海城へ兵を送ると共に本人は2,000騎連れて中島砦に向かった判断が、義元を討ち取った要因の一つと言えるだろう。砦は階層的に曲輪が存在していたと考えられる。かなりの兵を収容できる広さがあったと思われ、古くから砦の北を通る鎌倉往還を抑えていたのであろう。
「たられば」になるが、信長が善照寺砦に来ていた事は承知していたと言われる義元が、沓掛城を出て清洲への最短ルートである鎌倉往還を進んで善照寺砦を目指していれば、大雨に降られたとしても、討ち取られまではしなかったのではないかと感じた。

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姫街道

個人の住宅跡地にあった石碑 (2021/01/09 訪問)

二城五砦の最後に行った。中島砦跡地。
街道と河川が四方から入り組む非常に混雑した箇所で、堤防沿いの住宅街の一区画に砦跡地を見つける事が出来てホッとした。この石碑、個人邸の庭に昭和2年に建てられたと言うからそれもまた驚きだ。瑞雲寺から中島橋を渡って、運河沿いを歩くとある。
大雨の中、「信長が善照寺砦から今川方重臣の岡部元信が守る鳴海城を攻めていた」と思い込んで桶狭間山で陣を張っていた義元を目掛け、大雨前に川を渡った織田軍2,000騎が桶狭間山目掛けて東海道を駆け上がるように出陣した砦だ。
川を渡り背後の鳴海城からは私の好きな猛将岡部氏が大雨による増水で援軍を出来ない状況で、大高城と鷲津・丸根は南の山を越えた向こう側。
松平信康が中島砦を襲撃してればまた違っただろうが、鷲津砦の際まで海岸線があった当時、鷲津・丸根砦の織田ラインをを超えてまでは行けなかったのだろう。
大雨が無ければ歴史は変わってたかもしれないが、、、織田信長の作成勝ちだったのがこの地に立って感じた。

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赤い城

落合館 神奈川県綾瀬市 (2020/12/26 訪問)

綾南公園に駐車し、隣接するキツツキの森を越えると稲著社があります。
この周辺が跡地とのこと。
遺構はなさそうですがキツツキの森は何か雰囲気を感じました。
落合重貞の館があったとされています。

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小城小次郎

この小さな丘の上で備前の戦国史は躍動した (2020/11/21 訪問)

「沼」であり「浮田」であるこの地は宇喜多(浮田)氏の本拠地だった頃の景観を色濃く残すようだ。この小さな丘の上で備前の戦国史は躍動し、備中高松城攻めの前後に秀吉が立ち寄ったことで日本の歴史にも大きく関わることになった。

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昌官忠

唐沢山城・佐野城日帰り③ (2018/05/04 訪問)

「唐沢山城・佐野城日帰り」の3城目(ラストです)は前橋城です。佐野城からの転戦です。
佐野駅からJR両毛線で前橋駅に到着。そこから徒歩で前橋城を目指しました。
今では笑い話ですが、Yahooナビで「前橋城」と入力したら群馬県庁近くのそば屋?に誘導されました。

前橋城は酒井重忠の居城として知られています。古くは厩橋城と呼ばれ、関東七名城のひとつです。
(残りは河越城、忍城、唐沢山城、金山城、宇都宮城、常陸太田城)
暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に悩まされつづけた城で、江戸時代中期に起きた洪水の被害で一旦は廃城となっています。その後、領民の希望もあり再築されることになりますが、これは江戸幕府が最後に出した築城許可といわれています。しかしすぐに大政奉還となり、築城わずか4年でふたたび廃城となりました。
遺構はほとんど残っていませんが、当時最新式であった日本式城郭の土塁がわずかに残っています。

現在は城址の一部が前橋公園として整備されており、隣接する「臨江閣」には前橋城の模型や年表などの資料が展示されています。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

唐沢山城・佐野城日帰り② (2018/05/04 訪問)

「唐沢山城・佐野城日帰り」の2城目は佐野城です。唐沢山城からの転戦です。
唐沢山城から佐野駅南口に戻り、レンタサイクルを返却した後、佐野駅城山公園口に移動して佐野城に着きました。

佐野城は「関ケ原の戦い」後に佐野信吉が唐沢山城を廃して山麓に新たに築いた城です。
唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されています。
理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定されているそうです。

現在は佐野城山公園となっており、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られており、その山門は佐野城の城門を移築したものと伝わっています

三の丸➡二の丸➡本丸➡北出丸と空堀で区切られた曲輪を見て奥に進み、佐野駅に戻ってきたら電車の時間になってしまい、楽しみにしていた「佐野ラーメン」を食することができませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

唐沢山城・佐野城日帰り① (2018/05/04 訪問)

会員なりたての2020/07/29 に投稿していますが、中身がないので再投稿します。

「唐沢山城・佐野城日帰り」の1城目は唐沢山城です。続100名城スタンプは「唐沢山神社社務所」で押しました。
初めての続100名城スタンプはここで押しました。

自宅の最寄り駅から佐野駅に到着。佐野駅南口のセブンイレブン裏にある「レンタサイクル」で自転車を借りて、約7Km先の唐沢山城を目指しました。
栃本公園付近までは平坦な道で良かったのですが、そこから「唐沢山のレストハウス」までの残り約1.5Kmは地獄でした。登りの坂道をひたすら自転車を押して登りました。

唐沢山城は佐野氏の居城として知られており、関東七名城のひとつです。
関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴です。

ここの見所は、やはり本丸下の高石垣だと思いますが、個人的に犬派の自分でも城址に住み着いてる猫には癒されました。攻城時間は80分くらいでした。
帰りは第二駐車場方面に南下し佐野駅に向かいました。下り坂は楽ちんでした。

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todo94

鹿児島空港 (2020/12/29 訪問)

城びと登録城郭の中では鹿児島空港に最も近い物件ではないでしょうか。登城口に標柱と説明板はありますが、整備の手は入っていません。無理矢理曲輪とおぼしき高台に踏み入ってしまいました。滑落しかかりました。

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小城小次郎

大洪水に街ごと呑まれたお城 (2020/11/21 訪問)

一遍上人絵伝にも登場する福岡市(いち)があった場所で「福岡千軒」とも呼ばれた大都会だったが大洪水による吉井川の流路変更でお城もろとも川の底に消えた。調査されれば草戸千軒に匹敵するすごい街並みが出てくるのだろう。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征⑥ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の6城目(ラストです)は足利政氏館です。古河公方館からの転戦です。
古河城/古河公方館見学後、古河駅に向かいレンタサイクルを返却し、古河駅からJR宇都宮線で久喜駅下車。そこから徒歩で甘棠院(足利政氏館)を目指しました。

足利政氏館は埼玉県久喜市にあった城館。築城年代は明らかではないが、初代古河公方の足利成氏、あるいは彼の家臣が太田荘を防衛するために築いたと考えられています。成氏死後の1496年に、第2代の古河公方に就任した成氏の嫡男・政氏の居館です。
政氏は嫡男・高基と対立し、小山城、岩槻城と逃れた末に、最終的には政氏は隠居を余儀なくされ、この館へ移ったとされます。その後、政氏と高基は和解し、1519年(永正16年)に甘棠院(かんとういん)が建立され、現在も甘棠院の境内となっています。山門脇に石碑と案内板が設置されています。
攻城時間は古河城込みで90分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征⑤ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の5城目は古河公方館です。古河城からの転戦です。
古河駅前で借りたレンタサイクルで古河城を見学した後、古河総合公園(古河公方館)を目指しました。

古河公方館は古河公方・足利成氏により築城された古河城の別館で鴻ノ巣御所とも呼ばれています。
1590年には豊臣秀吉の関東征伐の際に最後の古河公方・足利義光の娘である氏姫(氏女)の居館となり、氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは廃城となり、時宗十念寺の寺域となったそうです。

現在は「古河総合公園」として整備されており、城址碑が建てられています。また公園内には茨城県の伝統的な住宅である飛田家と中山家の住宅があります。
攻城時間は古河城込みで90分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征④ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の4城目は古河城です。小山城からの転戦です。
小山城から小山駅に向かい小山駅からJR宇都宮線で古河駅に到着。古河駅前の「わんぱくステーション」で無料のレンタサイクルを借りて、古河城を目指しました。

古河城の期限は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平(下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門で、行平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。「吾妻鏡」に記述があるそうです)が、古河の立崎に築いた城館とされている。
室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つでした。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備されました。
古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとして機能したそうです。

攻城ルートを写真から辿ると、古河駅➡頼政神社➡船渡門跡石碑➡追手門跡石碑➡獅子ヶ崎➡桜門跡石碑➡歴史博物館➡福法寺(乾門)➡坂長➡御馳走番所跡➡御茶屋口跡石碑➡ここから古河公方館(古河総合公園)を見学➡古河公方館見学後、渡良瀬川沿いの本丸跡碑確認➡古河駅に戻り、レンタサイクル返却。
石碑巡り中心の攻城でした。攻城時間は古河公方館込みで90分くらいでした。

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todo94

惟新公邸址之碑 (2020/12/29 訪問)

高麗稲荷神社がその故地となっています。立派な惟新公邸址之碑が建っていて、石碑の近くに大手門跡があります。なかなか立派な石垣が取り巻いていました。隣接地には花園寺跡があり、庭園や門などが公園として整備されています。ここには駐車場も完備しています。

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