荒木村重の籠る花隈城攻略の功により摂津西部を与えられた池田恒興が、破却した花隈城の資材を用いて築いた城で、池田恒興の大垣移封後は三好信吉(羽柴秀次)が入り、その後は豊臣氏の直轄地として片桐氏が代官を務めました。豊臣氏の滅亡後は一国一城令により廃城となりましたが、城跡には尼崎藩領として陣屋が、江戸中期以降は天領として大坂町奉行所の勤番所が置かれました。明治には勤番所が初代兵庫県庁となりましたが、新川運河の開削により遺構は失われました。
陸路(西国街道)と海路の抑えとして兵庫津に築かれた海城で、城跡はイオンモールと運河になっていますが、イオン建設時の調査により、転用石を多く用いた石垣や堀、土橋などが発掘され、主郭の石垣には胴木も確認されています。発掘された遺構は埋め戻されてしまいましたが、発掘調査地には出土した石材を用いた模擬石垣と説明板が設けられています。イオンモール3階にも発掘調査の出土品が展示されているようですが、未確認です。また、新川運河の西岸にも兵庫城跡の石碑と説明板が建てられています。
西国街道からの城下への入口には惣門が設けられ、北の湊口惣門と北西の柳原惣門を結ぶ外郭には都賀堤と呼ばれる土塁と堀があり、柳原惣門から南東方向へ、そして南方向へと続いて、城下を囲い込む惣構を構成していたものと考えられます。都賀堤も惣門も明治に失われましたが、それぞれ跡地に石碑や説明板が建てられています。また、湊口惣門から西国街道を南に進み、西の柳原惣門へと曲がる南仲町の辻󠄀には江戸期に高札場が置かれ、札場の辻と呼ばれていました。このあたりが兵庫の中心地だったようです。
ところで、兵庫城からはずいぶん離れていますが、発掘調査で出土した石垣の一部が神戸市埋蔵文化財センターに移設されているとのことで、ちょうど別件で西神中央駅に行くついでがあったので、見に行ってみました(駅から南に徒歩8分)。移設石垣と説明板はエントランスホールに展示されており、転用石には印が付けられていて、横(断面)から見ると、五輪塔が用いられていることがよくわかります。3階のテラスには発掘された石垣の転用石がまとめて展示されています。これでもほんの一部なんでしょうけど。
神戸市埋蔵文化財センターの常設展示は縄文・弥生から古代にかけてが中心ですが、収蔵展示室には端谷城出土のかわらけや花隈城出土の瓦があったり、この日は「福原京」の企画展が開催されているなど、入館無料(特別展を除く)とは思えないほどに充実していて、土器や古墳にさほど興味のない私でも充分に楽しめました。
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