賀美郡部内の多賀柵が改修されて多賀城になった。従って、名取郡近くの多賀城碑出土地は続日本紀に記された多賀城跡ではない。
大伴家持は伊治城の乱で多賀城が侵掠されたことを受け、多賀は名取以南十四郡から遠くはなれているので多賀、階上に権郡を置く提言をした。なんと、多賀城碑は名取郡近くで江戸時代に発見された。しかも、虚偽がきされている。大野東人は神亀元年に按察使や鎮守将軍に任ぜられていない事も続日本紀にきされている。多賀城碑は偽物であり、多賀城が名取郡ちかくにあるはずがないのです。
養老律縁辺諸郡人居条(令羲解) 凡縁二東辺北辺西辺一諸郡人居、皆於二城堡内一安置、其営田之所、唯置二庄舎一、到二農時一、堪二営作一者、出就二庄田一、収斂訖、勒還、其城堡崩頽者、役二当処居戸一、随レ閑修理、とあるように、多賀城は北辺の城堡であり、近くの諸郡人が農閑期に居る所であり、鎮守府や国府ではありません。宝亀十一年の条に国司治所とあるのは多賀は未だ、賀美郡部内であり郡さえなかった所ゆえに、諸郡人を国司が治めていたのです。古代辺縁城郭は外寇から身を守る所であり戦国時代の城郭とはことなるのです。一二レ点をうまく表示できませんでした。
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