永禄3年5月18日(1560年6月11日)すなわち桶狭間の合戦の前夜、今川義元は前日に沓掛城に入り、(結果的に)最後の軍議を開きました。
現在は沓掛城址公園として整備されています。
10台くらいは駐められそうな駐車場があります。
侍屋敷→本丸→二の丸→諏訪曲輪と見学しても15分くらいでした。
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2021/03/13 10:38
2021/03/13 10:32
天守 (2020/11/14 訪問)
久々に天守のある城攻め。
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2021/03/13 10:31
日本100名城 No,037 発掘、復元されている皆様に感謝です。 (2011/09/23 訪問)
■100城の37城目(初登城)
☆二泊三日北陸城攻めの1城目(一乗谷城→丸岡城→金沢城→七尾城→高岡城)
【移動手段】車:東京から中央道経由で520km
【駐車場】復原町並(北)臨時駐車場(無料)
【スタンプ】復原町並入口入場券売り場(北)。
【天気】晴れ時々曇り
【印象】☆☆ 一乗谷川沿いに広がる静かな谷間に遺構がたくさん存在しています。往時のにぎわいを想像しながら散策。無理な復元、再建をしていないところが好印象です。
【お土産】なし
【朝食】復原町並みの茶屋でお抹茶を頂く。朝から食事が出来るところがなく、やっと10時に永平寺の門前「てらぐち」でお蕎麦。相当儲かっていそうなお店です。
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】深夜東京発にて賤ヶ岳SAで3時間仮眠し、福井市内で朝湯。一乗谷ではイベント(彼岸花まつり)の最中で駐車場は臨時を含め朝から満杯でした。普段は静かな谷も、お歴々の長い挨拶が大音量でスピーカーから流されていて賑やかでした。こちらはまだまだ発掘途中のようです。CM効果で来場者が急増しているそうです。お父さん犬は東京に出張中か?丸岡へ向かいます。
【柴犬のクウ】楽しく散歩ができたワン!
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2021/03/13 10:16
日本100名城 No,036 野武士のような貫禄ありです。 (2011/09/23 訪問)
■100城の38城目(初登城)【霞ヶ城】現存天守12城の4城目
☆二泊三日北陸城攻めの2城(一乗谷城→丸岡城→金沢城→七尾城→高岡城)
【移動手段】車:一乗谷城→大本山永平寺→越前竹人形の里→丸岡で約30km
【駐車場】一筆啓上茶屋前駐車場(無料)
【スタンプ】天守内券売所(GOOD)
【天気】晴れ時々曇り
【印象】☆☆ 現存天守(現存最古)は威厳が有り、風格のある佇まいです。
【お土産】途中で竹グッズなど
【昼食】「一筆啓上茶屋」で福井県人セット・想像以上の美味!永平寺の蕎麦よりも美味しい!
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】今回の北陸城廻りのメインです。丸岡城は戦前に国宝に指定されたが、昭和23年の福井地震で倒壊。倒壊材料で再建され、現在天守は重要文化財に。桜の時期が良いようです。犬は入れません。一乗谷城○→大本山永平寺◎→越前竹人形の里○→丸岡城◎→その後、宿泊地の石川県白山へ。
【柴犬のクウ】茶屋から先は、入場禁止だワン!
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2021/03/13 10:02
日本100名城 No,035 石垣の復元が綺麗すぎて違和感あり。 (2011/09/24 訪問)
■100城の39城目(初登城)【尾山城】
☆二泊三日北陸城攻めの3城目(一乗谷城→丸岡城→金沢城→七尾城→高岡城)
【移動手段】車:宿泊地の白山から40km
【駐車場】NTT出羽町ビル駐車場(1回500円)
【スタンプ】石川門入口案内所○
【天気】晴れ時々曇り
【印象】☆☆ 石川門から入城するが、あまりに綺麗に復元された河北門の石垣に違和感がありガッカリし、城内を散策する意欲がなくなりました。
期待が大きかっただけに、姫はお怒りモード。残念!あちこち工事中(復元、再建)どうなってしまうのでしょうか?
【お土産】いろいろ買いました
【昼食】兼六園内の「三芳庵」でお弁当
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】県立美術館内の「ル ミュゼ ドゥ アッシュ」のオリジナルスイーツ(2個)はとても美味。
兼六園は人が多すぎて、風情も情緒も何も無し。姫はあまりの人の多さに人酔いする。人が少ない平日の再訪を誓う。
姫は加賀友禅がほしいようですが……。
宿泊地白山◎→県立歴史博物館◎→県立美術館○→兼六園△→金沢城公園△→県立伝統産業工芸館○→なぎさドライブウェイ○→和倉温泉
【柴犬のクウ】5時間待ったワン!
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2021/03/13 07:04
北総線沿線日帰り攻城⑥:花輪城(ラスト) (2019/05/02 訪問)
松戸城➡松戸駅➡流山駅下車。そこから徒歩15分ちょっとで花輪城跡・琵琶首観音堂跡説明板前(35.867604、139.903216)に着きました。
花輪城は16世紀戦国期に松戸市小金の大谷口城を本拠地として、周辺一帯を支配していた高城氏に属する城でした。花輪城は高城氏が滅亡した16世紀末には、その役割を終えたと考えられています。
築城年代は定かではないが、高城氏の家臣・平本主膳正定虎によって築かれたと云われる城です。定虎は高城氏の家臣田島時定の妹を室としていました。
現在は「花輪城址公園」として整備されており、遺構としては土橋のかかる空堀や土塁の痕跡が残されています。
また江戸時代中期に建てられた琵琶首観音堂の礎石や基壇が残っています(琵琶首観音像は流山市内の西栄寺に安置されています)。
流山鉄道とほぼ平行に走る大通り沿いにあります。
空堀と土橋が遺されていて、江戸時代にあった琵琶首観音堂跡がありました。
やや高台にあるこじんまりとした公園でした。
攻城時間は25分くらいでした。
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2021/03/13 06:55
北総線沿線日帰り攻城⑤:松戸城 (2019/05/02 訪問)
相模台城から徒歩10分ちょっとで千葉大学園芸学部校門前(35.775935、139.898690)に着きました。
その後、戸定が丘歴史公園(35.778113、139.899336)に向かいました。
松戸城の築城年、築城者などは明らかではありませんが、15~16世紀に原氏や高城氏の支配下にあったことは間違いないようです。
長禄・寛正年間には古河公方足利成氏と堀越公方足利政知や関東管領上杉房顕が関東の各地で闘争を起こしていて、この時に古河方の下総千葉氏家臣原信濃入道とその子息原八郎は将軍足利義政の命令で幕府方の上杉氏と応じ、松渡城(松戸城)に入ったそうです。
その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦では、北条氏綱・氏康軍が布陣したと考えられています。
小弓公方滅亡後は小金城の支城として使われましたが、1590年(天正18年)の「小田原の役」で小金城の開城とともに廃城になったと推測されています。
明治時代に入ってから、第15代将軍・徳川慶喜の舎弟で水戸徳川家第11代、徳川昭武(あきたけ)の別邸が置かれ、現在は「戸定が丘歴史公園」として整備されています。
こちらも急な高台なので、お城の雰囲気はあります。戸定邸を見るだけでも楽しめると思います
千葉大学校内には入れませんでしたが、戸定邸で藤まつりやっていました。
攻城時間30分くらいでした。
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2021/03/12 22:47
なかなか味わえないスケール感 (2020/12/12 訪問)
車で楽々上がれる山の上は広大な公園となっているがその全領域が茂木城。二郭からその全貌を見上げることができる巨大な主郭は切岸に守られ鉄壁そのもの。このスケール感を味わうだけでもこのお城を訪ねる価値はあると思う。
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2021/03/12 16:03
やっぱり凄い安土城 (2021/03/10 訪問)
さまざまな石垣の連続、規模に圧倒された一日でした。また、かっては琵琶湖に突き出た、湖に浮かぶ水城のように見えたというから、なんという美意識の持ち主か、凄い人であったかと驚嘆です。
下山途中にある三重塔、仁王門は虫に食われて、屋根には落ち葉がつもり、朽ちかけているようなのが気にかかりました。
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2021/03/12 12:46
2021/03/12 08:15
歴史の中心地 (2021/02/20 訪問)
(山麓編から続く)
巨石で築かれた黒金門からは主郭部です。伝長谷川邸に寄り道して織田信雄公四代供養塔に手をあわせてから二の丸へ。見事な野面積みの高石垣を眺めながら二の丸に上がると、羽柴秀吉が織田信長ゆかりの太刀や烏帽子、直垂などを埋葬したとされる織田信長公御廟があります。「麒麟がくる」を見終えて間もない頃だったので、感慨もひとしおです。
そして本丸へ。地面から見えている石列は本丸御殿の礎石でしょうか。本丸は天主台、本丸取付台、伝三の丸の石垣に囲まれ、東虎口や南虎口の先にもまだまだ曲輪は続いているようですが、見学できるのはここまで。本丸取付台から天守台に上がると、写真でよく見るあの礎石群が並ぶ光景が! ここにかの豪壮華麗な天主が建っていたかと思うと不思議な感覚です。今いるこの地がまさにあの時代の歴史の中心地なんですよね…。
主郭部を後にして摠見寺の本堂跡や三重塔、二王門を見学し、百々橋口…へは下りられないので、伝羽柴秀吉邸下段を経て登城口に戻り、100名城のスタンプを押して帰途につきました。
安土城といえば、100名城スタンプラリーを始めたばかりの頃のことが思い出されます。当時の私は「城=天守(櫓)」であり、天守や櫓などの建造物がない城は「城」でなく「城跡」という認識でしたので、歴史的意義を考えれば安土城が100名城に選ばれるのは至極当然だとは思うけど、あんな何も残っていない城跡に行ってもなぁ…と思っていました。この圧倒的な総石垣をつかまえて「何も残っていない」って…ねぇ(笑)
ともあれ、石垣にも心惹かれるようになった今の私には大満足の安土城でしたが、未整備で見学できないところもまだまだたくさんありますし、令和8年の築城450年に向けて滋賀県で「幻の安土城」復元プロジェクトが進められているようですので、今後の整備の進展を楽しみに待ちたいと思います。
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2021/03/12 08:10
2021/03/12 06:59
2021/03/12 06:31
北総線沿線日帰り攻城④:相模台城➡城びと未登録(千葉県千葉市) (2019/05/02 訪問)
葛西城➡青砥駅➡松戸駅下車。そこから徒歩5分で相模台公園登り口(35.781207、139.901423)に着きました。
相模台城は1241年(建長元年)房総三国守護で第六代執権となった北条長時が館を構えたことに始まるそうです。
その子久時、久時の子守時と続き、嘉暦年間に十五代執権で北条得宗家最後の執権となった北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、この地に居住したため「相模台」と呼ばれるようになったそうです。
鎌倉陥落後、相模台城も陥ち、1359年(延文4年)、足利尊氏の家臣で下野出身の芳賀兵衛入道が在城したが、翌1360年(延文5年)には新田義徳に奪われ、その後和睦して一時廃城になったようです。
1538年(永禄7年)の第一次国府台合戦では、里見義堯らから北条氏綱・氏康父子の渡河中に攻撃することを進言されたが、足利義明はこれを聞かず、けっきょく相模台地で合戦となり、足利義明は討ち死に、小弓公方は滅亡します。
氏綱はその勢いのまま小弓城、真里谷城を攻略すると下総まで北条氏の勢力を広げることになりました。
その後は小金城の支配下となりますが、1590年(天正18年)の小田原の役まで城郭として取り立てられていたかどうかは定かではないようです。
現在、城址は相模台公園となっており周囲は宅地化が進み遺構はほぼ残っていません。
松戸市立相模台小学校や千葉地方法務局に土塁が一部残っていますが当時のものかは不明だそうです。
急に高台となっていてお城の雰囲気はありますが、遊具のある公園でした。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/03/12 06:26
北総線沿線日帰り攻城③:葛西城 (2019/05/02 訪問)
国府台城➡矢切駅➡青砥駅下車。そこから徒歩15分で御殿山公園(35.755143、139.854667)に着きました。
鎌倉時代に桓武平氏の流れをくむ葛西氏が城館として築いたという伝承もあるが、その詳細は不明だそうです。
確実なところでは、関東地方における享徳の乱において旧利根川筋をはさんで西側に上杉・幕府方、東側に古河公方の勢力が対峙する情勢のなか、15世紀中葉に関東管領家の上杉方の城として築城されたと考えられています。
下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や北条氏によって争奪されました。
北条氏康が里見氏を攻略した国府台合戦の際には北条氏側の最前線として利用されました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐では戸田忠次らによって攻められ落城しています。
その後は廃城となりますが、徳川家康の関東入封後はここに「青戸御殿(葛西御殿)」と呼ばれる陣屋が建てられました。
この陣屋は3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されましたが、明暦の大火(明暦3年(1657年)頃)で焼失した江戸城再建の資材に利用するため破却されています。
現在は城址の中心部を南北に環七通りが横切っており、東西それぞれの城郭跡が「御殿山公園」「葛西城址公園」として整備されています。
葛西城址公園と御殿山公園とに分かれていますが、自分は御殿山公園のみ散策しました。
御殿山公園には、発掘の出土品の写真や青砥藤綱城址の城址碑がありました。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/03/12 00:14
地元の公園ですね! (2021/03/10 訪問)
平日に何とか取れた有給を使って訪問しました。
遺構はほとんど残っていないようですが、天守閣?風の展望台?や、まあまあ広い池などあって、地元の憩いの場になっているようです。
小さいお子さん連れの家族や年配の方まで、いろんな方がみえていました。
往年の形は残っていなくても、小さいうちにお城のある公園で遊べるっていう経験は悪くないと感じました!
余談てすが、僕の生まれは岐阜なんですが、庭園内に岐阜県根尾村から寄贈された薄墨桜があって驚きました。
こんなところで岐阜と繋がってたんですね、
もう少し暖かくなってから来たらキレイだったでしょうね~
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2021/03/11 23:52
崇神コースより (2021/03/11 訪問)
南城と北城があります。
南城
龍王山城山頂にあり、主郭からの眺望はすばらしい。北城に比べると規模は小さいですが、主郭の東側に残る堀切は見ごたえがあります。
北城
南城に比べ規模が大きく遺構も多く残されています。ただ未整備な状態で散策するのに難渋しました。掘割と書かれた案内板の背後に堀切はすばらしいのですが、道が明瞭ではなく苦労しました。畝状竪堀も藪でわかりにくかった。井戸と縄張り図にありましたが、見つけられませんでした。石碑のある所から登城して、西の大手丸方面から帰ってきました。
井戸跡はわかりませんでしたが、龍王山は山頂付近でも湧水が多く認められ水の手には苦労しなかったと思います。
登城ルートは天理ダムから舗装された道を登って来るルートと崇神コース、長岳寺コースがあります。天理ダムからの道は車で城址近くまで上がって来くることができ駐車場もあります。原則として山城は歩いて登城(例外は沢山あります)することにしていますので、崇神コースで登り長岳寺コースで降りてきました。徒歩で行かれる方は崇神コースが歩きやすいと思います。片道1時間くらいです。写真は前の4つが南城、それ以後が北城です。
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2021/03/11 23:31
黒塚古墳 (2021/03/11 訪問)
JR柳本駅から徒歩3分くらいの所にある黒塚古墳が城址です。城址に関しては、案内板などはありません。
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2021/03/11 20:29
急斜面に美作の「美」の字が灯る (2021/03/07 訪問)
城びと先達のレポートの通り、「宇喜多の捨て嫁」にも書かれた、宇喜多直家の厳しい処世の舞台である。三星と言うのも珍しい名前と思う。韓国の巨大企業のSamsung(三星)には苦労させられた。
城主の後藤勝基の墓の後ろに登城口の表示があり、ピンクのテープ表示もあるが、途中から道がわからなくなる。北の丸は中腹よりも低い位置にあるので、直登でもOK。
北の丸には、畝状竪堀や横矢がかりの土塁がある。さらに、北の丸から、二ノ丸、三ノ丸への登り口への緩い斜面には登り土塁なるものも。
城の名前の三星は、三つの頂きがあることから来ていると。頂きは、西から一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と東西に並び、同じくらいの高さである。山体は堆積岩で、麓の川が激しく浸食し、急峻な斜面を作っている。二ノ丸下の斜面は、特にそそり立っており、そこに、「美」の形に灯り装置が並べられている。そそり立っているから、麓から字として見えやすい。夏には、天の川の「天」の灯りになるとのこと。
訪問日は、地元の方による、草刈りが行われていた。草刈りの範囲は、麓から後藤勝基の墓までのようだった。城域には、表示がたくさんあり、また、その中身も思い入れがある。ただ、だいぶ年期が入って、読みにくかったり、倒れていたりするのが残念。
二ノ丸から三ノ丸とその周辺は、探索しやすいが、二ノ丸から西への一ノ丸は入口が雑木林で分かりにくい。
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2021/03/11 08:15
魅せる城 (2021/02/20 訪問)
家督と岐阜城を嫡男 織田信忠に譲った織田信長が、京と北陸、東海に睨みをきかせ、琵琶湖湖上交通をおさえる新たな拠点として、丹羽長秀を総奉行として築いた城で、総石垣と地上6階の壮麗な天主を擁し威容を誇りましたが、本能寺の変での信長の死により明智秀満が入城し、山崎の戦いの後、天主と本丸は謎の焼失をとげました。清須会議の後は織田秀信(信忠嫡男の三法師)が二の丸に入城しましたが、羽柴秀次の近江八幡城築城に際して城下町ごと移転して廃城となり、以降は信長の廟所として摠見寺により守り伝えられてきました。
安土山の頂部に天主台を擁する主郭部を、南麓に大手道と両脇に雛壇状の曲輪群(家臣団屋敷跡)を、百々橋口からの南西尾根に摠見寺を、その他 全山に数多の曲輪を配した巨大城郭ですが、残念ながら現在 見学できるのはその一部に限られています。
南麓の駐車場に車を駐めて登城開始。有料エリアに入る前に大手三門や南山裾帯郭、西側上段郭、北上段郭と発掘調査に基づき復元された石塁や虎口などを見て回りましたが、説明板も充実していて、これだけでもなかなかの見応えです。有料エリアに入ると、山上に真っ直ぐのびる石造りの大手道と、両脇の家臣団屋敷跡の石垣が壁のように聳え立っています。写真では何度も目にしていても、実際にその場に立ってみると開いた口が塞がらないような圧倒的な迫力です。さすがは見せる(魅せる)城ですね。…と言っても、伝前田利家邸も伝羽柴秀吉邸も見せかけだけの居館でなく、隅櫓や櫓門、枡形虎口に蔀石塁まで備えた実戦的な造りで、大手道の両側を守っています。
大手道の石段に転用された石仏を数えたり、摠見寺仮本堂(伝徳川家康邸)の鐘を撞いたりしながら登って行き、伝武井夕庵邸、伝織田信忠邸を抜けると、いよいよ主郭部です。(続く)
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