2021/04/26
超入門! お城セミナー 第111回【歴史】なぜ、江戸城の外桜田門で大老暗殺事件が起こったの?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは桜田門外の変。衆人環視の中で江戸幕府の大老井伊直弼が暗殺されるという、前代未聞の事件はなぜ成功したのか。現場である江戸城外桜田門と、井伊直弼の居住していた彦根藩邸の位置関係が事件に与えた影響を解説します。
桜田門外の変を描いた『安政五戊午年三月三日於テ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図』(部分/月岡芳年画)。前代未聞の大老暗殺事件は、わずか5〜10分程の間に行われたという
大河ドラマでも注目! 激動の幕末「桜田門外の変」とは?
発生理由と井伊直弼暗殺成功のワケ
260年に及ぶ江戸時代を終焉に導き、近代がはじまる契機となった幕末。坂本龍馬や西郷隆盛など、「志士」と呼ばれる若者たちが世の中を動かした混沌としつつもエネルギッシュな時代は、日本史上でも戦国時代に次ぐ人気を誇っています。2021年2月から放送がはじまったNHK大河ドラマ『青天を衝け』もこの動乱の時代から物語が開始。4月11日に放送された第9話「栄一と桜田門外の変」では、岸谷五朗氏が演じる井伊直弼の暗殺事件・桜田門外の変が起こり、映像と音楽を印象的に使った演出が話題となりました。
桜田門外の変とは、安政7年(1860)3月3日に江戸幕府の大老(政情に応じておかれた臨時の最高職)・井伊直弼が江戸城外桜田門の目の前で殺害された事件。犯人は、元水戸藩士を中心とする過激浪士たち。前年の「安政の大獄」で、藩主・徳川慶篤やその父・斉昭が弾圧されたことで、直弼を恨んでいました。
井伊家の居城・彦根城に立つ井伊直弼像。直弼は13代藩主・井伊直中の十四男だったが、兄たちの死により藩主の座に就いた
しかし、過激浪士たちは、なぜわざわざ警備が厳しい江戸城付近を暗殺の舞台に選び、あまつさえ暗殺を成功させることができたのでしょうか。その理由は犯行現場となった江戸城と井伊家の屋敷の位置関係から読み解くことができます。
激近だった外桜田門と彦根藩邸
まずは、事件現場となった外桜田門について説明しましょう。外桜田門とは、江戸城西の丸の南を流れる桜田濠に設けられた門で、城下町と西の丸下を隔てています。門の名前は、古くからこの一帯が桜田と呼ばれていたことに由来するようです。小田原方面へ続く街道の起点だったことから、江戸初期には「小田原口」とも呼ばれていました。三の丸にある内桜田門に対して外桜田門と呼ばれていますが、内桜田門は別名の「桔梗門」が定着しているため、単に桜田門と呼ぶ時はこの門を指すのが一般的。
江戸城内の絵図。桜田濠に突き出すように設けられた枡形門が外桜田門だ(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
虎口の形状は外枡形門。高麗門や櫓門、石垣が現存しており、江戸幕府の権威を今に伝えています。現在、江戸城は皇居となっていますが、外桜田門は皇居外苑になっているので、自由に見学することが可能です。ただし、内堀通りを隔てた正面には警視庁本部が建っおり、あやしい行動をしたらお縄になってしまうのでご注意を。
桜田門外の変の舞台となった外桜田門。現存する江戸城の門の中で最も規模が大きい
一方、江戸での直弼の住まいであった彦根藩邸(上屋敷)は江戸城の桜田濠沿いに位置していました。現在は憲政記念館・国会前庭になっています。直弼暗殺の現場となった外桜田門との距離は約400〜500mと非常に近く、現在でも屋敷跡から外桜田門を見ることができます。
彦根藩邸・外桜田門の位置関係と、襲撃当日の直弼の登城ルート。事件当日は、上巳の節句を祝うためにすべての大名が登城する日だった(『御大名小路辰之口辺図』東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
この一帯は尾張・紀州などの御三家や福岡藩、広島藩といった有力大名の屋敷が建ち並ぶ一等地。彦根藩が石高30万石ながら大大名たちの屋敷と軒を連ねていたのは、藩主・井伊家が譜代筆頭と呼ばれた名門だったため。藩祖・井伊直政を筆頭に歴代将軍から厚く信頼され、大老を輩出した回数も譜代大名中最多です。
しかし、桜田門外の変ではこの幕府からの信頼があだとなりました。彦根藩邸から江戸城大手門(大名の登城口)へ向かう場合、外桜田門を通って西の丸下を抜けるのが一番の近道。実際に彦根藩の登城ルートとなっていました。つまり、外桜田門は登城日さえわかれば確実に直弼を襲撃できる、絶好の待ち伏せポイントだったのです。
彦根藩邸から雪の外桜田門を見る。事件当日は季節外れの雪が降っており、護衛の藩士たちは刀に防水用の袋をかけていた。これが原因で、彦根藩士は浪士たちの迎撃に失敗してしまう
井伊家の家臣、彦根藩は襲撃があることを知っていたのか?
ところで、これだけ近くで起こった事件に井伊家の家臣たちは気づかなかったのでしょうか。実は、彦根藩側も水戸浪士たちの動きを察知しており、直弼に護衛を増やすように進言するも、直弼本人が却下したという説もあります。しかし前述の通り、彦根藩邸と外桜田門は目と鼻の先。警護を増やすことができなかったとしても、門前に見張りを立てるくらいのことはできたはず。そうすれば、襲撃直後に現場に駆けつけて直弼の命を守ることができたでしょう。
彦根藩邸(現・憲政記念館)からみた外桜田門。屋敷から目と鼻の先で主君を失った彦根藩士の無念はいかばかりだろうか…
ところが実際に家臣たちが駆けつけたのは、直弼の首が取られた後。襲撃にかかった時間がごく短かったことを差し引いても遅すぎます。つまり、彦根藩は襲撃計画を知らなかったか、知っていたとしても本気にしていなかった可能性が高いのです。そこには江戸幕府の開闢(かいびゃく)以来、大名の登城行列が襲われることなどなかったのだから、今回も大丈夫だろうという油断がありました。
そして、油断していたのは幕府も同じでした。大老襲撃を知った江戸城内は大混乱。さらに、主君を殺された彦根藩士が水戸藩へ討ち入りしかねない剣幕であることを知り、慌てて事態の沈静化に乗り出します。
幕閣たちが桜田門外の変の処理を話し合った江戸城本丸御殿跡。事件の事後処理は、老中・安藤信正が主導したが、その安藤も文久2年(1862)に坂下門で過激浪士の襲撃を受けることになる
まず幕府は、今にも暴動を起こしそうな彦根藩を抑えることにします。白昼堂々藩主を討ち取られる失態を犯した上、跡継ぎの手続きも済んでいなかったため、改易寸前になっていた彦根藩に対し、直弼は負傷したが存命ということにして、その間に家督相続の手続きができるように取りはからいました。そして、代わりに討ち入りを叫ぶ藩士を抑えるよう厳命。江戸市中で大名同士の合戦が起こるという最悪の状況を回避しました。
幕府は、続いて襲撃者の捕縛に取りかかります。襲撃で負った傷のため周辺の大名屋敷に保護されていた浪士たちを探し出して捕縛。さらに、すでに江戸を脱出していた者たちも投獄・死罪に処しました。こうして、幕府はどうにか事を収めることに成功しますが、わずか2年後にまたしても老中襲撃事件が勃発。この坂下門外の変は、老中・安藤信正が軽傷を負っただけで済みましたが、相次ぐ要人襲撃事件に幕府の権威はガタ落ち。結局、失った権威を取りもどすことはできず、慶応3年(1867)の大政奉還によって名実ともに江戸幕府は崩壊したのでした。
【参考文献】
『歩いてわかる! 江戸城の秘密』(原史彦監修/洋泉社)
『風雲児たち 幕末編』21巻(みなもと太郎/リイド社)
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
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