JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の11城目は中泉陣屋です。
匂坂城から転戦。西光寺入口(34.724819、137.853197)から中に入り表門を確認し、西願寺入口(34.713442、137.850998)から中に入り裏門を確認。
最後にファミマ駐車場(34.708892、137.852503)に駐車して石碑や説明板を確認しました。
1590年(天正18年)秀吉の命で家康は関東移封となり、在京賄料として遠江国中泉・白須賀各1000石を含む10万石が給されました。
その後、伊奈忠次らによって中泉御殿の東側に陣屋が築かれました。
1603年(慶長8年)江戸幕府開府後、代官頭伊奈忠次の管理下、複数の代官が駐在・実務に当たりました。
徳川頼宣領国期でも彦坂光正支配下で複数の代官が置かれたが、1619年(元和5年)幕領に復帰し、中野重吉が就任して以後は代官一人体制に移行します。
近世前期の遠江幕領は、在地土豪より登用された多数の代官が支配したが、土豪代官支配地も含めて遠江幕領全体を調整・統括する機能を担ったのが、中泉陣屋である。
17世紀後半以降、遠江でも多くの土豪代官が処罰され、9名いた幕府代官も、1700年(元禄13年)には中泉代官野田秀成(1698~1702年在任)ら3人に絞られ、代官陣屋も中泉・川井・新貝のみとなりました。
1722年(享保7年)川井陣屋廃止、1790年(寛政2年)新貝陣屋廃止。
1831年(天保2年)火災により焼失、1854年(嘉永7年・安政元年)地震により全壊、陣屋は二度改築された。
1866年(慶応2年)2月尾張藩役人より新政府の下で接収されたが、代官大竹庫三郎は引き続き、1869年(明治2年)7月まで在任、明治期には中泉学校として利用された。
現在はコンビニ・住宅となり、陣屋の表門等が移築されています。
攻城時間は20分くらいでした。
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