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前ちゃん

18切符、スタンプ (2020/03/10 訪問)

雨ニモマケズ、続100名城スタンプを押しに

雨がキツくて、温泉は断念

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カズサン

【信濃・吉岡城】長野県下伊那郡下條村 舌状台地崖城 (2016/03/21 訪問)

 平成28年3月下旬大河ドラマ真田丸も始まり上田真田郷に行こうと城廻り、浜松より地道を北上して国道151号線三河、信濃の国境の新野峠(標高1000m超)を越えて下條村151号線沿いに在る吉岡城に寄りました、情報、ガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんに依ります。
 国道151号線を北上して右手土塁上に大きな立て看板が在りそこを右手に曲がり151号線に架かる橋を渡り車は公園駐車場へ、城域は東西の連郭式、南、北に川が流れ舌状段丘断崖、西奥に詰の曲輪(神社鎮座)西、東堀切、東に本郭(公園、駐車場)東半分が151号線で切断されてる、本郭と2郭の間に堀切、東に一ノ門跡、2郭、枡形跡、城下町と続く。

 吉岡城は小笠原氏の流れ下條氏を称して110年程続いたが天正15年(1587)に改易となり没落。

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せんちゃん

大坂城 (2020/02/07 訪問)

御城印は2階の事務所で

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todo94

県史跡 (2020/03/07 訪問)

広々とした正安寺の上の駐車場に車を駐め、歩いて出丸にアプローチ、搦手曲輪から本丸にとりつきました。本丸、二の丸、三の丸と雛壇状に曲輪が連なっています。県史跡に指定されるだけの城だと感じました。

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朝田 辰兵衛

文殊山城(愛知県新城市) (2020/02/23 訪問)

とてつもなく長い路線バスの待ち時間をどう過ごそうかと思っていたところ,あらかじめプリントしておいたグーグルマップに「文殊山城」の表記を見つけました。縮尺的にアクセスルートまではわかりませんでしたが,南西側麓の善福寺から登れると予想しました。
まずは,そこに行ってみようと。すると,途中「高原のパン屋 麦の家」南西側T字路に案内標識がありました。北西方向に折れて約200mほど進むと善福寺の石段があり,ここにも案内標識がありました。山門をくぐると獣柵がありますが容易に開けられます。そこからはトレッキングコースのように整備されています。約15分で文殊山城到着。
標高:661m,比高:約110m。
あとで調べたら,北東方向から車でもアクセスできるようです。
ちょうどこれで下山すると,つくで手作り村でのランチにベストなタイミングでしたので,尾根伝いに案内標識が出ていた塞ノ神城,麓に案内標識が出ていた石橋城はスルーしました。
そうそう,どうやら新型コロナウイルスの感染は回避できたカンジです。2週間経過。

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カズサン

ミツバツツジが咲き誇ってる山麓 (2016/03/18 訪問)

 平成28年3月中旬ミツバツツジで有名な宇津山城山麓に在る正太寺にそろそろミツバツツジが満開かなと浜名湖西岸に在る宇津山城探訪も兼ねて出掛けました。
 正太寺の住職が寺の裏山に88ヶ所廻りとミツバツツジを移植され今日の名所に成りました、桜の咲く前がミツバツツジの咲き誇る時期何回か訪ねてますが裏山ピンクに覆われて素晴らしい景観です。

 ナビに正太寺をセットすれば山門下に導かれます、駐車場は湖岸の寺の駐車場と山頂墓地の駐車場と二ヶ所在りますがミツバツツジの満開の頃は湖岸の駐車場に停めて正太寺を参拝し88ヶ所廻りと咲き誇ってるミツバツツジの傍、花の下を廻るコースがお薦めです。

 宇津山城は北東に延びる正太寺鼻城域部と手前南北の山頂部に分かれ今回は山頂部の城域を一部回る、墓地の奥北に入口と長い土塁が在り墓地が1曲輪、土塁を北に越えて2曲輪、2曲輪を西、北に囲むように3曲輪、3曲輪西に石積の低い土塁が連なってる、西下に段々に曲輪が有るようですが良く確認できない、2、3曲輪の内部は竹藪状態で進入躊躇します。

 宇津山城は遠州進出を図った今川氏時代築城され北東部岬部分が中心、徳川氏が遠州進出の頃は境目の城として山頂部が中心で3曲輪の西側の石積土塁は銃座塹壕の様な役目の為ではないか?と余湖図コレクションさんの俯瞰図、解説に載ってます。

 これからミツバツツジの良い季節です城探訪と合わせてお出かけ下さい。

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だめなこ

わかりにくい 汗 (2020/03/07 訪問)

ナビ設定して行ったけど入り口がわかりにくくて
少し探してしまったο

てか 探しても探しても御城印がわかんなくて
山城サミット?でしか販売されてなかったのか
わかんないけどとにかくSHOCK(꒦ິ⌑꒦ີ)

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だめなこ

今ちょーど瀬戸に住んでいるので (2020/03/01 訪問)

近い!ってことで
今日は明智城址と久々利城址を散策♪

駐車場が遠くて後回しにしちゃったから
明智城の御城印は貰えなかった( •᷄⌓•᷅ )

なんかインスタをやってるらしいけど
地元?近隣?の主婦の方々が販売してくれているみたいで
3時までとかしか売られていないようですο
それも 日によって時間帯が違ったりするから
確実にその日に欲しいなら
インスタで時間を確認してからをオススメします!

ちなみに6日後の土曜日に
御城印のためにまた連れてきてもらえた\('ω')/

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登り石垣

高切岸の山城 (2020/03/08 訪問)

北陸自動車道の金沢森本インター付近から見えます。
比高100メートル、高切岸や畝状竪堀が特徴です。
一部は遊歩道として整備されていますが、夏場は
藪化するため、避けたほうが良いかもしれません。

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BUGTI

比企城館跡群のひとつ (2020/03/07 訪問)

これで比企城館跡群の4つの城を制覇できました。有名な石積みは、今にも崩れそうで危なっかしい。関東では貴重な石積だけに、いつまでも残っていてほしいと願うのみ。郭2では木を切り払う作業中でした。これも城址が見やすくなるのでありがたい。腰越城と同じくいろいろな技巧が使われていて、飽きることがない。麓の大福寺からそれほど労せず主郭までたどり着けるので、見学には良い城です。

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ぴーかる

波々伯部氏 (2020/02/11 訪問)

【淀山城】
<駐車場他>駐車場はなし。城の東側の池の北東隅の道脇に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>竪掘・主郭石積み
<感想>日帰り光秀丹波攻城の旅3城目。この城は波々伯部(ははかべ・ほうかべ)氏の城で、波々伯部氏は古く鎌倉時代の初め頃からその名が出てきている。戦国初期には山名氏・細川氏に属した。波多野氏が台頭してからは波多野氏に属した。光秀の八上城攻めの時には当主の光吉は八上城に籠ったが、落城後帰農し酒造業を営んだそうです。

登城口は池の北東にあり、二回金網を開けて入ります。一回目を開けると左手に案内板があります。案内板の左手に金網を一本つづ外す入り口があるのでそこを入ると城跡になります。

城跡は大池の西側に位置した山城になっているが平山城程度で比高はさほどない。小さな主郭を中心に小さな腰曲輪、帯び曲輪が取り巻いて北側に広い二の丸曲輪がある。東側斜面に二の丸の横堀から下へ落ちる大竪掘りが見応えある。細い竪掘りは西斜面を除いて随所にあるようだが、埋まっていてわからなかった。 主郭跡南方向から虎口にかけて石積み遺構が見られた。八上城がだいぶ近くに見えます。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

風がなければ見頃。 (2020/02/23 訪問)

藤原 秀郷さんの末裔とされる赤堀氏の居城「赤堀城」で、またしても土埃を受けました。
赤堀さんは、上杉 謙信さん配下の由良氏に仕えました。
謙信さんの死後、上杉家は御館の乱で跡目争い。
ゴタゴタしている間に北条家が侵攻してきました。
もう赤堀さん、上杉家・由良氏の援軍は諦めて「赤堀城」を明渡しました。
「赤堀城」は北条氏と運命を共にします。
県道76号に写真①の看板がありました。ちょっと高い場所で回りの木が邪魔するかもしれません。
実は帰る時に、看板に気がつきました。
細い道(車は入れません)を抜けると、畑がありました。その向こうに土塁、高さがあります。
畑の真ん中を通らせてもらい土塁に到着。説明板があります。土塁は少し、ずれてます。
虎口の外には掘り跡です。
畑の近くなのに、とても良い状態で遺構が見られます。雑草も藪も、この季節ありません。
が、強風で畑の土埃が凄かったです!
感動しても口を開けてはいけません。

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カルビン

あの時俺は若かった。。。 (2015/03/20 訪問)

深夜0時に家を出て2泊3日の近畿地区ツアー敢行した初日、7ヶ所目に立ち寄ったのがここ膳所城(元気だったな、あの頃w)
今にして思えばもっと効率良い場所いっぱいあったんですが、何故ここ選んだんだろう。。。
(ちなみにこの1つ前には観音寺城攻略してた)

目の前が交通量の多い湖岸道路でしかも駐車場が解らず、申し訳御座いませんが正面の市民センターに駐車させて頂きマッハでの見学となりました。
後で知りましたが、駐車場隣接していたんですね・・・何回も通って気付かんかったorz

琵琶湖の湖面上昇した為か、現在遺構は坂本城や長浜城同様多くが湖下に沈んでしまったようで、城址公園内と湖岸沿いにその名残を残すのみとなっておりました。

またリサーチ不足で移築門が近郊に複数あるのを知ったのはつい最近で、そこも完全に見落としております。。。膳所城の半分も解って無いなorz


この後観音寺城→膳所城→日野城→蒲生氏郷像⇒水口城で日没時間切れとなってしまいましたが、膳所城止めて水口岡山城(見学予定していた)先に行けば水口城の資料館も時間間に合ったんだろうな。。。と、事前のルートをちゃんと確認してればと後悔しております。

膳所城、公共交通機関(京阪石山線・膳所本町駅から500mのところ)でも全然行けるので、後の祭りで御座います(涙)

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カズサン

香川画伯俯瞰図に魅了され探訪、堀、土塁が凄い (2016/03/17 訪問)

 香川元太郎画伯の小長井城想像俯瞰図を確認し又日本城郭協会理事の加藤理文氏の講演で小長井城の認識を深め探訪したくなり地道を大井川沿いに北上して川根千頭駅東大井川対岸の徳谷神社、本川根町B&G海洋センター駐車場を目指し駐車し探訪開始。

 駐車場から余湖図コレクションさんの俯瞰図を頼りに神社北の入口から西山手の1号堀、2号堀を廻って3号堀丸馬出、4号堀角馬出、土橋を渡って神社が鎮座してる本丸、東に向かって階段式に二の丸、三の丸、三の丸井戸、神社鳥居の在る虎口、東に5号堀、道を隔てて天竜川の断崖、竪堀が描かれてましたが現地では確認できませんでした、北の曲輪は現海洋センター二段の曲輪だった様です。
 
 小長井城は土岐氏の流れで小長井氏を名乗り築城し今川氏に属し武田氏進攻で武田に降り武田氏指揮で大改造し武田の特徴の三日月堀丸馬出、、角馬出連続構えを作り出した、堀、土塁と見応えが有ります。

 駐車場の在る海洋センターにお邪魔して小長井城のパンフレットを頂く。

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カズサン

カーナビ登城大失敗で麓の三之丸探訪 (2016/03/02 訪問)

 大田原市の黒羽城を終えて時間もまだ少し有り登城口事前調査して無かったのですがカーナビに烏山城目的地にして地道を南下、近くまで来てナビの示すまま林道に入り城跡に近づいてるのですが道が狭くなりおかしいと気付きましたがUターン出来ず、バックしUターン出来そうな所で何回か切り返し両路肩はぬかるんで居りスリップし後輪前輪泥だらけ。
 やっとの思いで抜け出し、近くの那須烏山市文化振興課を訪ね烏山城の登城路情報、資料、小冊子を聞き頂く。暮れては来るし今回の疲労で比高100m少しだそうですが七曲り急登で登る気力も湧かず登城口確認とその近くに在る三の丸エリアを探訪して終わる。
 烏山城は関東エリアで石垣造り、石垣の残ってる城跡として有名なので何時か体力的に充実してるタイミングを狙って再挑戦したい城です。

 資料によると烏山城は那須一族沢村資重の築城応永24年(1417年)、沢村資晴の時小田原合戦参陣遅れで改易、小田原征伐後織田信雄が国替えに従わず一時2万石で居城も後秋田に流罪、成田氏、松下氏、堀氏と移り堀親昌の時東山麓に三の丸(居館)を築く万治2年(1659年)以後板倉氏那須氏永井氏稲垣氏大久保氏と代わり大久保氏約140年で明治と成る。

 三の丸と七曲り登城口は那須烏山市役所から北に約500m程案内看板が有る西山麓に入り寿亀山神社下に駐車場、駐車場を南に谷筋に入ると七曲り登城口と成る。三の丸は神社及び神社下から市道まで曲輪が段丘的に連なってる。

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todo94

2度目の続日本100名城スタンプラリー・12城目 (2020/03/07 訪問)

新型コロナウイルスの影響で五稜郭であいの館は3月15日(日)まで休館となっていますが、スタンプとリーフレットは外に出して頂いてあるので問題ありません。ただし、龍岡城を俯瞰することのできる田口城は、昨年の台風19号による土砂崩落で登山禁止となっています。残念無念。悔しいので隣の公園の五稜郭の写真を撮っておきました。また、今回初めて枡形をチェックすることができました。

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どう

白石城 (2019/11/04 訪問)

子供の頃に来た以来の訪問。
その頃はまだ復元されていなく、今回訪問しても全く懐かしい感じにはならなかった。しかし逆に木造復元のお城は新鮮で楽しめた。
今回は同僚と訪問なので三階櫓のみの訪問だった。近いうちににもう一度行きたい。

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まーやん

武田信玄上洛断念の地 (2019/02/17 訪問)

病に侵された武田信玄が最後に攻めた城として知られている。
飯田線の野田城駅からは少し離れている。
豊川の北側に位置し菅沼定盈が守った堅固な城だが、攻めあぐねた武田信玄は金山衆に水の手を絶たせて開城に導いたとのこと。
郭は連格式で、三の丸、二の丸、本丸と堀切が見れる。城内から信玄を狙撃したという説明書があり興味深い。

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まーやん

山湊馬浪 (2019/02/17 訪問)

長篠の戦いで勝利した奥平貞昌の築城で、新城市の名の元になった。本丸跡は小学校となり、南東に微かに遺構が残り石碑がある。(もうちょい藪の手入れして 汗)
奥平氏の後、菅沼氏が陣屋としてこの地を治めた。
豊川の水運、伊奈街道の陸運で多くの人が行き交い栄えた様は「山湊馬浪」と称された。
ご多分に漏れず廃れた地方都市となっていた新城市では、山湊馬浪を再現すべく毎月第4日曜日「軽トラ市」を開催され、日本三大軽トラ市に数えられる程の盛り上りを見せている。
過去からのストーリーがいいではないですか。
のんほいルロット、頑張れ新城!

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小城小次郎

金田城

天地天皇6(667)年に築城されたと日本書紀に記される古代山城は、徹底的に石で作られた。急斜面をものともしない石塁線の連なりは、1400年以上が経過した今見ても脅威でしかない。

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