友人からの情報で私の生家のあった宮城県大崎市三本木(旧志田郡三本木町)にある桑折城跡の樹木が伐採されたことを知り数年ぶりに訪れてみた。残念ながら「城びと」には未登録の城。この城は、中世この地を治めた奥州探題大崎氏の内紛にからみ天正16年(1588)二月に伊達政宗軍が大崎氏の居城中新田城を攻撃した際、大崎勢の激しい抵抗と天候の急変により、政宗軍が唯一敗北を喫した「中新田合戦」に関わる歴史を持つ。
城は麓を流れる鳴瀬川に沿って、東西に大小の曲輪を並べた連郭式の縄張り。比高は35mほどだが最高所の主曲輪からは東に遠田郡箟岳山、西に加美郡の山々、北には大崎耕土が拡がりその先には遠く栗駒山を望むことができる。主曲輪に立ち北を見れば、大崎合戦時に城に詰めた澁谷相模以下大崎方の将兵が眺めたであろう、鳴瀬川の向うを西に進軍する伊達の大軍の光景を彷彿とさせられる。
主曲輪は東に帯曲輪を備え、西には二段の帯曲輪を備える曲輪、また一段下がって北側に、かつては鳴瀬川岸までの広がりをもつ曲輪、東側にも先端が三段に落ち込む細長い曲輪を持つ。また西側の曲輪の先端部と南に続く尾根には、現在は埋めたてられているが大規模な堀切の跡が確認できる。さらに南の堀切を渡り尾根道を南東方向に行くと細長い二段の出曲輪がある。
延宝年中(1673~81)に書上げられた仙台領古城書上には「城主八野木相模。又澁谷トモ云。黒川安藝守晴氏入道月舟叔父。」とあり大崎氏家臣で中世鳴瀬川沿岸地域に勢力のあった渋谷一族の拠った城である。
城址は地元で館山(たてやま)と呼ばれる桜の名所で、春になると山全体が花に覆われ賑わいをみせたものだが、樹齢がかさみ伐採に至ったものか。遺構は非常に観やすい状態になったのだが、子供の頃に家族と楽しんだ花見の思い出も消え去るような寂しさも。
東北自動車道古川ICからは12km(12分)たてやまホール(三本木公民館)に駐車可能。
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