(第3回「丹波亀山城」からの続きです)
天正10年(1582年)6月1日午後5時、亀山城を出立した13,000の軍勢は、翌朝2日午前4時に本能寺へ到着し本能寺を取り囲みます。そして、明智秀満の隊を先頭に突入! 信長も最初は家臣の喧嘩か? いやまさか子の信忠の謀反か? と思ったそうですが、森蘭丸の「青に桔梗の旗印は明智の軍勢」の言葉に「是非に及ばず」と答えた話は有名です。信長は弓や槍で応戦しますが、傷を負ったため「もはやこれまで」と殿中奥に入り「敦盛」を舞った後に火をかけ自害します。午前8時頃に戦闘は終わりますが、この時、信長の遺体が見つからなかった事が、後の山崎の戦いに大きな影響を及ぼします。
当時の本能寺のあった場所には、今はひっそりと石碑が立ちここに本能寺があった事を伝えるのみで、大部分が老人介護施設になっていました(写真①②③)。こんな歴史的な場所が😩・・・もうちょっと何とかならぬものかと残念な光景で複雑な気持ちになりました。この後、秀吉が建てたという場所にある現在の本能寺にも行ってみました(写真⑤)。境内には織田信孝が建てたという信長の墓もありました(写真⑥⑦)。
本能寺があった場所のすぐ西側、おそらくここに光秀が立っていたであろうと思われる場所に私も同じく立ってみました(写真④)。謀反を起こし主君を討ってしまった光秀は、どんな思いで燃え落ちていく本能寺をここから見つめていたのでしょうか? そして見つからぬ信長の遺体をどんな思いでここに立ち待ち続けていたのでしょうか?
(第5回「勝龍寺城」へ続きます)
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