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イオ

歴史の中心地 (2021/02/20 訪問)

(山麓編から続く)

巨石で築かれた黒金門からは主郭部です。伝長谷川邸に寄り道して織田信雄公四代供養塔に手をあわせてから二の丸へ。見事な野面積みの高石垣を眺めながら二の丸に上がると、羽柴秀吉が織田信長ゆかりの太刀や烏帽子、直垂などを埋葬したとされる織田信長公御廟があります。「麒麟がくる」を見終えて間もない頃だったので、感慨もひとしおです。
そして本丸へ。地面から見えている石列は本丸御殿の礎石でしょうか。本丸は天主台、本丸取付台、伝三の丸の石垣に囲まれ、東虎口や南虎口の先にもまだまだ曲輪は続いているようですが、見学できるのはここまで。本丸取付台から天守台に上がると、写真でよく見るあの礎石群が並ぶ光景が! ここにかの豪壮華麗な天主が建っていたかと思うと不思議な感覚です。今いるこの地がまさにあの時代の歴史の中心地なんですよね…。

主郭部を後にして摠見寺の本堂跡や三重塔、二王門を見学し、百々橋口…へは下りられないので、伝羽柴秀吉邸下段を経て登城口に戻り、100名城のスタンプを押して帰途につきました。

安土城といえば、100名城スタンプラリーを始めたばかりの頃のことが思い出されます。当時の私は「城=天守(櫓)」であり、天守や櫓などの建造物がない城は「城」でなく「城跡」という認識でしたので、歴史的意義を考えれば安土城が100名城に選ばれるのは至極当然だとは思うけど、あんな何も残っていない城跡に行ってもなぁ…と思っていました。この圧倒的な総石垣をつかまえて「何も残っていない」って…ねぇ(笑)

ともあれ、石垣にも心惹かれるようになった今の私には大満足の安土城でしたが、未整備で見学できないところもまだまだたくさんありますし、令和8年の築城450年に向けて滋賀県で「幻の安土城」復元プロジェクトが進められているようですので、今後の整備の進展を楽しみに待ちたいと思います。
 

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天守が眩しいけど (2021/03/09 訪問)

敢えて、堀や曲輪跡を見るバリエーションルートで歩く。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー35城目 (2021/02/27 訪問)

高知県立歴史民俗資料館は4月28日まで休館ですので、山村民家にてスタンプを捺しました。休館中に実施されているスタンプラリーに喜び勇んで参加させて頂き、御城印を頂くことができました。

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昌官忠

北総線沿線日帰り攻城④:相模台城➡城びと未登録(千葉県千葉市) (2019/05/02 訪問)

葛西城➡青砥駅➡松戸駅下車。そこから徒歩5分で相模台公園登り口(35.781207、139.901423)に着きました。

相模台城は1241年(建長元年)房総三国守護で第六代執権となった北条長時が館を構えたことに始まるそうです。
その子久時、久時の子守時と続き、嘉暦年間に十五代執権で北条得宗家最後の執権となった北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、この地に居住したため「相模台」と呼ばれるようになったそうです。
鎌倉陥落後、相模台城も陥ち、1359年(延文4年)、足利尊氏の家臣で下野出身の芳賀兵衛入道が在城したが、翌1360年(延文5年)には新田義徳に奪われ、その後和睦して一時廃城になったようです。
1538年(永禄7年)の第一次国府台合戦では、里見義堯らから北条氏綱・氏康父子の渡河中に攻撃することを進言されたが、足利義明はこれを聞かず、けっきょく相模台地で合戦となり、足利義明は討ち死に、小弓公方は滅亡します。
氏綱はその勢いのまま小弓城、真里谷城を攻略すると下総まで北条氏の勢力を広げることになりました。
その後は小金城の支配下となりますが、1590年(天正18年)の小田原の役まで城郭として取り立てられていたかどうかは定かではないようです。
現在、城址は相模台公園となっており周囲は宅地化が進み遺構はほぼ残っていません。
松戸市立相模台小学校や千葉地方法務局に土塁が一部残っていますが当時のものかは不明だそうです。

急に高台となっていてお城の雰囲気はありますが、遊具のある公園でした。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

北総線沿線日帰り攻城③:葛西城 (2019/05/02 訪問)

国府台城➡矢切駅➡青砥駅下車。そこから徒歩15分で御殿山公園(35.755143、139.854667)に着きました。

鎌倉時代に桓武平氏の流れをくむ葛西氏が城館として築いたという伝承もあるが、その詳細は不明だそうです。
確実なところでは、関東地方における享徳の乱において旧利根川筋をはさんで西側に上杉・幕府方、東側に古河公方の勢力が対峙する情勢のなか、15世紀中葉に関東管領家の上杉方の城として築城されたと考えられています。
下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や北条氏によって争奪されました。
北条氏康が里見氏を攻略した国府台合戦の際には北条氏側の最前線として利用されました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐では戸田忠次らによって攻められ落城しています。
その後は廃城となりますが、徳川家康の関東入封後はここに「青戸御殿(葛西御殿)」と呼ばれる陣屋が建てられました。
この陣屋は3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されましたが、明暦の大火(明暦3年(1657年)頃)で焼失した江戸城再建の資材に利用するため破却されています。
現在は城址の中心部を南北に環七通りが横切っており、東西それぞれの城郭跡が「御殿山公園」「葛西城址公園」として整備されています。

葛西城址公園と御殿山公園とに分かれていますが、自分は御殿山公園のみ散策しました。
御殿山公園には、発掘の出土品の写真や青砥藤綱城址の城址碑がありました。
攻城時間は10分くらいでした。

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ひろし

地元の公園ですね! (2021/03/10 訪問)

平日に何とか取れた有給を使って訪問しました。

遺構はほとんど残っていないようですが、天守閣?風の展望台?や、まあまあ広い池などあって、地元の憩いの場になっているようです。
小さいお子さん連れの家族や年配の方まで、いろんな方がみえていました。

往年の形は残っていなくても、小さいうちにお城のある公園で遊べるっていう経験は悪くないと感じました!

余談てすが、僕の生まれは岐阜なんですが、庭園内に岐阜県根尾村から寄贈された薄墨桜があって驚きました。
こんなところで岐阜と繋がってたんですね、
もう少し暖かくなってから来たらキレイだったでしょうね~

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崇神コースより (2021/03/11 訪問)

 南城と北城があります。
南城
 龍王山城山頂にあり、主郭からの眺望はすばらしい。北城に比べると規模は小さいですが、主郭の東側に残る堀切は見ごたえがあります。
北城
 南城に比べ規模が大きく遺構も多く残されています。ただ未整備な状態で散策するのに難渋しました。掘割と書かれた案内板の背後に堀切はすばらしいのですが、道が明瞭ではなく苦労しました。畝状竪堀も藪でわかりにくかった。井戸と縄張り図にありましたが、見つけられませんでした。石碑のある所から登城して、西の大手丸方面から帰ってきました。
井戸跡はわかりませんでしたが、龍王山は山頂付近でも湧水が多く認められ水の手には苦労しなかったと思います。

 登城ルートは天理ダムから舗装された道を登って来るルートと崇神コース、長岳寺コースがあります。天理ダムからの道は車で城址近くまで上がって来くることができ駐車場もあります。原則として山城は歩いて登城(例外は沢山あります)することにしていますので、崇神コースで登り長岳寺コースで降りてきました。徒歩で行かれる方は崇神コースが歩きやすいと思います。片道1時間くらいです。写真は前の4つが南城、それ以後が北城です。

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黒塚古墳 (2021/03/11 訪問)

 JR柳本駅から徒歩3分くらいの所にある黒塚古墳が城址です。城址に関しては、案内板などはありません。

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急斜面に美作の「美」の字が灯る (2021/03/07 訪問)

城びと先達のレポートの通り、「宇喜多の捨て嫁」にも書かれた、宇喜多直家の厳しい処世の舞台である。三星と言うのも珍しい名前と思う。韓国の巨大企業のSamsung(三星)には苦労させられた。
城主の後藤勝基の墓の後ろに登城口の表示があり、ピンクのテープ表示もあるが、途中から道がわからなくなる。北の丸は中腹よりも低い位置にあるので、直登でもOK。
北の丸には、畝状竪堀や横矢がかりの土塁がある。さらに、北の丸から、二ノ丸、三ノ丸への登り口への緩い斜面には登り土塁なるものも。
城の名前の三星は、三つの頂きがあることから来ていると。頂きは、西から一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と東西に並び、同じくらいの高さである。山体は堆積岩で、麓の川が激しく浸食し、急峻な斜面を作っている。二ノ丸下の斜面は、特にそそり立っており、そこに、「美」の形に灯り装置が並べられている。そそり立っているから、麓から字として見えやすい。夏には、天の川の「天」の灯りになるとのこと。
訪問日は、地元の方による、草刈りが行われていた。草刈りの範囲は、麓から後藤勝基の墓までのようだった。城域には、表示がたくさんあり、また、その中身も思い入れがある。ただ、だいぶ年期が入って、読みにくかったり、倒れていたりするのが残念。
二ノ丸から三ノ丸とその周辺は、探索しやすいが、二ノ丸から西への一ノ丸は入口が雑木林で分かりにくい。

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イオ

魅せる城 (2021/02/20 訪問)

家督と岐阜城を嫡男 織田信忠に譲った織田信長が、京と北陸、東海に睨みをきかせ、琵琶湖湖上交通をおさえる新たな拠点として、丹羽長秀を総奉行として築いた城で、総石垣と地上6階の壮麗な天主を擁し威容を誇りましたが、本能寺の変での信長の死により明智秀満が入城し、山崎の戦いの後、天主と本丸は謎の焼失をとげました。清須会議の後は織田秀信(信忠嫡男の三法師)が二の丸に入城しましたが、羽柴秀次の近江八幡城築城に際して城下町ごと移転して廃城となり、以降は信長の廟所として摠見寺により守り伝えられてきました。

安土山の頂部に天主台を擁する主郭部を、南麓に大手道と両脇に雛壇状の曲輪群(家臣団屋敷跡)を、百々橋口からの南西尾根に摠見寺を、その他 全山に数多の曲輪を配した巨大城郭ですが、残念ながら現在 見学できるのはその一部に限られています。

南麓の駐車場に車を駐めて登城開始。有料エリアに入る前に大手三門や南山裾帯郭、西側上段郭、北上段郭と発掘調査に基づき復元された石塁や虎口などを見て回りましたが、説明板も充実していて、これだけでもなかなかの見応えです。有料エリアに入ると、山上に真っ直ぐのびる石造りの大手道と、両脇の家臣団屋敷跡の石垣が壁のように聳え立っています。写真では何度も目にしていても、実際にその場に立ってみると開いた口が塞がらないような圧倒的な迫力です。さすがは見せる(魅せる)城ですね。…と言っても、伝前田利家邸も伝羽柴秀吉邸も見せかけだけの居館でなく、隅櫓や櫓門、枡形虎口に蔀石塁まで備えた実戦的な造りで、大手道の両側を守っています。

大手道の石段に転用された石仏を数えたり、摠見寺仮本堂(伝徳川家康邸)の鐘を撞いたりしながら登って行き、伝武井夕庵邸、伝織田信忠邸を抜けると、いよいよ主郭部です。(続く)
 

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todo94

潮見台団地 (2021/02/27 訪問)

潮見台団地の奥、潮見台みどりの広場沿いの道の角から登城路が伸びています。公園としてきれいに整備されていますが、未整備の雑木林、最高所は山城的な雰囲気を感じることができました。城址碑、説明板など城であることを示す表示は見当たりませんが、甚だしく老朽化した介良の絵地図に辛うじて「城跡」の文字は見いだすことができました。

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昌官忠

北総線沿線日帰り攻城②:国府台城(別名:市河城・鴻之台城) (2019/05/02 訪問)

大野城➡市川大野駅➡矢切駅下車。そこから徒歩20分で国府台城滝付近(35.748109、139.898894)に着きました。。

市河城(市川城)は、享徳の乱の初期に発生した下総千葉氏の内紛の際に、宗家側の生き残りであった千葉実胤・自胤兄弟が籠城したが、1456年(康正2年)に陥落(市川合戦)。
国府台城は、その後、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が1478年(文明10年)に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤を援けて下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まるそうです。
この際に城地として相応しいと見立て、翌1479年(文明11年)に臼井城にいた千葉氏の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いたと記録に残っているそうです。
太日川(現在の江戸川)と坂川の合流地点という要所であったため、後北条氏、千葉氏、高城氏と里見氏、太田氏、上杉氏ら房総諸将らによって行われた国府台合戦の舞台になるなど、争奪戦が繰り返されました。
しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされました。江戸を見下ろす場所にあったからとも言われています。
現在、城址は里見公園として整備されており、桜の名所となっています。また、堀切や空堀、土塁跡は残っており、櫓台の跡も確認できます。

公園化されているので遺構は少なめですが、雰囲気は伝わります。
攻城時間は45分くらいでした。

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昌官忠

北総線沿線日帰り攻城①:大野城 (2019/05/02 訪問)

自宅最寄り駅から市川大野駅で下車。そこから徒歩10分で市川市立第五中学校A門にある説明板前(35.752433、139.956689)に着きました。

大野城は千葉氏の重臣・原氏の一族、大野原氏の居城でした。
大野城は平将門が築いたという伝承も残っていますが、1979年(昭和54年)におこなわれた発掘調査の結果、中世戦国時代の城であることが確認されました。
鎌倉時代には日蓮の庇護者としても知られている千葉氏家臣曾谷教信が大野の地を支配していたとされ、付近には中山法華経寺など日蓮宗寺院が多いようです。
確実に大野城を用いていたとされているのは、1455年(享徳3年)に勃発した享徳の乱の過程でこの地域に進出してきた原氏庶流のいわゆる「大野原氏」と呼ばれる人々だそうです。
近くの本光寺の山号である光胤山は大野原氏の原光胤に由来すると言われています。
その後、大野城付近の支配は原氏からその重臣である小金城の高城氏に移り、遅くても同氏が改易された1590年(天正18年)の小田原征伐までには廃城になったと考えられています。
現在でも市川市大野町3丁目の「城山」の一帯には、御門・殿台・馬寄場・根古屋などの中世城址をしのばせる地名が残っているそうです。
現在城址に遺構は残っておらず、跡地には市川市立第五中学校があり、同校に説明板があります。

浄光寺前の県道9号線沿の幼稚園前(35.753412、139.954965)に大野城跡方面の標識がありました。
このあたりは高台になってます。攻城時間は15分くらいでした。

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にのまる

天領時代の。 (2021/02/07 訪問)

 みなさまご投稿のように住宅地なので、少し離れたところに見えた蜜柑の木を撮って終わりにしようと思ったのですが、そこから緑地の土手に下りてみると、天明期建立とあるお墓がありました。(個人様のようなので写真は控えました。)
 陣屋があったとされる時代はさらに遡りますが、この緑地もいにしえの記憶を持つ貴重なレガシーなのではないかと思いました。

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赤い城

西光寺、葛西清重が創立 (2021/02/27 訪問)

京成四ツ木駅から徒歩で5分。
西光寺の周辺が館跡となります。
遺稿は無いですがこの西光寺は親鸞の弟子となった葛西清重が創立した寺です。
山門の脇に説明板がありました。

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カズサン

掛川桜満開の彩り (2021/03/10 訪問)

 10日前に訪れた時は満開までに後1週間程掛かるかなという状況でしたので今日天気も良くぽかぽか陽気に誘われて掛川桜満開の掛川城の撮影に出掛けました。
 赤ちゃん連れのママ友、同年代シニア世代の男女連れと多くの方で賑わって居ました、掛川桜は外濠の逆川両岸満開状態、よく見ると満開過ぎ根元には花弁がじゅうたん状に散っています。
 花は小振りな濃いピンクの緋寒桜です、本格的染井吉野桜の前に掛川城を彩って呉れてます、前回と同じアングルですが濃くなった掛川桜と掛川城の写真をご覧いただければ幸甚です。

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準平原の吉備高原 (2021/03/07 訪問)

城びと先達の投稿を見て行きたい城にノミネート。
国道から谷筋に入ると岩屋城家臣の屋敷跡の表示が道脇に連なり、気持ちが高まる。
先達の推す、てのくぼり(テクノ堀に語呂が近い😅)は、もちろん、たくさんの兵力が駐屯できる山頂の郭群も良い。
美作の山城を含め吉備高原の山城に登ると、見渡す山々の頂部の高さが揃っていることをいつも思う。吉備高原は、一旦平坦になった土地が隆起して再び侵食が始まった地形である。岩屋城も堆積岩が浸食されて急峻な斜面を作った山である。岩屋城のかなり高いところに湧き水があるのは、近くの山が同じ高さにあるからであろう。

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ダイエティシャン

戸倉城跡(要害山城跡)Ⅳ 主郭 堀切? (2021/03/10 訪問)

主郭から、稗原の集落が見渡せます。晴天時は、宍道湖が見えるかも?(1〜3枚目)郭(4〜7枚目)北側に(7枚目)付き出ていました。登城道は主郭の北西に続いていました。土塁や石垣等は確認出来ませんでした。
下山途中に、堀切らしき物があり。(8枚目)
この辺りに【殿森】と云う地名あり。戸倉城主(要害山城主)と関わりがあるのでしょうか?

今回も【城めぐリン】が大活躍!

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ダイエティシャン

戸倉城跡(要害山城跡)Ⅲ 登城道  郭跡 主郭 (2021/03/09 訪問)

蛇!蝮!と思いきや、登城の為のロープ(2枚目)でした。一番の思い出です。ここから、約45℃の山道を登ります。新しいロープもあります(3枚目)木の根(4枚目)と越え少し行くと拓けた平地が(5 6 枚目)主郭と思いきや、上に続く案内板あり。岩を越え(7枚目)大木(8枚目)を大きく右に曲がり、進軍すると、主郭に到着(9 10枚目)

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ダイエティシャン

戸倉城跡(要害山城跡)Ⅱ 登城道 (2021/03/10 訪問)

登城口から、主郭(1枚目)迄は、約15から20分。
ネットで、念入りに調べたところ、登城道は塀の奥に続いていると情報。塀を良く見ると、お手製の階段と杖が‼(2枚目)これは階段で塀を越えても良いと言う合図だと思い、進軍。
落ち葉の30℃位の登城道が続いてます。(3枚目)片足しか通れない程の狭い道も!(4枚目)
倒木もきちんと処理されています、(5枚目)まだ最近の様子。整備して下さった方に感謝です。土を削っての階段(6枚目)整備の質に驚きと感謝です。随所に案内板(7枚目)10分後、周りは竹林に(8枚目)水も湧き出ていました(9枚目)
進軍すると、長い蛇が!(10枚目)

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