備中高松城を終えて南方向へ約6km程の湿田、沼に囲まれた撫川城を目指す、車は南側の城門手前の案内板の在る駐車エリアを利用、道が狭く不安でしたが現在グーグルマップで見ると城門前に駐車場が整備されてる様子。
探訪は本丸/御本壇内部を廻り、城門、神社、外に廻り南から西の濠、御本壇西側の石垣を濠外から眺める、北側も廻りたかったのですが人家で入り込めず、西北には横矢の入った石垣で櫓台だったのか? 低地の人家は水堀/水路で囲まれてる。
築城で沼地、湿田に石垣を築くのは大変な作業だった事でしょう、西側の石垣を濠越に眺めて往時にしたりました。いい景色です。沼城とも呼ばれてる。
歴史的には毛利方三村氏が砦を築いたのが始まり、三村氏が毛利氏に滅ぼされ、毛利の出城、毛利方境目の城へ、秀吉の高松城水攻めの時城主井上氏は交戦して敗れ、宇喜多氏の領有へ、天正14年(1586年)頃に宇喜多氏家臣岡利勝が近世的な築城方式を取り入れた野面積石垣を築き築城を始めたと伝えられてる。
関ヶ原後東軍で軍功のあった戸川達安が29200石で入封、東に在る庭瀬城跡が中心として移った、戸川氏4代安風早世、嗣子なく改易、弟達富が安風の名跡を継ぎ5000石で旗本として撫川城址を本丸、御本壇とし明治まで9代継承される。(撫川城址整備委員会、下東町内会のパンフレット抜粋)
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