旧仙台藩21要害訪問二ヶ所目は人首要害。ここも上口内要害と同様、南部藩に対する藩境警備を担っていた。盛街道/県道8号線の人首の街並みは昭和の面影が色濃く残り、懐かしい雰囲気。その中ほどから東側に入る小路があり、進むと「人首城跡入口」の看板があり、程なく大手門跡の標柱と曲輪跡に至る。
この城の築城年、築城者はともにはっきりしない。葛西氏統治の時代には岩谷堂城主江刺氏の家臣人首氏の居城であったと云う。「仙台領古城書上」には江刺郡人首村の項に「一 人首城 東西十一間 南北十二間 城主阿蘇修理」との記載もある。仙台藩領となって慶長十一年(1606)に沼部氏(一族1000石)が配され、明治維新まで10代263年間続いたと云う。
縄張は比高50m程の丘陵先端部に三つの曲輪が並ぶ。一番西端の曲輪が本丸と云われ、北・西・南側は高い切岸となり幅15m程の腰曲輪が取付く。南西側に枡形虎口の大手門跡が残る。本丸東側に一段下がって、現在水道施設がある曲輪が続き、更にその東側に空堀で隔てた東西35m南北50m程の曲輪がある。この曲輪は城内の最高所であり切岸・土塁が残り、古い時代の本丸と考えられる。
富原文庫蔵陸軍省城絵図では「江刺郡人首村旧舘絵図面 長サ七拾八間 横 四拾四間」、本丸に三基の建物と門、腰曲輪の南西側にも門が描かれている。現在本丸跡には「招魂社」が、東の最高所の曲輪には石碑四基と四阿が建てられている。東北自動車道水沢ICから24キロ(30分)本丸東の曲輪跡に2~3台駐車可能。
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