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カジ

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川柳

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てぬき親父

お城川柳

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:黒田代官屋敷 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の17城目は黒田代官屋敷です。
高田大屋敷から転戦。屋敷駐車場(34.698703、138.0849961)に駐車しました。

黒田代官屋敷は、永禄年間(1558 - 1569年)に黒田義則によってこの地に館が築かれました。
義則は、当初今川氏に仕えたが、今川氏滅亡後は徳川家康に仕えました。
小笠原長忠の組下として高天神城に籠城するが、武田勝頼に攻められ落城しました。この時、黒田義則は在所に戻りここで没しています。
江戸時代になり、1645年(正保2年)に三河岡崎城主本多利長は、庶兄助久に遠江城東郡内で4560石を分知しました。この時点で黒田氏が旗本本多助久家の代官となりました。

現在の主屋は、安政東海地震(1854年)後に再建されたものであると考えられています。
長屋門は母屋よりもさらに古い、18世紀中頃の建築とみなされています。
当時、一般農家では門を構えること自体許可されておらず、この長屋門の規模は、黒田家が任されていた2000石の格式を示すものといわれています。
 
資料館閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:高田大屋敷 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の16城目は高田大屋敷です。
高天神城から転戦。古川神社入口前(34.720952、138.076911)に路駐しました。

高田大屋敷は、鎌倉時代に御家人内田氏によって築かれたと考えられています。

強雨の中の写真です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:高天神城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の15城目は高天神城です。
横須賀城から転戦。南口大手門駐車場(34.697036、138.0368)に駐車しました。
続100名城スタンプのある大東北公民館(34.703289、138.0477)から車で4~5分です。

築城年代には諸説あり、平安時代から15世紀終わり頃までの伝承や記載があるとされていますが、確実な例は16世紀初め頃と考えられています。
これは今川氏親の遠江進出に伴う軍事行動の一環であり、16世紀初め頃以降の多くを、国衆の小笠原氏が城主として務めていました。
1560年(永禄3年)には高天神城から城兵が桶狭間へ向けて出陣したことが記録されていますが、今川義元の敗死によって遠江の勢力図は激変します。
1568年(応永11年)には当代城主・小笠原長忠が徳川家康に臣従することを選択します。
1571年(元亀2年)武田信玄率いる2万5000の軍から攻撃を受けるも、小笠原貞頼らが2000の兵で籠城しこれを撃退。高天神城の優れた防御能力を知らしめます。
以降も三方原や諏訪原などの重要戦闘へと当城から兵力が派遣されますが、1574年(天正2年)には武田勝頼の軍によって、信玄も成しえなかった当城の攻略が達成されます。
1580年(天正8年)徳川家康が5000騎で当城を包囲。翌1581年(天正9年)には兵糧攻めで孤立し士気が低下した武田軍が城を打って出て総攻撃を敢行し、敗北。当城は落城し、以降廃城となりました。
ちなみにこの時の高天神城の守備隊長は、旧今川氏家臣の岡部元信でした。
元信は今川義元敗死後も鳴海城に拠って織田軍を撃退し続け、主君の首と引き換えに開城したという猛将でした。70歳に近い高齢ながらも先陣を切って奮戦し、武田氏の将として散ったといいます。

「高天神を制するものは遠州を制する」といわれたそうです。現在はハイキングコースとして整備されています。

追手門側から攻めました。追手門側から二の丸方面へは土砂崩れの為、立入禁止になっていました。
プチハイキンクです。 トイレは駐車場にあります
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:横須賀城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の14城目は横須賀城です。
馬伏塚城から転戦。公園駐車場入口(34.685462、137.970155)から侵入して駐車しました。

横須賀城は1578~1580年(天正6~8年)にかけて、徳川家康の命により家臣の大須賀康高が築いた平山城です。
武田氏に占拠された高天神城奪回のための軍事拠点として築かれたようです。
1581年(天正9年)徳川家康はついに高天神城攻略を成し遂げます。高天神落城後、横須賀城は近隣支配の拠点となりました。
大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎えると間もなく、横須賀城は廃城となり姿を消しました。
通常一カ所しかない大手門が東西にあることから「両頭の城」という異名をもっています。
現在は横須賀城跡公園として整備されており、石垣や土塁などが残っています。また、横須賀城は全国的にも珍しい玉石積みの石垣(玉石垣)です。
この玉石垣は一部が現存しており、その他の部分も復元されています。

丸い石で作られた石垣は大変珍しいとのことです。 現地の案内板で、発掘調査の結果も丁寧に説明されていて好印象でしたが、雨が超本降りとなり見学は本丸までで撤退しました。。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:馬伏塚城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の13城目は馬伏塚城です。
久野城から転戦。案内板前(34.710779、137.933494)に路駐しました。

築城年は不明。初代城主は小笠原信濃守長高とされます。
長高は信濃から尾張を経て、三河国幡豆郡の吉良義堯を頼り、後に今川氏親に属しました。
遠江国山名郡浅羽荘を領して馬伏塚城主となり、1544年(天文13年)城内で没する。
長高の子春義は、福島上総介正成が今川氏に叛いて北条氏に属すと、代わって高天神城主となり、馬伏塚城主も兼ねました。
その子氏清も今川氏に属し、馬伏塚城・高天神城両城主を務めるが、1568年(永禄11年)今川氏に叛き、徳川家康に転仕、1569年(永禄12年)に没しました。
1574年(天正2年)6月高天神城が武田氏の攻撃で落城すると、家康は馬伏塚城を修復し、大須賀康高を城主として入れ、武田氏に備えます。
1578年(天正6年)家康は康高に命じて横須賀城を築城、城主とさせ、1580年(天正8年)9月高力清長を馬伏塚城主としました。
1581年(天正9年)に家康が高天神城を攻略して遠江を勢力下に置くと、その翌年に廃城となりました。
また袋井市郷土資料館には馬伏塚城の模型が展示されているようです。

現在は諏訪神社・住宅・畑に変わり、曲輪、土塁、堀切などが残っているようですが、雨が降っている為、説明板付近をウロチョロしただけです。
攻城時間は5分くらいでした。

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てぬき親父

お城川柳

殿様の 積もりで眺める 城下町

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】久々のコロナ関連で。 (2021/06/15 訪問)

「PCR 広い曲輪は 好条件」

スタンプは廊下橋で押せます。大手門は閉鎖されています。川柳で詠んだとおり,PCR検査会場で利用されています。
ぴーかるさん,合格おめでとうございます!

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にのまる

【お城川柳】

合格を桜でお祝いいたします🌸

ぴーかるさん、城郭検定1級合格おめでとうございます!
受検されたことをご投稿で拝見していましたので、結果発表をお待ちしておりました‼
お祝いに、関東地区限定 ver.お城の桜をどうぞ!

…戸倉城の展望台は私も切株派です!(^^)!

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赤い城

河越夜戦の舞台 (2021/07/10 訪問)

西武の新狭山駅から徒歩で30分ちょっと。
住宅街の裏手に位置しています。
別名は柏原城。
説明板のある登城口から少し登ると主郭の虎口。
左に行くと二郭となり、神社が建っています。
主郭の周りには深い空堀が囲み、一部折れも見られます。
河越城の戦いの際には上杉氏の拠点となった城。
遺稿はちゃんと残っていました。

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イシテル

江馬氏館の詰城 (2021/07/17 訪問)

車を「道の駅 スカイドーム神岡」の駐車場に止め、まずは江馬氏館跡庭園へ向かいました。
そこで係員の方に高原諏訪城への道を聞くと、江馬氏館跡庭園の先にある円城寺から登ると30分程度で到着すると伺い、円城寺へ向かいました。円城寺の境内に入りましたが、登城道が分らず、結局はスマホのGPSを頼りに車道を進み登城口の表示のあるところまで延々と歩きました。
車道の登城口から主郭までは10分程で、途中に竪堀、土橋、切岸などあり、主郭から神岡の街を一望して、江馬氏館跡庭園も上から眺められます。
下城は、車道側でなく、係員の方に教えていただいた円城寺に続くと思われる山道を選びました。少し急坂で、また前日の雨でぬかるんで歩きにくい状態でしたが、こちらの登城道が醍醐味があります。下りると、階段があり、そこから一旦、車道に出ますが、車道の反対側に下城道があり、それを下りると、江馬氏館跡庭園で教えていただいた円城寺の脇道に出ました。登城は秋葉神社を目印に円城寺の脇道に入り、奥の鳥居を目指すとそこから登城道が続いています。そこからだと30分程で主郭に登れると思われます。
車道の登城口も車1台は停められると思いますが、江馬氏館跡庭園の駐車場に停めて、円城寺脇道から歩いての登城をお勧めします。

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ぴーかる

【お城川柳】

念願の 一級合格 城検定

2回目のチャレンジにてなんとか合格できました(*^^)v
川柳にはなっていませんが喜び一入

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中城グスクに住む龍 (2021/07/20 訪問)

「神が宿る木」などの物語を耳にすることがあります。

世界遺産中城城跡の城壁は龍が天に昇るが如く、また、正殿があった一の郭に向かって龍が守護しているかのように美しくうねった曲線がみられます。外国から風水に詳しい方が訪れた際に「このグスクは100%風水で守られている!」と言い、とても驚いたとのこと。

そんな龍が住むグスクらしく、最近では園内のある場所に育つ樹が、まるで龍のような形に伸び、不思議なオーラを発しています。
そう私は、「こ、これは、もう、、ぜって~そうだ!」と勝手ながら感じています。

中城城跡に訪れた際には是非探して、このエネルギーを感じてみてください!
※ちなみに目は人工的に付け加えられたものです笑

(一社)中城村観光協会

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完熟きのこ

「お城川柳」

はじまりは 尾張が生んだ 武将たち

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完熟きのこ

「お城川柳」

家康の 産湯の井戸で 開運祈

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イオ

関宿藩代官所(大阪府堺市中区伏尾) (2021/05/24 訪問)

関宿藩代官所(城びと未登録)は、江戸期に関宿藩の飛地を管理するために設けられた代官所で、伏尾地域会館南側の道路沿いに石碑が建てられています。石碑の背後の柵の向こうは雑木林になっていて、代官所の遺構は見当たりませんでした。

代官所跡の石碑の隣には「鈴木貫太郎誕生之地」の石碑があり、こちらのほうがより目立っています。鈴木貫太郎というと、昭和天皇の深い信任のもと、首相として日本を終戦に導いたことで知られますが、関宿藩家老だった父・鈴木由哲がこの地の代官を務めていた時に生まれていたんですね。
 

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:久野城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の12城目は久野城です。
中泉陣屋から転戦。久野城駐車場(34.767026、137.928745)に駐車しました。

久野城は鎌倉時代から遠江に土着していた久野氏の城です。
久野城の築城時期は1500年前後で、久野宗隆により築かれたとされます。
久野宗隆は今川氏として初めて駿河守護となった今川範国の時から今川氏に仕えていました。
久野宗能の兄・元宗が「桶狭間の戦い」で討死すると、家督を継いだ宗能は徳川家康に従い、各地で戦功を立てました。
1590年(天正18年)に家康が関東に転封すると、宗能は下総佐倉へと移り、松下之綱が城主となりましたが、1603年(慶長8年)にふたたび宗能が城主となり、宗能の孫の宗成が徳川頼宣の家老として紀州入りに従い田丸城に移ると、北条氏重が城主となりました。
1640年(寛永17年)に氏重が関宿へ転封になると、横須賀藩預かりとなり、1644年(正保元年)に廃城となりました。

現在城址は公園として整備されており、土塁や竪堀などの遺構が残っています。
駐車スペースが東と北側にありますが、整備されたトイレのある駐車場は北側にあります。しっかり整備されたとても歩きやすい城跡でしたが、雨本降りの為、本丸で引き返しました。
攻城時間は25分くらいでした。

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