戸張城から転戦。車で10分くらいでした。
駐車場奥の未舗装の空地(35.835541、139.985080)に駐車して攻城しました。
伝承によれば、鎌倉時代の増尾村は千葉氏一族・師胤を始祖とする相馬氏の所領であったと推定されています。
1272年、所領譲与に関する遺言なく相馬胤村(4代目)が急死します。後妻で尼の阿蓮(あれん)が惣領代となり、その子・相馬師胤とともに増尾村の所領を鎌倉幕府から安堵されたとあります。そのため、幸谷城が阿蓮の居館というのが一説です。
相馬師胤(後の陸奥相馬氏)は遺言で嫡子になったと主張したため、異母兄の相馬胤氏(下総相馬氏・嫡子)と対立しました。
師胤の子・相馬重胤の代になると形勢が不利となり、重胤は郎党らを連れ陸奥に下向しました(1323年)。
拠点の小高城を築き、勢力を拡大。陸奥相馬氏の祖となりました。
南北朝時代になると、師胤は足利尊氏の北朝方につき、南朝方の千葉氏や下総相馬氏と対立しています。
1337年、鎌倉の守備にあたり、南朝方の北畠顕家を迎え撃ったが戦死しました(杉本城の戦い)。
一方、相馬胤氏(下総相馬氏)の子・師胤(同名だがもちろん別人)は、重胤との争いで濫訴を繰り返したため所領を没収されています。
いずれにしても、胤村の後妻・阿蓮が相馬氏を分裂し、この地から相馬氏が消えた要因となった人物のようです。
この幸谷城が相馬分裂の舞台だったんですね。
戦国時代には小金城の高城氏による支配と考えられますが、そのころには増尾城がこの地域の拠点となっています。
現在、城址は万福寺の南側一帯に位置し、長年民家の屋敷林となっていましたが「柏ふる里つくり隊」により整備され、現在は土塁や空堀などの遺構を確認できます。
どこに駐車すればいいかわからず駐車場奥の未舗装の空地(誰の駐車場がわかりません)に駐車して攻城口を捜しました。
民家横の細い路地(35.834442、139.983657)から攻城しましたが、正しい攻城口かは自信がありません。
攻城後に調べたら、万福寺南側の道路沿い(35.835681、139.983384)の貯水地左横の民家の門から入ると、城趾北西部に入れるようです。
城址内は案内板/説明板があり、よく整備されています。虎口、空堀、土塁が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。
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