築城者や時期等は不明ながら、天正元年(1573)に小谷城の救援に来た朝倉軍が賤ヶ岳に布陣した記録があります。その後、賤ヶ岳の戦いに際して羽柴方が改修し、桑山重晴らが守将となりました。合戦では、羽柴方の大岩山砦、岩崎山砦を急襲した柴田方の佐久間盛政が賤ヶ岳砦に迫りましたが、羽柴秀吉の美濃大返しで激戦となり、前田利家の戦線離脱により撤退するところを追撃されて壊滅。合戦の趨勢が決しました。戦後、賤ヶ岳砦も他の陣城群とともに廃されたようです。
賤ヶ岳リフトの駐車場に車を駐めて登城開始。標高421m(比高310m)と結構な高さがありますが、リフトなら5分あまりで楽々です。リフトを降りてから山頂まで10分ほど歩くものの、西側には琵琶湖の眺望が開け、道中には賤ヶ岳合戦戦没者霊地があり、あちこちに七本槍の顔出し看板が建てられていて退屈する間もありません。山頂の少し手前には堀切が設けられていますが、浅くなっている上に藪に沈んでいて、うっすらと感じられる程度です。
山頂には東西に3つの曲輪がならんでいて、最高所の中央の曲輪が主郭と考えられます。主郭からの眺望は素晴らしく、北に余呉湖、東から南は湖北の平野部、西に琵琶湖を一望できます。古戦場としての石碑や標柱、銅像などが建てられ、遺構は改変を受けていると思われますが、西側の曲輪と区画する分厚い土塁が遺っています。
西の曲輪は展望台が設けられたりはしているものの、周囲を土塁が一周し、東部には虎口が開口しています。西の曲輪から北西方向にのびる尾根には堀切(と土橋)が明瞭に遺っています。
主郭と東の曲輪の間は堀切で区切られ、東の曲輪の東端は土塁による外枡形状の虎口になっています。虎口の脇には竪堀が見られ、虎口から下って行った先には、北東尾根から侵攻する敵を迎撃するためと思しき塹壕状の堀がありました。
リフトで気軽に訪れられる絶景スポットとして、この日も観光客で賑わっていましたが、懸念していたよりは砦としての遺構も遺っていて、思いのほか見応えがありました。ただ、お昼過ぎだったため、レジャーシートを広げて昼食中のグループも多く、できるだけ写真に人を入れないようにすると、なかなか思うように撮ることができず難儀しました…。
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