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昌官忠

次男と二人で亥鼻城攻城:亥鼻城(千葉城) (2017/05/27 訪問)

次男のマンション最寄り駅から本千葉駅で下車。そこから徒歩10分くらいで亥鼻城(千葉城)に着きました。

中世の千葉城が登場する資料『相馬文書』には、1335年(建武2年)の一族の内紛の際に、千葉胤貞方が「千葉城」「千葉楯」を攻撃したことが記されているそうです。
しかし、亥鼻城のような台地上の城郭が築かれるようになるのは15世紀以降のことであり、「千葉楯」ともあることから、これは低地上の館を楯などで戦闘時に城郭化したものと考えられるようです。
千葉妙見宮(現在の千葉神社)及び同寺を崇敬する千葉氏及びその妙見信仰について書かれた『千学集抄』においては、千葉氏の館の場所を「堀内」と記しており、近年は千葉市街の低地に千葉館があった説が有力視されているようです。
亥鼻の古城が千葉氏の城だという記述が出てくるのは、江戸時代になってからのことで、1858年(安政5年)成田山新勝寺の新本堂建立の際に制作された『成田名所図会』には千葉常胤に関する一節があり、そのなかに「千葉氏古城址の図」が掲載されており中央に亥鼻山が描かれているようです。
千葉氏がのちに本拠地を本佐倉城に移した際に廃城になったかと考えられています。
また公園内には千葉常胤像と模擬天守が建てられています。天守内部は、郷土資料館となっています。

現在は亥鼻公園として整備されており、毎年3月下旬~4月上旬に「桜まつり」が開催されますが、自分が攻城したのは5月なので、当然、桜は散った後でした。
郷土資料館の展示は火縄銃などが中心だったような気がします(気のせいか?)。
また天守閣以外に、曲輪などの縄張りらしきものはなかったと思います。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

佐倉酒々井印西近辺攻城:岩戸城➡城びと未登録(千葉県印西市) (2018/04/02 訪問)

西福寺前の空スペース(35.764651、140.171594)に駐車して攻城しました。

岩戸城は鎌倉時代末期に、千葉氏一族の臼井氏に仕えた岩戸五郎胤安の居城で、師戸城や志津城と並ぶ臼井氏の三大支城のひとつでした。
1314年(正和3年)、胤安は臼井氏の家督相続争いに巻き込まれ、討死しました。
その後は師戸城あるいは臼井城の支城として利用されたと考えられていますが、詳細は不明です。
現在城址は宅地化されていますが、西福寺がある場所が本丸跡で、周辺に土塁や掘跡を確認することができます。

県道64号線上にある「西福寺入口の電柱の看板」を入れば西福寺に着きます。なお、看板小さく高い所にあります。
土塁と堀跡を確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。

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朝田 辰兵衛

朝練中の野球部員の清々しい挨拶が印象的でした。 (2019/06/30 訪問)

シナガワグース⇔大多喜駅間の高速バスを利用しました。開館前にぐるりと散策が終わってしまい,開館を待っていると一人の男性が声をかけてきました。お互いの城めぐり情報を交換し合って盛り上がっていると,どうも地元に近い気がしてきました。「ところで,どちらからですか…?」と尋ねると,同じ越後人ということが判明しました。越後の城以外で同郷の方と遭遇したのは初めてで,苦笑いが止まりませんでした…。また,自然な声かけができる,朝練中の野球部員の清々しい挨拶が印象的でした。

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pascal

大坂の陣の真実が見えてしまう 茶臼山陣城 (2017/03/04 訪問)

大坂冬の陣では徳川家康が本陣にし、夏の陣では真田信繁が陣を敷いたと言われる茶臼山陣城です。


【アクセス】
最寄り駅は天王寺で、駅の北西に広がる天王寺公園の北東の角にある『茶臼山古墳』が茶臼山陣城跡です。


【城の歴史】
 茶臼山古墳は5世紀頃に地元の豪族が造った前方後円墳だと言われていますが、戦国時代の天文15年(1546)、細川晴元の臣の山中又三郎が古墳の後円部分に砦を築き、大塚城と名付けました。
しかし、大塚城は翌年の“舎利寺の戦い”で細川氏綱軍に攻め込まれて落城し、わずか1年の短命に終わってしまいました。

 その後の慶長19年(1614)の“大坂冬の陣”では、徳川家康が此処に本陣を置きました。
家康は大坂城下の家屋を壊して資材とし、堅固な陣城を築いたそうですから、土工事も大規模に行われた事でしょう。

 冬の陣の和睦から4ヶ月後には“大坂夏の陣”が起こります。
籠城戦が効かなくなった大坂方の諸将は城外に陣を敷き、野戦の布陣となります。
その中で茶臼山を選んで布陣したのは真田信繁の軍3,000で、信繁は此処から平野の家康本陣に向け出撃し、あと一歩の所まで家康を追い詰めますが、力尽きて討死にしてしまいます。


【見どころ】
 山上は200坪ほどの削平地になっていて、少し下にも帯曲輪状の地形が認められますが、空堀や土塁遺構は無く、“城”という感じは薄いものです。
 どうやら“古墳ではない説”もある様で、奈良時代に和気清麻呂が運河を掘削し始めた跡…とも言われています。
その後の大塚城と家康の陣城、どの遺構がどの時代のものなのか、日本史の幅広い知識が無いと判別の難しい城址でした。

 茶臼山の北300mにある安居神社は真田信繁の終焉の地だそうで、境内には信繫の銅像などが有って、観光客もチラホラ居ます。
真田ファンの方は併せて訪ねて見るのも一興かと思います。


【感想】
 現地に行って気付く不都合な真実…(^^;
信繁は幾重もの徳川方の布陣を突破して、茶臼山の南東3㎞の平野にあった家康の本陣を襲いました。
家康は堪らず、3里も退いた(奈良県香芝市あたりまで?)と言います。
追撃する信繁はその途中で力尽き、安居神社の地まで戻って休息中のところを松平忠直の家臣に討たれたそうです。
つまり、敵軍がウジャウジャ居る中を、5㎞以上も戻って来た訳ですね…。

真田信繁、というか真田幸村については、あまり深くは調べない方が良さそうです。

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にのまる

ボールはともだちっ!⚽️ (2021/03/06 訪問)

 西光寺さんの門の右に葛西三郎清重遺跡の説明板がありました。
 〈清重塚〉はお寺の左隣の四ツ木つばさ公園と国道の間です。
 公園の大空翼くんの銅像など、一帯にキャプ翼ワールドが展開されていました。

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赤い城

鳥居元忠も入った城 (2021/03/13 訪問)

まずは白幡神社の裏から直登。
すぐに堀に行き着きます。
4郭に当たるようで遺稿は綺麗に残っていました。
この時季でも藪化しているので夏は大変かも。
主郭は本命寺の近く、お寺の前に標柱が立っています。
岩盤を削った堀切も見ることができますが結構な雨になってきたので主郭到達前に撤退。
元々は国分氏の居城で戦国期には北条氏に属していました。
小田原平定後は鳥居松が入城。
鳥居氏が岩ヶ崎城に移ったあと廃城となりました。

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能島城上陸ツアーに参加して続日本100城の制覇 (2021/03/20 訪問)

昨日、能島城にやっと上陸ツアーで行って来ました。
40分の短時間の見学時間だったので、駆け足で本丸、二の丸、三の丸などを解説付きで素晴らしかった。
疲れたけど感動しました。
本丸には、見張り番のような櫓があったみたいです。
大島は、今でも石作りが盛んで石垣があちこちに点在していました。
その石垣のうえには武家屋敷があったと云うことでした。
だから、住居は大島にありそこに住んでいたのですね。
又、井戸も能島城にはなかったようです。
しかし、能島城の周辺の島々に水源がありそこから水を運んでいたのですね。

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ヒロケン

天才軍師 竹中半兵衛重治の居城 (2021/02/27 訪問)

菩提山城は、戦国時代 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師として活躍した竹中半兵衛重治の居城です。標高302m、南北約350m、東西150mの規模で西美濃の山城としては、最大級の山城です。
竹中半兵衛の父、重元がこの地に勢力を誇っていた岩手弾正忠信冬を追放し、菩提山を再構築したとの記録が残っています(竹中家雑事記)竹中半兵衛は、菩提山城を居城としていおり、16人で稲葉山城を攻略する、織田信長の家臣ではなく、羽柴秀吉の家臣となるなど数々の逸話が残されています。播磨三木城攻めの陣中で病没した後は、半兵衛の子・重門が跡を継いだが、山城では不便であったため、麓に陣屋を構え移り住んだ。その後、菩提山城は廃城になったと考えられています。

菩提山城は、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・台所曲輪・出曲輪が城の中核をなし、その他に多数の削平地で構成され、大堀切・竪堀・横堀からなっており、土塁のみで石塁が見られないのが特徴です"(-""-)"

竹中半兵衛重治は自分の好きな戦国武将の一人であり、その居城に行ってみたいとは思っていましたが、下調べで石垣がないことを知っていたので、「石垣がないぃ~」との思いで少々敬遠していました。
菩提山城の登城口に説明板があり、説明板の周辺に駐車スペースがあります。トイレはありません。登城口から25分程で大手曲輪に到達します。
大手曲輪の切岸・三の曲輪と出曲の間に大規模な竪堀・出曲輪の南側にも大規模な竪堀があり、更に西の曲輪の奥にも大規模な竪堀があります。この城の見所としては、この各堀跡ではないかと思います。
石垣好きの自分でもこの大規模な堀跡で十分満足できました。

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昌官忠

佐倉酒々井印西近辺攻城:師戸城 (2018/04/02 訪問)

印旛沼公園駐車場(35.753663、140.183617)に駐車して攻城しました。

築城年代は定かではないが、鎌倉時代の14世紀に臼井城の支城として築城されたといわれ、当初は師戸四郎なる人物が在城していたらしいです。
その後は臼井城の臼井氏、原氏の傘下に置かれたものと思われます。
印旛沼の対岸にある臼井城とは「渡し」で結ばれ、臼井城の防衛に大きな役割を果たしていました。
1479年(文明11年)の太田持資・資忠、1566年(永禄9年)の上杉謙信による臼井城攻撃を防ぎました。
しかし、1590年(天正18年)の「小田原の役」で落城し廃城となりました。
現在、城址は印旛沼公園として整備されています。

空堀や土塁がよく残っています。城址はそっくり千葉県立印旛沼公園になっており、三之丸は草野球のグラウンドになっています。
公園の駐車場は広くてトイレも飲料の自販機もあって便利。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

佐倉酒々井印西近辺攻城:小竹城 (2018/04/02 訪問)

近くに駐車場所がなく、近所の小竹幼稚園前の空スペース(35.734084、140.162094)を借りて攻城しました。

小竹城は臼井氏の一族小竹五郎高胤が明徳年間(1390年~94年)に築いたといわれます。
臼井城の支城として機能していたと考えられています。臼井氏滅亡後は里見氏に従い、のちに帰農したと伝わります。

現在城址は私有地となっており立入禁止ですが、外周の空堀は見学可能で土塁と空堀が良好に残っています。
また虎口の土塁脇に標柱が建てられ、城址南側の道沿いに小竹五郎の墓と案内板があります。
攻城時間は30分くらいでした。

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にのまる

清光寺 (2021/03/06 訪問)

この日は1ヶ月ぶりの都内城址めぐりで、23区東側の未訪4城をまわりました。(全て寺社でした。)
西側が生活圏なのでこちらの方には疎いのですが、スカイツリーや葛西臨海公園の観覧車が突然見えたりするのが楽しかったです。荒川も何度か渡りました。
1ヶ所目の長島高城跡は千葉県との都県境の近く、清光寺さんでした。

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ぴーかる

枚方城・御茶屋御殿跡 (2021/02/20 訪問)

【枚方城】
<駐車場他>枚方小学校間前にコインPあり。
<交通手段>バイク

<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング第3弾、大阪府内限定8城目。枚方城の城びとポイントは枚方小学校内になっており、周辺には石碑等は見受けられなかった。枚方城の城主は本多内膳正政康というもので秀吉に仕えた。娘「乙御前」が秀吉の妾になっており、北側にある御茶屋御殿に住まわせたそうです。枚方城は大阪の陣で廃城となったが、御茶屋御殿は秀忠・家光が逗留した記録があるそうです。
 これにてこの日の城巡りツーリングは終了、時間的にもう1城行けたのですが、くたびれてきたので終わりにしました。ぐるぐる巡って80㎞無事走破。

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弥高寺 (2021/03/20 訪問)

 山岳寺院ですが、城郭寺院でもあります。土塁がある弥高寺本坊跡から背後に登って行くと大堀切や竪堀を見ることができます。
 上平寺城から来ましたが、道が悪路で崖沿いの細い道で、倒木あり、道が崩壊しているところなどがあり、難渋しました。帰りは悉地院の方へ下りましたが、こちらの道は林道で歩きやすかった。車で上の方まで行くことができると思いましが、車両通行禁止となっていました。

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京極氏詰めの城 (2021/03/20 訪問)

 京極氏の詰めの城です。竪堀や土塁が残っています。コンパクトな城址ですが、楽しむことができます。城址はよく整備されていて遺構が見やすかった。
上平寺集会所から京極氏館跡を経由して登城しました。道は整備されて勾配もそこそこで歩きやすかった。ネットをみていると、この城の守りの要のひとつが山蛭と書いてあったので、蛭のシーズンを迎える前に行っておきたかった城址です。昨年末に登城する予定が新型コロナウィルスの影響で今日になってしまいました。念ため登山靴には蛭除けのスプレーを噴霧して登城しましたが、幸い山蛭には遭遇しませんでした。
続いて弥高寺に向かいましたが、これが悪路で片側が崖になっていて、倒木あり、崩壊した所ありの細い道を行かねばなりません。

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小城小次郎

主郭だけは当時のままかも (2020/12/19 訪問)

何重にも巡っていたはずの堀は主郭を除けば痕跡を残すのみだが、そのかわり主郭だけは土塁も堀も背後の切岸も郭内に残る謎の溝も、もしかしたら当時のままかも。高低差ゼロで訪城できるのも案外ポイントが高いのでは。

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庭園跡など (2021/03/20 訪問)

 京極氏の館跡です。庭園跡や家臣の屋敷跡などが残っています。

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チェブ

あべのハルカスくらい? (2021/02/20 訪問)

東京都あきる野市にある「阿伎留城」を見上げてきました。

鎌倉時代に三内氏が築城しました。
三内氏、初めてましての御名前です。

JR五日市線の踏切を渡ると鳥居があります、、、。
夕方ですし、先には進みません。
階段があり、その先に天竺山に登るハイキングコースがあるそうです。天竺山に三内神社があり、「阿伎留城」跡になります。
なので、「阿伎留城」を見上げてきました。

天竺(インド)まで見られるほど高いから、天竺山と名付けられたのでしょうか?
調べると天竺山は標高300mくらいです。
だいたい大阪の『あべのハルカス』の高さと同じくらいです。
それじゃあ、「阿伎留城」の三内氏は周辺に睨みがききますね。
踏切の手前に写真③の石碑に三内家の名前があります。

『あべのハルカス』がある大阪に1度しか行った事がありません。
コロナウイルス終息後は、きっと大阪にも城攻めに出陣するでしょう。
『あべのハルカス』を見上げて「阿伎留城」を思い出します。
、、、高所恐怖症ですから、やっぱり見上げます。

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とってぃ

伝逸見曲輪跡発掘調査説明会 (2021/03/20 訪問)

伝逸見曲輪跡の門の跡も特定された。
いくつかの年代の重なりや崩されているであろう様子もあった。
不明な点がいくつかあることも教えていただき興味深かった

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カズサン

平成化粧直すぐの真っ白天守閣 (2014/11/04 訪問)

 平成の大修理を終えてグランドオープン(H27/3/27)の約五ヶ月前、母の七回忌法要終えた翌日城崎温泉泊まり、竹田城、生野鉱山坑内廻り、生野町巡り、生野代官所を訪ね、平成大修理の大屋根、仮設足場が取り払われた姫路城へ、ドキドキの対面です、この歳ですので昭和の大修理、平成の大修理と二回のチャンスに会いました大感激です。
 車移動は播但道経由して姫路城東曲輪の市立美術館側に有る姫山駐車場を利用。
 姫山駐車場から東より進入、喜斎門、井戸曲輪下、山里曲輪、三の丸広場、桜門、内濠外から眺め望遠で撮影、今しか(H26/11/4)見る事の出来ない真っ白い姫路城天守閣です、大切にして守って行きたい日本の宝ですこの巡り合わせに感謝です❣
 こてこてと天守写真を掲載しますが見て頂ければ幸甚です。
 

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カルビン

勝手に第二次籠城企画 延長戦 [人取橋古戦場] (2015/10/24 訪問)

緊急事態宣言明け前最後の投稿になると思います・・・そもそも緊急事態宣言自体最後にしたいですな(汗)

伊達政宗率いる伊達軍7千(8千とも1万とも)vs鬼佐竹こと佐竹義重率いる佐竹連合軍3万が戦った事で知られる人取橋古戦場をup致します。

そもそも合戦のキッカケが政宗の父・輝宗を畠山義継が人質に取って亡き者にした返討で、畠山氏にキツイ処遇を与えた政宗の責任・・・という声も多いものの、実際反省しなかった畠山義継に問題があったと思われます(勿論この時代の常識においてですが(危))

二本松城の畠山一族の救出という名目で政宗を潰そうと目論んだ、数に物を言わせた佐竹軍に対し、狭い橋の人取橋でなんとか戦局を持ち堪えた伊達軍でしたが、ここで老将・鬼庭左月斎が打ち取られてピンチのまま初日を終え。。。

覚悟を決めていた伊達軍だったものの、翌朝佐竹連合軍は姿を消していた・・・伊達軍はギリギリで行き延びたわけです。
伊達軍の太宰金七率いる忍軍・黒脛巾組の活躍(北条軍が攻めてくるとの情報を流したり、佐竹義重の軍師的役割で叔父の小野崎義昌を暗殺した・・・等が言われている)で救われた説が有力です。

ちなみに1日目の戦いを終えた際に、縁起を担いで豆を刀で砕いて餅とあえて食べたのが陣打(じんだ)⇒ずんだになってずんだ餅と呼ばれるようになった・・・とかw


この日人取橋古戦場にたどり着いたのが日没前ギリギリでした・・・最寄りの駅手前で真っ暗な畑道を通ったのがもう5年以上前なんだなぁ・・・と。。。
すでに1年以上史跡巡り出来ていないです。。。はやくワクチン接種して気軽に遠征したいです(望)

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