JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の8城目は谷戸城です。
古宮城から転戦。北杜市考古資料館駐車場(35.858053、138.385640)に駐車しました。
谷戸城は逸見清光の居城と伝わり、江戸時代に成立した『甲斐国志』によれば、清光は1199年(正治元年)に当地において死去したといいます。
平安時代後期には治承・寿永の乱において甲斐源氏の一族が活躍します。
『吾妻鏡』によれば、1180年(治承4年)8月24日には石橋山の戦いにおいて伊豆国の源頼朝が敗北し、翌8月24日には北条時政・義時親子が甲斐国入国を試みたといいます。
9月10日には甲斐源氏の武田信義らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐へ帰還し、武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏一党は「逸見山」に集結したそうです。
甲斐源氏の一族は「逸見山」において頼朝の使者である北条時政を迎えたといいます。「逸見山」の比定地は北杜市域に複数候補地があり、当地もそのひとつとされるそうです。
戦国時代には武田晴信(信玄)期に信濃侵攻を開始します。
『高白斎記』の1548年10月7日(天文17年9月6日)に拠れば、晴信は信濃国佐久郡の前山城攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したことを記しているが、これが谷戸城を指しているかは不明だそうです。
晴信は9月7日に海野口に、9月9日には宮之上に到着し、9月11日には前山城を攻略しました。
また、『国志』によれば1582年(天正10年)3月の武田氏滅亡後、同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生します。
天正壬午の乱において甲斐は三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が争奪し、家康が新府城を本陣に七里岩台上の城砦に布陣したのに対し、後北条氏は若神子城を本陣に、周辺の城砦に布陣しました。
この時、後北条氏は谷戸城へも布陣していたといいます。
谷戸城はこの戦いで北条氏方の城となり、その際に北条氏によって改修されたと考えられています。
北杜市考古館が史跡公園に併設されてます。
整備状態は申し分なく、説明板も非常に解りやすいです。 二の郭の外周をほぼ一周している横堀がよかったです。
攻城時間は30分くらいでした。
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