本多政重という人物がいます。家康の側近、本多正信・正純親子を父と兄に持ちながら、豊臣縁故の大名家を渡り歩き、関ヶ原では西軍に加担。最後は加賀の藩老を担いました。こう聞くと、徳川が一方的に送り込んだように思えますが、そう単純ではなさそうです。背景には幕藩体制草創期の微妙な駆け引きが見え隠れします。
金沢城を石川門から出て、兼六園を抜けるように歩くこと約10分。加賀本多博物館には加賀藩士の中で最高禄の5万石を拝領した加賀本多家ゆかりの品々が展示されています。なかでも「村雨の壺」は政重が加増を辞退した際、前田家3代・利常から代わりに下賜されたとされる名器。通称「五万石の壺」(写真は同館資料から。実物は撮影不可)。
さて、そんな政重の特異な歩みは徳川2代将軍・秀忠の寵童を斬って出奔するころから始まったそうです。その後の渡り奉公先でことごとく秀忠の嫌がらせに遭い、辿り着いた米沢で直江兼続の娘婿におさまったとのこと。当時、関ヶ原の戦後処理で大幅削封の憂き目に遭い、反徳川の筆頭と目された上杉家に収まること自体が結構な離れ業のように思えます。ひとつの見方は、同家存続のために動いた本多正信の意向を兼続が迎えたというもの。そこには多少の親心も働いたかもしれません。
その後、政重は加賀に帰参。幼かった利常によく仕えたそうですが、これも基本的には同じ構図ではないでしょうか。器量に不安のあった秀忠の治世で、外様雄藩を潰すのではなく、取り込みに行ったという点に味わいを感じます。大坂の陣を控え、関ヶ原の構図を越えたやりとりが水面下で行われていたのはほぼ確実で、況してや、正信と兼続という稀代の謀臣二人がその中心にいたかもしれないと思うと、個人的には心躍ります。
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