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チェブ

城びと未登録のお城攻め「左入城」 (2021/08/15 訪問)

以前、カルビンさんが投稿してくれた「左入城」に行きました。

投稿を見た時、『あんな所に石碑があるなんて!』と驚きました。多分、「左入城」の石碑前を100回以上は通っていたからです。
私の住む東京の端っこ、車を運転する人は『中央高速道路の八王子IC近くの村内家具の前』と言えば『はいはい』と分かってもらえます。
そんな訳で、大雨の中、「左入城」出陣です。

ナビに頼らなくても大丈夫ですが、「左入城」よりは「村内家具」や「村内美術館」の方を選択した方が安心安全です。
私、村内家具の駐車場に車を置きました。
ちなみにお向かいは『お値段以上♪ ニトリ♪』です。大きな駐車場がありますよ。買い物ついでに石碑をパチッと撮影するくらい大丈夫だと思います。

大雨と石碑の前は交差点で、信号待ちしている方々がいるので早急に、パチッ。横からパチッ。
退陣です。

「左入城」は続100名城の「滝山城」の支城とあります。東西400m 南北175m 深さ9mの堀があったようです。
うーん、石碑の前は国道16号。想像が難しい。
裏手は谷のようにも見えるし、「滝山城」までは山を開いた道。ありそうな気になってきました。
中丸淡路守の居城と石碑には刻まれてました。
中央高速道路は山梨県に続きます。
武田家の進攻に、守り重要ポイントの場所になったのかもしれませんね。

そして、この石碑は17代当主 村内 道昌社長が建立してくれてます。
とても歴史のある家具屋さんなので、自社の石碑を建てても良いくらいなのに、、、、嬉しい限り。歴史は大切にしなくてはなりません。
村内家具はとても品質の良い家具が並んでいました。
大雨にも関わらず、お客さんが入ってます。

帰り道、「滝山城」近くを通ったら駐車場に車がありました。
いくらなんでも、どしゃ降りの山城は危ないよ~と城仲間の心配。モラルある『城びと』でありたいものです。
、、、と、たまに お城に失礼な投稿をしているのですが、、、、。

さてさて、カルビンさんの投稿のお陰で、また素晴らしい先人に出会いました。

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にのまる

佐竹さんのお城 (2021/07/02 訪問)

 大手門の堀の蓮は見頃にはまだ少し早かったのですが、一面の緑が眩しい広大なお堀は清々しく爽やかで気持ちのいい眺めでした。黒門跡から入城し、佐竹史料館は帰りに寄ることにして長坂を上って御物頭御番所へ。ここまでくる間にもかなりくねくねしています。
 御物頭御番所は藩政時代から唯一残る貴重な建物。ありがたいことに出入り自由です。懐かしささえ感じる静かな佇まいに、住み込みの番人になって日がな一日表門を眺めていられたらな……などと思ってしまいました。
その表門は平成13年再建の櫓門。石段を程よいアプローチとし、威風堂々たる立ち姿です。本丸側右手の土塁上から眺める姿もまたかっこよい。年月を重ねるごとに風格を増す、そんな門に育ってくれたらなぁと思います。
 北西隅に再建された御隅櫓は時季的に周囲の木々が繁茂していることもありますがなかなか外観全景を捉えられません。やはりこの場所はもう少しこじんまりとした(にちがいない)往時の二重櫓(物見櫓・武器庫)が相応しいのではないかなと思えてきます。しかし、三階部分に設けられた展望室の廻縁で心地よい風を感じながら周囲の景色を楽しみ、屋根を写り込ませたお約束の遠景写真を撮っていると、この展望室があるからこそ見えない敵と戦う時代につかの間の休息を与えてもらえたのだと感謝です。館内はビデオや展示もとても充実していて、特に精緻なジオラマに感動。ドラえもんにガリバートンネルを出してもらって中を歩きたくなるくらいでした。(スモールライトでもいいです。)
 舟形手水鉢のある茶室宣庵へ向かう途中に御出し書院(天守代用)跡へ。そうだ、ここは土の城だったんだ、ということを思い起こさせてくれる雰囲気があります。書院跡からも見下ろすことのできる舟形手水鉢は文禄の役の際に加藤清正が朝鮮から持ち帰り大阪城内にあったものを石田三成の計らいで佐竹家に贈られたと伝えられているもの。想像していたより洗練された感じでした。
 内堀、佐竹小路のほうへぐるっとまわりましたが、城跡を丸ごと公園化した久保田城は折れあり高低差ありで効率よくサササーッとはまわりづらい、というところにいちばんお城らしさを感じました。視覚だけではその広さを捉えられず、歩いてみて初めて広大さと複雑さに気づくといった感じ。めんどくさいお城です(褒めてます)。
 前回訪問時は秋田城→湊城→久保田城とバタバタとまわり佐竹史料館に行けなかったので今回こそはと思っていたのですが、またしても時間切れ。次回(いつだ?)は先に史料館に行って、移築門と周辺にあるというキリシタンの歴史にも触れてみたいです。

 そういえば……ですが、秋田城で佐竹史料館との共通券について尋ねると「佐竹さんの史料館は…」と言われました。また、秋田出身の同僚に久保田城に行ったことを話すと「佐竹さんのお城ね」と言われました。“佐竹”ではなくて“佐竹さん”です。常陸国から転封後、270年(現在もか‼︎)の長きにわたって治め、彼の地に根付いた佐竹氏の歴史が人々の中に薄れることなく受け継がれているのだなと感じました。

【お城川柳121】
秋田城じゃなくってここは久保田城

わかっているんですけど、つい「秋田…」と言ってしまうのです(;’∀’)駅前だし……。

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小城小次郎

砦の割にはめっちゃ知名度が高い (2021/05/31 訪問)

桶狭間のおかげで「砦」の割には鷲津砦ともどもめっちゃ知名度が高い。新幹線から見える丸い森と白い看板が絶対それだと昔から思っていて、初めて現地を訪ねてみて、昔からの想像が正しかったことがわかってちょっと嬉しかった。

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新ろくべえ

那波城に行ってきました (2021/08/18 訪問)

那波城に行ってきました
ここは那波宗俊が築城した城です
何もないところに石碑がたっていました
周囲は田んぼで唯一見えるのは名和幼稚園・・・
説明板は見つからず帰りました
次行った時には見つけたいです!
〔城情報〕(本に書いてある情報)
・築城年代 天文年間1532~1555(詳細は?)
・平城
・築城者 那波宗俊
・主な城主 那波氏、北条氏
・主な遺構 消滅

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びーこ

お勧めはコース2 (2021/08/12 訪問)

駐車場に車を停め(一番乗り!密なし!)、急な坂道を登って総合案内所に向かう。
既にこの時点でかなり体力を浪費してしまった・・
総合案内所では、立派な縄張り図と散策コース案内図を頂く。
案内の方のおすすめは、行きはコース2(二重環濠と半埋没の堅穴建物跡をめぐる)で、
帰りはコース5(続日本100名城の鮫ヶ尾城を攻略する)、だということだ。
道順や道中の地形について詳しく説明して頂いたのは有難がったが、なかなかの険しさにちょっとビビる私。
「スキーのストック(熊よけ鈴付き)を貸してあげるから、大丈夫よ〜」という言葉に励まされて、いざ出発!
ってか、熊が出るんかい!
[コース2]
本格的な山登りコースで、途中、縄が張ってあり、これに掴まらないと登れない急斜面もある。
スキーストックは絶対に借りるべし。苦労した甲斐があり、頂上の景色は格別!
[コース5]
山道の殆どは丸太などで階段が作られており、ひたすら下を見ながら降りるのみ。
楽だけど面白くはない。行きにコース2を勧めてくれた意味がここで分かった。

気持ち良い汗をかいた後は、お楽しみのランチ。
十日町まで移動して、名物のへぎそばを頂いた。
布海苔が混ぜ込んであるので、十割そばなのにつるんとした喉ごしで、箸が進む進む〜ついつい食べ過ぎてしまった。

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higekam

織田、武田が奪いあった城 (2020/04/05 訪問)

女城主の影響でさらに有名になった城だが、その面影などなく石垣で固められた武骨で守り堅固な山城だ。
日本三大山城と言われるほどで、私も石垣に魅了され何度も足を運んできた。駅から歩いても行けるし、車で本丸直下まで行くこともできる。

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イオ

波切九鬼氏の本拠地 (2021/08/01 訪問)

南北朝後期に波切九鬼氏初代・九鬼隆良が居城として築いた城で、四代・泰隆が居城を田城城に移した後も拠点として存続しました。九鬼嘉隆は波切城の生まれとされ、波切城主として田城城の兄・浄隆とその子・澄隆を支えましたが、後に本拠地を鳥羽城に移したことにより波切城は廃城となりました。

志摩半島東南端の大王崎の突端に位置し、太平洋を見下ろす断崖の上に築かれています。主郭は展望公園(八幡さん公園)として整備され、北辺に土塁、北西部に虎口が設けられ、北辺の切岸にはわずかに石積みも見られました(遺構か後世のものかはよくわかりませんが)。虎口の下には城址碑(小さな説明板付き)が建てられています。

なお、主郭から東に徒歩1分の大王埼灯台からは海に突き出た岬の断崖絶壁の上に築かれた主郭と北辺の切岸が一目瞭然で、この日は天気も良かったため、夏空のもと視界いっぱいに広がる太平洋といい、有料(大人300円)ながらも、それ以上の価値がありました。時間に余裕がある方は、灯台の隣の大王埼灯台ミュージアムもどうぞ。少しだけですが波切城についても触れられています。

また、灯台から北に徒歩3分の仙遊寺は波切九鬼氏三代・隆次が菩提寺として建立した寺で、境内奥には隆次、泰隆ら波切九鬼氏の五輪塔が安置されています。
 

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刑部

緊急事態宣言を受けて! (2021/08/19 訪問)

とうとう私の県も緊急事態宣言を・・・なので県を跨いでの城址探訪は出来なくなりました。でも、家で自粛ばかりではヤバいので〔肥満の元〕地元で密を避けて城址歩き! 今回は真壁城、最初に来た時よりだいぶ発掘調査が進んでいて見所が出てきました。中には土塁や堀がそのまま遺っている所があります! これからますます楽しみな城址です。
雨引観音にある移築門も見てきました。
追伸
案内板の所で蝉が蜘蛛の巣にかかり死に際でしたので助けてあげました、だって蝉の命は短いからかわいそうですよね❗️

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小城小次郎

石碑の周辺に遺構が見当たらない (2021/05/29 訪問)

鷲巣・丸根両砦の陥落を那古野城でごろごろしていた信長が知って愕然となるシーンは冗談で、さすがに救援には向かっていたらしい。ちなみに石碑の周辺には鷲巣砦らしい遺構がないらしいということを現地で初めて知って驚いた。

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新ろくべえ

渋川城に行ってきました (2021/08/19 訪問)

渋川城に行ってきました。
お寺の跡にあるこの城は1570年代に築城されました
遺構は堀の跡?のような溝がありその周辺に
井戸の跡?があるらしいです。
お寺の駐車場に車をとめ登城しました
石碑は寺の中にあり分かりやすい場所にあります
ここは元亀三年に真田幸隆ら武田勢が渋川城の上のほうにある
白井城を攻略する際構築した城と言われています
そして長尾憲景が八崎から出撃してそこの場所にいた武田勢を
破ったと言われています
〔城情報〕
・別名寄居城
・築城年代1572年(元亀三年)
・平城
・築城者 渋川地衆
・主要城主 武田氏(以下不明)
・主な遺構 郭跡、堀切、井戸、土居
・長さと形 180m×150mのほぼ正方形(長方形)

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higekam

信長が武田対策で築こうとした城 (2020/03/01 訪問)

美濃国の東部で最大の敵、武田の岩村城に対抗しようとして築いた城。
脆くも武田家が弱体化しこの城の建設は中断するが、武田滅亡後数ヶ月で信長も逝く。
小規模だが、まるで信長の人生を象徴するかのようなこの奇抜な城跡が好きで、私は何度も訪れている。

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新ろくべえ

富戸の築城石採石場に行ってきました (2021/07/25 訪問)

富戸の築城石採石場に行ってきました
ここは城ではなく江戸城に運ばれる江戸城石垣に
使われる石を採石する所です
何個か割った後もあり刻印があるいしもありました
説明看板もあり分かりやすいです
ですがあぶないので身軽で動きやすいような服装をおすすめします
(3~4、5くらいのおこさんと70いこうの方はいくことをおすすめしません)

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新ろくべえ

八寸環濠遺構にいってきました (2021/08/18 訪問)

八寸環濠遺構にいってきました
ここは何もなくて遺構もない城ではないように感じる城です
説明も石碑も盛りあがる跡もないので当時がどんなのかはよく分からない
城に関する情報が無く城情報のせられないのでそこはご了承ください

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新ろくべえ

原之城遺跡に行ってきました (2021/08/18 訪問)

原之城遺跡に行ってきました
この城は城というよりかは古代の館跡です
ちかくは田んぼが広がっていて駐車場はなく跡は何もないです
あるのは原之城遺跡の説明看板だけです
〔城情報〕
・築城年代6世紀
・平城
・豪族居館
・主要城主?
・居館の長さと形 東西約100m×南北約170mの長方形
・堀幅20m
・面積30000㎡(全国最大級らしい)
・遺構 消滅

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イオ

和具城(三重県志摩市志摩町和具) (2021/08/01 訪問)

和具城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら室町期に青山氏(和具氏とも)によって築かれた城で、青山豊前守は九鬼嘉隆の侵攻に対して越賀氏らとともに抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、九鬼氏がお家騒動で転封された際には、青山氏も和具を離れて摂津国・三田に移りました。

和具城は和具漁港東側の丘陵地に築かれた城で、南に太平洋を見渡せる位置にあります。駐車場はないので丘陵西麓の道路脇に路駐して登城開始。西麓の登城口から民家に至る舗装道を上って行くと、ほどなく目前に主郭西辺の切岸が現れます。切岸をよじ登り、土塁の上から主郭内部を見ると、下調べでは畑とのことでしたが、時季的にもすっかり藪の中…。越賀城の笹藪よりは遥かにましですが、藪蚊が飛び交う中を突入する気力もなく、主郭西部の虎口とその脇の石積みを確認して退散しました。

藪や虫が(蛇も獣も)嫌なので、夏場の山城は避けていますが、丘城でも未整備だと同じことですね。鳥羽城や田城城、この後に行った波切城はよく整備されていて問題ありませんでしたが、越賀城と和具城は夏に訪れるのは無理がありました。…冬でも無理かもしれませんが。
 

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赤い城

別名は内城館 (2021/08/13 訪問)

上野原駅北口から徒歩で20分くらい。
鶴川の河岸段丘上にあります。
上野原駅は北口と南口の高低差がかなりあり、城の南側は崖で守られていたことが想像できます。
城跡には中央道が走っていて、稲荷神社に説明板が立っています。
これによると地下には遺構も眠っているかもしれません。
明確な遺構はありませんがカルビンさんの投稿にある畑は確かに堀跡と思われます。
城の知識はまだまだなので皆さんの投稿には大変お世話になっています。

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higekam

広大な縄張りが見渡せる (2021/03/23 訪問)

冬枯れの時期、手入れも良くされており縄張りが良く理解でき、堪能。往時は石垣も多用されていたことも分かるが、相当破却されているのが至極残念。豊臣政権時、大和三城のひとつだったというのも納得できた。
 帰路の途中、近くに又兵衛桜という立派な枝垂れ桜があると聞き寄り道。大坂の陣で戦死した後藤又兵衛が実は生き延びてこの地で余生を送ったという言い伝えがあり、その住まいにあった枝垂れ桜がこれだという。

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イオ

海に突き出た岬の城 (2021/08/01 訪問)

詳細は不明ながら、室町期に越賀氏によって築かれた城で、九鬼嘉隆の侵攻に対して、越賀隆俊は越賀城に籠城して抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、隆政、隆春と三代にわたって九鬼氏に仕えました。

太平洋に突き出た小さな岬に位置し、三方を海に囲まれた単郭方形の城で、北側の集落との間を堀切で断ち切っています。堀切の西端に主郭に至る登城路が設けられていますが、時季的に藪に沈んでいて突入するのはためらわれます。それでも勇を鼓して、藪をかき分け蜘蛛の巣を払いながら進んで行くと…主郭もやっぱり藪の中でした。下調べでは中心部は畑とのことでしたが、もう何年も放置されているようで、笹藪が激しく茂っていてとても入り込めません。かろうじて北東隅の土塁に石組みの穴(井戸? 古墳跡?)が見られたくらいでした。

なお、越賀城から西に車で約3分の普門寺は、隆春が隆政のために建立したとされる越賀氏の菩提寺で、境内には越賀氏三代の墓所があります。普門寺の寺紋は越賀氏の家紋と同じ桧扇(七本骨扇)のようですが、門の脇には桧扇紋の瓦が並べられていました。
 

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じゅんじん

汗だく (2021/07/23 訪問)

箱根を越えて小田原城行く前に石垣山城へ。3回目ぐらいですがここからの海の眺めはいいですね。荒々しい石垣も見もの。小田原攻めのために築くとはよく考え付いたものだ。

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朝田 辰兵衛

しりとりロスもあった… (2019/07/16 訪問)

今回は,川柳ロス…。
それも「性(サガ)」ということで,佐賀城を。

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