JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の6城目は獅子吼城です。
若神子城から転戦。登城口付近空スペース(35.818320、138.467284)に路駐しました。
路駐場所から徒歩1分/150mの説明板前登城口(35.818644、138.467759)から登城しました。
最初の築城は不明ですが、平安時代には馬の産地であり、朝廷直轄の牧があったとも言われています。
鎌倉時代の末期である1320年に、信田小右衛門実正と、信田小太郎実高の父子が、家来と共に討死したと言う記録が地元の見性寺に記録としてあるそうです。
1394年~1428年には、江草信泰(江草兵庫助信泰)が、獅子吼城主として見受けられます。
この江草氏は、甲斐の武田一族で、江草家の初代・江草信景は、武田信重や武田信長の弟です。
その後、高白斎記によると、永正6年(1509年)10月23日に、小尾弥十郎なる武将が、獅子吼城(江草城)を乗っ取ったとあります。
乗っ取りですので、合戦があったとは限りませんが、巨摩郡の豪族である小尾氏から江草家の養子になり、事実上、乗っ取ったと言うことなのかも知れません。
戦国時代に小尾氏の小尾党は、信州峠の川上口の警固を行っています。
1530年前後の獅子吼城主は、今井信是・今井信元の親子で、諏訪頼満や、大井氏・栗原氏と協力して、武田信虎と敵対しています。
しかし、今諏訪の戦いで武田信虎に大敗を喫します。
今井信元は浦の城(獅子吼城)にて籠城したようですが、1532年9月に降伏し、これにより、武田信虎の甲斐統一となりました。
武田信玄の時代には、烽火ネットワークの中継基地として、重要な場所であったと考えられています。
武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」では、北条軍が占拠しましたが、服部半蔵が率いる伊賀組、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲をかけて落城させました。
その後、和睦が成立し、甲斐が徳川領となると廃城となりました。
現在城址では大規模な石塁の遺構を見ることができるそうです。
目指した登城口は途中から私有地で通行止めの説明があったので、本丸まで行かず途中で引き返しました。
それでも石積と竪堀は確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。
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