学校敷地なので不審者にならぬよう気を使って早朝散歩で見学したら、部活の朝練と重なり却って不審に見えたようだ(汗)。土岐氏守護所として西の大内と並び賞されるほどに栄えた面影は今はなく、ただ土塁の残欠が残るばかり。
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2021/01/26 18:30
繁栄を極めた面影も今はなく (2020/11/27 訪問)
学校敷地なので不審者にならぬよう気を使って早朝散歩で見学したら、部活の朝練と重なり却って不審に見えたようだ(汗)。土岐氏守護所として西の大内と並び賞されるほどに栄えた面影は今はなく、ただ土塁の残欠が残るばかり。
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2021/01/26 12:02
2021/01/26 08:12
中山城(和歌山県西牟婁郡白浜町田野井) (2021/01/10 訪問)
# 中山城は安宅本城とともに国史跡「安宅氏城館跡」を構成する城であり、安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。
中山城は室町期に榎本直光によって築かれたとされ、後に地名から田井(たのい)氏を名乗りましたが、安宅氏に攻められ被官となった後は安宅本城の支城として機能したようです。
中山城は田野井地区の小高い独立丘に築かれた館城で、北麓の登城口には説明板が建てられ、その前に車1台(縦になら3台ほど)駐められるスペースがあります。登城口から5分ほど登ると副郭北下の二重横堀(外側)に至り、内側の横堀を越えて少し登ったところが副郭です。副郭は北辺と西辺に土塁をめぐらせ、土塁の内周と外周には部分的に石積みが見られます。副郭南側の一段高くなったところが主郭で、西辺と南辺に土塁がめぐっていますが、発掘調査でも主郭の土塁には石積みは確認されなかったようです。
方形の曲輪を二つ並べて土塁で囲み、その周囲(東側を除く)に二重横堀をめぐらせた、構造としてはシンプルな館城ですが、堀幅は広く、切岸は高く、土塁は分厚く、重厚な迫力のある城でした。ただ、藪化していてよく見えないところも多く、もう少し整備されればさらに見応えが増すと思うんですけどね。
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2021/01/26 07:49
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑤ (2017/02/17 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の5城目は今治城です。湯築城からの転戦です。
今治城は2回攻城しています。(3回目を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセル)
①2017/02/17(今回) 次男と二人でクラブツーリズムのツアーで攻城
②2019/11/09 一人でレンタカーを借りての攻城(投稿済)
慶長7年(1602年)藤堂高虎により築城が開始。
慶長9年(1604年)今治城が一応完成。
慶長13年(1608年)今治城のすべて完成に伴い、高虎が伊勢・伊賀へ移封。高虎の養子・高吉が城主となる。
寛永12年(1635年)高吉も伊賀・名張へ転封となり、代わって久松松平氏定房が入城、以後、松平(久松)氏が廃藩置県まで10代230年余りにわたって今治を統治します。
水堀は鉄砲が届かないような幅を取り、石垣は高くして侵入を許さないような造りになっています.
遺構は堀と石垣だけですが、その美しさと存在感に感動します。
天守閣は美しくて立派ですがRC造の模擬天守で内部は資料館になっています.
写真は石垣を除き、少し退いたものを選んで投稿しました。攻城時間は120分くらいでした。
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2021/01/26 07:37
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」④ (2017/02/17 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の4城目は湯築城です。松山城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。
源平合戦(1180〜1185年)で、河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得たようです。
承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移したようです。
その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立したようです。
庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。
最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡します。
平安時代末期から戦国期(12世紀末〜16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となりました。
慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となります。
建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明しています。
道後温泉街近くにある道後公園で、お散歩を楽しんでいる方などもいました。
資料館で「おかご(御駕)」の折り紙をもらいました。いまも持っています。
攻城時間は75分くらいでした。
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2021/01/26 07:28
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」③ (2017/02/17 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の3城目は松山城です。大洲城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
1602年(慶長7年)伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、平山城の築城に着手しました。
1603年(慶長8年)10月に嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松前城より移ります。
1627年(寛永4年)嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、出羽上山城より移封、24万石の松山藩主になります。
1634年(寛永11年)8月に忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶します。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かります(松山城在番)。
1635年(寛永12年)7月に松平定行が伊勢桑名より転封。15万石の藩主となり、松山城に居城。
1869年(明治2年)版籍奉還。松平勝成が松山藩知事に任ぜられ、三之丸を藩庁とします。
ロープウェイを使って上がりました。降りてから少し歩きますが、天守まで見所がたくさんあり、重要文化財も多いので見学には多く時間を要します。
新型コロナで2回目(2020/11)をキャンセルしなければ、「登り石垣」の見学とライトアップ見学を予定していました。
2021年末までには実現したいのですが…。攻城時間は3時間くらいでした。
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2021/01/25 08:08
大野城(和歌山県西牟婁郡白浜町大古) (2021/01/10 訪問)
# 大野城は安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。
詳細は不明ながら、大野城は熊野水軍・安宅氏の執事を務めた大野氏の居城と伝わり、日置川の河川交通を監視する役割を担っていたと考えられます。
安宅本城から安宅橋を渡ってすぐの春日神社の裏山が大野城の城域で、春日神社の駐車場(2~3台)に車を駐めて境内に上っていくと、境内の南西部に登城口の案内があります。登城口からは2分もかからず南の曲輪南下の横堀に行き当たります。南の曲輪は東辺から南辺にかけて土塁がめぐり、北側の主郭との間は堀切で遮断されています。堀底からは主郭南端の土塁外周にわずかな石積みがあることが確認できます。主郭の西下と北下には帯曲輪が設けられ、さらに北に続く尾根にも曲輪があったようですが、北尾根は昭和期に土取り工事で大きく削り取られてしまい、見る影もありません。
ひと通り見ても30分かからない小規模な城ですが、横堀に土塁に堀切にと見どころは豊富ですので、安宅本城や八幡山城を訪れる際には、徒歩圏内の大野城もあわせてどうぞ。
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2021/01/25 08:06
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日」② (2017/02/16 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の2城目は大洲城です。宇和島城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
元弘元年(1331) 宇都宮豊房が地蔵ケ岳に城を築きます。
永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となります。
天正15年(1587)隆景が九州に転封となった際、 戸田勝隆が16万石で大洲に入城。
文禄3年(1594)朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595) 藤堂高虎7万石で板島に入城。大洲は蔵入り地となり高虎が代官となるが、すぐに大洲を居城とします。
慶長14年(1609) 脇坂安治が洲本より大洲に入城。
元和3年(1617) 加藤貞泰が米子より大洲に入城。版籍奉還まで加藤氏の治世が続きます。
時間はあったのに、苧綿櫓(二の丸)には近づけず、南隅櫓(三の丸)は見落とし。
心残りばかりの攻城でした。もう一度チャレンジしたい。攻城時間は90分くらいでした。
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2021/01/25 07:54
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」① (2017/02/16 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の1城目は宇和島城です。
自分の100名城巡りの原点は、このツアーから始まりました。
会員なりたての2020/07/29に投稿していますが、内容がないので再投稿します。(攻城日も誤っているので訂正します。2017/02/19➡2017/02/16)
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
1595年(文禄4年)藤堂高虎は伊予国宇和郡に7万石で封じられると、翌1596年(慶長元年)から築城がはじまり、160年(慶長6年)には天守が完成しています。
1608年(慶長13年)今治に転封となった高虎に代わり伊勢国から富田信高が入ります。
1613年(慶長18年)に信高が改易されると、1年間は天領となります。
1614年(慶長19年)伊達政宗の庶嫡子秀宗が10万石で入封します。
1664年(寛文4年)二代藩主の宗利が全体の改修開始(完了まで約7年かかりました)。現在残る天守も、このときに造られたもののようです。
その後は明治を迎えるまで、9代(3代宗贇、4代村年、5代村候、6代村寿、7代宗紀、8代宗城、9代宗徳)にわたって、宇和島伊達家の居城としてあり続けます。
北側の登城口から登り、郷土資料館から本丸に向かいました。
石垣は見ごたえがあります。三重三階天守の唐破風造の玄関、懸魚の写真を撮りました。
心残りは搦手門口にある「上り立ち門」を見学できなかったことです。攻城時間は50分くらいでした。
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2021/01/24 20:32
天気が良い日、お散歩に行こう! (2020/12/05 訪問)
前編:https://youtu.be/Fm-eFtbWTQo 後編:https://youtu.be/iKM5e3Cl-uM
↑この動画が参考になります。山頂は公園として整備されていて、展望台がありました。登城口も整備されていて、歩きやすいよ!
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2021/01/24 17:45
信長の父である織田信秀築城の堅固な平山城 (2021/01/24 訪問)
信信秀死後は、家督を継いだ信長が弟の信勝に譲ったが、これもまた次第に確執が深まり対決となったようだ。末盛城は街道筋を見下ろす位置にあり、重要拠点であった事が伺える。
比高は約20mと高くはないが、高低差があり、堀も大きく主郭を大きく二重に取り囲むようにある。ここも小牧・長久手の合戦時に家康が陣を置いたようで、遺構は戦国後期の感じがする。今日は一日雨降りだったが、尾張の平山城巡りは歩きやすくて丁度いい。
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2021/01/24 17:40
「守山崩れ」で有名な城 (2021/01/17 訪問)
家康の祖父にあたる清康が家臣に暗殺された地。享年25歳だったとの事。この清康さんは、武力により三河を掌握した名将で、城巡りしているとあちこちで名前が出てきます。守山崩れが無かったら、、、間違いなく歴史は大きく変わっていたはずで残念。さて、遺構は石碑が立つ場所と宝勝寺の間に大堀切が存在している。また、城の東約150mの箇所に古墳跡地に建てられた白山神社があり。その関係性がどのようだったか、宅地化が進んでいてわからないが、少なくとも出城の機能は有していたと感じた。
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2021/01/24 17:23
信長が攻め落とした城 (2021/01/24 訪問)
三河の松平氏と同じく尾張も織田伊勢守家と織田大和守家(信長の系統)があり、織田伊勢守家が築城した岩倉城であったが尾張統一を目指す信長の攻撃を受けて落城した。
その後、小牧・長久手の合戦時に家康が陣を置いた。よって、規模はかなり大きい。
ただし、現状は地形の高低差などから想像するのみだ。それでも石碑部を含めて所々に石碑や神社仏閣があって城跡散策を楽しめる。
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2021/01/24 17:12
古い感じの土塁と謎の旭城 (2021/01/24 訪問)
近年の変革が大きく、城がどの程度の規模だったのかわかりにくい。本郭があった箇所だろうか土塁が大きく打ってある。公園化しているが、高低差もあり二重土塁だったと思う。
そんな複雑な城の形状ではなく、古城的な雰囲気を感じる。公園駐車場横には旭城がそびえ立っているが、情報通りレストランだ。どうせなら主郭に建てればよかったのにと思うほど、鉄筋コンクリートで立派な建物だ。
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2021/01/24 16:09
岡崎城訪問 (2003/04/27 訪問)
過去のお城巡りを振り返り、ぼちぼちと掲載していきましょう。
今に至るお城巡りのスタートは岡崎城でした。
三河山地と岡崎平野の境の台地上に築かれた城。
東海道の矢作川の渡り場であり、北は信州飯田へ三州街道が走る、古くから陸路と河川交通の要所だったことでしょう。
城主は家康の祖父・松平清康や徳川家康(松平元康)、家康の嫡男・信康、豊臣秀次の家臣・田中吉政、そして本多氏、水野氏など。
田中吉政の時代に江戸期の基盤となる城郭の拡張整備が行われているようですね。
現在の岡崎公園はその本丸周辺曲輪と二ノ丸からなっており、更に東曲輪が駐車場、菅生曲輪がその南の多目的広場。
当時は城郭全体を回ることはなく、天守を中心に2時間ぐらいの滞在だった模様。
写真に堀や石垣を写したものがありませんが、お城EXPO 2020でもらったパンフレットによると、本丸周辺や新しく発掘された菅生川沿いに空堀と石垣がしっかり残っているようですね。
また2010年に東隅櫓が建てられており、いつかそれらを見に再訪問したいものです。
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2021/01/24 15:40
裏切りか?守ったか? (2020/12/26 訪問)
山梨県から東京の端っこに帰る途中に寄った「岩殿山城」で悩みます。
先にお伝えします。毎度の事ですが、話 それていきます(-_-;)
高速道路代をケチッて、山梨県から下道で帰ろうとグーグルをチェックしたら、大月市を通過する事が分かり「岩殿山城」に寄る、と、いつもの行き当たりばったり城攻めです。
築城時期は不明です。北条家から備えの為のお城だったようです。
武田信玄さんの家臣、小山田 信茂さんの「岩殿山城」と言ったら、武田家を滅亡に追い込んだ原因の1つでもある お話は有名です。
甲州街道から国道139号に入ると「岩殿山城」の駐車場がありました。
あった!っと見つけても、スピードを急には落とす事ができず、Uターンして着ました。
駐車場は10台位、大丈夫そうです。暗い時間に攻める方はいないと思いますが、入口に自販機がありました。念のため目印に、、、、。
駐車場から少し歩いて行くと『岩殿城入口』があります。
小山田 信茂さんの裏切りがなくても、ここで退陣します。真っ暗なので。
真っ暗、、、、。
武田 勝頼さんと一緒に落ち延びて来た夫人も、怖かったろうな。山道で足とか傷だらけだったろうに。
それを、入城拒否って!
ちょっと待て、真田さんお勧めの「岩櫃城」でも、長距離を歩く事になるから、やっぱり不安、、、。
遠くに富士山が見えて、悲しくなります。
夫人は、北条家から嫁ぎましたから。
富士山、懐かしいでしょう、、、。
小山田さんっ!!
と、怒って調べてみると大勢の敵軍から逃れて来る、武田 勝頼さんを入城させなかった事で戦火から守られた、とありました。
地元では、悪役ではありません。
小山田 信茂さん、一族の皆様も処刑されてしまいました。
どちらにしても、武田家は残念な結果です。
帰り道、甲州街道を通るはずでした。
ちなみに、小山田 信茂さんが北条家との戦いで八王子方面に抜けた間道が、後の甲州街道の始まりの1つなんだそうです。
確かにこの先の八王子方面に、小山田さんの御先祖様のお城が いくつかあります。
間道、得意だったんでしょうね。
が、ぜんぜん違う山道を走りました。
時間がかかり、グネグネ山道です。
高速道路代は、ケチらず余裕のある お城攻めをお勧めします。
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2021/01/24 15:21
臼杵城跡 (2021/01/24 訪問)
今年初のお城
運動がてら歩きました
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2021/01/24 10:29
久米城 茨城県常陸太田市 (2020/10/04 訪問)
地元の方が10年くらいかけて整備されたとのことです。
駐車場もあります。
鹿島神社が建つ部分が主郭で北と南の尾根にも展開されている。
北尾根は竜貝城と呼ばれ、沢山の堀切が切られています。
元々はここが本城で徐々に拡張されたと思われます。
南城にも多くの堀切がある他、横堀もあります。
佐竹氏北家の城で近くの山入城と睨み合っていたものと思われます。
それにしてもこの城、凄く見応えあるのに城びと未登録。
皆さんにも是非行って欲しい城でした。
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2021/01/24 10:28
この時代には無いはずの石垣を発見! (2020/12/05 訪問)
前編:https://youtu.be/wzi4HnSfR2U 後編:https://youtu.be/-4Fg7B-QHdw
↑この動画が参考になります。南、北曲輪の間にある堀切の底を歩いて南曲輪に回り込みました。南曲輪の足元に石垣が確認できます。
この城は1590年に廃城となったと看板にありました。城の石垣は信長が祖とされておりますが、この石垣は信長以前のものだと思います。一見の価値があると思います。
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2021/01/24 09:28
現在は、豊田市美術館 (2019/08/04 訪問)
現在は、豊田市美術館になっています。
かつて、ここには挙母藩の藩庁が置かれていました。
正式には挙母城ですが、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、七州城ともよばれたそうです。
隅櫓は、1977(昭和52)年再建されました。
書院「又日亭」(ゆうじつてい)は、明治まで寺部城の城内にありました。
明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定ででしたがが、1977年、隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築されました。
他に遺構らしいものは見つかりませんでした。
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