重要な城ではあるが、目立つ遺構は本丸の内堀くらい。
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2021/09/12 00:49
ターニングポイントになった城
重要な城ではあるが、目立つ遺構は本丸の内堀くらい。
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2021/09/12 00:32
北条の拠点のはずなのに何故か真田推し
1つ1つの堀がとても深い、堆積物の関係で一見分からないが、角度が鋭いので、薬研堀の堀なのかも。
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2021/09/12 00:12
小振りながらも堅固な防御施設
本郭後ろのささ郭下は崖になっており、敵の侵入は不可能、反対側の本郭と二郭の間の屈折した空堀は広くそして深い。小さいながらも守りに固い城であることがわかる。
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2021/09/11 23:50
典型的な連郭式の山城
各郭ごとに横堀がキッチリ掘り込まれている。二郭の北と南の虎口はどちらも横矢掛しまくりという感じ。
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2021/09/11 23:33
勝頼を迎えるはずだった御殿
大河ドラマ真田丸のオープニングで、お馴染みの岩櫃山の麓にある潜龍院跡。短期間で建設されたと伝わっていますが、石垣は見事です。
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2021/09/11 23:13
シッカリとした石垣の城
群馬県内にあって、ここまでシッカリとした石垣の城も珍しい、見応え十分。
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2021/09/11 21:06
北馬出薬医門復元続板塀の板張り進捗確認と大手外馬出確認 (2021/09/11 訪問)
静岡県も武漢コロナウイルス緊急事態宣言延長で9月12日から9月30日まで自粛対応、県境を越えての往来自粛が今月いっぱい続きます、県内で動ける所をと諏訪原城を訪ねました、山城探訪の慣らし、車の移動の慣らしバッテリー上がらない様に、諏訪原城の復元続板塀(二の曲輪北馬出薬医門復元板塀)の赤くさび止めが剝き出しのままの状態進捗確認の探訪です。
今年の1月から3月6月と復元板塀の進捗確認をしてますが本日も鉄柱剥き出しのまま本年度末には何とか成るのでしょうか?
そんな訳で探訪はビジターセンターから二の曲輪中馬出、北馬出、薬医門、復元途中の板塀間の往復、探訪時間も有るので今までの探訪して無かった大手外馬出跡、全て茶畑に成ってますが復元石畳の東海道菊川坂沿いに三日月型に周辺が段差をもって遺構が残ってますが案内板説明板は有りません、ビジターセンターで頂いたパンフレットの案内図を頼りに探訪。
自宅から1時間程の移動で到着、10時の開館前でしたが既に車は2台駐車、10分前に開館していただいて資料ゲット、帰りにはビジターセンター前の駐車場は満車で全て県内車、広いので見学者と接触する事は有りません感染対応は問題有りません。
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2021/09/11 19:45
渋谷駅からすぐ (2021/09/11 訪問)
井の頭線渋谷駅から徒歩10分程度の距離にありました。
金王八幡宮という神社で、渋谷のビル群の中に思ったより
広い敷地の立派な神社が遺構としてありました。
宝物殿には中世の城の模型や書物もあり、由緒書も沢山あって、想像以上に城址の雰囲気を感じれました。
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2021/09/11 15:47
早雲の見た風景 (2021/09/08 訪問)
北条早雲の旗揚げで有名な興国寺城を訪問。
東海道線原駅から、コミュニティバス(ジャンボタクシー)の時間が合えば、これに乗車して東根古屋で下車(予め運転手さんに興国寺城を訪問する旨をお伝えしておいた方が良いと思います)。徒歩の場合には、原駅前から続く「興国寺城通」を突き当たりまで一直線に歩くと、登城口に到着します(徒歩約25~30分)。
城の入り口には、 興国寺城跡を中心にした整備を行っている旨の看板が立っていますが、正直城内の整備状況が進んでいる訳ではありません。
遺構は本丸を囲むような土塁、天守台のための石垣の一部と本丸の後背を守る大空堀のように見受けられましたが、 城の規模としてはそれほど大きいものでは無く、今川時代には支城の一つという扱いであったことが理解できます。
しかしながら、本丸跡(または天守台跡)に立つと、目の前に駿河湾と伊豆半島が良く見えることに気づきました。
ここの城主になって以降、早雲は毎日伊豆半島を見ながら、伊豆を自分の手に入れる日のことを指折り数えていたと妄想するのは、それほどおかしなことでは無いように思います。今川家が早雲をここに配したことが、後北条家興隆のきっかけなのでしょうが、歴史のいたずらの一つであったことがわかるように感じました。
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2021/09/11 15:12
港から篠島城趾は歩いて10~15分ほど。 (2021/09/10 訪問)
知多半島の先っぽの師崎から、船に乗って行ってきました。
行きは5分ほどで篠島に着きます。
主郭みたいなところは、そこそこ広く平らになっています。
土塁もなさそうだったので、柵だけで囲んでいたのかなと。
いくつかの民家の敷地内みたいな道を登っていくのですが、それが、段郭だったところに家を建てたのか、家を建てるから平らにしてみたのかはよく分かりません。
東海道も伊勢湾は海の道ですし、篠島は、位置的に渥美半島の先っぽや志摩にも近く、戦略上にも交通上にも要衝だったことが行くとよく分かります。
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2021/09/11 14:45
2021/09/11 10:19
小浜城 (2021/07/17 訪問)
【小浜城】
<駐車場他>南門跡北側にコインPあり。
<交通手段>バイク
<見所>堀・堀切・資料館・町並
<感想>小浜(こはま)城は永禄年間(1558〜1570)に寺内町として亳摂寺を中心として発達しました。小浜の地は西宮街道・京伏見街道・有馬街道の合流地点街道の要で寺内町は台地状に北東側から流れ込む大堀川を利用し、東に堀溜池を造り、北~西側にかけて人口の堀川を廻らしている。信長の本願寺攻めの際には信長方に付きその難を逃れている。豊臣時代亳摂寺の娘が豊臣秀次の側室となっていたために秀次事件の後この小浜は焼き討ちにあっている。焼き討ち前後どちらかは分からないが、秀吉が秀次事件のあと有馬に湯治に行っているので間違いなくこの地を通っている。そこまでするか、すごい神経しているな、晩年の秀吉は。焼き討ち後江戸時代は小浜は宿場町として再発展し酒造り等も盛んになりました。
まず資料館を見学し小浜の見所ビデオ、寺内町のジオラマと館員の方の説明はとてもいいです。資料館横に山中家(山中鹿之助の子孫宅)住宅庭に秀吉・千利休が茶の湯に利用した「玉の井」という井戸が残されています。資料館内からしか行けません。そのご資料館前にバイクを駐輪させてもらい散策、亳摂寺、南・東・北の木戸跡、首地蔵、大へんふるい道標(石柱)、江戸時代の高札、寺内町北の大堀切と大堀川等見所多いところ、2時間以上たっぷり楽しめます。
<満足度>◆◆◇
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2021/09/11 09:58
直線連郭で郭には畑や牛舎が (2021/09/05 訪問)
再訪、今回も説明板のある星宮大神の脇の搦手から登城。
搦手の登城路は結構急、藪蚊の攻撃にも遭います。
奥仲城は広い畑になっていますがそのまま進むことができます。
奥仲城と仲々城の間のあたりが見どころ。
土塁や空堀が整備されて残っています。
土橋は横矢がかかっていてカーブを描くようになっています。
脇に馬出もあり。
仲々城はかなりの広さでここも畑、さらには牛舎もありました。
明らかに私有地なのに見学できるのは有難いことです。
大手側にも空堀や土塁がありますがここはこの時季籔状態でした。
千葉常胤の子である東胤頼が築城、戦国期には千葉氏が北条氏の傘下に入ったため、北条氏が里見氏に備えるための拠点となりました。
広く、見応えのある城でした。
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2021/09/11 08:01
2021/09/10 22:07
武田家の土木技術と馬場美濃守の戦術眼に感服 (2021/09/08 訪問)
丸馬出で有名な諏訪原城を訪問。
アクセスは、東海道線金谷駅から、平成の町おこしで再興された石畳東海道(金谷坂)を通って徒歩約20分のところにある小高い丘の上に城は位置しています。
先ずは諏訪原城ビジターセンターを訪問します。
私が訪問した際には、係の方に城の見所(馬出や三日月堀の様子)を詳しく解説頂きました(車の場合にはビジターセンター前に6台程度、少し離れた場所(旧東海道沿)に10台程度の駐車スペースがあります)。
城には、茶畑が広がる大手曲輪から入城し、外堀を横目に見ながら、この城の最大の見所である二の曲輪中馬出に向かいます。
この馬出の保存状況は非常に良く、武田家の土木技術の高さがうかがえますが、敢えて言えば、これに代表される諏訪原城の多数の馬出は、防御力の誇示もさることながら、この馬出の様子が城外(旧東海道)からも見ることができることを勘案すると、この城が武田氏の城であること(すなわち、遠江の一角に武田の旗が立っていること)を認識させるためのものであったのではないかと思わされました。
また、本曲輪からは駿河方面の眼下に大井川と東海道を見ることができるため、東海道を監視・官制することが可能であり、この地に城郭を築いた馬場美濃守の戦術眼に感服する思いでした。
各種の馬出の様子も含め、城内をゆっくりみて所要時間は1時間程度。
深い空堀や土橋の形成など、武田家の最前線基地に投入された土木技術に改めて感服しました。
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2021/09/10 14:18
岡崎城に行ってきました (2021/09/05 訪問)
平塚、伊勢原城巡り《岡崎城→真田城→土屋城》
岡崎城に行ってきました
ここは無量寺に岡崎城と書かれた看板と説明看板があります。
その時の岡崎城は今と違い岡崎神社を中心にした城でした。(ここでは前期と書きます)
前期岡崎城は平安時代末期~鎌倉時代の源頼朝功臣の岡崎義実により築かれました。
その岡崎義実は衣笠城主三浦庄司義継の四男で岡崎の地名を取り岡崎と名乗りました
義実はそのごもずっと頼朝に付き従い三浦四棟梁の一つとなりました
そして今の無量寺を中心とした後期岡崎城(室町~戦国)は明応三年に三浦同寸が
義父の三浦時高を滅ぼして子息の義意を道寸本城の新井城におき
自分は岡崎城に手を加え、居城としました。
ですが伊勢宗端が小田原城を落とし相模平定を狙い三浦を滅ぼそうと来ましたが
小田原記によると岡崎城は要害だと書かれており岡崎城によって17年間もにらみ続けましたが
永正9年(1512年)に落城。道寸は弟の道香をたより住吉要害に逃げ込み転戦後に
新井城に立てこもり攻防、ですが3年後に落城。道寸は一族とともに自害しました。
その後は北条氏の持ち城となりました。
〔城情報〕
・築城年代 前期は平安末期~鎌倉 後期は室町~戦国
・丘城
・築城者 前期は岡崎義実 後期は三浦道寸
・主な城主 三浦氏、北条氏
・主な遺構 虎口、堀、土塁、井戸
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2021/09/09 22:02
2021/09/09 10:25
9/10から綾井城跡 登場記念 御城印発売 (2021/09/09 訪問)
販売場所:専稱寺
住 所:大阪府高石市綾園2丁目2-17
電話番号:072-261-1890
販売時間:9:00~17:00
販売価格:1枚300円(印刷で日付のみ手書き)
(歴史)
元々は岸和田城主、和田氏の弟であった綾井伝内の居城でした。戦国期には城主が沼間日向守となり、その後廃城となりましたが、城跡の壕の中から阿弥陀如来を見つけ出しそれをご本尊としてお祀りし、将兵の霊を尉めるために城蹟にお寺を建てました。
現在は専稱寺(正式名:専稱教寺)と呼ばれ壕のある珍しいお寺として親しまれています。
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2021/09/09 09:03
見どころいっぱい岩崎城 (2021/08/22 訪問)
先日、日進市の岩崎城を見て参りましたが、期待した以上の内容で
とっても良かったです。
ここに着いて最初に驚くのは立派な天守があることです。
元々この城には天守はなかったので、「園内のご案内」では展望塔と表記しています。
つまりこれは模擬天守で、ここには本当は天守はなかったのですが、「天守があったらいいなあ、
じゃあ造っちゃおう」というものですね。
小牧城に陣を構える徳川家康対、犬山の楽田城などに陣を張る豊臣秀吉との戦い、「小牧長久手の戦い」で
ここ岩崎城の丹羽氏は大変重要な役割を果たしました。
すーと読めるようやわらかーく書いてみます。
池田君と森君が秀吉に言いました。
「僕たちこっそり敵地を通って三河の岡崎城を攻めて来たいけどいいですか?」すると
秀吉は「きっと敵に見つかっちゃうから、やめときなさい」といいました。
でも池田君と森君は納得せず「絶対うまくやるから許してください」というので秀吉も
「しょうがないなあ、じゃあひとつ約束してよ、道草は絶対しない事!」と許してしまいました。
喜んで出発した池田君と森君はずんずん進んで岩崎城のそばまで来ました。
約束があるのでこの城は無視して先を急ごうとした時、
岩崎城から丹羽君が飛び出てきて、じゃまをします。
「かーっ」となった池田君は秀吉との約束を忘れて、丹羽君と戦ってしまいました。
そのため、この秘密の作戦はばれてしまい、到着も遅くなってしまいました。
それを知った徳川家康は先回して待ち構えていました。結局池田君と森君は討たれてしまい、
この作戦は大失敗に終わりました。
岩崎城公園には、立派な岩崎城記念館がありこのあたりの歴史を解説しています。
丹羽君こと丹羽氏重はこの戦いで亡くなりましたが地元の英雄であり、
ここ日進市の誇りであることが良く分かりました。
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2021/09/08 19:47
越水城 (2021/07/17 訪問)
【越水城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>バイク
<感想>越水城は1516年瓦林正頼によって築城されたが三好氏の京・近畿の拠点として攻めとられ、三好長慶の芥川山城移転前の居城となっていたこともあった。その後城奪取の攻防が続き城主は目まぐるしく入れ替わる。廃城前は篠原長房が城主となるが、阿波本城の上桜城が三好長治によって攻められ自刃、信長によって廃城となる。現在城びとポイントは丘陵地の頂上付近の大社小学校に石碑と説明碑があるのみで特に遺構は残っていない。ここが主郭付近で天守もあったようです。ここから南側斜面にかけて曲輪が広がっていたようで、攻防の城だけあって当時としては大きい城だったようです。
<満足度>◆◇◇
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