超入門! お城セミナー 第92回【歴史】戦術研究の第一人者でも、難攻不落の城を造れるとは限らない!?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは江戸時代に登場した軍学者が造った城について。かつて武士たちが命がけで編み出した戦術は、戦を知らない学者によって「軍学」として体系化・理論化され、城も軍学に基づいて造られるようになります。そういった城は本当に合戦の役に立つのか、軍学者が造った城の実力を検証してみましょう。


赤穂城、大手門、大手櫓
赤穂城大手門と大手櫓(復元)。『忠臣蔵』で有名な赤穂城は、山鹿流軍学者・近藤正純が縄張をひいた「軍学の城」であった

武士の必須教養だった「軍学」とは何か?

大坂の陣の終結をもって、戦のない泰平の世となった江戸時代。戦を知らない武士がどんどん増え、本来は軍事拠点である城も、政庁や住居の色合いが濃くなります。そのため戦略を進言したり、城の縄張を担当していた軍師の活躍の場もなくなってしまいましたが、これにかわって江戸時代に活躍したのが、軍学者です。

軍学とは、戦術や用兵など、戦国時代の戦の方法を理論的に体系化した学問。軍学者は、大名をはじめとする武士を門下に集め、これを講義しました。軍学を修めることは、江戸時代の武士の教養だったのです。

江戸軍学には、五大流派とされた甲州流・越後流・北条流・山鹿流・長沼流をはじめ、100を超える流派があったといいます。その中でも将軍家の御家流として栄えたのが「甲州流軍学」。『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に書かれた武田信玄の戦法を研究したもので、武田家旧臣の小幡景憲(おばたかげのり)を祖としています。

甲州流からは、まじないなどの呪術的な要素を取り除いて合理的な軍学に体系化した北条氏長(ほうじょううじなが/小田原北条氏の一族)の「北条流」、氏長の門下である山鹿素行(やまがそこう)が戦法だけでなく、武士としての心得である士道も説いた「山鹿流」など多くの流派が生まれました。特に山鹿流は全国各地に広まり、日本の軍学に明代の中国兵法などを取り入れた長沼澹斎(ながぬまたんさい)の「長沼流」とともに新兵法学の双璧と称されていました。

赤穂城、山鹿素行
山鹿流軍学の祖・山鹿素行。彼の教えは、一族が仕えた津軽藩や平戸藩を中心に全国へ広がっていった(写真は赤穂城に立つ銅像)

甲州流軍学では、城は陰陽道にもとづく「四神相応」の地(北に山、東に清流、南に湖沼や海、西に大路を持つ土地。風水や陰陽道で縁起の良い土地とされる)に築くべきであると説き、曲輪の配置は三重の輪郭式を標準としています。四角い曲輪を守りに適した、曲輪を攻めに適した「陽」とし、両方の利点をあわせ持つ「陰陽和合(いんようわごう)」の縄張を理想としています。


軍学を元に造られた城の実力は?

さて、泰平の世に生まれたこの軍学なるもの。「合戦を知らない学者が言うことなんて、机上の空論じゃないの?」と感じるのが当たり前。でも、実際に軍学を駆使して縄張された城が、いくつか誕生しているのです。その代表的なものを見て、軍学の実力を検証してみましょう。

まずは、近年精力的に整備が行われている赤穂城(兵庫県)。寛文元年(1661)に完成した赤穂藩の藩庁で、『忠臣蔵』で有名な「赤穂事件」の舞台となった城として有名ですね。

縄張は山鹿流の近藤正純(こんどうまさずみ)で、師匠の山鹿素行みずからが虎口の手直しまで行なった、軍学の粋を結集した城です。立地は、東に熊見川(現・千種川)が流れ、西は備前街道が走り、南には瀬戸内海が広がり、そして北を山崎山と雄鷹台山に囲まれた四神相応の地。

赤穂城、日本古城絵図
『日本古城絵図』所収の赤穂城絵図。曲輪の塁線は複雑に屈曲し、直線部分を探すのが難しいほどだ

赤穂城の縄張はというと、考えられるすべての横矢(側面攻撃)の方法を詰め込んだがごとく、石垣・塀の折れがあちこちでみられます。出隅部分には、櫓を省略して石垣上に土塀をめぐらした横矢枡形という仕掛けも。もちろん枡形虎口も厳重で、赤穂事件の時、家臣に籠城を望む声が多かったことにもナットクの出来。でも、幸か不幸か結局は戦に使用されることはなかったので、この横矢がどれほどの威力を発揮するのかは…不明です。

赤穂城、廐口門
本丸東の廐口門。左手の石垣が屈曲し、橋を渡る敵に対して横矢を掛けられるようになっている

次に紹介するのは、北の大地に築かれた松前城(北海道)。異国船が来航するようになった幕末に、海防強化のために築かれた城です。本来は福山城と呼んだそうですが、備後(広島県)の福山城と区別するために松前城と呼ばれるようになりました。こちらは、長沼流の一流軍学者・市川一学(いちかわいちがく)の縄張となります。

松前城
天守は1949年まで残っていたが、火災で焼失。現在の天守は1962年に復元されたもの。隣に建つ本丸御門は、焼失を免れた現存建物である

松前城は、本丸が最も高所にあるひな壇式で、やはり横矢のために城壁は複雑に折り曲げられていました。大手門などの枡形虎口は、内外の二つの門にプラスしてさらにもう一つ門を設ける徹底ぶり。三の丸の土塁には7基もの砲台が並び、城壁には鉄板、天守の土塀にも硬いケヤキ板を組み込んだ、大砲や鉄砲にも耐え得る仕様でした。ところが、あくまで海防重視の城だったため、これらは正面からの攻撃に特化した備えでした。裏側の搦手はというと、直線的で低い石垣と土塀、少ない鉄砲狭間という防御力の低さで、戊辰戦争の時、この弱点をついた土方歳三隊長率いる旧幕府軍に攻められ、1日もたずに落城してしまいました。

松前城、復元イラスト
松前城復元イラスト(イラスト=香川元太郎)。大手側(画面左)は堀や横矢で厳重に防御しているが、台地に続く搦手側(画面右)には大きな堀は設けられておらず防御が手薄である

この落城は、「軍学はやっぱり机上の空論で、実戦には役に立たない」ということを証明するのによく引き合いに出されます。一学は箱館(函館)に築城したかったのに、松前藩の財政逼迫により叶わなかったため、本来の防御力を発揮できなかったとフォローされることもありますが、正面の守備に軍学の粋を注ぎ込むことに固執したあまり、搦手の弱点を突かれてしまったのは事実。やはり、実戦を知らずに難攻不落の城を造るのは難しいということでしょう。

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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