わさやまじょう

和佐山城

和歌山県和歌山市


旧国名 : 紀伊

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尾根上の境界土塁
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イオ

全体的に藪化 (2025/02/09 訪問)

南北朝期に北朝方の畠山義深が城ヶ峯山頂部に築いたとされますが、現在見られる遺構は戦国末期に改修されたものと考えられ、羽柴秀吉の紀州攻めの際に地元国人が籠って抵抗の拠点となったようです。

山麓の高積神社・下の宮脇に駐車して登城開始。高積山頂部の上の宮近くまで舗装された参道が続いていますが、急坂の上に落石や折れた枝が路面に散乱しており、車で行くのはおすすめできません。歩いて登ること20分弱で高積山に到達。上の宮との分岐(案内表示あり)を城ヶ峯方向に進んだ先が和佐山城です。

分岐から南に進むと尾根に沿ってのびる土塁が姿を現しますが、城郭遺構ではなく江戸期の村落の境界を示す土塁なんだとか。境界土塁をたどってさらに南へ進み、分岐から15分ほどで城域に到達。大きな竪堀が北東方向に落ちています。竪堀を横目にスロープ状の登城道を上ったところに主郭の北虎口が開口し、虎口の両側に張出部を設けて横矢が掛かる造りになっています。張出部には石垣が施されている…はずですが、見落としてしまいました。

主郭は北辺から北西辺にかけて土塁をめぐらせ、南東部には井戸と土壇がありますが、藪に沈んでいてよくわかりません。土壇の南側から主郭を出ると、主郭手前で途切れていた境界土塁が復活して南へとのびていました。主郭の東下には帯曲輪が広がり、南端の櫓台の下からは三条の堀切により南尾根を遮断しています。

南尾根の三条の堀切を越えた先が副郭で、主郭と異なり副郭の内部にも境界土塁が続いています。副郭は藪に覆われ自然地形に近い状態ながら、北辺の土塁はかろうじて判別することができました。

縄張図で見る分にはもう少し見応えありそうに思えるんですが、全体的に藪化していて遺構が見づらいのが残念なところ。せっかくこんなところまで来たので、最初の分岐から高積神社上の宮に寄り道して下山しましたが、上の宮には和歌山城と同じ緑泥片岩による石垣が築かれていて、むしろこちらのほうが見応えがありました(笑)
 

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小城小次郎

わかりにくくて心細い (2023/11/04 訪問)

佐和山城と間違えそうな城名だが歴史は古く14世紀半ばには畠山氏が大軍とともに着陣している。城址碑などがないので「城ヶ峰→」を示す看板が落っこちてるのを頼りに進むしかないが非常に心細い。城域は薮ってるし・・

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todo94

和歌山の城めぐり⑤ (2023/04/29 訪問)

午後には献血の予約を入れてあり、天気予報も雨になっていたので、和歌山市へと向かい、和佐山城をこの日最後の攻城としました。高積神社下ノ宮についた時にはついに小雨が落ちてきていました。とりあえず、傘なしでもなんとかなりそうだったので攻城に踏み切ります。登城路の中央にバーンと現れた板碑の左手は高積神社上ノ宮になります。途中登城路が分かりにくい右手に折れていく箇所がありましたが、ピクミンブルームの地図のおかげで迷わずに山頂にたどり着くことができました。

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キンヤ

南北朝時代の太平記の舞台となり、戦国時代の遺構が残る城 (2021/11/13 訪問)

南北朝時代の太平記の舞台ともなり、1356年に紀伊守護で北朝方の畠山義深によって築かれたと伝わります。
戦国時代には秀吉の紀州攻めの際、抵抗する為に使用されたのではともされます。

西側麓の高積神社下宮から、高積山にある高積神社上宮へは結構上まで舗装された道がありますが、細く急坂で小型車の4WDでないと厳しそうです。
高積神社上宮から南へ尾根続きにある城ヶ峯山頂が城跡です。

尾根の真ん中に城跡の南北に低い土塁が長く繋がっていますが、城の遺構ではなく江戸時代の村の境界土塁とされます。

城跡は主郭がある曲輪群と南側の曲輪群があり、一城別郭のようでもあります。

主郭は藪ですが周辺は堀切、石積、横矢掛り、竪堀、土塁など戦国時代を思わせる城でした。
特に北東側の土塁が出っ張った横矢掛りがテクニカルで石積も伴いカッコよかったです。

南側の曲輪群へ繋がる尾根には3本の堀切があります。

南側の曲輪群は藪が酷かったです。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 畠山義深
築城年 正平11年〔北朝〕/延文元年〔南朝〕(1356)
主な改修者 畠山氏
主な城主 畠山氏
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸
住所 和歌山県和歌山市禰宜