超入門! お城セミナー 第89回【歴史】戦国時代、なんで城に籠もって戦っていたの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。戦国時代には、全国各地で城をめぐる戦いが繰り広げられ、城に籠(こ)もって敵の攻撃を防ぐ「籠城戦」も行われました。でもなぜ、城に籠もる必要があったのでしょうか? 籠城戦が行われた理由と、籠城するための備えについて解説しましょう。

吉川経家
織田軍(羽柴秀吉)に攻められ籠城戦を戦った鳥取城と守将・吉川経家の像(鳥取県)。籠城は4カ月に及んだ

弥生時代にも籠城戦があった!?

コロナウィルスの感染予防や拡大防止のため、外出自粛や在宅勤務が呼びかけられています。休校の延長が続く地域も多く、長い“籠城戦”を強いられている家庭も多いのではないでしょうか。

「籠城」の本来の意味は、読んで字のごとく「城に籠(こ)もる」こと。集団による攻撃を受けたさい、敵を防いで身を守るために築かれた施設が「城」であり、城に立て籠もる行為が「籠城」です。それでは、人がいつから籠城をしていたかというと、その歴史とても古く、人類が農業をはじめて以来、日本では水田稲作をはじめた弥生時代には“城”に籠もるようになりました。農業がはじまると、保存している食糧や土地を目的として、ある集団(ムラ)がほかの集団から襲撃を受けるという事態が発生したためです。

「そんなに前からお城ってあったの?」と驚く方もいるかもしれません。“城”といっても、弥生時代のそれは城壁を巡らし高層の建物が建つような立派なものではなく、ムラの周辺を濠(ほり)と土塁で囲んだだけの簡易なもの。このような濠や土塁を備えた集落を「環濠集落」と呼びますが、城が「敵を防ぐための施設」なのであれば、環濠集落も立派な〝城〟といえるでしょう。城は人類史とともにあり、はじめから「籠もる」ことを宿命づけられた存在なのです。(環濠集落については「第70回【歴史】濠で囲まれた古代の城「環濠集落」ってどんな施設なの?」も参照)

吉野ヶ里
環濠集落の代表例である吉野ヶ里(佐賀県)。集落の周囲を濠と土塁が巡っていた

時代が下って戦国時代。日本中に城が築かれ、その城をめぐって絶えず争いが繰り広げられました。ただし、城が攻められたからといって、必ず籠城戦になったわけではありません。城を守る側は、城を明け渡すか燃やしてスタコラサッサと逃げ出すことも多かったのです。武士といえども命は大事。勝ち目のない籠城戦は犬死にであり、「城を枕に討ち死に」は江戸時代以降の武士道が生み出した幻想なのです。

それでは、籠城戦になるのはどんな場合だったのか? まずは、攻められた城が戦国大名の本城(居城)であったケースです。攻められた側はそこが住まいなわけですから逃げ場がなく、仕方ないから籠城して最終決戦に望むわけです。織田信長に攻められた浅井氏が籠もる小谷城(滋賀県)も、豊臣秀吉に攻められた北条氏の小田原城(神奈川県)も、徳川家康に攻められた豊臣氏の大坂城(大阪府)も、すべて本城が攻められたパターンであり、籠城戦の末に落城し、攻められた側は滅亡の憂き目にあいました。織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際に立ちふさがった六角氏は、本城である観音寺城(滋賀県)を信長に攻撃されて逃亡しましたが、どっちみち大名家として没落は免れませんでした。

大坂城
大坂の陣で豊臣方は援軍の見込みもないまま大坂城に籠城し、結局徳川方に滅ぼされてしまった

もうひとつ、籠城戦になるケースとして多かったのが、援軍が来るのをじっと待つとき。支城が攻められた場合(または攻められる可能性がある場合)は、すぐ本城に救援要請をして、援軍が約束されれば、それが到着するまで籠城して耐えることになります(この援軍を「後詰め」と呼ぶ)。秀吉に攻められた鳥取城(鳥取県)や備中高松城(岡山県)は、毛利の援軍を前提に籠城戦に臨んだケースです。どちらの籠城戦でも毛利方の援軍が目と鼻の先まで来ていたのですが、手出しができないほど秀吉の包囲網が鉄壁であり、為す術なく開城を余儀なくされました。

本城を舞台にした最終決戦としての籠城戦は有名な戦いが多いですが、実際には数えるほどしか行われていません。戦国時代に起こった籠城戦のほとんどすべてが、援軍が駆けつけてくれることを前提とした戦いだったといえるでしょう。そして繰り返しになりますが、援軍のあてがなければ逃げ出すことも日常茶飯事でした。それはそうですよね。援軍のあてがない、つまり先が見えない籠城戦ほど、絶望的な戦いはありません。ここをしのげば助けが来るという希望があるからこそ、なんとか踏ん張ることができるわけです。

長期戦に耐えるには事前の備えが重要

さて、城をめぐる戦いでは、攻める側は兵糧攻めや水攻め、調略や城下町への放火などさまざまな手段を講じました。一方、守る側にはそれほどできることはありません。夜襲をかけたり、援軍が来たら連動して出撃したりということはありましたが、基本的には援軍が来るまで、ただただ日々耐えるのみです。

耐えるといっても、人間、腹が減っては戦さはできぬ。籠城戦では水と食糧の準備がとても重要でした。

まず、水。雨水を溜めたり近くの河川から運搬する場合もありましたが、いざ籠城がはじまったらそれだけではとてもまかなえません。やはり、城内に井戸を設けることが不可欠であり、規模の大きい=兵数も多い城は、複数の井戸を用意する必要があります。なお、小さな山城では水の手が見当たらない城も結構あります。そうした山城は見張りや索敵を目的としており、敵がやって来たら放棄して逃げ出すことが前提だったのでしょう。

春日山城
今も湧き水をたたえる春日山城(新潟県)の大井戸。大井戸は本丸のすぐ裏手に位置しており、この井戸があったからこそ、城はここに築かれたのかもしれない

次に食糧では、主食となる米や麦は保存が利くので、平時からの蓄えに加えて、近いうちに籠城戦が予想される場合は近くの村落から徴収したり、商人から買い集めたりしました。貴重なミネラル源となる塩や、たんぱく質・脂質がとれる味噌の備蓄ももちろん大切です。

干し魚や干しわらびといった干し物も保存食として重要でした。水につけてもどして食すことも多く、さながらレトルトの非常食だったわけです。また、城内には梅やイチョウ、柿・栗・桃など食用を目的とした樹木が植えられ、いざというときに備えていました。非常食ということでは、加藤清正が築いた熊本城(熊本県)では、畳の中に藁(ワラ)ではなく里芋(八つ頭)の茎を詰め、さらに壁には干瓢(かんぴょう)を塗りこめたという伝承が残ります。八つ頭の茎はお湯でもどして煮込むと芋茎(ズイキ)なるのです。

駿府城
駿府城(静岡県)には、徳川家康が自ら植えたと伝わる「お手植えのミカン」が今も残る。ビタミンたっぷりなミカンも城に植栽された果物のひとつだった

「桃・栗3年、柿8年」といいますが、戦国の人々は何年後かに起こるかもしれない有事に備えて、さまざまな準備をしていたわけです。籠城戦が勃発してから水や食糧を手配しても、実際の戦いには間に合いません。有事にこそ、常日頃の準備や心構えが問われるということかもしれませんね。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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