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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:中泉陣屋 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の11城目は中泉陣屋です。
匂坂城から転戦。西光寺入口(34.724819、137.853197)から中に入り表門を確認し、西願寺入口(34.713442、137.850998)から中に入り裏門を確認。
最後にファミマ駐車場(34.708892、137.852503)に駐車して石碑や説明板を確認しました。

1590年(天正18年)秀吉の命で家康は関東移封となり、在京賄料として遠江国中泉・白須賀各1000石を含む10万石が給されました。
その後、伊奈忠次らによって中泉御殿の東側に陣屋が築かれました。
1603年(慶長8年)江戸幕府開府後、代官頭伊奈忠次の管理下、複数の代官が駐在・実務に当たりました。
徳川頼宣領国期でも彦坂光正支配下で複数の代官が置かれたが、1619年(元和5年)幕領に復帰し、中野重吉が就任して以後は代官一人体制に移行します。
近世前期の遠江幕領は、在地土豪より登用された多数の代官が支配したが、土豪代官支配地も含めて遠江幕領全体を調整・統括する機能を担ったのが、中泉陣屋である。
17世紀後半以降、遠江でも多くの土豪代官が処罰され、9名いた幕府代官も、1700年(元禄13年)には中泉代官野田秀成(1698~1702年在任)ら3人に絞られ、代官陣屋も中泉・川井・新貝のみとなりました。
1722年(享保7年)川井陣屋廃止、1790年(寛政2年)新貝陣屋廃止。
1831年(天保2年)火災により焼失、1854年(嘉永7年・安政元年)地震により全壊、陣屋は二度改築された。
1866年(慶応2年)2月尾張藩役人より新政府の下で接収されたが、代官大竹庫三郎は引き続き、1869年(明治2年)7月まで在任、明治期には中泉学校として利用された。

現在はコンビニ・住宅となり、陣屋の表門等が移築されています。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:匂坂城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の10城目は匂坂城です。
長者屋敷から転戦。さぎさか石碑前(34.765285、137.832383)に路駐しました。

匂坂城は、1532年に勾坂長能によって築かれたようです。長能は、匂坂郷の国人領主で戦国時代には今川氏に従っている。 
1568年に徳川家康が掛川城を攻略する頃、匂坂吉政は徳川方に与し、本領安堵となっています。
1571年、武田信玄の高天神城攻めの際、占領され匂坂城には穴山梅雪が入りました。
武田信玄が世を去った後、徳川家康は武田軍に奪われた城を取り戻しているので、匂坂城も奪還したと考えられています。

雨が降っていたので車の中から石碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:長者屋敷 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の9城目は長者屋敷です。
杜山城から転戦。入口付近(34.777941、137.840631)に駐車しました。

詳細不明。7世紀から8世紀頃の官衙のような役所の施設と推測されています。
土塁に囲まれた奈良時代の遺跡で、 発掘調査で土塁の内側に建物跡が発見されたようです。

雨が強くなってきたので入口付近で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:社山城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の8城目は社山城です。
大平城から転戦。分岐点付近(34.820726、137.853374)から、登り口付近(34.817664、137.854167)方面に向かい、終点で駐車しました。

築城年代は不明ですが、平安時代に参議中将・藤原友実の子・鷺坂則実が築いたと伝わります。
1476年、今川義忠に降った二俣氏が社山城に在城(この時築城説もあり)
1500年、斯波義寛は弟・義雄を社山城に置き、遠江攻略の拠点としました。
1501年、今川氏親に攻められ、斯波義雄は二俣に退却。
1503年、二俣昌長に謀反疑惑が生じると、二俣城に戻されたそうです。
1506年、二俣城に今川一門の瀬名一秀が入ります。斯波義寛と今川氏親の遠江争奪戦で、社山城は斯波軍の拠点となっていたようです。
斯波氏と今川氏の戦いは1517年まで続き、今川氏親の勝利で幕を閉じました。細かい時期等は不明ですが、匂坂氏は今川家臣として存続しています。
1532年、匂坂長能は本領の匂坂に城を築き、社山城には菅沼定平が入りました。

今川氏の没落後に徳川家康と武田信玄が遠江の支配をめぐって争った際に、遠江の覇権をめぐる戦いの舞台となります。
その後、天正年間に家康が駿・遠両国を征すると、この頃に廃城となったと考えられています。

現在城址は「社山公園」として整備されており、山頂の本丸跡には八幡神社があります。
また遺構の保存状態は良好で、堀切や土塁がよく残っており、堀切の土橋は、これぞ土橋という、見本のような感じでした。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:大平城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の7城目は大平城です。
三岳城から転戦。大平城址駐車場(34.845908、137.747490)に駐車しました。

大平城は、南北朝時代南朝側についた井伊谷における井伊氏の支城として三岳城などとともに築かれた城です。
三岳城が落城した際、南朝方の井伊道政が宗良親王とともにこの城に逃れましたが、北朝方の仁木義良らの夜襲にあい落城し、おそらくそのまま廃城になったと思われます。

現在城址には土塁や堀切、竪堀などの遺構が残っており、山麓にある五体力神社の参道入口に案内板と石碑があります。
看板のある所に車を止めて、神社の方からではなく駐車場の東側から山に登りました。本丸跡まで10~15分くらいで行けました。ほかにも郭があるようでしたが、とにかく本丸まで行ったのでよしとしました。
攻城時間は25分くらいでした。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】佐伯城御下櫓…って! (2021/06/14 訪問)

「にのまるさん この子もそうです お手洗い」

とても紛らわしかったです。

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肉球

どこ見ても城跡 (2021/06/23 訪問)

これだけ広い敷地なので急いで発掘整備をしている感じはありませんが
山際を発掘していたり草刈りを何人かで行なっていて整備が行き届いています。
2度目の登城でしたがまたもや館跡だけの見学でした。
資料館は今年九月から来年九月いっぱい休館して道を挟んだ大きな新しい博物館に引っ越しするみたいです。

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小城小次郎

戦国大名になりかけた浦上宗景ほぼ一代の城 (2021/05/02 訪問)

戦国大名になりかけた浦上宗景ほぼ一代のお城として、天文の終わり頃から天正の始め頃までの20年余りに限って存続したらしい巨大な山城。何しろやたらとでっかくて山を登ったり下りたりもするが、登る価値は十分にある。

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にのまる

【お城川柳】

名物にうまいものあり石垣サブレ

字余り

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にのまる

【お城川柳】

イカにタコかまぼこ名物城の石

弘前城・大阪城・岡城

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:三岳城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の6城目は三岳城です。
柿本城から転戦。神社駐車場(34.8502379、137.6936493)に駐車しました。

三岳城は南北朝時代に井伊谷領主・井伊道政によって築かれた城です。「井伊城」とも呼ばれ、井伊谷に勢力を誇った井伊氏の詰めの城でした。
1339年(暦応2年)には、井伊道政(または井伊行直)が後醍醐天皇の皇子・宗良親王とともに三岳城に入って、南朝方の拠点となりましたが、籠城中に後醍醐天皇が崩御しています。
1340年(興国元年)北朝・足利尊氏勢の高師泰・高師冬・高師兼・仁木義長の大軍に攻められて三岳城が落城すると、井伊道政と宗良親王は大平城へ逃れましたが、その大平城も落城しています。
戦国時代初期の井伊家は遠江守護・斯波義達に従っており、1510年(永正7年)には今川氏親の忍者が三岳城にあった井伊次良の陣所を焼いています。
1514年(永正11年)に引馬城主・大河内貞綱が尾張の斯波義達と結んで反今川の兵を挙げた際、井伊直盛はこれに呼応して籠城しましたが、今川氏の武将・朝比奈泰以(泰煕)の猛攻を受けて落城し、今川氏に降りました。
その後は奥平貞昌が城番として入っています。その後、徳川氏と武田氏による遠江攻防戦の際には両氏によって改修され利用されました。

現在は三の丸跡に三岳神社があり、そこから本丸にのぼれます。
三岳神社に広い駐車場有り。結構きつい登りですが、急斜面を登ると絶景が広がります。
雨が本格的に降る前に、二の城へは行かず下山しました。一脚棒を杖代わりに攻城しましたが、杖がないと雨でぬれた落葉と岩で3回は転んでいました。
攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:柿本城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の5城目は柿本城です。
鳶ヶ巣山砦から転戦。道の駅(34.902565、137.613423に駐車しました。

柿本城は井伊氏の支城で、井伊谷三人衆のひとりである鈴木重時によって築かれた城です。
重時の父、鈴木長門守重勝は井伊直親の母方の祖父にあたります。
1572年(元亀3年)に武田信玄の軍勢によって攻められ落城しました。

丸跡には「鈴木長門守重勝之城址」と刻まれた城址碑があります。
登城口は道の駅「鳳来三河三石」の裏手にある満光寺の脇にあります。
満光寺山門を通り攻城。10分ちょっとで本丸到着です。雨の為、本丸で引き返しました。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:鳶ヶ巣山砦 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の4城目は鳶ヶ巣山砦です。
宇利城から転戦。県道439号線の牛渕橋/鳶ヶ巣山入口(34.920610、137.560991)を左折し、そのまま車を進め、砦入口付近の駐車場(34.920361、137.568467)に駐車しました。

1575年(天正3年)長篠・設楽ヶ原の戦いにおいて、武田軍は長篠城 包囲のために、君ヶ臥床、姥ヶ懐、鳶ヶ巣山、中山、久間山の5つの砦を築き、鳶ヶ巣山砦はその中の1つ。
砦には信玄の弟の武田信実、小宮山信近ら1,000が構えたが、酒井忠次率いる4,000の兵の織田・徳川連合軍の奇襲に合い、武田軍の包囲網は崩壊、信実他多くが討死して砦は落城。

また、この場所には長篠の合戦時からあるといわれる「天正の杉」 の枯れ果てた姿が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:宇利城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の3城目は宇利城です。
半原藩邸からの転戦。宇利城跡駐車場(34.8605636、137.5343607)に駐車しました。

宇利城は、文明年間(1469~1487)に熊谷重実が築城しました。
宇利城は三河統一を目指す松平清康によって攻められた「宇利城の戦い」の舞台として知られています。今川氏に属していた城主・熊谷実長はこの戦いに敗れ、功績のあった近藤満用に城が与えられました。
その後、清康が「森山崩れ」で暗殺されると、近藤氏は今川氏に降りますが、さらに1568年(永禄11年)に徳川家康が遠江侵攻を開始すると徳川方に帰参します。
1581年(天正9年)家康が遠江を平定すると、城主・近藤康用は柿本城に居城を移したとされ、以降の詳細は不明です。

現在城址には土塁や切岸などが残っているほか、本丸跡には説明板が建てられています。
駐車場から登城口までは徒歩5分ほどです。雨の為、本丸で引き返しました。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(愛知県新城市)半原藩邸 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の2城目は半原藩邸です。
城址内(34.858246、137.507242)に駐車しました。

1590年(天正18年)家康関東移封に伴い、安部信勝は武蔵国榛沢郡・下野国梁田郡で5200石余を得ました。
1636年(寛永13年)その子大番頭信盛は三河国八名郡4000石の加増を受け、更に大坂定番に昇進して、1649年(慶安2年)摂津国内で1万石の加増を受け、岡部藩を立藩しました。
その後、信之(2万200石余)-信友(2万2200石余)-信峯(弟信方に2000石を譲り、2万200石余)-信賢-信平-信允-信享-信操-信任-信古-信宝と続き、1868年(慶応4年)信発は半原へ移り、半原藩を立藩したが、1871年(明治4年)廃藩を迎えました。

現在は敷地の一部が残り、藩邸跡の石碑が立っています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:新城城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の1城目は新城城です。
朝食前に宿泊先のホテルから徒歩10分くらいで、新城小学校内の疑似楼門付近(34.897904、137.4968)に着き、その後、しろあと歴史館(34.897297、137.499147)に向かいました。

新城城は、1575年(天正3年)の長篠の戦いで勝利した奥平貞昌が新たに城を築城し、長篠城から移り住んだことがその始まりとされています。
徳川家康の関東移封にともない、池田輝政の所領となりました。その後は天領を経て、水野氏と菅沼氏が城主をつとめました。
しかし、1648年(慶安元年)に陣屋が新城城跡地に置かれると、野田城の城主であった菅沼氏の子孫によって治められ、明治維新までその支配が続けられることとなりました。

現在城址は新城小学校になっており、校庭の南側にわずかにに土塁と空堀が残っています。
説明板の写真を撮りましたが、大雨でピントがずれた為、投稿できません。
攻城時間は30分くらいでした。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】5年の間に変わってたこと。 (2021/07/12 訪問)

「ゆいレール 本土のIC 使えてた」

5年前は,沖縄独自のICのみでしたが,本土の交通系ICも使えるようになってました。
また,5年前に工事中だった那覇バスターミナルが立派に完成していました。

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城好きのメガネ

「宇田家屋敷」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
宇田家屋敷は16世紀後期に宇田氏が築いたとされる。現在、花田苑に移築長屋門が遺されている。

<アクセス>
東武鉄道伊勢崎線 越谷駅バス 花田苑下車すぐ

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赤い城

反町薬師の照明寺 (2021/07/04 訪問)

照明寺境内に駐車場があります。
新田義貞の居館で照明寺が跡地となります。
周囲は土塁と水堀で囲まれていましたが土塁は南側にしか残っていません。
パンフレットも置いてありました。
西側の堀には蓮の花が咲き始め。
北西部には折れも見られます。
新田荘城館の一つで国の史跡に指定されています。

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城好きのメガネ

「西袋陣屋」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
西袋陣屋は、関東郡代・伊奈忠次の家臣であった興津良次が陣屋を築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東武鉄道伊勢崎線 谷塚駅 徒歩35分

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