天地天皇6(667)年に築城されたと日本書紀に記される古代山城は、徹底的に石で作られた。急斜面をものともしない石塁線の連なりは、1400年以上が経過した今見ても脅威でしかない。
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2020/03/08 22:30
金田城
天地天皇6(667)年に築城されたと日本書紀に記される古代山城は、徹底的に石で作られた。急斜面をものともしない石塁線の連なりは、1400年以上が経過した今見ても脅威でしかない。
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2020/03/08 21:13
2020/03/08 21:06
2020/03/08 20:27
2020/03/08 17:47
中遠地方の重要な城 (2020/03/07 訪問)
現在の袋井市、堀越館と岡崎城をまわった。
初代今川範国の二男、分家の今川了俊が開基した海蔵寺となっている堀越館。了俊の供養塔もある。周囲は丘陵で、近くには、出丸をイメージさせる小山もあり、堅固な要塞であったと私は感じる。興国寺城に感じが似ている。今川貞世を祖とする遠江今川氏の本拠と伝えられる場所は磐田市の見付城と袋井市の堀越館の二ヶ所あるが、どちらが本城であったのか、、、これは悩む。見付城は見付端城の土塁を残すくらいで、あまり当時の状況がわからない。一方、堀越館の方はまだイメージがわく。ただ、見付城の近くには国分寺もあるため、見付城が私の中では本拠か。いずれにしろ、今川一族の中で最も偉業を残した了俊の重要な館なのは伝わってくる。
岡崎城は、築城時不明。小笠山丘陵から伸びる舌状支陵の先端部にある。曲輪二連のシンプルな構造である。現在の形状は戦国末期の堅固な要塞だ。本丸周りには深い堀があり、ニの丸から本丸に一本の土橋、私は家康の形状だと思う。第二次高天神城の戦いを前に、高天神城の対の城として馬伏塚城、横須賀城と共に改築されたようだが、資料では岡崎城が主城と言う意見もあり、私もそう感じる。船着馬のような虎口があり、残存ラグーンを取り込んだ完成度の高い城だ。
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2020/03/08 12:17
山下城
山下城のある川西市の、あるケーキ屋さんに行ったとき、驚きの情報をお店の人が教えてくれました。なんと、山下城は織田家と関わりがあるということです! 織田信長の嫡男、織田信忠の妻である鈴姫は、山下城主塩川伯耆守長満の娘だったのです。(いろいろな説がありますが、この説が一番有力だそうです。)そして、信忠と鈴姫の子はあの有名な三法師(のちの秀信)です。三法師と言えば清須会議で羽柴秀吉が信長の跡継ぎにと推した人物ですが、関ケ原の戦いで西軍についたので、出家させられ、そのお寺で亡くなったという悲運の人物です。 そんな三法師ゆかりの山下城を、市はもっとアピールしてほしいです。
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2020/03/08 10:22
現存天守が美しい 国宝・松江城へ行く (2018/06/21 訪問)
今回の旅行は、結婚記念日に合わせて名古屋から飛行機で出雲の地へ嫁さんと来ました。空港からはレンタカーで出雲大社を経て国宝・松江城に向かいました。今晩のお宿は玉造温泉。お城に滞在出来る時間は限られていましたが、二の丸・本丸跡を巡りました。梅雨時で天気が気になっていましたが、青空に天守が映えた写真が撮れて、今も私のスマホの待ち受け画面になっています。
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2020/03/08 08:29
13年来の宿願達成 (2020/03/07 訪問)
武田信玄初陣の地ということで、2007年の大河ドラマ「風林火山」で奇襲!海ノ口が放映されてからずっと行きたいと思っていた城ですが、ようやく攻城することができました。かなりの長距離を歩かなくてはならないと云うことで避けていた感じですけれども、日々ウォーキングに取り組んでいる現在の私にとってはどうってことのないレベルの山城でした。この後は海尻城も攻略。先達城が載っていて海尻城がマップに載っていないのは全く納得がいきません。海尻城、ちょっといい城でしたので。
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2020/03/08 08:17
総石垣 (2014/04/26 訪問)
感状山城は南北朝・室町期になると赤松氏一門の居城となり、足利尊氏の追討をしていた新田義貞の率いる軍勢に対し、赤松円心の白旗山城に呼応した赤松則祐がこの城に立て籠もって防戦し、50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与えることとなった。この功績により足利尊氏から感状を与えられたことから感状山城と呼ばれるようになったと云われています。
城郭の構成は連郭式・階郭式の縄張りで、典型的な戦国山城の地取りとなっており、山頂部を中心に総石垣造りで建物跡と思われる礎石群が往時のまま残されています。
感状山城は、標高301mの感状山の尾根上に築かれており、登城口は「羅漢の里」と同じで、「羅漢の里」に駐車場も完備されています。登城口から30分程で山頂に到着し、登城道も整備されておりハイキング気分で城跡を堪能できます。
コロナウイルスの影響で不用・不急の外出を控えているのと、登城するだけの元気と現金がなく、少々古いですが、自分の好きな山城の画像を投稿させていただきます。
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2020/03/07 23:32
見事な石垣の巨大城郭の大阪城址を歩く (2018/05/30 訪問)
雨の降りしきる中、大阪城を歩きました。家から一番近い名古屋市内の地下鉄駅まで車で行き、始発の地下鉄・JR中央線・新幹線・JR線2つを乗り継いで森ノ宮駅を降りて大阪城に着きました。平日に行ったので通勤・通学ラッシュと重なり大阪の満員の電車を経験しました。大阪城の大きさを感じたかったのでひとまず城内に入らず、外堀から内堀という感じでほぼ2周(内堀沿いは1周出来ないので京橋口を2回訪問)して4っの城門(玉造口・青屋口・京橋口・大手口)の堅固な守りや総石垣造りの大城郭の美しさと大きさに圧倒されました。雨降りにもかかわらず本丸内の観光客の多さにはびっくり。外国人の方が多かったですね。
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2020/03/07 22:55
2020/03/07 22:50
2020/03/07 22:41
2020/03/07 22:35
2020/03/07 22:26
たんぼ (2020/01/22 訪問)
小高い土盛りがありました。出張ついでに朝寄りました。
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2020/03/07 22:22
2020/03/07 22:17
やっと行けた♪ (2020/02/15 訪問)
年末に行ったらちょ━━━━どその日から冬休みに入っちゃってて
やっと行ってきた\('ω')/
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2020/03/07 22:16
2020/03/07 22:10
国境の城 (2020/03/07 訪問)
最大の見所は畝状阻塁から竪堀となっている南側の曲輪で、他では見た記憶がなかったので興味深く観させていただきました。主郭下の曲輪の切岸も見ごたえがあります。西側へ進むと土橋があり、馬出しのような曲輪があります。予想よりも城域が広く楽しめました。
身延線井出駅より歩いて登城しました。徒歩でのんびり歩いていたら約40分近くかかりました。車で行くなら駐車場の目の前が大手入口です。大手入口から進むと、すぐに城域になります。倒木や足元が不安定な所もありますが、概ね散策はしやすいと思います。
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2020/03/07 21:53
奥三河の四城 (2020/03/07 訪問)
三河・遠江地方で、「北遠」と言うと主に天竜川・信州街道を中心に分布している城で標高も高く、南北朝時代に活躍した城も多い。勿論その後は武田対徳川攻防の中心地でもある。「奥三河」と言うと、僕は主に別所街道沿いをイメージするが、北遠とはかなり違う雰囲気だと思っている。まず、別所街道は、豊橋から別所まで標高が200〜300程度でさほど高くなく、南北朝時代にはあまり出てこなく、築城もどれも戦国時代で、城もこじんまりとしている。
ただ、三河・遠江・信濃に接しているため、武田対徳川の攻防ではそれぞれ城を守る地元豪族達はその時々で厳しい選択を迫られた地域である。
今回は、天竜東栄線から峠を越えて、鶴ケ城→亀ケ城→別所城→裏鹿城へ行った。
さて鶴ケ城だが、今川系の高根城主奥山氏築城。ここを破られると遠州に入られてしまうが、桶狭間直後の徳川方についた別所城主伊藤氏の攻撃に対して、城主の鶴山氏は裏鹿城の日名地氏にSOSをだしたが、日名地氏は信濃に接しており対武田で精一杯で兵を出せず、守りきれなかった。亀ケ城の城主も伊藤氏だが、別所伊藤氏との関係は不明。いずれにしろ、鶴ケ城・亀ケ城とも今川方で対織田であったから一族ではなかろうか。
ところで、この四城とも中央構造線上にある。武田信玄の西侵あたりでは、このあたり武田方についたが、あまり縄張りに武田方の雰囲気を感じないのは城の構造が河岸段丘だけでなく断層の影響もあるのではないかと想像しながら回り、楽しめた。
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