みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

イオ

河川堆積台地の城 (2021/03/27 訪問)

南北朝初期に赤松氏家臣・貴志義氏が築いた城で、戦国期には瓦林正頼が居城とし、越水城に居城を移した後は支城として機能したようです。戦国末期、三好氏家臣・篠原長房の攻撃を受けて落城。そのまま廃城となりました。

詳細は不明ながら日野神社が推定地とされ、参道には城址碑があり、由緒書にも瓦林城の記載があります。社殿奥の社叢林には堀っぽい地形があったり、東辺には土塁っぽい土盛りも見られますが、武庫川の氾濫による自然地形らしく、遺構ではないようです。瓦林城は河原林城とも記されますが、武庫川の氾濫による堆積台地の叢林に築かれた城だと考えると、元々は「河原林」だったのが転じて「瓦林」になったのかな、などと考えながらの散策でした。

ついでに、もうひとつの推定地であり、瓦林正頼の墓がある極楽寺も訪れてみましたが、こちらは住宅地の中のお寺で、城跡を感じさせるものは見当たりませんでした。強いて言えば、西隣が小学校というのがそれらしくもありますが…。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

南武線沿線10城巡り④:大丸城 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り4城目は大丸城です。
南多摩駅より徒歩3~4分くらいで案内板前(35.647329、139.4894)に着きました。

大丸城の詳細は不明ですが、多摩川の渡河地点である「是政の渡し」を押さえる拠点として築かれたと推定されています。
新田義貞が城主だったという伝承も残っているようですが、こちらも定かではありません。
城址は多摩ニュータウン造成により遺構も消滅していますが、このときにおこなわれた発掘調査により14世紀~16世紀頃に使われていたことが明らかとなりました。
住宅街に詳細な説明板が建てられています。なお近くにある「城山公園」は城址の位置ではないようです。

住宅街に説明板があるだけでした。説明板の写真を撮って速攻撤収です。
攻城時間は1~2分でした。

+ 続きを読む

昌官忠

南武線沿線10城巡り③:高安寺城 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り3城目は高安寺城です。
分倍河原駅より徒歩6~7分くらいで高安寺総門付近(35.669815、139.473167)に着きました。

高安寺城は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされるようです。
平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われています。
南北朝時代には、新田義貞が北条泰家率いる鎌倉幕府軍を撃破した「分倍河原の合戦」で本陣を置いた城ですが、これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまいます。
そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興しました。
この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名されました。
要衝にあったため、室町時代には鎌倉公方・足利氏の支城として使われ、さらに戦国時代には上杉氏や北条氏など関東における中心勢力が拠点として利用しています。
現在の本堂は1624年(寛永元年)に火災に遭い消失したものを1803年(享和3年)に再建したもので、本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名のようです。
1872年(明治5年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、1856年(安政3年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されているようです。(鐘楼の写真撮り忘れました)
現在城址には高安寺の境内となっており、遺構は残っていません。

境内を散策しました。お寺ですね、山門はかなり立派です。
攻城時間は10分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

古民家裏に堀と土塁が。 (2021/04/10 訪問)

熊谷駅から徒歩で40分。
田園地帯の中にあります。
郭内に平山家住宅が建ち、これは重要文化財に指定されています。
生活感もあるので完全な私有地、公開頂けていることに感謝です。
が、目的は住宅ではなく遺構。
古民家の裏側に回ると良好に残る堀と土塁が。
こんな中で暮らして見たいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

あんどれ

三の丸までよ。 (2021/04/13 訪問)

記念すべき第1回目の利神城ガイドツアーに参加。三の丸までしか入れませんが、今後の整備に期待!!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

これはもはや芸術品だと思う (2021/01/25 訪問)

20年前と今とではお城の印象がまるで違う。それだけ整備が進んだのか、かつての私の目がフシアナだったのか・・・。切岸、土塁、連続堀切等が織りなす土の造形美は、もはや芸術品の域にあると思う。

+ 続きを読む

カズサン

【三河石橋城】愛知県新城市 道の駅の真ん前 (2021/03/26 訪問)

 草が茂る前に奥三河作手地区の城廻り、古宮城、作手歴史民俗資料館、川尻城、亀山城と探訪し道の駅でトイレ休憩、お茶でほっとし真ん前に慈昌院幟旗めく石橋城が目に入って来ます、前回H27年5月15日登城の投稿では裏手の土塁写真を撮り忘れ失礼な投稿写真に成ってましたので再登城、裏手の土塁を探訪し撮影。

 駐車場:前の道の駅
 住所:愛知県新城市作手清岳寺屋敷3
 構造:単郭の館造り
 歴史:奥平氏2代目貞久の次男久勝によってこの地に屋敷を構え石橋氏を名乗る、石橋氏2代目繁昌は主君4代貞勝への謀反が露見し屋敷を攻められ郎党40余人討死、天文6年(1537年)。
 後年当山和尚が繁昌と一族の死を哀れみ、亀山城主貞勝に願い出て当屋敷をもらい受けて寺地とし石橋山慈昌院とした。(案内板抜粋)

 寺院敷地内ですので先ずは参拝して、マナーよく見学観察撮影させて頂きました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

南濠のクマ笹が刈られて景観良好大満足 (2021/03/26 訪問)

 草が茂る前に観察登城と奥三河作手地区の城廻り、古宮城、川尻城を廻り国道301号線から良く観える亀山城を訪ねました。

 駐車場:亀山城南奥の専用駐車場、駐車能力大、近くの「道の駅つくで手作り村」も可能で余裕有

 今回6年振りですが駐車場から本丸搦手虎口までの登城路、遊歩道が手すり付きカラー舗装路に成ってました、大変登りやすい。
 草も刈られ観察探訪しやすく成って居り大変ありがたい、又今まで本丸南側の南濠(長い横堀)はクマ笹が茂り入り込めなかったのですが道筋のみ刈りこまれ今回初めてゆっくりと観察探訪出来ました、濠の凄さと本丸南側の急峻土塁も圧巻の造りです今回初めて実感しました、大手側、東曲輪、南曲輪の存在も確認しましたがクマ笹に覆われてます。
 北側の草は刈りこまれ景観、探訪は観察しやすく成ってます、本丸、二の丸、西曲輪、西腰曲輪、北濠、北側城塁は景観良好。
 大変満足の探訪でした。
 投稿写真は今回観察注目した横南濠と同高土塁、北西の横濠、手すり付き登城路を掲載、本丸、二の丸、二の丸下長横堀は前回のH27年5月15日登城分写真でご勘弁ください10枚が限度なので。

 歴史:上野奥平郷から三河作手に移住した初代奥平貞俊が応永31年(1424年)川尻城から移り5代続く、5代目貞昌(改名信昌)は長篠城主で長篠合戦で籠城耐え切った、後年奥平氏は黒田官兵衛の築いた中津城10万石で明治期を迎える。

 当日は金曜日でしたが近くの「道の駅つくで手作り村」は満員満車状態でした人出多し、オートバイのツーリングが多く見られました、亀山城の探訪客は少なめ、私の登城中は古宮城で逢った夫婦と出会いました、あれから塞之神城に寄ったとの事でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

南武線沿線10城巡り②:三田城 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り2城目は三田城です。
谷保駅より徒歩15分ちょっとで城山公園案内板前(35.678638、139.436379)に着きました。

谷保城は三田氏の館跡とも、また鎌倉御家人津戸三郎為守の居館跡とも伝えられますが、詳細は不明のようです。
なお三田氏は、平将門の後裔と称し、青梅を本拠に置き、西多摩から入間郡にかけて支配していた豪族で、後北条氏に敗れて本家は滅亡しているようです。
城址は城山公園として整備されていますが、郭内は私有地で見学できません。
近隣には東日本最古の天満宮と伝わる「谷保天満宮」や「くにたち郷土文化館」があり、くにたち郷土文化館には常設展示として谷保城に関する展示もあります。

「旧柳澤家住宅」の開館時間は9時からなので、8時前に到着した自分は見学できませんでした。
私有地の為、中に入ることができず、城跡の周囲をウロウロしましたが、空堀、土塁かなと思えるものもあるがイメージはわかないですね。
攻城時間は20分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

南武線沿線10城巡り①:立川氏館 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り1城目は立川氏館です。
立川駅より徒歩17~18分くらいで普済寺山門前(35.690852、139.402448)に着きました。

立川氏館は立河宮内少輔宗恒によって築かれたと伝わる居館です。
立川氏(立河氏)は武蔵七党のひとつ、西党・日奉(ひまつり)氏の一族で、宗恒を祖として、立川氏館を本拠としてこの地を支配していました。
北条氏照の家臣に立河照重の名が見られるように、戦国時代も北条氏に従い、本領安堵されていたようです。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」では、立川宮内大輔の館を焼き払った記録があるようです。
北条氏滅亡後、立川氏は徳川家康に取り立てられ、子孫は水戸藩に仕えました。
なお館跡に建てられた普済寺には立川市唯一の国宝である「六面石幢」があります。
館跡の遺構としては、本堂の東南側に土塁を確認することができます。

本堂の裏手の庭園の一角にある国宝の六面石幢は、令和6年まで保存工事のため公開していないと聞いていたので裏手に廻るのをやめました。
このお寺、文化財がたくさんありそうで、山門も土塁もそのひとつでした。トイレもあります。
攻城時間は10分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

箕作城 (2021/03/20 訪問)

【箕作城】
<駐車場他>駐車場はなし。登城口ゲート前は駐車禁止なので<35.138618, 136.182866>地点道路脇に1台分停めれる。
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>近江佐々木氏・佐々木六角氏の攻城2城目。箕作城は佐々木六角氏の支城で東山道を観音寺城で挟みこむ重要拠点として機能していました。城郭検定にもよく出題される城、詳細は添付写真現地説明板をご覧下さい。
 登城口ゲート<35.139869, 136.184546>または貴船神社階段から登っていきます。距離1000m登山でまあまあきついです。主郭手前200m程に城跡碑のある曲輪、曲輪に高圧線の鉄塔があります。尾根道に木戸跡のような石があるところもあります。主郭手前に2・3段の曲輪があり、主郭跡にも鉄塔が建っています。石垣は安土城築城時にほぼ持って行かれたのですが、主郭北側に僅かに石垣が残っています。(夏場はシダで埋まりそう)主郭から観音正寺と観音寺城が見えます。眺望は抜群です。主郭から北方向にも尾根沿いに曲輪が点々としており、北斜面には当時曲輪群が広がっていて街道を観音寺城と挟み込む縄張りになっていたと思われます。残る遺構は少ないですが、観音寺城との位置関係、地理的状況を確認して楽しめます。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ミッピのパパ

(2021/03/30 訪問)

本来ならば、龍野の山城(古城)を攻略すべきところであるが、旅程時間の制約もあり
山麓の平山城のみ攻略。
しかし、ちょうど桜が満開で、あまりの美しさに思いのほか時間を取られてしまった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ミッピのパパ

市民憩いの公園 (2021/02/22 訪問)

琵琶湖湖畔の要所に、徳川家康の命で藤堂高虎が築城した膳所城。
築城当初は白亜の天守や櫓があったらしいが、
今は城址公園になり、案内絵図の縄張りを見て、思い馳せるしかない。

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「深谷城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
深谷城は、深谷上杉氏の上杉房憲が築いたとされる。その後、後北条氏の傘下に入り、小田原征伐で落城する。徳川家康の関東移封に伴い、譜代の家臣である松平康直(長沢松平家)が1万石で入る。康直の死後、松平忠輝が入るが、佐倉藩4万石へ加増移封となったため、深谷藩は廃藩となった。1622年、酒井忠勝が1万石で入り、深谷藩を再び立藩する。酒井忠勝は老中等を歴任し、藩政改革につとめる。1627年、川越藩主であった酒井忠利が死去したため、川越藩主を継ぐ。そのため、深谷藩は廃藩となり、廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR深谷駅 徒歩15分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「庁鼻和城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
庁鼻和城は、山内上杉氏の祖である上杉憲顕が新田氏に対抗するべく、六男・上杉蔵人憲英を派遣し館を築いたことが始まりとされる。上杉憲顕は南北朝期の武将であり、関東執事・関東管領をつとめる。足利尊氏・直義とは従兄弟にあたる。庁鼻和上杉氏は房憲の代から深谷城を居城としたため、庁鼻和城は廃城となったとされる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR深谷駅 徒歩25分

+ 続きを読む

戸川家記念館 (2021/04/04 訪問)

日曜と祝日に開館している、戸川家記念館を見学することができました。宇喜多秀家の時代に直家の時からの家臣である戸川氏他が出奔。関ヶ原の戦いでは、東軍について備中庭瀬に所領をもらいました。その分家の早島戸川家は、児島湾の干拓とそこで栽培された綿花やい草で豊かであったとのこと。戸川家記念館には、戸川家由縁の品々の他に、古代の海岸線地図や干拓の歴史の展示がありました。他に見学者がいなかったこともあり、係の方に声をかけて説明してもらいました。綿花やい草は塩害に強いと。また、児島湾は、引き潮になるとの遠くまで人が歩いて行けるようなしっかりした地面があったので、干拓は、埋め立てたのではなく、堤を築いて、干あげたのだと。
係の方は一人なので昼の食事中は閉まっていて注意です。
近くに、明治時代の畳表問屋建物を使った、いかしの舎があり、ランチに利用しました。この辺りの出身の犬養首相の書があり、庭も良いです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

出雲工業高校 (2021/03/27 訪問)

ホテルチェックイン前に攻略いたしました。出雲工業高校の隣というかはんぶ城を一部削って高校の敷地としたような感じです。高校内に入らず放水路側の登城口から攻略できます。鉄塔が目印です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

【天空の朝ごはん@瀬戸山城】Ⅲ〜堀切 竪堀 侍屋敷跡 遠景 (2021/03/29 訪問)

【天空の朝ごはん@瀬戸山城】に参戦!
夜明けてから、下山。途中、堀切(2&;3枚目)竪堀(4枚目)も見えました。最近も整備して下さった様子、(5枚目)感謝です。
麓の神社向いの郭跡、侍屋敷跡(6枚目)
赤来高原の旗(7&;8枚目)
朝日に輝く瀬戸山城遠景(9枚目)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

天空の朝ごはん@瀬戸山城Ⅱ 石垣 堀切  (2021/03/29 訪問)

【天空の朝ごはん@瀬戸山城】に参戦!
夜明けと共に、空はピンク掛かり(2枚目)、雲海は表情を変えて行きます(3 &4枚目)
堅固な石垣も(5&6枚目)
大手門跡(7枚目)
主郭標柱に家紋(8枚目)
お腹いっぱいになった所で帰路ヘ。
堀切(9枚目)
郭(10枚目)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くっしー

空堀と枡形虎口が特徴的 (2021/04/11 訪問)

元は地元の奥村氏の居城だったそうですが、森氏に滅ぼされます。

その後、小牧・長久手の戦いのために森氏が改修したらしく空堀や枡形虎口など戦国末期の特徴的な縄張になっているとの情報を得て訪問しました。

小さな城ですが、仕掛けはばっちりといった感じですね。

土塁とか切岸もしっかりしていて見ごたえのある城ですよ!

東側に神社があって、その鳥居の横に駐車場があります。10台ぐらいは駐車できます。

それから、鳥居の横にはパンフレットが置いてあります。結構お金をかけたパンフレットですよ!!

すぐ近くに、吹ケ洞砦というのがあるそうですが、それはまた次の機会ということで。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1056