駒形城は他にもありますが、ここは上田市の標高751mの山城です。
詳細不明。南北に伸びる痩せ尾根を5つの堀切で分断してます。
東西は急斜面、両端はさらに細尾根となってます。
遺構はよく残ってます。
平井寺トンネル料金所の東の山で獣柵を開けて急な斜面を直登しました。
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2021/11/05 19:05
2021/11/05 18:58
8年ぶりでした (2021/10/15 訪問)
長野県内独自のGoToを行なっているようで人出が多かったような気がします。
ひと月半前ふゆづきさんの投稿でもありましたが二の丸の駐車場が使用できなくなっていました。
南櫓付近にいた案内の方が言うには
『真田の時代には石垣は無かったんだよ。今残る石垣もどこを誰が築いたかも明確にはされていない』とか。
駅付近を歩いているとビルの裏手に石垣を発見。
何度も訪れていますが新しい発見がありました。
本丸櫓と武者溜まり復元の幟があがっていました。期待してます!
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2021/11/05 17:52
湿地に囲まれてたのがわかります (2021/10/20 訪問)
近くには何度も訪れていましたが初めて足を踏み入れました。
先に守谷小学校近くにある大手門跡に行きました。
この辺りは開発が進み住宅街と化していますが
石碑の横には土塁らしきものが残っています。
その後城の中枢部へ向かいましたが
キッチリとナビをセットしていなかった為に曲がるところをスルー。
狭い道が入り口です。
大手門付近とは違い本丸、二の丸、御馬家台曲輪、空堀が開発されずに残り
見所各所には親切丁寧な案内があり駐車場も完備されていますのでゆっくり見学できます。
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2021/11/05 08:26
発掘された石垣 (2021/10/17 訪問)
荒木村重の籠る花隈城攻略の功により摂津西部を与えられた池田恒興が、破却した花隈城の資材を用いて築いた城で、池田恒興の大垣移封後は三好信吉(羽柴秀次)が入り、その後は豊臣氏の直轄地として片桐氏が代官を務めました。豊臣氏の滅亡後は一国一城令により廃城となりましたが、城跡には尼崎藩領として陣屋が、江戸中期以降は天領として大坂町奉行所の勤番所が置かれました。明治には勤番所が初代兵庫県庁となりましたが、新川運河の開削により遺構は失われました。
陸路(西国街道)と海路の抑えとして兵庫津に築かれた海城で、城跡はイオンモールと運河になっていますが、イオン建設時の調査により、転用石を多く用いた石垣や堀、土橋などが発掘され、主郭の石垣には胴木も確認されています。発掘された遺構は埋め戻されてしまいましたが、発掘調査地には出土した石材を用いた模擬石垣と説明板が設けられています。イオンモール3階にも発掘調査の出土品が展示されているようですが、未確認です。また、新川運河の西岸にも兵庫城跡の石碑と説明板が建てられています。
西国街道からの城下への入口には惣門が設けられ、北の湊口惣門と北西の柳原惣門を結ぶ外郭には都賀堤と呼ばれる土塁と堀があり、柳原惣門から南東方向へ、そして南方向へと続いて、城下を囲い込む惣構を構成していたものと考えられます。都賀堤も惣門も明治に失われましたが、それぞれ跡地に石碑や説明板が建てられています。また、湊口惣門から西国街道を南に進み、西の柳原惣門へと曲がる南仲町の辻󠄀には江戸期に高札場が置かれ、札場の辻と呼ばれていました。このあたりが兵庫の中心地だったようです。
ところで、兵庫城からはずいぶん離れていますが、発掘調査で出土した石垣の一部が神戸市埋蔵文化財センターに移設されているとのことで、ちょうど別件で西神中央駅に行くついでがあったので、見に行ってみました(駅から南に徒歩8分)。移設石垣と説明板はエントランスホールに展示されており、転用石には印が付けられていて、横(断面)から見ると、五輪塔が用いられていることがよくわかります。3階のテラスには発掘された石垣の転用石がまとめて展示されています。これでもほんの一部なんでしょうけど。
神戸市埋蔵文化財センターの常設展示は縄文・弥生から古代にかけてが中心ですが、収蔵展示室には端谷城出土のかわらけや花隈城出土の瓦があったり、この日は「福原京」の企画展が開催されているなど、入館無料(特別展を除く)とは思えないほどに充実していて、土器や古墳にさほど興味のない私でも充分に楽しめました。
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2021/11/05 07:00
2021/11/04 23:55
2021/11/04 23:27
2021/11/04 23:15
2021/11/04 23:00
2021/11/04 22:29
古利根沼に臨む城 (2021/10/24 訪問)
湖北駅から徒歩で15分。住宅地の先の古利根公園自然観察の森が二郭と三郭の跡です。
二郭に説明板があり、堀の位置を確認しますがかなり浅い。
それでも何となくって感じです。
見どころは道路脇、主郭の空堀ですが竹藪で写真にはなりません。
物見台と思われる城域先端部には祠があり、見下ろすと結構な高さがありました。
古利根沼脇には車を停めることもできますが釣り客もいるので確実とは言えません。
別名は芝原城、築城については不明ですが古河公方から北条氏の家臣となった河村氏の居城でした。
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2021/11/04 16:55
復元された中世の山城 (2021/11/01 訪問)
上信越道坂城ICから、国道18号に出て上山田温泉に向かうと、温泉街の背後にある山(冠着山)の中腹に、上山田温泉の文字の後方に櫓が見えてきます。
城跡へのアプローチは、温泉街を抜けて狭い山道に入り(聖高原・姥捨方面の道路は閉鎖されていますが、この荒砥城までは自動車道が通じています)、途中の宗教施設を抜け、駐車場に到着となります。
駐車場から、城山史跡公園管理事務所を経て城内に続く道は舗装されており、アクセスに問題はありません。
城内には漆喰の城壁や天守閣はありませんが、戦国までの中規模城郭(せいぜい3~400人程度で守る城のように思います)がどのようなものであるかが想像されるように、山城が復元されているように思います。
特に虎口周辺の石垣は、余り他に類を見ないような積み方であり、興味を引かれます。 また、櫓から千曲川方面の視界は大きく開けており、この城の本城であった葛尾城はもちろん、上田方面の動きや川中島方面の動きも監視することが可能なように思います。
このような雰囲気のため、大河ドラマのロケ地に設定されたようで、「風林火山(海ノ口城)」や「江(小谷城)」の代わりになった旨が残されています。
攻城時間は40分程度。紅葉の時期でしたが、到着が3時過ぎだったためか、他に訪れる者はなく、中世の雰囲気を満喫できたように思います。
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2021/11/04 14:10
琵琶湖一周ウオーキングで寄りました (2012/03/14 訪問)
琵琶湖一周ウオーキングを1年掛けて家内と巡って居り丁度坂本城が入る区間でしたので穴太衆の里辺り日吉神社、穴太石垣の神社通りを見学ウオーキング山手の通りから湖岸の通りへ下り坂本城址公園を目指す、小公園と成って居り明智光秀の石像、案内碑、模擬石垣造りの公園、遺構の坂本城の石垣は湖底に沈み湖が少し退い時、姿を現すとの情報で湖岸探査はせず。
ここ辺りに石垣造りで天守閣を備えた城郭が在ったのかと想像さも出来ない穏やかな湖岸、坂本城は明智光秀が比叡山焼討後、琵琶湖の押さえ、京への押さえとして信長より坂本城築城を命ぜられ城持ち大名となり、信長配下で一番出世、後に安土城、長浜城、大溝城で琵琶湖の軍事経済物流ダイヤモンド湖上支配構築される要の城でも在りました。
城下寺町地区には穴太衆に由る石垣の通り、坂本城の石碑、明智塚をウォーキング途中に見学し堅田地区では浮御堂、堅田門徒の本願寺旧跡、蓮如上人の足跡を垣間見る。
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2021/11/04 10:55
兄と登城した高槻城 (2012/01/21 訪問)
毎年1月末の日曜日、大阪で開催されて居る関西地区在住中学校同級生の新年会(現在40年近く継続中)に合わせて大阪を訪ねた前日、関西在住の兄と待ち合わせして今城塚古墳と高槻城を訪ねました。
今城塚古墳は継体天皇の御陵とも言われてる、今城塚古墳古代歴史館と今城塚古墳を見学、歴史館で勉強して古墳を見学すると理解が更に深まります、今城塚古墳が城砦として利用された事を後の学習で知る事に成りましたが・・遅すぎでした。
兄の車で廻りましたので高槻城へは、しろあと歴史館の駐車場を利用し登城前に歴史館で勉強、良く出来ています、高槻城の模型が素晴らしい出来で良く理解できますここだけ見れが充分かも? 現在は高槻城址公園と成って居り、模擬天守台石垣、堀が復元されて居り、城主として有名な高山右近の像が模擬天守台に立ってる、周囲をぐるっと廻りと東大手門跡と案内板に遭遇、市街化が激しく遺構は残っていない状況です、移築門等が残ってるようですが今回は見ていません。
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2021/11/04 08:21
松岡城(神戸市須磨区大手町) (2021/10/17 訪問)
松岡城(城びと未登録)は、南北朝期に赤松範資が築いた城で、観応の擾乱の際、打出浜の戦いで足利直義に敗れた足利尊氏と高師直らが立て籠もったとされます。
勝福寺とその裏山が城跡とされていますが、石碑も説明板もなく、詳細は不明です。境内の東側に裏山へと続く道があったので少し登ってみましたが、途中で道が左右に分かれていて、縄張図も地図も持ち合わせていなかったため、そこで探索終了。堀切状の地形があるようですが、未確認です。
なお、勝福寺は平安中期の開基で、平清盛の大輪田泊への経ヶ島築造に協力したことにより、法具や幡の寄進を受け、平知章の甲冑を所蔵していると言われています。
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2021/11/04 06:53
2021/11/03 23:44
戊辰戦争で落城した戸沢氏六万石の居城 (2021/11/03 訪問)
コロナの新規感染者数も落ち着きを見せてきた祝日、地元鳴子峡の紅葉が見頃との情報でドライブに。例年この時期は道路の渋滞などで大変混み合うため早朝に出発し午前8時には到着できたが駐車場は既にほぼ満車の状態だった。きれいな景色にしばし見とれた後はもちろん城址探訪となるわけだが、山形県側に足を延ばして新庄城を目指した。
新庄市は戸沢家6万石の旧城下町。元和8年(1622)に山形の最上家改易により戸沢政盛がこの地に入封し、当初は真室城(鮭延城)に入るが手狭であったため、最上家家臣日野将監の居館を拡張整備して築城したという。
残された絵図によれば縄張は本丸を中心に南側に二の丸を設け、それを三の丸が囲む近世の平城。本丸には三重の天守と三つの隅櫓を、東側と北側には桝形の櫓門を構えていた。天守は寛永13年(1636)に火災により焼失し、その後は再建されなかったらしい。
慶応4年(1868)の戊辰戦争において新庄藩は、総督府軍(新政府軍)および秋田藩と奥羽越列藩同盟の庄内藩の間に在って御家存続のための活動を続けるが庄内藩軍の攻撃を受け7月14日に落城。城は新庄の街と共に戦火により消失したという。
現在、城址は最上公園となり本丸の堀、土塁、櫓跡、石垣などが残る。旧三の丸にある「新庄ふるさと歴史センター」の観覧もおすすめしたい。
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ライトアップ (2021/11/03 訪問)
日没後に立ち寄ったらライトアップされていました。
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2021/11/03 23:04
2021/11/03 23:00
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