2021/09/13
超入門! お城セミナー 第118回【歴史】籠城戦が起こると庶民やお城の中の女性はどうしていたの?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は、籠城戦と非戦闘員について。田畑や城下町を荒らすことが城攻め時のお約束のようなものだった戦国時代、城下の庶民は、略奪や虐殺の被害者になるイメージがあります。また城の中にいる女性たちも、部屋に籠って震えているような姿が想像されるのではないでしょうか。しかし、彼ら非戦闘員は私たちが思っているよりもたくましくしたたかに乱世を生きていました。籠城戦で庶民や城内の女性がどのような行動を取っていたのかを解説します!
秀吉の飢え殺しが行われた鳥取城内の様子。この時、鳥取城内には武士だけでなく庶民も籠もっており、食料をめぐって悲惨な争いが起こっていたという(『絵本太閤記』より)
避難所の役割もあった城
旗指物(はたさしもの)や陣幕が鮮やかに描かれた合戦図屏風。こうした合戦を描く絵画作品の中には、甲冑を身にまとって槍や刀を手にし、騎馬で、あるいは自分の足で戦場を駆ける武士たちが描かれています。なんといっても合戦は、武士にとっていちばんの働きどころ。殿のため、一族郎党のため、いざ手柄を上げん!! と、張り切って参戦したことでしょう。
一方、城下の庶民や城内の女性たちにとってはどうだったのでしょう。基本的に彼らは直接戦場を駆け回ることはない「非戦闘員」。とはいえ敵が襲来した時には、田畑の農作物は刈られ、城下町は焼き討ち・略奪され、時に民も傷害・虐殺・連れ去りといった被害に遭ったり。城内の女たちも、敵におびえて泣き、祈り、果てはうち揃って自害……という悲劇のイメージが強いのではないでしょうか。力で敵をねじ伏せるのが戦ですから、確かにこういうことはあったでしょう。でも、どうやら実際は、少しばかりこのイメージとは違ったようなのです。
籠城と女性というと、追い詰められた夫とともに自害するイメージが強いが、実際は自ら武器を取って城内の士気を高めるなど、たくましい女性も多かったようだ。画像は『絵本太閤記』に描かれた、柴田勝家とお市の方の自害の場面
上のように、敵の襲来によってまず被害に遭うのは、城下の庶民たち。とはいえ、殿様のもと領民としてその土地で自分たちの生活をしているのですから、じっとして無抵抗で敵にいいようにされるなんてまっぴら。戦が始まるとわかれば、自分たちの身を守るために行動を起こしました。当然、逃げるわけですが…さて、どこへ? それが、城だったのです。「え?お城は役所であり城主の住まいなのに、武士以外の庶民が出入りできたの?」と、多くの人が思うかもしれません。ところが、どうやら武士が台頭して城が激増していった中世以降、特に戦国時代には、領民たちはいざという時に、その領域の城(城が遠い場合は避難に適した山)を緊急避難所として使っていました。これがほとんど習俗となっていたようで、多くの史料にその様子が記されています。
とはいえ、城内のどこもかしこも開放するわけではなく、本丸などの主要な曲輪は、立入禁止。でも、それ以外の外側の曲輪を自軍の者に限って出入り自由にして、避難所とした城が多かったようです。そこに自分たちで簡易な小屋などを建てて、一つの町のようになったこともあったとか。整備されて歩きやすい上に、遺構もしっかり確認できる山城として、ビギナーにも人気の滝山城(東京都)の山の神曲輪は、まさにこういった領民の避難所のような用途だったとみられています。
滝山城の山の神曲輪。曲輪の周囲は斜面が削られた切岸となっているが、堀や土塁などの痕跡は見つかっていない
このほか、天正12年(1584)、肥後一帯の制圧を目指した島津軍に、「陣所として城を提供せよ」と通告された山鹿城(熊本県)では、城内が避難してきた民衆でいっぱいになったため、入城できなかった島津軍が低地に宿営するほかなかったという話も。また、羽柴秀吉の兵糧攻めに遭った鳥取城(鳥取県)も、その時多くの庶民が避難しました。長引く籠城に耐えきれなかった要因の一つだったでしょう。
たくましく合戦を生き抜いた女性たち
また城内にいた女性たちも、受け身の悲劇的なイメージとは異なり、実際にはさまざまな役割を担っていたようです。まず城主の妻にとって、籠城中に城兵たちを励まして士気を鼓舞することは非常に重要な役割でした。佐々成政に攻められた末森城(石川県)を守っていた前田利家の重臣・奥村永福(おくむらながとみ)の妻「つね」は、援軍が来ないため自害を覚悟していた夫を励まし、城内の女性たちとともに、粥をふるまって士気を鼓舞。これによって利家の援軍が来るまで持ち堪えたといいます。
奥村永福とつねが守った末森城。二人の奮戦により利家の援軍が間に合い、末森城は落城を免れた
ほかに、城主の留守を守った女性の例として、豊臣勢による北条攻めの時、北条方成田氏の忍城(埼玉県)で水攻めに遭いながらも戦って守り切った太田夫人と甲斐姫の話や、関ヶ原合戦前に家の存続のため親子兄弟で敵味方に別れ、敵となった舅・真田昌幸が孫の顔を見に来るも、断固として門前払いした小松姫(真田信之の妻で本多忠勝の娘)の話も有名ですね。また、夫の戦死によって自ら岩村城(岐阜県)の女城主となって城を守った織田信長の叔母・おつやの方の話もよく知られます。
甲斐姫たちが守った忍城。石田三成らの軍勢に攻められると、甲斐姫は甲冑をまとって戦場に立ち、豊臣軍の将を討ち取ったという
城主の妻や娘以外の女性だって、重要な仕事がありました。武具の手入れ、負傷兵の手当てはもちろん、消耗品である鉄砲玉も、籠城中は城内でどんどん製造しなければなりませんでした。さらに、討ち取った敵兵の首にお歯黒やお化粧を施すなんていうとんでもない仕事も。これは、関ヶ原合戦時の大垣城(岐阜県)で籠城した武士の娘が語った『おあむ物語』に書かれています。お歯黒やお化粧をするのは身分の高い武士の証だったため、手柄を大きく見せるために味方の兵からよく頼まれたのだとか。たくさんの生首の中で眠ることも、そのうち平気になったそうですよ。
討ち取られた首に化粧を施す女性たち(『おあむ物語』より)
また、戦国時代ではありませんが、幕末の会津戦争では、会津若松城(福島県)を守るため、女性たちが上に挙げた怪我の手当や弾薬の製造などに加えて、槍や薙刀・鉄砲を手にして、薩長軍相手に実戦でも果敢な活躍をみせました。
会津若松城に立つ新島八重の銅像。八重は会津戦争の際、スペンサー銃を持って奮戦した
武士の花道である合戦。一見無関係に見える城下の庶民や城内の女性たちも、ただただ戦況に身を委ねるばかりではなく、自ら城に避難して身を守ったり、城内で自軍の一員として大切な仕事を遂行するために働いていたのです。なるほど、やっぱり戦は総力戦。そしてやっぱり城は、いざという時に武士もその家族も、そして領民も…みんなを受け入れて守る紛れもない「軍事拠点」だったということも、再認識できましたね!
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
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