出雲国(島根県出雲市所原町)
以前のリベンジ攻城
本日無事主郭に到着(1枚目)
駐車場(4枚目)から徒歩約15〜20分で到着。
駐車場迄は、随所に看板あり。
駐車場に駐車後、上の道を(5枚目)通り、徒歩約5分で、登城口(7 8 9 枚目)に到着。
落ち葉の登城道を進軍するとすぐ、高さ50センチ程の塀(猪避け柵)が立ちはだかっていました。(10枚目)
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2021/03/10 18:30
2021/03/10 08:18
見どころはあるけれど… (2021/02/20 訪問)
山岳寺院を前身とし、戦国期に六角氏により観音寺城の支城として築かれた城のようですが、詳細は不明です。
八幡山から北にのびる尾根の頂部(岩崎山)に位置し、南部の上段曲輪と北部の下段曲輪群、その間の斜面に設けられた中段曲輪群で構成され、外周を土塁が取り巻いています。
近江八幡城(八幡山城)北ノ丸からハイキングコースを歩くこと約20分で南尾根の畝状空堀群に到着。写真ではわかりづらいですが、道の両側に数条の空堀がしっかりと残っています。そこから少し行くと北之庄神社への分岐に説明板があります。さらに行くと土橋のかかった大きな堀切があり、堀切は北東方向に横堀となって続いています。土橋を渡ったところが上段曲輪で、周囲を高さのある土塁で囲み、南部には中段曲輪群に通じる虎口がある…はずですが、灌木が生い茂っていて進めず見つけられませんでした。
ハイキングコースになっている西辺の土塁上を下って下段曲輪群へ。下段曲輪群は灌木はまだしも笹藪が激しく、七ツ池は4つ確認したところでギブアップ。七ツ池から南東方向には巨大な土塁で枡形を形成した虎口があります。西辺の土塁上を北西の突端まで行くと櫓台状の土壇があり、長命寺港展望台になっています。pascalさんの投稿にあるとおり、右手に長命寺港、左手に水茎岡山城が一望でき、戦国期の六角氏の支城だとすると、やはり水茎岡山城攻略の拠点として機能したんでしょうね。長命寺港展望台の東下には土塁を伴った虎口が開口し、その東には狼煙台ともいわれる北虎口上展望台があります。
北虎口上展望台から北に進み、百々神社に下山するルートもあるようですが、説明板のある分岐まで戻って北之庄神社に下山しました。夏場は道の両脇の草が伸び盛っていそうですが、この日は真冬でもあり特に問題ありませんでした。
畝状空堀群、堀切に土橋、七ツ池、土塁に虎口、そして眺望と見どころはいろいろあるので、あとは曲輪内がもう少し整備されて散策しやすくなってくれればなぁ、と。
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2021/03/10 06:45
2021/03/10 05:52
利根川沿日帰り攻城⑭:栗ヶ沢城(ラスト)➡城びと未登録(千葉県松戸市) (2019/05/25 訪問)
布施城から転戦。車で25分くらいでした。
臨時駐車入口付近(35.823909、139.940774)に一時停車して攻城しました。
1460年(寛正元年)高城胤忠の築城とされています(「高城家由来書」)が、1506年(永正3年)に高城胤吉が栗ケ沢に陣を構えたのを由来とする説もあります(「万満寺記」)。
ただし、「本土寺過去帳」には、1437年(永享9年)に「クリカサワ」において高城四郎右衛門清高という人物が没した事が記されており、15世紀前期には原氏の代官としての高城氏の居館が栗ケ沢にあったとも考えられます。
高城氏の拠点は後に根木内城・小金城に移り、高城胤則の代には重臣田島時定が栗ヶ沢の城代を務めていた(「東葛飾郡誌」)といいます。
現在城址は開発が進み、根木内中学校やユーカリ交通公園になっており、遺構は確認できません。
公園が閉まっていた為、しかたなく車から写真を撮って撤収しました。
城址を感じるような遺構や案内板等はありませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/10 05:49
利根川沿日帰り攻城⑬:布施城 (2019/05/25 訪問)
幸谷城から転戦。車で25分くらいでした。
ウィングホール柏斎場の駐車場(35.894782、139.989510)に駐車して攻城しました。
布施城の詳細は不明ですが、城主は相馬氏の一族と考えられています。
戦国時代は小金城主・高城氏の支配下にあったようです。
現在城址は葬祭場となっており遺構は残っていませんが、城址碑が建てられています。
城址碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/10 00:33
『行った気になる日本の名城展』
3/14まで会期が延長された催事に行ってきました。池袋東武百貨店7階の旭屋書店さんです。(駅直結)
イベントタイトルどおり、お城に行った気になる空間でした。グッズもどれもかわいい♪
「この棚の本、全部ください」と言いたいところでしたがそうもいかないので、城びとさんの測量野帳と、重くない本(通勤電車で立ち読み用)を買いました。
表紙がかたい測量野帳は持ち歩きにも便利そうです。中は方眼で、字でも絵でもスケジュール表でもスタンプでも、何でもいけそう。タイトルがSHIRO BOOKなので、残しておきたいことを記録して一冊の本が出来上がればいいな。
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2021/03/09 21:40
日本100名城 No,034 難攻不落の山城。上杉謙信が落しました。その後、手取川の戦いへ。 (2011/09/25 訪問)
■100城の40城目(初登城)【松尾城】
☆二泊三日北陸城攻めの4城目(一乗谷城→丸岡城→金沢城→七尾城→高岡城)
【移動手段】車:宿泊地の和倉温泉から道の駅・能登食祭市場経由で15km
【駐車場】山腹の七尾城趾駐車場(無料) ここから15分ぐらいで本丸跡。
【スタンプ】七尾城史資料館△ 玄関先に置いてあります。
【天気】晴れ時々曇り
【印象】☆☆ 山城で石垣が多く残っています。足下はウッドチップで整備され歩きやすいですね。本丸跡からの眺望はお天気にも恵まれ絶景です。「松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ・・・」のモデルといわれているようで歌碑が建っています。故三橋美智也さんを偲びました。日本一小さな茶室がありました。
【お土産】能登食祭市場で食べ物系みやげ
【食事】なし
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】和倉温泉から道の駅・能登食祭市場に向かう途中に忘れ物に気づき、姫と息子を道の駅に残し旅館「青海荘」に戻る。旅館のご主人に探して頂き、大変有り難うございました。犬もOKの感じの良い旅館でした。
七尾城史資料館は探し辛い。タクシーでの登城の方が2組いました。高岡へ。
【柴犬のクウ】山城は好きだワン!
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2021/03/09 20:08
芥川城 (2021/02/20 訪問)
【芥川城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑のある西側のスイミングスクール前道路に少しの間なら停車できそう。
<交通手段>バイク
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング第3弾、大阪府内限定3城目。芥川城は芥川山城とは全くの別で、鎌倉時代に芥川氏によって築城されたと思われているそうです。芥川氏はこの地方の武士であり、鎌倉時代には幕府の御家人となっている。応仁の乱後芥川氏は没落し芥川城は芥川山城の平時の居館として活用されていたという説もある。
遺構が全く残っていないので、城びとポイントに城跡碑があるが、立派な民家の垣根の中にあるのでこの垣根が伸びると城跡碑も埋もれてしまいそうです。
<満足度>◆◇◇
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2021/03/09 19:43
貝原塚城(城びと未登録) (2021/02/28 訪問)
貝原塚城は茨城県龍ケ崎市にあったお城です。
詳しい歴史はよくわかっていないそうです。
金剛院の細い脇道を墓地沿いに徒歩で北西に進むと貝原塚城跡地です。
堀のようなものを見つけるも。藪が凄まじく突入困難。
さらに進むと入り口を見つけたので突入。
しかし昼間なのに薄暗く、やはり奥は藪が深くジャングルのような状態で方向感覚を失いそうで不安になり、こちらも断念、撤退しました。
このお城に突入するにはそれなりの装備が必要と思われます。
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2021/03/09 19:39
土塁が山脈のように連なる光景は見ごたえあり (2021/02/28 訪問)
小坂城は茨城県牛久市にあったお城です。
小田氏に従っていた岡見氏が築城したそうです。
このお城に仕えていた女中の伝説「笄松物語」が伝わっています。
公園として整備されていて、藪は刈り取られているのでスニーカーでも歩きやすいです。
至る所に案内板が設置されていて、解説もわかりやすいものでした。
小ぶりながら、かなり楽しい城攻めでした。
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2021/03/09 19:35
2021/03/09 19:33
事前リサーチ不足で後悔 (2021/02/28 訪問)
塙城は土岐氏勢力の城と考えられています。
駐車場は近くにある阿見町 君原公民館を使わせていただきました。
見学者向けに順路を示す看板が立っていて、これに沿って歩けば主要部を一通り見学できます。
後世になって削られてしまったと思われる個所もありましたが、遺構がしっかり残っていました。
畝のように見える堀もありました。
満足な城攻めだったのですが、帰宅後、付近に北の郭が存在していることを知りました。
そちらの二重堀はなかなかの評判だそうで・・・出発前に全くリサーチしていなかったことを後悔する羽目になりました。
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2021/03/09 19:29
近隣住民憩いの場 (2021/02/28 訪問)
木原城は霞ヶ浦近くにある土岐氏の家臣、近藤氏の居城です。
本丸跡地は城址公園として整備されていて、のんびりとした雰囲気で、近隣住民の憩いの場でした。
二の丸、三の丸跡地は畑として使用されていますが、土塁、堀が良好な状態で残っています。
花畑を通る遊歩道は発掘された堀跡に沿って造られていて、下には堀が保存されているそうです。
トイレ側駐車場付近にある神社からは深い堀が良く見えます。
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2021/03/09 11:12
2021/03/09 10:53
2021/03/09 10:37
天正伊賀の乱の激戦地 壬生野城(三重県伊賀市川東)➡城びと未登録 (2018/10/15 訪問)
天正9年(1581)、織田信長による伊賀忍者討滅作戦=第二次天正伊賀の乱で激戦地となった壬生野城です。
【アクセス(車)】
自動車専用道路の名阪国道を御代ICで降り、県道2で南に2㎞走ると、左手に見えて来る小丘が壬生野城址です。
丘の北端に殉難者を供養する地蔵尊があり、小公園になっていて駐車場もあります。
城址へは、公園の北側の農道を登って行くとアクセスできます。
【城の歴史】
築城主や時代の詳細は不明で、信長公記にある『壬生野の城』が初見です。
地元では『清水の城』と伝承されているそうですから、川東の郷士:清水家の館なのかも知れません。
天正9年(1581)9月、川東地区の郷士と郎党500名は、壬生野城に集結して織田軍を迎え撃ちます。
指揮官としては富田勝長、中村丹後などの名が伝わっています。
最初に壬生野城に攻め寄せたのは滝川一益の軍7,000で、霊山寺焼き討ちの余勢を駆って攻め掛けますが、城兵の士気は旺盛で容易には攻め口を見出せません。
翌日には柏野城を攻略した丹羽長秀軍8,000も加わり、城兵の30倍の兵力に達しますが、攻防は一進一退で進み、落城までにはさらに3日を要してしまいます。
この間、伊賀上野の比自山では伊賀忍者1万vs織田軍1万3千の、この戦役最大の激戦が展開されており、夜襲を受けた筒井順慶の軍は家老2名が討死にするほどの大損害を喫しています。
滝川、丹羽という織田家が誇る歴戦の将を釘付けにした、壬生野城の大きな戦功ですね。
【見どころ】
居館と見られる方形の主郭を中心に、周囲に小曲輪が付加されています。
主郭の北と東は、伊賀の城には珍しく水堀が囲んでおり、造られた時代と仮想敵が見える気がします。
推測の範囲ではありますが、結束力の強い川東の郷士連合が、有事を想定して総力で築いた“詰め城”なのでは?…と思います。
麓の川東公園には夥しい数の供養塔が集められ、供養されています。
壬生野城の伊賀忍者は全滅した…という事ですが、“見事に死んで家名を上げる武士”とは違い、故郷を守るためだけに死に臨んだ忍者の壮絶な生き様を垣間見る思いでした。
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2021/03/09 08:12
山上の総石垣 (2021/02/20 訪問)
(山麓編から続く)
登城路合流地点から10数分歩いて山上のロープウェー駅に到着。地蔵堂のほうに進むと、右手に二ノ丸の石垣、正面に本丸の石垣が聳え、テンションが上がります。本丸に向かう前に二ノ丸の展望台と展望館へ。「恋人の聖地」のオブジェは城好きオヤジには無縁ですが、展望台からは城下町はもとより安土城や観音寺城まで広く見渡せ、眺望はなかなかのものです。また展望館には八幡山城や豊臣秀次の資料が展示されていますので、時間があればどうぞ。
本丸には豊臣秀次の菩提寺である瑞龍寺が京都から移設されており、見学できる場所は限られますが、南部の枡形虎口や本丸を取り巻く石垣は見応えがあります。その本丸石垣を眺めながら本丸外周をぐるりと一周。西ノ丸からは琵琶湖側の眺望がひらけ、周囲の木は伐採されて石垣も見やすくなっています(麓からもよく見えます)。なぜか西ノ丸でたくさん見かける猫たちとしばし戯れた後、出丸に行こうとしましたが、まだ通行止めのままでした。北ノ丸からは安土城と琵琶湖の両側を見渡せますが、周囲の石垣も見どころで、北之庄城へと続くハイキングコースを少し下りて行くと見られますので、北之庄城には行かない方も石垣目当てにちょっと下りてみる価値はあるかと。私は続いて北之庄城に向かうので、石垣を見た後、ロープを頼りに急斜面を下りて行き、下りきったあたりには北尾根を断ち切る堀切がある…はずなんですが、気付かず通り過ぎてしまいました。
出丸に行けなかったのは残念でしたが、眺望は素晴らしく、山麓の居館といい山上の主郭部といい見事な総石垣で、実に見応えがありました。次の機会には城下町を(八幡堀や日牟礼八幡宮も)ゆっくり散策してみたいものです。
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2021/03/09 06:37
2021/03/09 06:36
利根川沿日帰り攻城⑫:幸谷城➡城びと未登録(千葉県柏市) (2019/05/25 訪問)
戸張城から転戦。車で10分くらいでした。
駐車場奥の未舗装の空地(35.835541、139.985080)に駐車して攻城しました。
伝承によれば、鎌倉時代の増尾村は千葉氏一族・師胤を始祖とする相馬氏の所領であったと推定されています。
1272年、所領譲与に関する遺言なく相馬胤村(4代目)が急死します。後妻で尼の阿蓮(あれん)が惣領代となり、その子・相馬師胤とともに増尾村の所領を鎌倉幕府から安堵されたとあります。そのため、幸谷城が阿蓮の居館というのが一説です。
相馬師胤(後の陸奥相馬氏)は遺言で嫡子になったと主張したため、異母兄の相馬胤氏(下総相馬氏・嫡子)と対立しました。
師胤の子・相馬重胤の代になると形勢が不利となり、重胤は郎党らを連れ陸奥に下向しました(1323年)。
拠点の小高城を築き、勢力を拡大。陸奥相馬氏の祖となりました。
南北朝時代になると、師胤は足利尊氏の北朝方につき、南朝方の千葉氏や下総相馬氏と対立しています。
1337年、鎌倉の守備にあたり、南朝方の北畠顕家を迎え撃ったが戦死しました(杉本城の戦い)。
一方、相馬胤氏(下総相馬氏)の子・師胤(同名だがもちろん別人)は、重胤との争いで濫訴を繰り返したため所領を没収されています。
いずれにしても、胤村の後妻・阿蓮が相馬氏を分裂し、この地から相馬氏が消えた要因となった人物のようです。
この幸谷城が相馬分裂の舞台だったんですね。
戦国時代には小金城の高城氏による支配と考えられますが、そのころには増尾城がこの地域の拠点となっています。
現在、城址は万福寺の南側一帯に位置し、長年民家の屋敷林となっていましたが「柏ふる里つくり隊」により整備され、現在は土塁や空堀などの遺構を確認できます。
どこに駐車すればいいかわからず駐車場奥の未舗装の空地(誰の駐車場がわかりません)に駐車して攻城口を捜しました。
民家横の細い路地(35.834442、139.983657)から攻城しましたが、正しい攻城口かは自信がありません。
攻城後に調べたら、万福寺南側の道路沿い(35.835681、139.983384)の貯水地左横の民家の門から入ると、城趾北西部に入れるようです。
城址内は案内板/説明板があり、よく整備されています。虎口、空堀、土塁が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。
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2021/03/09 06:26
利根川沿日帰り攻城⑪:戸張城 (2019/05/25 訪問)
箕輪城から転戦。車で10分くらいでした。
「旧・柏学園正門」前(35.853198、139.991508)に路駐して攻城しました。
戸張城は、築城年代や築城者について詳細は伝わっておらず定かではありません。
千葉常胤の子で相馬氏初代当主・相馬師常の三男、戸張八郎行常の居城だと伝わっています。
以降、代々戸張氏が200年にわたって本拠としたとされますが、立沢氏が城主だったなど諸説あるようで詳細は不明です。
城址は文京区立柏学園の敷地となっていますが、2013年(平成25年)に閉鎖となったため、現在は立入禁止です。
しかし東西にわかれた曲輪のうち、西の曲輪跡に土塁と空堀を門の外から確認することができます。
また弥生時代の遺構の調査もおこなわれており、復元された弥生式住居跡があります。
遺構は「旧・柏学園」内なので、校門/フェンス越しに土塁と空堀の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。
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