2020/11/24
超入門! お城セミナー 第102回【歴史】国外にも日本人が造った城があるって本当?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは倭城。国外に日本式の城郭が築かれた理由、そしてこれらの城が国内の城に与えた影響とは? 文禄・慶長の役と城の関わりを紹介します。
慶長の役で築かれた泗川城(しせんじょう・サチョンウェソン/慶尚南道泗川市)。島津軍が明・朝鮮連合軍と戦った泗川の戦いの舞台で、城門が復元されている
文禄・慶長の役で日本軍の拠点として築かれる
全国に数万もあったとされる日本の城は、軍事と政治の拠点という役割を持っていました。自分の領地を守る・治めるための施設です。飛鳥時代には、大陸からの敵に備えた古代山城が築かれたことがありましたが、海に囲まれた日本では、想定された敵はほとんどが日本国内の敵対勢力でした。
7世時頃に築かれた鬼ノ城(岡山県)。古代山城の多くは朝鮮半島から来た渡来人の技術を用いて造られている
しかし、外敵に対抗するために日本人が造った日本の城が、なんと日本国外にあったのです。その名も「倭城」。「倭」は外国から見た日本の古称ですから、まさに外国人目線の命名。その外国人とは、安土桃山時代の明(現中国)と朝鮮(現韓国)の人たち。そう、倭城があるのは朝鮮半島の南岸地域なのです。
なぜ、国外に日本式の城が築かれたのか。その理由にはとある歴史的事件が関わっていました。その事件とは、天下人・豊臣秀吉が行った国外遠征、文禄・慶長の役です。
天正18年(1590)に北条氏を滅ぼし、天下を統一した豊臣秀吉は、明(当時の中国)の征服を目指して諸大名を動員し朝鮮半島に攻め入ります。この遠征は2度行われ、天正20年(1592)~文禄2年(1593)を文禄の役、慶長2年(1597)~慶長3年(1598)の遠征を慶長の役と呼びます。休戦・交渉をはさんでこの2度の戦があり、日本軍は明の従属国であった朝鮮の地に攻め込んで戦いますが、秀吉の死により日本軍が撤退して終結しました。
この戦役の時に日本軍の拠点として築かれたのが、倭城なのです。現在城跡が確認されているのは、約30か所。近年いくつかの城跡が整備されて観光資源にもなっています。その特徴は、まず朝鮮半島南岸地域にほとんどが集中していること。これは、自軍の補給路確保のためで、これによって朝鮮水軍の補給路を断つことにもなりました。そして港湾を見下ろす山の頂上に主要部が構えられているのも、共通する特徴。さらに、山頂部から湾に向かって2本の長い登り石垣がのびています。登り石垣とは、斜面と並行に、つまり縦方向に築かれた石垣。これによって、港湾地域全体を背後の山から両腕で抱え込むように守ることができるのです。また、山頂の主要部は石垣造りで、櫓や櫓門、狭間のある土塀など、日本の城と同じ瓦葺きの建造物が建っていたようです。
西生浦城イラスト。海に面した山に築かれ、山麓には港を取り込んでいる。そして、山中の斜面には登り石垣を築いて山上と山麓を一体化していた(イラスト=香川元太郎)
縄張面の最大の特徴は、曲輪の内部に仕切りの石垣が多用されていること。曲輪内に侵入された時の備えとみられます。この他、斜面に複数の竪堀を設けたり、登り石垣の外側にさらに竪堀を設けたり、また外郭ラインに長い横堀を設けたりも。総石垣造りの近世城郭でありながら、土造りの山城の有効な防御設備も併用した、まさにガチガチの守りなのです。島国の日本人が海を渡って敵地で戦うということが、どれほどの軍事的緊張をともなっていたかが伝わってきます。
蔚山城に残る石垣。朝鮮出兵後、倭城の建物は失われたが、城内の石垣は現在も多くの倭城で見ることができる
このガチガチの守りが見事に功を奏し、2度の戦役を通して倭城は一つも落城することがありませんでした。その堅城ぶりから、戦後は朝鮮側が石垣の扇の勾配や算木積を模倣したり、城をそのまま二次利用しようとしたこともあったようです。
国内の築城技術にも影響を与えた倭城
倭城に使われた技術は、文禄・慶長の役後の日本の城郭にも大きな影響を与えました。その一つが登り石垣です。山上と山麓を一体化して守る登り石垣は、彦根城(滋賀県)、洲本城(兵庫県)、松山城(愛媛県)など数えるほどしか見られず、とても希少な遺構となっています。彦根城の登り石垣は倭城のものとは築かれた目的が少し目的が違うとの説もありますが、いずれにしてもこの戦役以降に日本の城にも採用された技術です。
彦根城大手門付近にある登り石垣。彦根城は斜面からの侵入を防ぐため、城内の5か所に登り石垣を設けている
もう一つ、倭城から日本の城に逆輸入された技術に「瓦」があります。倭城跡からは朝鮮式の意匠や技法で作られた瓦が多く発見されているため、朝鮮の職員を動員して建物の瓦を作らせたことがほぼ確実視されています。こうした職人たちの多くは、撤退時に捕虜として日本に連れてこられ、朝鮮の瓦技術を日本に伝えました。天守や門の雨だれをよくするため、軒に葺かれる「滴水瓦」も朝鮮の職人たちが広めたものです。
姫路城水二の門に葺かれた滴水瓦(赤丸部分)。瓦の下部先端を花弁のように尖らせることで、雨水が落ちる位置を調節することができる。高麗瓦・朝鮮瓦と呼ばれることも
現在も韓国に残る倭城
倭城の歴史と構造が分かったところで、韓国に残る倭城をいくつかご紹介しましょう!
[蔚山広域市]西生浦城(せっかいじょう・ソセンポウェソン)
城内には空堀と組み合わせた石垣など、日本の城とは趣の異なる遺構が残る
朝鮮半島南東部の拠点城郭の一つで、文禄2年(1593)、加藤清正(かとうきよまさ)により築城。天守や御殿のある本格的な城だったとみられています。清正の築城技術を知る上でも貴重な遺構です。
山麓の居館跡が宅地化されていますが、それ以外は保存状態がかなり良く、天守台、石垣、曲輪、堀、土塁など見学がしやすく見応え充分。特に、長大な登り石垣と土塁、横堀は必見。山頂部は公園になっています。
[蔚山広域市]蔚山城(いさんじょう・ウルサンウェソン)
現在残る遺構は本丸付近の石垣のみだが、かつては惣構や出丸を備えた大規模な城だった
慶長2年(1597)、加藤清正・毛利秀元(もうりひでもと)・浅野幸長(あさのゆきなが)などによる築城。現在は工業都市として栄える蔚山市。城跡は海岸から太和江という川を10kmほどさかのぼった所、支流との合流地点近くの独立丘陵上にあります。清正・幸長らは完成目前で大軍に攻められ、援軍が来るまで籠城してなんとか凌ぎきりました。
現在は公園化され市民の憩いの場となっていて、往時の威容を物語るのは山頂部に残る天守台などの石垣と虎口跡のみ。でも、ここの石垣も算木積以前の隅部など、清正の石積み技術が見られます。
[全羅道順天市]順天城(じゅんてんじょう・スンチョンウェソン)
順天城は唯一地続きである西に石垣や堀を築いて、斜面を断ち切っていた。現在も石垣や堀がよく残っており、倭城の堅牢さを体感することができる
西部方面最前線の拠点城郭。光陽湾に突き出た半島先端の低い丘の上に位置し、かつては三方が海に囲まれていました。慶長2年(1597)、小西行長(こにしゆきなが)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・藤堂高虎(とうどうたかとら)による築城で、蔚山城が攻撃されたことを受け、2か月の突貫工事で完成させました。翌年やはり攻撃されるも、敵軍を撤退させています。
頂上部分は史跡公園として整備されており、外郭ラインも一部土塁が削られているものの、天守台、石垣、土塁、堀の保存状態は良好。石垣の積み直しが多く見られるのが残念ですが、大軍に対抗するために築かれた大規模な城跡は圧巻。
[釜山広域市]釜山浦城(ふさんかいじょう・プサンポウェソン)
対馬海峡に面する釜山は、古くから朝鮮半島と日本を結ぶ交通の要衝でした。開戦当初の文禄元年(1592)、宗義智(そうよしとも)・小西行長両軍によって襲撃・占領の後、毛利輝元(てるもと)・毛利秀元によって築かれました。山頂部の母城と港湾に面した子城からなり、戦いが終結するまでずっと物資の集散基地でした。
壮大な規模だったと伝わる釜山浦城ですが、現在母城は公園化されています。宅地も多く、山頂部の天守台以外は、ところどころに石垣や虎口の遺構が確認できる程度。この城には唯一4本の登り石垣が設けられていたそうですが、残念ながら今のところはほとんど確認できないようです。往時は湾に接していた子城の丘には、一部登り石垣も残っています。母城と子城の登り石垣が接続していた可能性もあり、今後の調査に期待したいですね。
この他にも見学できる倭城はたくさんあり、中には城門を復元しているところもあります。敵地での不自由さと心細さに耐え忍びながらも、そうそうたる武将たちが秀吉の夢を背負って懸命に築いたガチガチの倭城たち。コロナ禍が明けたら、ぜひぜひ見学に訪れてみてくださいね!
▼超入門!お城セミナー【歴史】のその他の記事はこちら!
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。城郭の専門家が山城の見どころを紹介する『隠れた名城 日本の城を歩く』(山川出版社)が好評発売中。また、2020年12月には、“エライ人”を中心とする相関図で日本史が分かる『イラスト図解で速攻理解 時代別 本当にエライ人でわかる日本史』が発売予定。