紀州攻めの後、羽柴秀吉の命により羽柴秀長が藤堂高虎を普請奉行として築いた城で、桑山氏が城代(後に城主)を務めましたが、関ケ原の戦いの功により浅野幸長が城主となりました。浅野氏の広島藩転封の後は徳川頼宣が入城し、御三家・紀州徳川家の居城として明治まで続きました。廃城令により建物の多くが撤去(移築)される中、遺された国宝指定の天守群も和歌山大空襲で焼失しましたが、戦後、市民の強い要望によりRC外観復元で再建され、現在も虎伏山の上に聳え立っています。
虎伏山に本丸や天守曲輪、山麓に二の丸をはじめとする各曲輪を配した平山城で、豊臣期には大坂を守るための城として南東側(現在の岡口門あたり)が大手とされましたが、浅野期になると、逆に大坂への抑えとして北東部に蔵の丸、下の丸を設け、北東隅の市之橋門を大手としました。豊臣滅亡後の徳川期には、御三家の居城に相応しく大規模に拡張されて西の丸、砂の丸、南の丸が設けられ、「南海の鎮」と呼ばれる巨城となりました。
和歌山城は小学生の頃にプラモデルを作ったり遠足で訪れたり、子供が小さい頃には城内の動物園に連れてきたり、40年以上にわたって馴染みの深い城で、100名城のスタンプラリーも和歌山城から始めていますし、仕事ついでのちょい寄りで(続)100名城の中で最も多く訪れている城なんですが、あまりに身近すぎて、これまでちゃんと投稿したことがなかったな…ということで、過去の登城から何度かに分けて投稿させていただきます。
3年ほど前になりますが、再建60周年を記念して天守が無料開放されていましたので、仕事ついでに登城しました。東内堀越しに天守を仰ぎつつ現存の岡口門から入ると、岡口門内側の石垣には多聞櫓に上る合坂が設けられています。岡口門から東内堀沿いに巽櫓まで続く土塀は漆喰が剥がれ落ちて無惨な有り様です。貴重な現存土塀なんですが…。
表坂を上って天守曲輪へ。和歌山城の天守群は三重三階の大天守に玄関のある小天守が連結し、天守二の門、二の門櫓、乾櫓、台所を多聞櫓で結んだ連立式で、台所には岩盤をくり抜いた埋門が設けられ、水の手曲輪に通じています(通常非公開)。天守はさほど大きくはありませんが、眼下に天守曲輪、遥かに紀の川河口を見渡すことができます。また、天守内には紀州徳川家ゆかりの品などが多数展示されています。
この日は天守再建60周年の横断幕やのぼり旗をあちこちで見掛けましたが、戦災で焼失はしたものの、図面や様々な方向からの写真が数多く残っていたため、往時とほとんど違わない姿で再建された天守群を今も虎伏山に仰ぐことができるのは嬉しいことですね。徳川御三家のお城はやはり県民の誇りです。
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