みんなの投稿

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じゅんじん

たんぼ (2020/01/22 訪問)

小高い土盛りがありました。出張ついでに朝寄りました。

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じゅんじん

公園 (2020/03/01 訪問)

城址公園が整備されていました。近くには城址碑があります。

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だめなこ

やっと行けた♪ (2020/02/15 訪問)

年末に行ったらちょ━━━━どその日から冬休みに入っちゃってて
やっと行ってきた\('ω')/

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じゅんじん

説明会 (2020/02/22 訪問)

数年前から続けていた天守台の発掘調査もクライマックス。先月の説明会に行ってきました。
最古級の小天守台がありました。

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国境の城 (2020/03/07 訪問)

 最大の見所は畝状阻塁から竪堀となっている南側の曲輪で、他では見た記憶がなかったので興味深く観させていただきました。主郭下の曲輪の切岸も見ごたえがあります。西側へ進むと土橋があり、馬出しのような曲輪があります。予想よりも城域が広く楽しめました。
身延線井出駅より歩いて登城しました。徒歩でのんびり歩いていたら約40分近くかかりました。車で行くなら駐車場の目の前が大手入口です。大手入口から進むと、すぐに城域になります。倒木や足元が不安定な所もありますが、概ね散策はしやすいと思います。

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姫街道

奥三河の四城 (2020/03/07 訪問)

三河・遠江地方で、「北遠」と言うと主に天竜川・信州街道を中心に分布している城で標高も高く、南北朝時代に活躍した城も多い。勿論その後は武田対徳川攻防の中心地でもある。「奥三河」と言うと、僕は主に別所街道沿いをイメージするが、北遠とはかなり違う雰囲気だと思っている。まず、別所街道は、豊橋から別所まで標高が200〜300程度でさほど高くなく、南北朝時代にはあまり出てこなく、築城もどれも戦国時代で、城もこじんまりとしている。
ただ、三河・遠江・信濃に接しているため、武田対徳川の攻防ではそれぞれ城を守る地元豪族達はその時々で厳しい選択を迫られた地域である。
今回は、天竜東栄線から峠を越えて、鶴ケ城→亀ケ城→別所城→裏鹿城へ行った。
さて鶴ケ城だが、今川系の高根城主奥山氏築城。ここを破られると遠州に入られてしまうが、桶狭間直後の徳川方についた別所城主伊藤氏の攻撃に対して、城主の鶴山氏は裏鹿城の日名地氏にSOSをだしたが、日名地氏は信濃に接しており対武田で精一杯で兵を出せず、守りきれなかった。亀ケ城の城主も伊藤氏だが、別所伊藤氏との関係は不明。いずれにしろ、鶴ケ城・亀ケ城とも今川方で対織田であったから一族ではなかろうか。
ところで、この四城とも中央構造線上にある。武田信玄の西侵あたりでは、このあたり武田方についたが、あまり縄張りに武田方の雰囲気を感じないのは城の構造が河岸段丘だけでなく断層の影響もあるのではないかと想像しながら回り、楽しめた。

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todo94

遺構なし (2020/03/07 訪問)

本日は日帰りで佐久の城めぐりの予定。それでもアプローチの途中で諏訪の城もチェックしていきました。信濃境の先達城です。常昌寺が本丸に当たるそうで、これと云った遺構はないようですが、寺の後背の切り立った崖は見応えがありました。

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カルビン

発掘調査に屈するorz (2014/09/28 訪問)

新田義貞の出身地・群馬県世良田地区には城びとに登録有無を問わずそこそこの数の史跡があります。
それを根こそぎ見学に行った際に一番期待していたのが江田館でした。

車を停める場所があるのも有りがたい所。。。が、喜び勇んで入口に行くと・・・タイミング悪く発掘調査期間中で城域に入ることが叶わずorz
断腸の思いで外周を回って出来る限りの見学をしました(涙)

外から見るだけではありましたが、立派な堀が館を囲っておりまして、当時居館タイプのお城嫌いだった自分でも見ててテンションの上がるものでした。
そういえば各地の居館タイプのお城って土塁に囲まれている所が多いのに対し、新田関連の居館跡(江田館・反町館)は堀に囲まれてますね~

6年経過した今、機会があれば是非再訪したい1ヶ所で御座いますが・・・電車だと東武伊勢崎線世良田駅から4km弱あるんですよね。。。ちょっと遠いなw


近くには反町館があり、駅を挟んで南には世良田東照宮(徳川家の始祖と言われる世良田氏)を中心に歴史公園内にいろいろあるので、一緒に見学するとお得です。

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まーやん

石橋城址(愛知県新城市作手清岳寺屋敷) (2019/02/17 訪問)

亀山城址西向いにある奥平氏家臣の館跡。
二代奥平貞久の子奥平久勝が最初の城主。
その子繁昌は四代貞勝に謀反の疑いをかけられ一族郎党討ち取られた、と説明書にある。
現在、この館跡は慈昌院という。

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まーやん

奥平五代+松平忠明の居城 (2019/02/17 訪問)

国道301号を作出民族資料館に向かい北上する途中、二つの城が目についた。その内の一つが亀山城址だ。古宮城の1km程南に位置している。

1424年以来、奥平氏が居城としていたが、1573年に武田の攻撃を受け、城を捨て家康に従い転戦する。
1575年に長篠城主となったが同年に武田の猛攻を受けながらも籠城戦を耐え生き抜いた。武田は長篠・設楽ヶ原の戦で大敗した。

戦の後、奥平貞昌(後に信昌と改名)は家康の長女亀姫と結婚。四男松平忠明は作出藩亀山城主となり八年間当地を治めた後、伊勢亀山藩へ転封となる。なんと亀に縁のある一族か。

車で行くときは国道の反対側にまわり駐車場から登城できる。

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まーやん

馬場信房築城の対徳川最前線基地 (2019/02/17 訪問)

作出歴史民族資料館でスタンプゲット。資料をいただき古宮城址南側の白鳥神社から登城。
説明書によると、築城時は西側以外湿地であり、西側は塞之神城に通じ、主要部が東西に別れた一部別郭式の要害堅固な城であったとある。
小山を丸ごと要塞化しているが、特徴は中央を南北に貫く大堀切。これが曲輪を東西に分断し、頂部で土橋で繋いでいる。有事は西南にある大手虎口からしか城に入れない作りで、多重横堀の上に馬出の役割を担う二ノ曲輪が控える。
二ノ曲輪から土橋を通り主郭に行くが、櫓台が睨みをきかせ主郭には両袖桝形虎口が行く手を阻む。到達しても郭内に土塁の仕切りがあり、もー何がなんだか分からなくなる土の城だ。
写真では立ち木と木漏れ日で見えにくいが、遺構が大変よく残る土の迷路のような城だ。

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刑部

予想以上に遺構が残る城址 (2020/03/01 訪問)

広重美術館駐車を利用させて頂きました、まず資料館で情報収集。直ぐ裏の神社から入りました、最初の階段はかなり急です神社裏手より奥へ進むと大木が倒れていて道が閉ざされてます そこを乗り越え更に奥へ深い堀切を越えて主郭部そして本丸跡その先も堀切です。脇下には土塁と空堀かなり遺構は残ってます整備すれば素晴らしい城址だと思いました。

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カズサン

本丸高土塁と可愛い櫓風展望台 (2016/03/02 訪問)

 栃木県北部の城、大田原城を終えてもう一つの黒羽城を目指す、大田原城より西に進行し那珂川を渡り国道461号線をナビ指示の進入路が余にも狭く、過ぎて仕舞い黒羽城の西に向かう道が中々無く大幅に北に登り北城に在る体育館の北側から黒羽城専用駐車場に停める。

 黒羽城初登城、専用駐車場から直ぐに在る登城路第一枡形虎口を通り横堀を橋で渡り本丸大手枡形虎口、本丸内部に入り高土塁と土塁上に建つ櫓風展望台が直ぐ目に入る、南側土塁から土塁上に登り周遊、櫓風展望台に昇り展望、本丸内部と西側の那珂川素晴らしい景観です、本丸南側の堀切、堀切に架かる橋を渡り三の丸手前の高櫓台風の東西に長い郭を通り階段で南の堀を渡り三の丸の暗り門風の石垣間に頭上廊下が架かってる、三の丸内部に芭蕉の館に成ってる、芭蕉と曽良の像が館前に立ってる。
 北に二の丸エリア、体育館に成ってる。
 本丸の高土塁、南の幅広く深い堀切、那珂川河岸段丘の利用素晴らしい造りです。

 大関氏が築城して小田和合戦に参陣し1万石に息子に3千石合わせて1万三千石の所領を賜り、関ヶ原合戦では対上杉戦に黒羽城を改修、家康より援兵を受け関ヶ原の功で2万石の大名に成る、以後大関氏黒羽城主代々続いて明治を迎える。

 黒羽城は芭蕉が約2週間滞在してる事でも有名で特に俳句仲間では大事なところです。

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カズサン

本丸高土塁が素晴らしい (2016/03/02 訪問)

 喜連川陣屋を終えて北上し栃木県北部の名城大田原城を目指し坂下門辺りの駐車エリアに車を停めて初登城。
 坂下門辺りを探訪し大田原城の案内絵図を見てびっくり、規模の大きさに更に驚愕する惑惑期待を膨らませちながら本丸下の登城坂を登って行く、堀切、二の丸、本丸台門跡、本丸内部ただいま工事中、本丸土塁に登り周遊探訪、蛇尾川からの段丘か?、眺めも素晴らしい、搦手虎口から下城し坂下門辺りへ、北の丸に入り曲輪と本丸切岸、高土塁?を眺める。
 高土塁を使い規模にもびっくり素晴らしい城郭で桜の時期はさぞ賑やかな事でしょう、桜の前で少し残念。

 城主大田原氏は那須七騎の一つ、小田原合戦に参陣し領土安堵、関ヶ原合戦前から対上杉で家康方、後に加増され合わせて1万2千石で大名に列する、以後代々続いて明治を迎える。

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カズサン

麓は喜連川陣屋、復元大手門在り (2016/03/02 訪問)

 鬼怒川東河岸段丘崖上の勝山城を終えて北東方向に国道293号線を進行し古い街並みを残す喜連川町へ喜連川陣屋はさくら市喜連川庁舎内に在り大手門を車で潜って初登城、車は同庁舎の駐車場に停める。
 
 喜連川陣屋は城の写真集で大手門が紹介されて居り、また以前仕事の関係でここの殿様筋である喜連川氏と何回かお会いした事も有り一度訪ねたいと思って居りいましたので願いが叶った次第です。
 大手門の見学撮影、喜連川庁舎に寄り情報と資料を頂く、城域の倉ケ崎城は先の東日本震災の被災で登城禁止状態でしたので大手門のみこれだけで満足です。

 喜連川氏は足利氏古河公方を継承する名門、喜連川に移って喜連川氏を名乗る江戸時代は高家で10万石の格式を誇った明治まで続く。
 
 昼食を素晴らしい街並みの残る食事処で頂き次の大田原城を目指す。

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カズサン

鬼怒川東急崖を背にした氏家氏の城 (2016/03/02 訪問)

 飛山城を終えて鬼怒川沿いに北上し国道4号線沿いに在る勝山城初登城、国道4号線バイパスに入る手前で旧国道4号線に入り「さくら市ミュージアム」が見えたらミュージアム方向西入、導入路北側に駐車場広く在り、私は今回良く分からずミュージアム裏手の南側駐車場に停めて探訪開始。
 昨年5月の投稿した新緑の頃でしたが今回の投稿は平成28年3月上旬の木の葉が落ちて下草が枯れてる時期なので土塁、堀が若干良く分かるのではと投稿しました。
 鬼怒川東岸急崖傍が本丸、本丸囲んだ二の丸、三の丸は南側田畑に成ってますが発掘調査し良く保存管理されてます、鬼怒川からの眺めも良く皆さんに訪ねて貰いたい名城です。

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城好きのメガネ

「将軍家の日光社参の宿城 壬生城」 (2020/02/29 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
壬生城は、1469年ごろに壬生氏第2代当主・壬生綱重によって築かれたとされる。壬生氏5代当主・壬生 義雄は、小田原北条氏と手を結び、宇都宮氏から独立して抗争した。小田原征伐の際、小田原城に籠城するも落城の直後に病死したとされる。男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は絶家した。壬生氏の滅亡後は、将軍家の日光社参の宿城として城主が目まぐるしく入れ替わった。1712年に鳥居忠英が3万石で封じられた後、明治維新まで鳥居氏8代の居城とされた。戊辰戦争では新政府軍に組し、旧幕府軍によって落城した宇都宮城攻略の拠点となった。現在、本丸は城址公園となり、土塁、堀が遺されている。

<アクセス>
東武宇都宮線 壬生駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「栃木城」 (2020/02/29 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
栃木城は、1591年に皆川広照が築いた平城である。皆川氏は、藤原秀郷を祖先とし、下野守護・小山氏の支流で鎌倉時代には阿波守護を務めた。室町時代には鎌倉府から屋形号を与えられ、関東八屋形のひとつに数えられた名家である。戦国期に皆川氏は小田原北条氏に組し、家名を保っていた。小田原征伐の際に、北条氏照に属して小田原城竹浦口を守備していたが、以前より繋がりを持っていた徳川家康に投降して所領を安堵された。本領を安堵された広照は居城を皆川城から栃木城に移し、城下町を整備した。1609年に、徳川家康による広照の改易と、城取り壊しにより廃城となる。現在、堀の一部と土塁が遺されている。

<アクセス>
JR栃木駅 徒歩15分

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ぴーかる

荒木氏綱 (2020/02/11 訪問)

【細工所城】
<駐車場他>駐車場はなし。ハートピアセンター・JA丹波ささやま多紀支店に駐車
<交通手段>車

<見所>曲輪・堀切
<感想>日帰り光秀丹波攻城の旅2城目。日帰り光秀の攻め城の旅2城目。この城も光秀が丹波攻略の時、波多野氏の旗下で荒木氏綱という武将の本城です。光秀攻撃の際には何度も撃退するほどの剛勇ぶりだったそうです。

登城口に現在はのぼりがあるのですぐ分かると思います。少し登ると祠があり、その先に大堀切があります。ここら一帯の麓近くも長い曲輪があったようです。山の中腹程に広い曲輪がひとつあります。山頂から残り3分の1くらいから、ロープづたいのまあまあな上り道になります。
城跡は主郭を中心に三方に伸びる曲輪群があります。南西方向はおそらくⅡ郭Ⅲ郭ですぐ下段にある。東南方向は連郭になっており途中から切岸がきつくて行けませんでした。北方向は主郭から10㍍程の切岸の下に曲輪があったが、添付写真のように雪が積っていて、降りれるが登れなくなる心配があったので行かなかった。
主郭周辺は綺麗に木が伐採されていました。また曲輪の段差が明瞭になっていたので見易かったです。南西方向から八上城が見えました。

<満足度>◆◆◇

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にのまる

詰城チャレンジ (2020/02/24 訪問)

 今なら詰城まで行けるんじゃないかと思ってからちょうど一か月。決行してきました。
 麓のガイドさんに「あの細くて左側が崖みたいになっている道を進めば着くんですよね?絶対行けますよね⁈」と確認してから本丸へ。本丸をスタート地点にするなんて私も成長したもんだ。(厳密に言うと、本丸まで行く必要はないのですがせっかくなので行きました。)
 トイレの横の道を入っていって右手の今でも水が湧き出ているという井戸を過ぎると、視線はほぼずっと足元でしたが、一つ目の堀切を過ぎたあたりでやっと気持ちに余裕がでてきました。石がゴロゴロしているのは石垣が崩れたのか岩盤が剥がれたのか見分けがつかなかったです。とにかく石だらけで歩きづらかったけれど、慣れてくると危険だと感じるところはありませんでした。
 登ったり下ったりしながらしばらく進み、ここはちょっと高いなと思ったところを登ると小さな広場があり、焼け焦げた丸太と、火事に気をつけましょうという注意書きがありました。山火事とか怖いわぁ、さっさと進もう、と思って見ていると焦げた丸太の横に「詰城」「天守閣跡」と書いてある木の棒と石柱が。
えっ?ここがゴール?詰城到着?
…ものすごい感動がそこにあると思っていました。もっともっと広くて本丸にあるようなでっかい石碑があって、ベンチもあって視界も開けて下界が見渡せて、何なら幟がパタパタとはためいていて…というような。
しかし、詰城の意味を冷静に考えればそんなことがあるはずもなく、誤った妄想が膨らみすぎて、我ながら滑稽なゴールとなってしまいました。
 というわけでなんとなく消化不良。そこで、この際もっと先まで行ってやるわ!と、その先の富士見台を目指すことにしました。当初は思ってもいなかった、まさかの詰城スルーです。大きな木の根っこに助けられながら大堀切に下りました。(ここを右に行くと石垣が見られるようなのですが通行禁止でした。)
 最早城域ではないので、ここからはハイカーです。狭くて急で砂でさらさらした登り道は、ここを帰りも通らないといけないのかと思うとやめときゃよかったと思わないでもなかったのですが、引き返すという選択肢はなく(※普通にハイキングコースで決して無茶をしているわけではありません)、そこらへんにいくらでも落ちていた木の枝から手ごろなのを見つけて杖代わりにして富士見台に到着しました。
…ここでもまた大パノラマが広がっていると妄想していたため(^^;)、富士山どこよ?と探してしまうことになってしまいましたが、ここまで来れば思い残すことはなく、すっきりしたところで次のミッションに向かいました。
〈続く〉

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