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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:蒲原城 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の3城目は蒲原城です。
小島陣屋から転戦。城址駐車場(35.1247490、138.6023656)に駐車しました。

築城年代は不明だが、天文年間(1532年~1555年)に今川氏による築城とされます。
一般に蒲原氏数代の城と言われるが、河東の乱(1537年~1545年)の際には今川方で遠州の国人飯尾乗連らが守備に入っており、甲相駿三国同盟期(1554年~1567年)にも駿河の諸将が城番となっていることから、史料上否定されています。
三国同盟が崩壊し、1568年(永禄11年)12月に武田信玄が駿河侵攻を開始します。
最初の侵攻で信玄は蒲原城を落とさずに駿府に入ったところ、今川氏救援のため北条氏政が派遣した北条氏信率いる援軍が蒲原城に入り武田軍封じ込めの拠点としたため、信玄はやむを得ず駿河から撤退しています。
駿河奪還のために掛川城から戻った今川氏真も短期間だが入城しているそうです。
1569年(永禄12年)9月から10月にかけて武田信玄が小田原攻めを実施。この結果、北条氏は戦力立て直しを余儀なくされたそうです。
1569年(永禄12年)暮れの再侵攻時には総攻撃を加え、北条氏信ら後北条勢や今川諸将は戦死し12月6日に落城しました。
信玄は自ら城に入って改修し、後北条氏に対する防衛拠点としたそうです。
その後も武田勢が掌握していたが、1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍に攻められ落城、廃城となりました。
現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができるようです。

駐車場もトイレあります。豪雨の為、攻城断念。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:小島陣屋 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の2城目は小島陣屋です。
庵原山城から転戦。当初は庵原山城➡横山城➡小島陣屋の順で攻城する予定でしたが、豪雨の為、城びと未登録の横山城はスキップしました。案内板(35.084684、138.5108)近くの陣屋裏門跡に路駐しました。

小島陣屋は徳川家の親藩で、瀧脇松平家初代藩主・信治が1704年(宝永元年)に小島村に陣屋を構えました。
滝脇松平氏は、松平親忠の九男乗清を祖とする十八松平氏の一家で、1657年(明暦3)年に松平重信が駿府城代に任じられ5千石を領する大身旗本でした。
1689年(元禄2年)重信の養子信孝が若年寄に就任して加増され1万石となり諸侯に列し、2代信治が所領を駿河小島に集められ陣屋を構えました。
滝脇松平氏は、11代信敏の時に明治を迎えたが、徳川宗家の駿河駿府移封のため上総桜井へ移封となりました。
明治に廃城となった後はしばらく小学校として利用されていましたが、1928年(昭和3年)に建物が取り壊され、現在では石垣がその名残をとどめています。

陣屋といっても、立派な城で階段状の石垣や枡形虎口も実際見れるようですが、豪雨の為、車の中から説明板の写真を撮り撤退しました。
国道52号線はここより6~7km先で豪雨により通行止めになっており、山梨方面へは国道139号線を使用して北上することにしました。。
国道52号線沿い(身延線沿い)にある真篠城/波木井城/下山城/菅沼城/上野城・一条氏屋敷(城びと未登録)は今回攻城を諦めました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:庵原山城 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の1城目は庵原山城です。
高速道路下空スペース(35.051051、138.485996)に駐車しました。

築城年代は定かではないが、在地土豪庵原氏が居城し、室町時代中期からは今川氏の家臣となり引き続き領したようです。
庵原氏は藤原秀衡の後裔とされ、代々今川家臣、太原雪斎も庵原氏の一族と云います。
1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」では庵原美作守元政らが参戦し、今川義元とともに討死しました。
1568年(永禄11年)武田軍の駿河侵攻で武田方の城となり、今川氏旧臣の朝比奈駿河守信置が入り、大庵原城主となりました。
1582年(天正10年)武田氏滅亡の際、徳川の大軍に攻められ落城し、朝比奈信置は織田信長の命令により庵原城で自刃した云わっています。
現在は新東名高速道路建設で大部分を消失し、北端の曲輪、堀切が残るのみだそうです。

静岡県全域で豪雨です。その為、車の中から撮りました。付近の川が増水しており、怖いので早めに撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】大秋城(愛知県名古屋市) (2021/07/22 訪問)

「大秋城 しりとり手札に 欲しかった」

秋田城を別名にしようか悩んでいた時期があったので,この手札があったらサクッとアプローチできてました。
しりとり回顧の登城①です。
おぉっ,②を予告?

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六神合体

割と見所あり (2021/07/25 訪問)

籾井城は閉業中?と言うグーグル先生の怪情報のせいで籾井城を断念したわけですが・・・・(実際は営業中です。グーグルのミスです)

代わりに行ったのが篠山城からも近いこの澤田城だったわけですが。
小林寺の背面がほぼ城跡なのですね。

堀切っていうか空堀かなぁって部分が通路になっていてそこから二重堀切など見所はいっぱいありました。

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六神合体

般若寺城 (2021/07/25 訪問)

城びと未登録城です。

兵庫県丹波篠山市にある般若寺城へ行ってまいりました。
篠山城大書院で新たに販売されている4種の御城印のひとつです。

まあ城址碑と看板のみです

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六神合体

八百里城 (2021/07/25 訪問)

城びと未登録城です。

兵庫県丹波篠山市にある八百里城に行ってまいりました。
新たに4月から篠山城大書院にて販売されている4種の御城印のうちの一箇所ですね。

八百里城、麓に看板と駐車場(2,3台分?)があります。
他にも登山道あるのかもしれませんが。

序盤ちょっときつめの道を行くと尾根道筋に入るので後は楽に(それでもきつめ)主郭に行けますね。

郭は分かり易いのですが・・・・
堀切などの遺構は甘過ぎて「まあそれっぽい」くらいしか判別出来ません。

おそらく奥の未整備部分が主郭と思われますが、何故か二郭、三郭部分だけ木が伐採されていました。
まあ景色はこっちのがいいですけど。

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六神合体

室町第 (2021/07/18 訪問)

城びと未登録です。

花の御所こと足利将軍室町第跡ですね。
石碑しか残ってないんですが。
実は二箇所石碑があるらしくもう一箇所は大聖寺にあるそうです。

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六神合体

二条城 つかず離れず 聚楽第 (2021/07/18 訪問)

案外二条城と離れてない場所にあった聚楽第(それでもそれ相応に歩きます)

京都市考古資料館で御城印が販売されています。

そこを中継地点に石碑に向かうだけですかね。
遺構は無いですからね。

そういや城址碑は別にあったっけ?
うわ、行ってない・・・・

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ぎりょう

戦国時代の最終戦 九戸政実公の居城を歩く (2021/07/23 訪問)

先般、地元栗原市の鶴丸城を投稿した際、帰り道に九戸政実首級清めの池があった。日本戦国時代の最終戦「九戸一揆」において奥羽再仕置き軍6万をわずか5千の兵で迎え撃ち、難攻不落の城に苦戦した鎮圧軍は謀略を巡らせ、政実に家来・婦女子の助命と引き換えに開城を勧め、開門するや城内に放火、城内の者を撫で斬りにした。政実以下重臣7名が仕置き軍総大将豊臣秀次の本陣三ノ迫(宮城県栗原市)に護送されそこで斬首された。
これは九戸城跡を見に行かねばならぬとの思いが募り、7月の4連休2日目の早朝、東北自動車道を北上していた。八戸自動車道一戸ICで高速を降り二戸市を目指し午前10時に九戸城跡ガイドハウスに到着できた。そこで九戸城跡案内図(周辺地図に城の鳥瞰図、一揆の際に攻城軍が陣取った方角を記載したものでなかなか見やすい)を頂いて攻城を開始する。
ガイドハウスの有る旧三ノ丸跡地から城内に。本丸の切岸を西から北に廻り、二ノ丸と石沢館(外館)の間の堀切を通り二ノ丸搦手門跡から二ノ丸へ。夏場とあって草深く外曲輪のイメージがつかめない。城は九戸一揆終結後に蒲生氏郷により本丸南側、東側に石垣を伴った直線的な堀や、食違い虎口に改修され、南部信直が福岡城と改名して、寛永10年(1633)の盛岡城築城まで本拠地としたという。
九戸一揆時代の中世城館のイメージは西方に位置する石沢館や若狭館、二ノ丸南側の切岸、深田堀などに見ることができる。本丸、二ノ丸、他これまで数度にわたり発掘調査がされており、今後さらに観やすく整備されることと思う。
ガイドハウスのある九戸城エントランス広場に駐車可能。

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刑部

SSの裏山にある城址 (2021/07/23 訪問)

ガソリンスタンドの横の道を上り裏山が城址です。案内板の前に車を止めて土橋を渡り主郭部へ! 虫除けを携帯して歩きました。

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六神合体

あ、結構広いね (2021/07/18 訪問)

二条城から二条古城へ行ったのは失敗だと思いました。
駅からだと二条古城→二条城に行くほうが近いのですね。

二条古城、石碑は国際マンガミュージアムの入り口付近にあります。
近くに発掘現場もあるのですが、立ち入り禁止です。

ここからさらに西の京都御苑の東端に石垣(石くら)がありますね。
この石垣は積みなおしされたものだそうですが、場所は同じだとすれば・・・・
マンガミュージアムから結構な距離があるのでどんだけでかいんだ?となります。

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六神合体

御城印、この扱いですか? (2021/07/18 訪問)

本格的な夏到来。
京都駅前から金閣寺まで「徒歩」で行きつつそこまでにある史跡を堪能するという無茶な京都巡りを実行に移したわけです。

というわけで二条城ですが、東本願寺を経由して駅から50分。
二条城前にバイク駐輪場があったことをこの時知ってショックを受けました。

しっかしほんと綺麗な石垣と真四角の縄張り。
豪華な装飾と二条城大変見ごたえのある城でした。

で、売店で御城印を買ったわけですが・・・

「御城印提示でスナックコーナー10%値引き」って・・・・

しかもそのまんま裸で御城印渡されたわけですが・・・・

あれ?これ割引券?

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ふゆづき

土の要塞 (2021/07/22 訪問)

売店の方の話では、16日まで閉鎖されていたということでしたが、この連休から入城は再開されています。
石垣山城からは車で約40から50分くらい(箱根新道経由)の場所、現在の国道一号線を少し離れた旧道沿いにあります。
売店前と城址公園の入り口には駐車場がありますが、大凡20台程度が駐車可能というところだと思います。

豪雨のため、二の丸付近の周遊道が一部閉鎖されていますし、二の丸周囲の障子堀の一部が崩落しているところはありますが、写真のとおり一部の堀は見学可能な状態になっていますし、虎口も綺麗にのこされています。。
また、二の丸の周遊道から富士山方面の展望がよく開けています。
このような箱根の山の中に、旧東海道を扼することを目的として築かれた土の要塞ですが、落城が早かったためか、よく遺構が残っているように思いました。

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イシテル

【お城川柳】 (2021/07/25 訪問)

妻娘cafe ひとり登城 世界遺産

家族の買物で姫路まで運転。
妻と娘が買物とcafeランチの間での城廻り。
4連休の最終日にしては観光客が少なく、待ち時間無しで天守閣へ入れました。

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天守閣復活 (2021/07/24 訪問)

 天守閣の復旧工事が完了し、特別公開(第3弾)が2021年6月28日から始まっていましたので、震災後初めて登城しました。天守閣内部に入ることができます。ただ、全体としては立ち入り禁止区域が、まだまだあります。
中学生のときに初めて来ました。石垣に魅了され、その後、機会があれば来ていました。熊本地震後は来ていなかったのですが崩れた石垣を見たくなかったということでしょう。やはり崩れた石垣を見ると悲しくなります。宇土櫓下の石垣が崩れなかったのは幸いでした。ただ宇土櫓は地震によって付属する続櫓が倒壊し、石垣に崩落や膨らみが生じているとのことで石垣も含め修理が必要とのことで検討されています。多くの場所で復旧作業が続けられていて、すべて完了するのは2037年とのことです。
今回復旧された天守閣は地震に備えて最新技術と伝統技法を融合させて再建されたとのことです。訪れた方々の多くは復旧した天守閣を見て「やっぱり、すごいね」などと声をあげていました。せっかくなら木造でゆっくり再建すればいいのに、とも思いましたが熊本の方にとっては天守閣は特別な存在なのでしょう。新型コロナウィルス感染症で閉塞感のある今日この頃、熊本城天守閣の元気な姿が多くの方に力を与えてくれているのかもしれませんね。

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亀井駅 (2021/07/23 訪問)

 熊本電鉄菊池線「亀井駅」から徒歩5分弱のところにある光照寺付近が城址です。「亀井城跡石垣」の石柱はありますが、見るためには民家の敷地内に入らなければならず断念しました。

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新須屋駅より (2021/07/23 訪問)

 熊本電鉄菊池線「新須屋駅」から徒歩1~2分の場所に案内板があります。

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刑部

インター近くの城址 (2021/07/23 訪問)

未だ、誰の投稿もないので下調べをしてから行きました。宇那禰神社前に駐車スペースがあります。堀切が道路になっていてので神社の入口までかなり狭いです。神社の反対側に城址の標柱がありそこから登ると主郭部のようです、でも今は畑になってます。

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小城小次郎

普通の山城にはない迫力と威厳に満ちている (2021/05/03 訪問)

比高400mを超える登りの苦しみも、山上の曲輪群の素晴らしさを見ればすべてが吹っ飛ぶことだろう。この城に籠ってさえいれば無類の強さを発揮したスーパー国人草苅氏の歴史とともに、このお城のことはもっと大きく語られてよい。

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