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肉球

石垣いろいろ (2021/06/25 訪問)

石垣の宝庫と言われる金沢城の鶴の丸広場には基本的な展示石垣があり勉強してから散策することが出来ます。
石川門だけでも切り込みハギと打ち込みハギ。江戸時代中期の改修により2種類の積み方になったようです。
三十間長屋の石積みは切り込みハギで表面は粗く縁だけ綺麗に揃え石のゴツゴツ感を強調されてます。
東の丸の高い石垣は金沢城築城当初からの野面積み。
橋爪門は二の丸御殿への入り口ということで戸室山から産出された戸室石が敷かれ格式高く築かれました。
数寄屋敷の石垣には○✖️△など刻印がたくさん刻まれてます。
などなど石垣だけでも見応え十分です。

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織田晃司

立派な模擬天守 (2021/07/03 訪問)

模擬天守建築の際、発掘調査が行われたそうですが、
はっきりと遺構がわかるものが見つかりませんでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:新府城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の3城目は新府城です。
韮崎民族資料館から転戦。新府公園駐車場(35.737801、138.426310)駐車しました。
神社階段から攻城しました。この階段、結構きついです。階段横に参道(乙女坂)あります。

新府城は1581年(天正9年)、武田勝頼が家臣の真田昌幸に命じて築かせた城です。
躑躅ケ崎館にかわる新たな本拠地として築いただけあって、非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城でしたが、織田軍が甲斐へ侵攻すると勝ち目が薄いと見た勝頼は自ら城に火を放ち、落ちていきます。
家臣 小山田信茂の岩殿城へ向かった勝頼でしたが、信茂の謀反にあって入城かなわず、天目山を目前に田野の地で自刃。ここに武田氏は滅亡しました。
その後は新府城も廃墟となっていましたが、徳川家康が北条氏と甲州をめぐって争った際には、これを修復して本陣とし、戦局を好転させたと伝えられています。
現在も土塁や空堀などの遺構が残り、本丸跡には神社が建立されています。

民俗資料館でいただいたパンフレットがとても役に立ちました。
大手桝形虎口のあたりは開けていて大きな桝形虎口ときれいな丸馬出し、三日月堀が最高です。
新府公園駐車場に駐車、無料、東出構の目の前、常時開放、トイレ洗面なし。
攻城時間は45分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:白山城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の2目は白山城です。
日ノ出城から転戦。分岐点(35.699472、138.425631)から西へ進む細い道へ入り、白山神社入口の防獣ゲートを開けて中へ入り空スペース(35.699527、138.424516)に駐車しました。

白山城は甲斐武田氏の祖である武田信義によって築かれた城です。山麓にある武田信義館の詰の城として築かれました。
1186年(文治2年)に信義が死去すると、居館とともに一時廃城になったようです。
その後、武田氏が本拠を躑躅ヶ崎館に移すと、信義の次男・忠頼を祖として武田信長が再興した一条氏、武川衆の青木氏、山寺氏が城主となったとされます。
1582年(天正10年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡します。
1582年(天正10年)6月、本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、甲斐では三河国の徳川家康が新府城を本陣に七里岩台上に布陣し、若神子城に本陣を置く北条氏直と対峙しました。
天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、諏訪口の監視を行いました。
白山城は天正壬午の乱において修築されていると考えられています。
江戸時代初期の寛文年間(1661年-1673年)廃城となりました。
現在城址は国指定史跡として整備されており、馬出しや枡形虎口などの遺構を確認できます。南東山腹にある白山神社に登山道があります。

城址はコンパクトながら土塁・空堀があり遺構の状態は良いです。発達した虎口が目を引きます。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:日ノ出城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の1城目は日ノ出城です。
石碑説明板前(35.734232、138.453940)に駐車しました。

築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に日一揆によって築かれたと云われています。
1416年(応永23年)に上杉禅秀の乱が勃発すると甲斐国守護武田信満は禅秀方に与して戦ったが敗死しました。
これによって甲斐国守護の武田氏は衰退し、代わって一族の逸見氏や穴山氏、跡部氏といった有力国人が台頭します。
こうしたなか、輪宝一揆と日一揆という二つの小豪族集団があり互いに対立、日一揆は武田信長に与し、輪宝一揆は逸見氏や跡部氏と与して敵対し、1433年(永享5年)に荒川原で戦って武田信長・日一揆方は大敗を喫し壊滅しました。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡して織田信長が本能寺の変によって倒れると、北条氏と徳川氏によって旧武田領の争奪戦が繰り広げられました。
家康が新府城に本拠を移した際に、日ノ出城が修築されたが、北条氏との和睦により役目を終えました。

石碑と説明板の写真を撮って撤収です。(跡碑以外は消えかかっていて、よく見えない)
攻城時間は5分くらいでした。

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じゅんじん

再建中 (2021/05/05 訪問)

火事は怖いね。今でも神社の宮司さんです。

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じゅんじん

武田流 (2021/05/05 訪問)

カエルの鳴き声に癒されました。

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じゅんじん

2回目 (2021/04/10 訪問)

仕事が早く終わったので寄りました。

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じゅんじん

桜のころ (2021/03/27 訪問)

毎年の楽しみ🌸

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イオ

【お城川柳】

城めぐり ご当地グルメに 舌つづみ

せっかくいろんなところに行くんだから、ご当地の美味しいものを食べるのも城めぐりの楽しみのひとつですよね(焼鯖そうめん、大変美味でした)。でも、行列のできる名店に並んだりしていると、その分だけ城めぐりをする時間が少なくなって、

城下町 寄り道しすぎて 本末転倒

…などということにもなったりしてしまいます。グルメだけでなく、観光名所でも同じことで、先日も敦賀市内をめぐった後は、金ヶ崎の退き口にちなんで信長が逃れた朽木街道を通り、朽木氏の館に立ち寄って帰るつもりが、敦賀城下で寄り道しすぎたため、敦賀だけで帰る羽目になってしまいました…。

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カズサン

【お城川柳】140余年振りの復元御楼門を詠んで (2020/11/23 訪問)

 ・ 西郷どん 見てた御楼門 よみがえる

 昨年4月に公開された鹿児島城本丸大手門である御楼門が焼失から147年経て木造復元されました、全国大手門としても最大級の造りであり荘厳で立派で大変見応えが有りますます。
 同時再建計画有る角櫓の復元整備を願いつつ。

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T-Shionoya

嘗て天守や櫓を備えた緑の大土塁 (2021/05/09 訪問)

静岡県沼津市、愛鷹山南の舌状台地の1つに築かれた興国寺城。
現在も城の西部に"浮島"の地名が残るように、嘗ては浮島沼という沼群が存在し、興国寺城の位置は愛鷹山麓を走る根方街道から浮島沼を抜けて海岸へ出る道の結節点だったとのこと。

初代城主は、今川氏親(義元の父)から任命された伊勢宗瑞(後の北条早雲)。当時は興国寺という寺があったとのこと。
その後、今川方(本格的な城に改築)→北条方→武田方→徳川方→豊臣方→徳川方とめまぐるしく領主が変わりました。

発掘調査が継続的に行われており、将来的には復元整備が計画されている模様。
訪問時は一面芝生でしたが、本丸中央部に石垣を基礎とした虎口があったことがわかっているようです。

土塁と堀が削平されている二ノ丸と三ノ丸は城感が希薄。
しかし本丸をコの字に囲む巨大な土塁はエキサイティング。北曲輪との間の堀切(大空堀)も見どころ。
大土塁の中央部、伝天守台には豊臣期につくられたと考えられる石垣が存在します。この天守台が土部分と石垣部分で2段階になっており、北条繋がりの小田原城天守台と似てませんか?

北条早雲旗揚げの城が、私のお城巡りの109城目となりました。

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ヒロケン

【お城川柳】 (2021/06/02 訪問)

「先人の 熱き想いに 胸迫る」

弘道館の「尊攘」の掛け軸を見て、国のため、思想、同じ想いの仲間のため、この言葉の意味することのために、命を懸けて戦った先人がいる、しばし見入って考えてしまった。自分はこんなんで良いのだろうかと・・・。(「青天を衝け」の影響もありますが・・・。)

水戸城へは、2度目の訪問で、隅櫓、大手門が復元されたとのことで、どうしても見てみたく行ってきました。15:30頃、水戸駅から程近いホテル(本日の宿泊所)に駐車し、攻城(*'ω'*) 水戸城は、徳川御三家の一つ水戸徳川家のお城ですが、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったので、藩主の居城として使用することは少なかったとされています。

遺構としては、薬医門1棟・弘道館(藩校)・土塁・空堀が残り、大手門・二の丸隅櫓が復元されています。

この日、2:30に豊橋を出発し、逆井城、土浦城・他2城を攻略し、水戸市にて宿泊予定でしたが、水戸城攻略中に会社より緊急の連絡が入り、「トラブルがあったので明日出社して」とのこと。折角の有給休暇なのに・・・( ;∀;) ムカついたので、「無理」との返答をし、ホテルに直帰。ホテルで呑もうとして買っていたワンカップを開けようとして、「尊攘」の掛け軸を思い出し、しばし葛藤"(-""-)"一杯飲みながら戦利品の画像を見るのが至福の喜びであるが、「自分ができることをやってみよう」(*'ω'*)との決意で、シャワーを浴びてホテルを無泊にて19:00頃水戸出発。少々疲れていたが、何故か心晴れやかな帰路でした。

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にのまる

【お城川柳】

トイレどこ?見るほうそれとも使うほう?

↓見るほう

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にのまる

【お城川柳】

三つ鱗と見紛う此処は北条城

足元に。

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昌官忠

【お城川柳】6/27からの遠征でのつぶやき

もののふの おたけびのよう つよいあめ

6泊7日で山梨/長野/愛知/静岡を廻って来ましたが、梅雨時の大雨でトラブルの連続でした。
1.林道でスリップし脱輪。警察/レンタカー会社/レッカー会社に連絡し3時間かかって脱出
2.東名/新東名高速の通行止め
3.高速迂回の国道1号線が大渋滞
4.久能山ロープウェイ休止中→事前調査不足
5.国道52号線が通行止め→沿線沿いのお城の攻城断念
6.強雨により攻城時間がじっくり取れない
7.カッパや雨用の足カバーを装備しても全身びしょ濡れ→汗のせいもありますが

攻城予定のお城もいくつか(20城くらい?)断念しましたが、写真の整理ができたものから、順次投稿します

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ぎりょう

伊達の三傑「茂庭綱元」を偲び栗駒へ (2021/07/03 訪問)

「伊達の三傑」の一人茂庭(鬼庭)綱元の墓を訪ねて栗原市栗駒の文字(もんじ)にある洞泉院を訪問した。綱元は武人としての働きとともに、奥羽仕置き時、政宗による一揆煽動の嫌疑の弁明役や、文禄の役の伊達軍名護屋留守居など、政宗の外交・治世に貢献し、秀吉や家康とも数々の逸話が残る人物である。
慶長9年(1604)政宗五男の宗綱が栗原郡岩ヶ崎城主に任じられると、綱元は本藩の評定役を兼ねたまま、その後見役を命じられたと云う。元和元年(1618)宗綱が早世すると、高野山に登り三年間にわたり供養の日々を送ったと云う。寛永13年(1636)5月24日、政宗が死去すると政務を退き、自らの隠居領の文字に移り洞泉院を創建して政宗、宗綱の供養に余生を過ごし、4年後の寛永17年5月24日に91歳で死去したと云う。
宗綱が配された岩ヶ崎城は栗原市栗駒(旧栗駒町)岩ヶ崎にあり、南北朝時代に葛西一族の富沢氏によって築城された中世山城である。規模は東西650m、南北250m、最西端の比高70mの最高所を本丸とし、東に向けて二の丸、三の丸が続き、東端まで大小多くの平場群で構成されていた。自然地形を利用した中世的な縄張だが桝形跡に近世の改修を思わせる箇所もある。
城址には桜、紫陽花、紅葉などが植樹され公園として整備されている。この日も春先から延びた城址内の草刈り作業が行われており、日頃から管理が行き届いていると感じた。
また宗綱時代に綱元の家臣団が居住した茂庭町の円鏡寺山門は岩ヶ崎城からの移築と云う。
東北自動車道若柳・金成ICより11km(16分)ほど。

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TMN97

真壁城址 (2021/07/03 訪問)

真壁城址

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TMN97

太田城 (2021/07/03 訪問)

太田城址(舞鶴城址)

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赤い城

藤橋城 東京都青梅市 (2021/06/19 訪問)

今井城から転戦、徒歩で20分くらい。
公園の中心部に石碑があります。
周囲を土塁が囲んでいてこの時季紫陽花が綺麗。
東側には堀の跡、西側には虎口の跡と思われる部分があります。
平山氏の城とされますが詳細は不明。

チェブさんの投稿にもありますが東京にも良い城あります。
山陰のど田舎育ちの私からすると青梅も東京、大都会なんですけどね。

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