超入門! お城セミナー 第114回【歴史】明治時代にお城がたくさん破壊されてしまったって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは廃城令。かつて全国には3000にも及ぶ城が築かれ、数百基の天守が建っていました。しかし、現在まで残った天守はわずかに12基。なぜ、無数に築かれた城は激減してしまったのか。その大きな原因となった「廃城令」について解説します。

彦根城
井伊家の居城・彦根城は廃城令で存城となり、老朽化した天守は破却されることになってしまう。しかし、彦根を行幸した明治天皇が名城を惜しみ保存が決まったという(保存を提案したのは、随行していた大隈重信だったとも)

破却か保存か…、城の命運を分けた「廃城令」

関ヶ原の戦い後、天下人となった徳川家康によって江戸幕府が開かれ、日本は戦国乱世から合戦のない平和な世へ向かっていくわけですが、先の天下人の一族である豊臣家を壊滅させるための決戦が、近い将来必ずあると見ていた大名たち。これに備えて地方に国替えになった豊臣恩顧の大名を中心に全国で多くの城が築かれ、そしてこれらの大名を抑えるため、幕府主導の天下普請の城も築かれました。これがいわゆる「慶長の築城ラッシュ」。この築城ブームによって、建ちも建ったり全国に約3000もの城が林立していたとか。もちろんすべてに天守があったわけではありませんが、それでも江戸時代までに数百基もの天守が建てられたといいます。

松本城
国宝天守の一つである松本城。松本藩の政庁として幕末まで存続するが、近代に入ると売却や倒壊に危機に直面する

でも、現在残っている天守は、全国にたったの12基だけ。これは一体なぜなのでしょうか? 城激減の大きな理由の一つは、豊臣家の滅亡後に出された「元和の一国一城令(本城以外の城が廃城となる)」と「武家諸法度(城の新築禁止。修理も許可制となる)」です。このお達しで、この時なんと95%もの城が消滅したといいます。その後長い江戸時代を経て明治維新を迎えると、城激減のもう一つの波がきます。これが「廃城令」(または「城郭取壊令」「存城廃城令」)です。実際にはもっともっと長〜いお達し名なのですが、略してこう呼ばれています。

「明治に城がたくさん壊されたらしい」ということは、ちょっとでも城の歴史をかじった人なら知っていると思いますが、今回はその背景や詳細をみていきましょう。

まだ廃城令が出される前、明治維新の時点で日本に存在していた城は193、城持ちではない大名の本拠地・陣屋は127、これ以外の重要拠点である要害が20で、合計340城あったといいます。しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始めていました。版籍奉還によって大名所有の土地と人民、そして城も明治政府のものとなりましたが、管理を委託されたのは旧藩主の知藩事。城は巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、屋根は波打って瓦がずれ落ち、壁の漆喰は剥落、板戸や窓枠は外れ、草がぼうぼうに生い茂るといった有り様。また、新政府への反抗運動の拠り所となるのを防ぐために取り壊された城もありました。そして、明治4年(1871)の「廃藩置県」で知藩事という職がなくなり、彼らが東京移住を命じられると、主がいなくなった城はさらに荒廃していきました。

備中松山城
廃城後の備中松山城天守。壁が一部崩落し、屋根に植物が絡まるなどかなり荒廃した様子だ(『観光の岡山』 国会図書館デジタルライブラリーより引用)

そして明治6年(1873)、廃城令が発せられます。簡単にいうと、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」ということでした。存城処分となったのは、東京城(江戸城/東京都)、仙台城(宮城県)、名古屋城(愛知県)、大阪城(大阪府)、広島城(広島県)、熊本城(熊本県)などをはじめとする43城1要害のみ(諸説あり)。残りはほとんどが廃城処分となりました。

存城=保存ではない! 城郭保存へいたる長い道のり

存城・廃城と運命が分かれた城たちですが、ここで大切なのは、存城=保存ではないということです。あくまでも軍用地としての存続なので、存城となっても、広い場所を確保するために堀を埋めたり、石垣を破壊したり、建造物を取り壊したりという例が少なくありませんでした。逆に、本丸や二の丸など主要部以外の広い曲輪を軍用地としたため、天守などの建造物は残されたという例も。会津若松城(福島県)は前者の例で、存城となったものの、すべての城郭建造物が取り壊されました。姫路城(兵庫県)は、典型的な後者の例です。現在三の丸を囲む堀の外側に建つ市立美術館は、元は明治時代に建てられた軍の倉庫でした。存城となっても、遺構の残り方は一様ではなかったということですね。

会津若松城
存城となった会津若松城。天守は先の戊辰戦争で大きな被害を受けたため、破却処分となる(『会津戊辰戦争』国会図書館デジタルライブラリーより引用

そして廃城処分になった城の中でも、紆余曲折を経て残された例も。上で古写真を紹介した備中松山城(岡山県)天守は、廃城令後に商家に売却されたものの、その後放置されて荒廃。しかし昭和に入って地元の人たちの努力で修復され、今や山城にある唯一の現存天守として多くの観光客が訪れています。

さて、明治10年前後には、存城処分となり軍用地として存続していても、老朽化によって取り壊しの危機を迎える城が続出しました。この時軍内部や庶民に、初めて城を文化財として残そうと考えた人たちが現れ、これによって姫路城、名古屋城、彦根城(滋賀県)、松本城(長野県)、松江城(島根県)などが取り壊しを免れています。

ところが、昭和4年(1929)の「国宝保存法」公布当初、国宝に指定される城は一つもありませんでした。まだ文化財として真っ先に保存すべきものとしては認識されていなかったようです。しかし翌5年、ついに名古屋城が、そして翌6年に姫路城、岡山城(岡山県)、広島城、福山城(広島県)、仙台城大手門が国宝(旧国宝)に指定されました。一国一城令と武家諸法度、そして廃城令を乗り越えて残った城たちは、やっとどうにか文化財として認められるようになったのです。

しかしこの後、城激減の3つ目の波・第二次世界大戦の空襲によって、広島城・和歌山城(和歌山県)・名古屋城・水戸城(茨城県)など7城もの城の天守、名古屋城本丸御殿、宇和島城(愛媛県)・大阪城・府内城(大分県)などの櫓や城門が焼失してしまったのです。

広島城
旧国宝だった広島城は昭和20年(1945)8月6日の原爆投下で被爆した。天守は爆風に耐えたものの、下層が衝撃でもろくなったために自重に耐えきれず倒壊してしまった

こうしてみると、現在残っている各地の城は、全国に城が林立していた時代からすれば、ほんの一部。でもそのすべてが、奇跡的にたくさんの危機を乗り越えた「超強運」の城なのです。ということで、改めて……もっともっとたくさんの人が、日本の城の魅力に気づいてくれますように……!

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!

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