県境を越えないゴールデンウイーク、直近1週間の感染者数が0の木曽圏域をターゲットにしてみました。県歌「信濃の国」に謳われてる木曽の桟と寝覚ノ床、それに赤沢森林鉄道で木曽デビューを果たした後、木曽福島の山村代官屋敷に立ち寄ってから、木曽福島城を攻城しました。木曽の城初攻城です。堀切や郭など、それなりに見応えがあって満足できました。
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2021/05/20 07:07
2021/05/19 17:02
2021/05/19 10:55
皐月の鹿野城 (2021/05/15 訪問)
母の法要で寺参りと墓参を済ませ城域内に在る寺なので鹿野城(別名王舎城)を少しの時間探訪しました、天守台の有る城山には登ってませんが周辺をぐるっと、近世城郭に仕上げた亀井新十郎茲矩は南蛮貿易にも手を染め自信を琉球守、城名を王舎城とし、城山の曲輪にオランダ櫓、朝鮮櫓を造るくらい海外貿易に関心が在り、治政37年間(2代政矩含め)津和野に移封されましたが鹿野町始め旧気高郡の人々に慕われて居ます。
また檀家寺は池田輝政の4男輝澄播磨山崎藩主6万8千石がお家騒動で改易鳥取藩池田光仲にお預けと成って因幡鹿野に堪忍料1万石を与えられ居住した跡だそうです、明治以降に寺地に成りましたがその頃の庭園が残って居り季節季節に見事な色合いを見せてます。
今回ルート:城山神社鳥前⇒二の丸、出丸、中学校内⇒内堀の赤い橋を渡る⇒本丸虎口、本丸、中学校グラウンドウ⇒戻り二の丸東側⇒内堀、薬研堀⇒外濠の外を東から西へ畑道を歩く⇒案内表示石碑(内堀北、旧小学校の間の道沿い)⇒元の神社鳥前。
若干曇りで梅雨の走り前の晴れ間の様子、青空で新緑の城山を久しぶりに見る事が出来ました、此処は桜の名所でも在りますので桜の頃が最高です。
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2021/05/19 08:26
自転車で痕跡めぐり (2021/05/04 訪問)
織豊期に蜂屋頼隆により築かれた城で、蜂屋頼隆の病没により大谷吉継が城主となりました。大谷吉継が関ケ原の戦いに敗れ自刃したことで、敦賀は福井藩領となり結城秀康によって代官が派遣されていましたが、一国一城令により廃城となりました。
真願寺から敦賀西小学校、八幡神社、西蓮寺、稲荷神社にかけてが比定地とされますが、目立った遺構はほとんどありません。それでも城の存在を示すものはあちこちにあるようなので、車は金ヶ崎公園駐車場に駐めたまま、積んできた折りたたみ自転車で敦賀城の痕跡をめぐってみました。
真願寺
城の北西部にあたり、敦賀城礎石と城跡碑があります。参拝者用駐車場2台分有り。また、北辺を流れる赤川は堀の名残のようです。
敦賀西小学校
城の中央部にあたり、発掘調査でも建物遺構が発見されているようです。南東隅に敦賀城とその後の奉行所、代官所、県庁の変遷について記された石碑が建てられています。
八幡神社
城の南東部にあたり、大谷吉継が奉納したと伝わる社殿の龍の木彫や、石灯籠、石鳥居があります。大谷吉継を描いた絵馬も奉納されていました。また、境内にある敦賀郷土博物館にも大谷吉継ゆかりの品が収蔵されているようですが、コロナ禍により臨時休館中だったため、未確認です。あと、郷土博物館の玄関脇に無造作に置かれている笏谷石っぽい鬼瓦や礎石が気になりました。敦賀城の遺構?
西蓮寺から稲荷神社
城の南東端で、この辺りが三ノ丸だったようです。西蓮寺西隣の空き地に三ノ丸趾碑があるとのことで訪れるも見当たらず、よく見てみると草の中に倒れていました。また、稲荷神社あたりに三の丸の名のついた地蔵尊の祠があるようなんですが、こちらは見つけられませんでした。
来迎寺
笙の川の西岸にある来迎寺には敦賀城の中門が移築されています。また、敦賀城内にあった腰高障子が伝えられているようです(未確認)。
永賞寺
敦賀城とは直接関係ありませんが大谷吉継の菩提寺であり、笏谷石による九重の供養塔が建てられています。敦賀城から東北東に約1㎞、参拝者用の広い駐車場有り。
空は晴れ渡り、暑くも寒くもなく、駐車場所に頭を悩ませる必要もなく、高低差のない街なかを自転車ですいすいと走り回るのは実に快適でした。10年以上放置していた折りたたみ自転車でしたが、今後の街なかの城めぐりに活躍してくれそうです。
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2021/05/19 08:01
2021/05/19 07:53
2021/05/18 21:29
山名氏伯耆支配最初の城、道崩れ登城断念 (2021/05/15 訪問)
前泊のはわい温泉を朝飯前に朝駆けして初登城を目指す、温泉旅館からは東郷池越しに南東はるか羽衣石城三階櫓が小さく見えるロケーション、田内城は以前より認識は有ったのですが車移動の為駐車場の事が心配で延び延びに成ってましたが城びと昌官忠さんの田内城投稿でオムロン電気工場正門脇の空きスペース駐車と有ったのでGoogleMapの航空写真で確認し在りそうと判断し出掛けました。
駐車場:オムロン電気正面から南に30m程の堤防下登り道の三角コーナー草原(N35°26'27" E135°50'14") 2台可、路駐
今回のルート:堤防下路駐からオムロン電気正門過ぎ⇒堤防を登った西に入口案内看板⇒岩阿弥陀⇒田内城案内看板が倒れた登城口⇒狭いコンクリートブロックの階段を登る⇒足幅程の狭い斜め道⇒10m程登った所で道が1m程崩れてる、滑った足跡も有り法事前に汚れたり怪我をしても仕方ないので登城を諦める。(情報とガイドは古城盛衰記さん)
途中までと周辺を撮影して終了
歴史:建武4年(1337年)上野山名城主の山名時氏が伯耆国守護と成った際、守護所を築城、完成後は嫡男師義を城主とした、のち伯耆守護に成った師義は延文年間(1356~1361年)に打吹城を築き守護所を移転、田内城は廃城、廃城されるが戦国期打吹城の出城として運用? 天文13年(1544年)の天神川、小鴨川の大洪水で「見日千軒ミルカセンゲン」と呼ばれた城下は全て流失、守護代南条氏によって城下町は打吹山麓に移された。
帰って再度調べたら今回南からの急峻なルートでしたが北ルート、南西ルートも有りそうなのでもう少し調べ次回を期したい。
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2021/05/18 18:49
宇利和利城/志紀長吉神社 (2021/05/09 訪問)
【宇利和利城】
<駐車場他>駐車場はなし。花塚山古墳前は墓地内なので駐車可能
<交通手段>バイク
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾6城目。宇利和利城は南北朝時代、楠木正成の3男楠木正儀の居城だったそうです。瓜破城とも書き、大阪人にとって瓜破の地名があるのでこちらのほうがなじみがあります。先達方の投稿で城びとポイントには何もないとのことで私も城の出城(出丸?)だった可能性もある花塚山古墳の方にのみ寄った。古墳は市設瓜破霊園内にあり車両も自由に入れ古墳前まで行けます。古墳丘陵部はフェンスがしてあり立入ることはできません。
ここもイオさんの投稿に習い、大坂の陣で真田幸村が戦勝祈願したとされる志紀長吉神社にも立寄ってみました。六文銭の勝守り等があります。
<満足度>◆◇◇
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2021/05/18 10:39
八上城の支城、土居ノ内の帰りチョイ寄り (2021/05/14 訪問)
舞鶴若狭道丹南篠山口ICを降りた辺りからナビに篠山城、八上城が画面に表示され存在の大きさが分かります、先に土居ノ内(大渕館)の探訪を終えて、西に直線2、3km程の沢田城に初登城、八上城からは北西に2、3km程、篠山城からは北東に1km程の所で直ぐ近くです。
Googleの地図で見ると篠山盆地の田圃に浮かぶ小山に築城した様子が分かります、小林寺のすぐ裏が切岸で本丸、両翼に出丸か?出羽丸を控て馬蹄形、北奥が二の丸、搦手、周囲に池が点在し外濠の名残なのでしょうか?(現地案内板の城址平面図参照)
先ずは小林寺を目指します。
駐車場:小林寺山門前に参拝者駐車場(N35°04'45" E135°13'36") 10台以上は可能。
登城ルート:駐車場⇒山門を潜り⇒本堂参拝⇒奥、本堂横の渡通路を潜り⇒長い階段を登る⇒三蔵法師聖骨塔⇒左横登城口⇒堀底道を歩き本丸、城石碑、説明板が有る⇒更に奥の北が二の丸搦手、回り込むと東の出羽丸、馬場と成る。私は本丸城石碑辺りで引き返す。
お寺さんのお陰か地元保存会のお陰か本丸までは整備され歩きやすく見学しやすい城跡です、西の出羽丸は檀家さんの墓場に成ってます、東の出羽丸は行ってません。車で行け駐車場も有り大変ありがたい。
歴史:同説明板によると沢田城は戦国の昔八上城主波多野秀治の命令で小林氏が此の地、滝山に築造したものである。小林氏は沢田及び、現在の黒岡・郡家の1100石余を領してた、小林氏4代が城主を務め初代城主長任が築城天文年間(1540年頃)、2代城主長治が父の菩提とし庵を建つ、4代重範天正7年(1579年)柏原八幡山で戦死、沢田城落城。(沢田城案内板による) 光秀の丹波侵攻で波多野氏と共に小林氏も滅亡。
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2021/05/18 08:14
眺望は抜群! ですが… (2021/05/04 訪問)
南北朝初期に足利方が金ヶ崎城攻略の拠点として築いた城で、戦国後期には金ヶ崎城の支城として朝倉氏の支配下にありましたが、織田信長の侵攻を受けて落城。そのまま廃城となったようです。
金ヶ崎城から尾根伝いに登城しました。山麓の永厳寺からの登城道が切通道として交わる大堀切からが城域と思われます。大堀切からは10分弱で見張台跡の説明板がある削平地に至ります。その一段上の天筒山頂には展望台があり、西には金ヶ崎城から敦賀湾、気比の松原を、東には天然の要害となる中池見湿地を見渡す眺望を堪能できます。展望台の奥にも休憩所やトイレ、東屋が建つ削平地が広がっていますが、公園として綺麗に整備されていて、遺構らしきものは見つけられませんでした。
山頂から中池見湿地に下りて行く途中には堀切があるようですが、下調べ不足で未確認です。また、大堀切から金ヶ崎城側に少し行った尾根道西側にあるのは竪堀? それとも自然地形でしょうか?? 下調べで縄張図を入手できず、現地の案内板に加えて旧敦賀港駅ランプ小屋や金崎宮で入手したパンフレットを参照しながらの散策でしたが、ちょっと消化不良でモヤモヤした感じが残りました。
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2021/05/17 22:51
志木第三小学校 (2021/05/15 訪問)
東武柳瀬川駅から徒歩で12分くらい。
志木第三小学校が主郭跡となります。
校門脇に碑と説明板が立っています。
その東西に曲輪が配置されていたとされますが遺稿は残っていません。
南側のmansion裏の遊歩道が堀の跡。
説明板はありますが遺構としては見ることができません。
木曽義仲の子孫と言われる大石氏の居城。
住宅地のうえ小学校ということであまりうろうろできない場所の城でした。
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2021/05/17 20:12
北陸唯一の現存天守 (2021/04/03 訪問)
独立式望楼型2重3階
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2021/05/17 19:00
眺望を楽しむのが正しい (2021/02/21 訪問)
ここが武田勝頼の手に落ちた時が、武田氏が小田原に最も近づいた瞬間だった(瞬間だったが)。そんな歴史の割にお城らしさに乏しいので、遺構探しは諦めてキノコ風展望台から富士・箱根が一望できる絶景を堪能しようではないか。
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2021/05/17 10:58
方形単郭の居館、八上城が南に聳えてる (2021/05/14 訪問)
帰省の折に寄って見ようと思って居りましたので丁度母の13回忌法要に合わせ初探訪しました、篠山城の東、八上城の北に位置する戦国期後期方形単郭の城館で現在も子孫の方が住まわれて居ます。
情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん古城盛衰記さん城びとぴーかるさんの投稿を活用しました。
駐車場:特に在りませんが今回県道305号線沿いの大渕福壽会館の狭い駐車エリアを利用(N35°04'59" E135°15'17") 一時的なら県道305線上の若干広い道筋に路駐可能かも?
所在地:兵庫県丹波篠山市大渕47(N35°04'56.8" E135°15'22.1") 県道305号線を北上して来るとそれなりに見えて来ます。
概要:車を駐めた大渕福壽会館より集落の道を100m程東に土居ノ内(大渕館)が在ります、よく整備され南側の土塁、濠、中央の平虎口に土橋を渡り屋敷門、門前に説明文が立ってます、門の左右は石垣で固め、西の土塁は隣家と接し、東の土塁は濠と更に東が畑川で外濠の役目を果たしてる北は樹木で覆われ田畑に接してる。
南には大きく八上城が聳えて居り威圧を感じる距離間、且つ田圃が広がってる。西側3km程にゴルフ場を挟んで篠山城が在ります。
先月伊賀の城廻りで点在してる方形単郭城館を思い起させて呉れました、いい感じに残って居ります。
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2021/05/17 08:19
歴史の大きな舞台 (2021/05/04 訪問)
平安末期に平通盛が木曽義仲に対するべく築いた城で、南北朝初期には恒良親王、尊良親王を奉じた新田義貞が入城して足利軍と戦うも、尊良親王と新田義顕(義貞嫡男)は自害、恒良親王は捕縛され、落城しました。戦国後期には朝倉氏の城となっていましたが、織田信長の侵攻を受けて支城の天筒山城が落城したことにより開城。しかし、浅井長政の離反により織田軍は挟撃を避けるべく撤退、金ヶ崎の退き口の舞台となりました。
天筒山から敦賀湾に張り出した半島部に築かれており、往時は三方を海に囲まれた要害で、突端の最高所に本丸を配し、天筒山方向へ続く尾根には3つの木戸と堀切を設けて防衛しています。
金崎宮バス停のある金ヶ崎公園駐車場(無料)に車を駐めて登城開始。駐車場西隣の旧敦賀港駅ランプ小屋には金ヶ崎城と周辺の城のパンフレットが置かれていますので、金ヶ崎城の縄張図をお持ちでない方はまずこちらからどうぞ。
参道の石段を上がって行くと5分ほどで金崎宮に到着。金崎宮は尊良親王と恒良親王を御祭神とし、境内には金ヶ崎城と天筒山城の模型や、金ヶ崎の退き口についての説明板が展示されています。また、お市の方が兄・信長に夫・長政の離反を知らせたとする逸話にちなんで、袋の両端を縛り小豆を入れたお守りが難関突破守として授与されています。
金崎宮から花換の小道を進んで鴎ヶ崎へ。かつては海中に突き出した尾崎だったため、幕末には台場として整備されたようですが、今は周囲も埋め立てられ、台場の遺構も見当たりません。
鴎ヶ崎から少し上がったところに案内標識があるので道をそれて行ってみると、尊良親王御陵墓見込地の碑が建てられていて、親王の自刃の地と考えられるようです。南北朝期の歴史には詳しくありませんが、太平記に描かれたようなことがこの地であったのだとすると…ひと時ただただ手を合わせてきました。
もとの道に戻って5分ほど登って行くと金𥔎古戦場の石碑があり、その先が月見御殿(本丸)です。月見御殿という名は、散在する石灰岩を庭石に見立てて月見の宴をしたとする伝承によるものだそうです。突端からは敦賀湾が一望でき、麓には恒良親王が落ち延びる際に松の木に御衣を掛けたと伝わる絹掛崎があります。
月見御殿から天筒山へ続く尾根を進むと三の木戸と堀切(竪堀)があり、その先の水の手と呼ばれる曲輪からは炭化した米が出土していて、兵糧庫があったと考えられています。また、水の手曲輪の東斜面には畝状竪堀群があり、朝倉氏の頃に設けられたもののようです。その先の二の木戸、一の木戸で金ヶ崎城はひと巡りになりますが、そのまま尾根道を進んで天筒山城に登城した後、二の木戸から金崎宮に下りて駐車場に戻りました。
遺構も期待以上にはありましたが、何より南北朝期にも戦国期にも歴史の大きな舞台になった地であり、南北朝期を描いた小説を読むなりしてもう少し知識を得た上で、また訪れたい城でした。
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2021/05/17 08:00
2021/05/17 07:04
2021/05/16 21:40
高石垣と六段壁が見応えあり (2019/08/02 訪問)
岩村城→苗木城と二つのお城を廻りました。どちらも山城のため、車でないと行かれません。
高石垣と六段壁が有名な岩村城。
間近で見ると、高さ、段々になっている形ら石の量など迫力満点でした。
スタンプは歴史資料館にあります。
駐車場が資料館ともう少し上までいける駐車場と二箇所えりますが、資料館から続く石畳の道が風情があり、オススメです。
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2021/05/16 21:20
広島城で勉強しました (2021/05/02 訪問)
緊急事態宣言前に行ってきました
お城の中にはトイレがないので、済ませてから入るといいですね
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2021/05/16 21:04
「松田城」 (2020/03/30 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
松田城は国衆であった松田氏が築いたとされる。松田顕秀は後北条氏の家臣であり、小田原衆の筆頭でもあった。松田憲秀は伊勢宗瑞以来の股肱の家臣であり後北条氏を支えた。現在、遺構の多くは高速道路により破壊されている。また、城内も畠となっているため遺構の確認は難しい。
<アクセス>
JR松田駅・小田急新松田駅 徒歩40分
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