2021/01/04
超入門! お城セミナー 第104回【歴史】安土城は本当に日本初の近世城郭だったの?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは安土城(滋賀県)。「近世城郭の嚆矢(こうし:はじまり)」とも呼ばれる覇王の城は、何がスゴかったのか。また、全国に広がっていった近世城郭の様子とは。安土城の特徴とその革新性についてご紹介します。
琵琶湖の内湖である西湖に面した安土城。水上交通の要所に築かれた安土城は、山全体を石垣で囲まれ、天守や御殿を備えた豪壮な城だった(イラスト=香川元太郎)
織田信長の覇業を象徴する居城・安土城って?
2021年2月にクライマックスを迎えた大河ドラマ『麒麟がくる』。2020年12月13日の放送は、完成した坂本城(滋賀県)で語り合う十兵衛(光秀)と煕子が印象的でしたね。光秀の居城・坂本城は石垣や天守を備えた当時最先端の城。ルイス・フロイスの『日本史』でも、「天下第二の城」と評価されています。
織田家では、この坂本城以外にも琵琶湖沿岸に多数の城が築かれ、羽柴秀吉などの重臣たちに与えられています。これは、琵琶湖の水運をおさえるためで、そのネットワークの中心には信長自身の城・安土城(滋賀県)が据えられていました。
安土城は、足利義昭を追放し、強敵・武田軍を長篠で破った信長が、天下統一の拠点として天正4年(1576)から約3年をかけて築いたもの。それまでの戦国時代の城は土を掘って堀や曲輪を造り、その上に簡易的な門や櫓を建てた土の城が主流でした。しかし、信長・秀吉の統一政策が進むにつれて、城は「高石垣・金箔瓦・天守(信長の城のみ天主)」の3要素を兼ね備える近世城郭へと変化していくのです。安土城は、この3条件を満たす日本初の近世城郭であるとされています。
高い石垣・広大な水堀・瓦葺きの建物などを備えている近世城郭。 山城とは違って、平地や低い丘に築かれているものも多いです。
さて、安土城といえば、ドラマや映画のイメージから豪華な天主をイメージすることが多いでしょう。実際に、安土城跡の本丸には南北約42m、東西約38mの石垣を持つ天主台が残っています。
安土城の天主台はいびつな八角形となっているため、天主は入母屋建物に望楼をのせた望楼型であることがほぼ確実だ。また、天主台の中心には礎石が存在しないため、天主内に吹き抜けが設けられていた可能性も指摘されている
しかし、安土城は本能寺の変後に本丸が焼失。天主を描いた絵画も発見されていないため、どんな姿だったかは判明していません。『信長公記』などの同時代資料から、五重七階建て(地下室含む)で内部は障壁画に彩られていたことがわかっていますが、構造の詳細は研究者によって様々な説が唱えられ、決着を見ていません。
宮上茂隆氏の復元案をもとに建てられた「ともいきの国 伊勢忍者キングダム」(旧 伊勢・安土桃山文化村)の模擬天守。安土城天主は様々な復元案が存在するが、それらが本当に正しい安土城の姿かどうかは不明である
全国に広がった「近世城郭」と、信長が至高の城を造るためにくり返された試行錯誤とは?
信長の死後、その覇業と築城技術を受け継いだ秀吉によって「高石垣・金箔瓦・天守」を備えた近世城郭は全国に広がりました。そういった意味では、安土城が近世城郭の草分け的存在であったことは間違いないでしょう。しかし、安土城が全く新しい技術で造られた城だったかといえば、そうではありません。
石垣自体は、中世の城でも使用されていた技術です。中には六角氏の観音寺城(滋賀県)のように城域全体に石垣をめぐらせた城も存在します。これらの城では、現在も石垣を見ることができます。
天守に類する高層建物は、そもそも寺院の多宝塔や室町将軍の御所や守護所の楼閣が源流とされています。安土城以前の城でも、松永久秀の多聞山城や信貴山(しぎさん)城(ともに奈良県)の四重櫓などの高層建築が存在していたことが確認されています。
安土城築城以前の信長の居城からわかること
安土城以前に造られた信長の居城を詳細に調べてみると、石垣や天守の痕跡が散見されます。
例えば、信長が美濃攻略のために築いた小牧山城(愛知県)は、土造りの臨時拠点と考えられてきましたが、2011年の発掘調査で本丸を囲む三段の石垣が発見されました。また、山上の曲輪からは礎石建物の痕跡も見つかっており、信長が小牧山城を臨時拠点ではなく長期間居住する城として築いた可能性が高まっています。
美濃攻略後に居城とした岐阜城(岐阜県)では、宣教師ルイス・フロイスの残した資料に「天守」と呼ばれる建物の記述があるほか、2019年には現在の復興天守が建っている地点から、信長時代とみられる石垣が発見されました。また、発掘調査では金箔瓦も発見されており、岐阜城は近世城郭を志向して造られた城であると言えそうです。恐らく信長は、本拠地を移す度に自分にふさわしい城を試行錯誤し、その集大成となったのが安土城だったのでしょう。
発掘された小牧山城の石垣。三段に渡って石垣が構築されているのは、築城当時の技術では高石垣が築けなかったためだと考えられている(小牧市教育委員会提供)
さらに、冒頭で紹介した明智光秀の坂本城は、フロイスの『日本史』の記述から壮麗な天守や御殿が建っていたことが分かっています。
また、城に面する琵琶湖からは、石垣跡も見つかっています。織田家の家臣である光秀が信長の許可なく石垣や天守を造ることはできません。そのため、城郭研究者の間では、坂本城は信長が安土城を造るための試作品、いわば「プレ安土城」として光秀に造らせた城ではないかと考えられています。
ここまで見てきたように、安土城は信長が天才的なひらめきによって生み出した特異点的な城ではありません。城ごとに散らばっていた技術を集約し、自身や家臣の城で築城実験をくり返しながら、より良い技術を取捨選択し結果、出来上がった城だったのです。
坂本城復元イラスト。琵琶湖に突き出すように本丸が造られ、本丸の先端には連結式の天守が設けられている(イラスト=香川元太郎)
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