超入門! お城セミナー 第94回【歴史】忍者は実在していた!? 合戦ではどんな活躍をしていたの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、戦国時代の忍者。マンガやゲームでの超人的な活躍が人気の忍者は、実際の戦いではどのような活躍をしていたのか? 謎多き忍者の実像に迫ります!




児雷也豪傑譚
江戸時代に刊行された合巻『児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)』に登場する児雷也。蝦蟇(がま)の妖術を扱う忍者で、現代の忍者のイメージの源流とされる(都立中央図書館蔵)

戦国のスパイ・忍者は実在した? その実像とは?

夜闇に紛れて敵地に忍び込み、煙幕によってドロンと消え、魔法のような忍術を使って任務をこなす──。少年・少女時代にアニメやマンガで忍者を知り、その超人的な力に憧れた人も多いのではないでしょうか。海外でも「NINJA」は大変な人気を誇っており、忍術を学びに来日する外国人も多いのだとか。

しかし、闇の存在である忍者は資料に残りにくく、忍者が使用したとされる忍法も口伝で継承され、文書にまとめられたのは江戸時代以降のこと。そのため、彼らがどのような能力を持ちどのように活躍していたのか、実際のところはよくわかっていないのです。

児雷也豪傑譚
伊賀忍者の末裔が記した『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』(国立公文書館)。江戸時代に書かれた忍術書で、忍者の心構えから敵地への潜入法、忍具などが挿絵つきで解説されている

忍者の起源は、聖徳太子が用いていた「志能備(しのび)」説や天武天皇に仕えた「多胡弥(たこや)」説、役行者説などはっきりとしませんが、古代から権力者たちが情報収集や汚れ仕事などをこなす工作員を使っていたことは間違いないようです。中世に入り合戦が頻発するようになると、こうした諜報活動を専門に行う集団が形成され、忍者集団へと発展していきます。

では、実際に戦国時代の合戦で忍者はどのような役割を担っていたのでしょうか。

まず、最も重要な任務は合戦前の「情報収集」です。戦国大名たちは、あらかじめ敵地に忍者を潜入させてその国の政治・経済などの情報を収集。得た情報を元に、自国の軍事や外交方針を決定していました。戦国屈指の切れ者と評される武田信玄も情報戦を重視した一人。彼は、「三つ者(みつもの)」や「素波(すっぱ)」と呼ばれるスパイを全国に潜入させて情報を収集していたそう。合戦の際も、敵軍の編成や戦場の地形などの情報を集め、必ず勝てる作戦を立てていたといいます。甲斐(山梨県)からほとんど動かないにもかかわらず、諸国の事情に精通していた信玄を他国の大名たちは「足長坊主」と呼んで恐れていたのだとか。

武田信玄
織田信長や徳川家康も恐れた不敗名将・武田信玄を支えたのは、名もなき忍者たちであった(『太平記英勇伝』より/都立中央図書館蔵)

次に、忍者たちは合戦がはじまると放火や夜討ちなどのゲリラ戦を仕掛けたようです。大名家の軍法や武将が部下に出した書状に、「忍者が火付けや夜襲をかけても、持ち場を離れず上からの指示を待つように」という内容が散見されることから、忍者たちの奇襲は敵陣を混乱させる効果があったことがうかがえます。

攻城戦においては、忍者たちが城に潜入して城内を混乱に陥れる「忍取(しのびとり)」が行われていました。徳川家に仕えた大久保忠教(おおくぼただちか)が記した『三河物語』では、家康が今川氏から独立する一連の合戦の中で、伊賀忍者たちが上ノ郷城(愛知県)に潜入し、城主の首を取ったという内容が記載されています。

また、忍者が奇策を用いて城攻めを手助けした例もありました。それは、出雲の守護代である尼子経久が守護の京極氏によって居城・月山富田城(島根県)から追放された時のこと。経久は毎年元日に月山富田城で芸を披露する「鉢屋衆」に協力を依頼。鉢屋衆は芸で城主や家臣の目を引きつける一方で、城内のあちこちに火を放ちます。そして、彼らの合図で隠れていた尼子兵が城に侵入。見事月山富田城を奪い返すことに成功したのでした。この後、鉢屋衆は尼子お抱えの忍び集団として庇護を受けるようになったといいます。

月山富田城
難攻不落の名城として名を馳せた月山富田城も、忍者には敵わなかった

なぜ忍者は伊賀と甲賀で発展したのか? 対立はしていなかった!?

そんな忍者たちが最も活躍したのは、大名や国人たちが覇権争いを繰り広げた戦国時代です。その中でも特に有名なのが伊賀忍者と甲賀忍者。伊賀忍者は現在の三重県伊賀市・名張市にあった伊賀国、甲賀忍者は現在の滋賀県甲賀市にあった近江国甲賀郡を本拠地とする忍者集団です。この地域は現在も忍者の里として有名ですよね。忍者を扱った作品でも必ずといっていいほど登場する忍者の二大流派ですが、なぜこの地域で忍術が発展したのでしょうか。

伊賀国は大軍を動かしづらい山岳地帯にあったため、国全体を統治するような有力大名がおらず、国人と呼ばれる小領主が林立していました。彼らは国人たちを束ねる有力者である服部氏・百地氏・藤林氏を中心とする自治組織を形成。この三氏は「上忍三家」と呼ばれることもあります。国人らの勢力は次第に拡大し、伊賀国全体で一致団結して外敵に対抗する「伊賀惣国一揆」にまで発展しました。

福地氏城
伊賀国人・福地氏が拠点とした福地氏城(三重県)。曲輪を土塁で囲む構造で、主郭虎口などに石垣が残る

甲賀も伊賀と同様、山がちな地形から有力な統治者が現れず、国人たちによる合議で政治を行っていました。伊賀忍者と違うのは、甲賀国人たちがみな対等だったこと。合議に参加する国人は平等に発言権を持っており、議論がまとまらない時は多数決で物事を決めていました。

ちなみに、創作物では決して相容れない宿敵のように描かれることが多い伊賀忍者と甲賀忍者ですが、実際は周辺の大名に対抗するため、協力体制を取ることが多かったようです。

小規模な国人が林立していた伊賀と甲賀には、多数の城が築かれていました。小領主の城であるため、構造は1〜2個の曲輪を堀で囲んだ程度の単純なものですが、特筆すべきはその数の多さ。なんと、甲賀には約250城、伊賀には600城以上の山城が確認されているのです。なぜ、小国にこれほどの城が築かれたのかというと、城のネットワークを利用して大勢力に対抗するため。地域一帯に無数の城を築いておくことで、自分の城が落ちても近くの味方の城へ逃亡して反撃を仕掛けるゲリラ戦を展開できるというわけです。

土山城
甲賀の国人・土山氏が築いた土山城。付近には平子館や音羽野城(いずれも滋賀県)などの城砦が点在している

このように、合戦ではなくてはならない存在だった忍者ですが、戦国時代が終わり泰平の世になると活躍の場を失い、幕府や大名家の隠密となった者以外は、困窮するようになり忍術は廃れていきます。一方、庶民の間では忍者が登場する創作物が流行。児雷也や飛加藤など派手な忍術を用いて八面六臂の活躍をする忍者がもてはやされ、戦国時代までとはかけ離れた忍者イメージの原型が形成されていったのです。

石川五右衛門
都を荒らし回り、豊臣秀吉によって処刑された盗賊・石川五右衛門。後年の創作作品では、伊賀で忍術を学んだ抜忍とされている(『俳優似顔東錦絵』樓門五三桐南禅寺の場より)



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『完全詳解 山城ガイド』(学研プラス)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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