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カズサン

境目の城総石垣造り (2011/05/07 訪問)

 亀居城は福島正則が関ヶ原後戦功で安芸、備後50万石の太守として国境の支城を整備しその一つ、長門、周防毛利氏との国境の直近、大竹市小方に総石垣で築城した。
 しかし築城完成3年目に幕命で一国一城令前に破城され、幕府の総石垣の壮大城郭、福島正則に対する豊臣恩顧の大名への猜疑心も遇いまった事が重なったのでしょうか? 約400年土に埋もれたままに成ってしまいました。
 
 10年前の平成23年5月上旬、長門、周防、安芸、備後、播磨2泊3日の城廻り3日目、前泊した防府から山陽道経由、大竹ICを降りて亀居城の裏側登城通路の途中に在る専用駐車場を目指し、同駐車場に駐る。
 亀居城の認識は歴史読本の県別ベスト10、学研のよみがえる日本の城7(広島城福山城)で紹介が有り、圧巻は学研の戦国の堅城Ⅱの安芸亀居城、樋口隆晴氏解説、イラストは香川元太郎氏の推定復元亀居城俯瞰図、俯瞰図をしばらく眺めて是非訪ねたいと思い込んで約5年目の今回はの企画に入れ初登城が実現しました。

 探訪ルートは駐車場から三の丸下登城口から、発掘復元石垣が直ぐに目に入って来ます、登城路も石垣で囲み、三の丸、二の丸、二の丸虎口も小型の枡形、内部には演舞台付きの建物、本丸、本丸虎口は小型桝形4連で凝り切ってる、内部に入って南側に大天守台、左に小天守台、右に石階段付き多聞櫓台、天守台多聞櫓台には登れません、北東角に隅櫓台、北西は連続虎口、本丸石垣をぐるっと回る、東の二の丸下に詰の丸、詰の丸下に破城時の残存石垣が多数散見されました、登城口三の丸下に戻り有の丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸方向を散策探訪、石垣は破城時のままか土の剥き出し、切岸、土塁、残存石垣、復元石垣が見られます、イラスト復元図に在る、鐘の丸、妙見丸は探訪してません。
 
 亀居公園としてよく整備されています、所々に詩歌の石碑が多数ありますが趣味違いで素通りさせて頂きました、又桜の時期は過ぎて葉桜でしたが桜の時期は天守閣本丸から眺める景観は亀居城が桜に浮かんだような素晴らしい絶景が見られる事でしょう。
 大竹市、教育委員会の約400年過ぎた亀居城の発掘調査、石垣復元、公園整備の御尽力には大感謝です。
 続々百名城の制定企画がもし有りましたら是非亀居城の選定をお願いしたい。
 素晴らしい城です。
 

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BUCHI38

写真追加 (2022/01/08 訪問)

本アカウントで投稿出来なかった写真を追加します。

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POYO58

現存天守、国宝の漆黒の城! (2022/01/08 訪問)

1月の初期に私がずっと行きたかった松本城に行きました。松本城はなんと石落としが12箇所あります。そしてお城には鉄砲で抵抗するため幾つもの穴がありました。天守内を登るのがすごく大変でしたが、すごく立派でした。松本城は最初徳川家康の家臣、小笠原氏の城でした。この頃は深志城という名前でした。その後徳川家康が秀吉により江戸に領地を移すと豊臣秀吉の家臣、石川氏が松本城と名前を変え、天守を築きます。その後戸田氏が城主となり代々受け継がれていきます。私が一番すごいと思ったのは、本丸御殿と二の丸が炎上しているにも関わらず、天守は現存していると言うことです。そこにはある伝説があり、松本城の天守に祀られている神様が守ってくれたということです。ちょっと不思議ですが。またこの城は戦国時代のものと江戸時代のものに分かれているのもこの城の特徴です。ぜひ行ってみてください。

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POYO58

明智光秀の母、お牧の方の墓 (2022/01/29 訪問)

明智光秀は丹波攻めのとき波多野氏の裏切りに遭います。その後光秀は波多野氏に八上城を明け渡し講和をするよう持ち掛けます。しかし波多野氏はなかなかそれを信じませんでした。そこで光秀は母であるお牧の方を八上城に入れ、保護することを誓います。すると波多野氏は満足し、安土城へ向かいます。しかし、織田信長は裏切りを許せず、はりつけにして殺してしまいます。怒った波多野氏の家来は八上城にいたお牧の方を殺してしまいます。その遺体がこの場所に埋められています。墓には石碑がたっていて敵は本能寺にありと書かれています。おそらくこのことが本能寺の変に繋がったとか。

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北風の又三郎

関ヶ原いざ出陣! (2022/01/29 訪問)

戦国のクイズをするため、関ヶ原に行きました。

説明をしておくと、この関ヶ原は東軍家康と西軍三成が戦った場所です。最初は、西軍が優勢でしたが、小早川秀秋などの裏切りにより、西軍は崩れて行きました。この後、家康は江戸に幕府を開きました。

最初は、関ヶ原笹尾山交流館に行きましたが、開いていませんでした。予約すれば甲冑体験をできるそうです。
次は、岐阜関ヶ原古戦場記念館に行きました。新しい建物で、面白そうな展示がしてありました。予約していなかったので、また来れたらなと思いました。また、ここはあの有名な小和田哲男さんが館長だそうです。
そして、東首塚にも行きました。いろいろ説明が書いてありました。
最後に観光交流館に行きました。グッズがいっぱいあって楽しめました。僕は裏切りスナックという、小早川秀秋をイメージした物を買いました。味も見た目を裏切る焼き肉味です。余談ですが、間近で東海道本線を見ることができます。

関ヶ原は、松尾山城など戦いに関する場所がたくさんあるので、また行きたいです。のどかでいい所なので皆さんも来てください。🙇
#関ヶ原の戦い #記念館 #城 #首塚 #広い

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ぴーかる

福岡城 (2022/01/09 訪問)

【百名城60城目】
<駐車場他>舞鶴公園駐車場有料あり。
<交通手段>車

<見所>天守台・下之橋御門・門跡・多聞櫓・石垣
<感想>1泊2日国土防衛筑前国の旅5城目。2日目、朝駆けで来城した。舞鶴公園第一駐車場に駐車し最初に母里太兵衛長屋門を鑑賞、大手門交差点から下之橋御門と(伝)潮見櫓→名島門を見て黒田如水邸跡、三の丸広場から大濠公園に出て北に回り北側の外堀を端から端まで堪能。上之橋御門跡を入ってむかし探訪館(無料)へ。次に鴻臚館入館とスタンプ押印した。鴻臚館跡は礎石建物跡と推定復元建物があり昨日見た大野城の礎石群にこういう建物が建っていたことが連想でき勉強になった。東御門跡から二の丸跡→表御門跡、祈念櫓台石垣、本丸跡→天守台をじっくり堪能、やはり礎石が残っているのだから天守が存在したと私は思います。熊本城にも匹敵する大きさの天守台、どんな天守があったか妄想をかきたてます。小天守台も本丸石垣の出隅にして高さをとって見応えがあります。天守台周辺を一回りして南二の丸、多門櫓へ。福岡城も現存建物が全て中に入れないのが残念。南二の丸の外側一回りして石垣と下から見上げる多門櫓を堪能、本丸南側石垣を観察し北へ戻って裏御門跡、松の木坂を北へ下って、最後に城跡の北東隅に「外堀の石垣」という地下にある展示室があるので見に行って終了した。北にある2つの枡形御門跡、高さのある石垣囲みの主要部、内堀が無い代わりに外堀の西側に巨大な大濠があったりする特徴的な縄張り等見応え十分な城跡でした。

<満足度>★★★★★

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ばばよ

空堀跡は残っている (2022/01/29 訪問)

志村三丁目駅のすぐそばに志村城山公園があり、公園の坂を登った先に二ノ丸跡でもある熊野神社があります。
確かに神社の西側には空堀の跡がみてとれますが、写真ではわかるようには撮れませんでした。

●アクセス 都営三田線志村三丁目駅 徒歩約5分

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ばばよ

案内板が2つ (2022/01/29 訪問)

赤羽駅西口方面は赤羽台という小高い台地になっており、そこの端にあります。
赤羽駅の地図や案内には城や静勝寺がないのでスマートフォンの地図を頼りに。
駅西口のロータリーから南に向かう道を進むと突如路地の奥に石碑が見えてきます。
交通の要所を少し高台となった場所から見下ろすような城だったのでしょう。
遺構らしいものはあまりありませんが、都の旧跡でもあるため、東京都と北区それぞれが案内板を出しています。

●アクセス JR赤羽駅から徒歩5分

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ばばよ

案内板がないと城跡とはわからない (2022/01/29 訪問)

上中里駅を降りた目の前に蝉坂があります。
坂を登って行くと両側が切通風になっています。
その右手側が平塚神社です。
坂を登りきり本郷通りにぶつかるあたりに案内板があります。

●アクセス JR京浜東北線上中里駅から300m(案内板まで、徒歩5分)

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todo94

三重堀切 (2021/12/28 訪問)

志布志城に向かう途次に立ち寄りました。レンタカーを借り受けてすぐに向かったのですが、国道10号の事故渋滞の所為で10時近い到着になってしまいました。駐車場の一角に城址碑があり、ここからの桜島の眺望は一見の価値ありかと思います。登城路は駐車場入口側から伸びていますが、すぐに三重堀切がお出迎え。整備の手が余り入っていなくて登城路がわかりにくく、主郭にたどり着くのには少々苦労してしまいました。主郭の土塁の上には石の祠がありました。

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とっち

北条早雲の城 (2022/01/23 訪問)

後北条氏の伊豆支配の始まりでもあり、終わりでもある城です。思っていた以上に楽に登れました。
周辺には豊臣秀吉がここを攻めた時に築いた付城群がありますが、入る事はできません。
また鎌倉殿の13人の舞台でもあるため、北条・後北条両方の遺稿を見る事ができます。

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じゅんじん

地方有力者 (2022/01/15 訪問)

太陽光の奥に土塁があります。そして大きな堀も。現在でも城主のご子孫が住まわれております。
歴史は平安時代に源義家が奥州討伐の後に襲撃して討ち取ったのと事。

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にのまる

36見附めぐり㉑~清水門~

田安門と同じく北の丸公園の入り口ですが、こちらは公園散策の方の利用が多いのかなという印象です。
緩やかで楽そうに見えて全然楽ではない石段には意図的なものを感じ、どこかしっとりとした雰囲気は田安門とは違った厳かさを感じます。刻印石の宝庫でもあります。
北の丸公園は千鳥ヶ淵沿いの散策路が地面の陥没の調査と復旧のために通行禁止となっていますが、四季の移ろいを感じられる自然豊かな広々とした公園です。常時開園しているので、皇居東御苑が休園の月・金も大丈夫です。

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にのまる

36見附めぐり⑳~田安門~

北の丸公園入り口のひとつである田安門は総構完成時から残る唯一の建造物です。
高麗門と櫓門で構成される大きな枡形は武道館に向かう人たちをどんどん吸い込んでいきます。敵も味方もありません。
さりげなく曲線を描く素敵なデザインの石垣の上に見える二つの三角屋根は弥生慰霊堂。関東大震災後の昭和天皇の野立所の記念碑もこの上にあります。
江戸城には平和の象徴として未来永劫在り続けてほしいと願っています。


36見附シリーズ再開します。
36見附には含まれていない乾門と西桔橋門も入れて全部で39コになる予定です。(タイトル詐欺)

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朝田 辰兵衛

肉眼では富士山見えてたんだけど… (2019/11/17 訪問)

画像にはチラリと見えてただけ…。ま,岩殿山城でリベンジできたので,とりあえず懸案はクリア。三島スカイウォークは混んでましたが,ここはガラガラでした。
関東ローム層が素材のベルギーワッフルは,ところどころ台風の影響で崩れていました。

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POYO58

落合砦(土岐明智城、多羅砦) 明智光秀の生誕地! (2022/01/29 訪問)

ここに行ったのはこれで3回目です。ここには明智光秀の産湯の井戸があります。この城からは明知城が見えます。大垣市にある多羅城(西高木陣屋跡)も明智光秀の生誕地になっていますが、その多羅の共通点がなんの関係なのか不思議です。

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カルビン

今更ですが (2022/01/29 訪問)

1年近く投稿期間開いてしまいました(汗)

今更ですが明けましておめでとう御座います。

この年賀はがき来るまではお城ファンとしては年明けした気分にならなかったので(^^;)
(※訪問日は実際に訪問した日ではなくはがきが届いた日になります)


やっと世間が落ち着いて訛った体鍛え直している間にオミクロンの猛威のおかげでまた暫く出かけられなくなりましたorz
今度は感染対策しっかりした状態で近場を長時間歩いて山城に控えたいと思います。

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チェブ

かぐや姫と仮御所。 (2022/01/03 訪問)

千葉氏が築いた「小篠塚城」、どちらかと言ったら古河公方が動座した方がビックリ情報でした。

亨徳の乱で「古河城」から逃れた古河公方の足利 成氏さんが、千葉氏を頼り「小篠塚城」に移りました。
1年後「古河城」を奪還し、帰って行きました。
成氏さん死後、2代目古河公方の足利 政氏さんと息子の高基さんが、またしても動座します。
千葉家中で内紛がありました。
公方を敵視している 千葉家臣と争ったようです。

「古河城」と「小篠塚城」は100km位 離れた場所で、車でも2時間ほどかかると思います。
ここまで来るまでに、良い城が無かったのかな?
亨徳の乱は、ざっくり28年間、関東一円いろんな所で揉めるので、現在のスケールでは図れません。

「小篠塚城」は駐車場がありました。
植物園や遊歩道があり、駐車場から奥に続く道があります。
『近道』の看板と見つけ、ラッキーと思い矢印の方向へ吸い込まれました。
皆さんは、お分かりだと思いますが、この手のお城の近道は、急坂です。
虎口からお邪魔して、土塁に守られた郭があります。
お社があり、近づくと『咲耶姫神社』でした。
「小篠塚城」が廃城してから祀られているのでしょうか?
コノハナサクヤ姫をお祀りしてます。彼女は『かぐや姫』のモデルになった女性です。

「小篠塚城」、公方が動座するほどの お城であり、コノハナサクヤ姫のイメージから、雅なお城だったんじゃないかと勝手に推測して退陣しました。

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小国神社 (2022/01/29 訪問)

 社山城のついでに遠江国一宮として知られる小国神社へ行って来ました。武田信玄が遠江へ進行したときに徳川方であった神主が社殿を焼きはらったと言われています。写真は撮り忘れましたが、境内には「家康公立ち上がりの石」とうい徳川家康が座ったと伝えられる石もあります。近くには真田城という城びと未登録の城址もあります。
ちなみに、この地方では車のお祓いをする人の多くはこの神社に来るようです。

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交通の要衝の城 (2022/01/29 訪問)

 浜松、二俣、掛川などへの交通の要衝にあり、武田徳川の争いの時には拠点となったこともあると伝えられる城です。堀切、横堀、竪堀、土塁等遺構を見ることができます。昔来た時より倒木や雑草で見にくい所もありまあしたが、概ね遺構は確認できます。前に見逃してしまった南側の見事な堀切を確認できました。尾根を利用した曲輪が展開していますので一騎駆けのような土橋も見られます。縄張り図から考えると、藪こきや道なき山の中を丹念に探索すれば、まだまだ遺構を見ることができるかもしれません。

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