超入門! お城セミナー 第110回【歴史】信長の後継者を決めた賤ヶ岳の戦い。実は城が重要な役割を担っていた!?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。本能寺の変という突然の謀反に倒れた織田信長。その後継者を決した戦いとして有名な合戦、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)。実は、城が重要な役割を果たしていました。賤ヶ岳の戦いの経緯と、戦いで重要な役割を担った城を紹介します!

賤ヶ岳の戦い、福島正則
賤ヶ岳の戦いで奮戦する福島市松(正則)。この戦いで武功を立てた福島正則・加藤清正・脇坂安治・片桐且元・平野長泰・糟屋武則・加藤嘉明は、後世に「賤ヶ岳の七本槍」として知られるようになる(『国史画帖大和櫻』より)

賤ヶ岳の戦いとは?:陣城による防衛ライン形成がカギとなった、信長の後継者争い

日本史上最大のクーデターと呼ばれる本能寺の変から、明智光秀を倒した山崎の戦い、信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)を後継者に担ぎ上げた清洲会議を経て、信長亡きあと半年と経たないうちに政治の主導権を握った羽柴秀吉。彼が天下統一に向けてさらに大きな一歩を踏み出すために避けられなかったのが、織田家の古参武将との決着でした。

最大の難敵は、清洲会議で信長の三男・織田信孝を推挙した、織田家宿老筆頭・柴田勝家。その決戦は「賤ヶ岳の戦い」としてよく知られていますが、躍動感あふれる合戦図や、羽柴方で功をあげた武将のうちの7人が「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになるなど、一般的には広い戦場で白兵戦が繰り広げられた野戦のイメージが強いと思います。ところが、天下の趨勢を決したこの戦いは、両軍が多数の陣城を築いた大規模な「築城合戦」でした。

柴田勝家、羽柴秀吉
柴田勝家(左)と羽柴秀吉(右)。信長亡き後の織田家主導者をめぐる二人の対立が、史上最大規模の築城合戦に発展した(勝家/『国史画帖大和櫻』、秀吉/『月百姿 志津が嶽月 秀吉』東京都立中央図書館特別文庫室蔵)

賤ヶ岳の戦いはどのような展開をたどったのか

陣城(付城)とは、合戦の際に拠点として造られる臨時の城のこと。鳥取城攻めや備中高松城攻めのような包囲戦で多く使われているので、「敵城を包囲するために築く城」というイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、賤ヶ岳の戦いでは、羽柴・柴田両軍によって陣城が多数築かれました。

その目的は、城を築いて自軍の防衛ラインを構築することで、敵方を牽制しながら勝機をうかがうこと。畿内を拠点に国の政治を動かし始めていた秀吉と、北陸を治めていた柴田勝家。この2勢力が対峙した合戦では、互いの勢力の境界である北近江が主戦場となり、大小あわせて20を超える陣城が築かれました。

賤ヶ岳の戦い、余呉湖
賤ヶ岳砦から見た余呉湖。対岸には岩崎山砦や堂木山砦など、羽柴方の陣城が見えている。柴田軍の陣城は、その奥にある山々に築かれていた

この戦いで先手を取ったのは勝家。北近江に進軍し、国境付近の玄蕃尾城(福井県/滋賀県)を本陣として、そこから南に伸びる山々に、北国街道を見下ろす多くの陣城を築きました。最前線は、琵琶湖の北側に位置する余呉湖を見下ろす茂山砦。

一方、伊勢の滝川一益とも対峙していた羽柴秀吉は、この勝家の動きに対して木之本宿に本陣を構え、茂山砦の東に神明山砦を置き、これを起点に北東方向に伸びる山々に、堂木山砦・左禰山(さねやま)砦(東野山砦)を置いて防衛ラインを構築。

天神山砦を最前線に、余呉湖を囲む三方の山と北国街道をはさんで東に横たわる山々に陣城を展開、琵琶湖と余呉湖の間にそびえる賤ヶ岳にも砦が築かれました。

賤ヶ岳の戦い、陣城
羽柴・柴田両軍が築いたおもな陣城。羽柴軍は南側の余呉湖周辺に陣城を築く。一方の柴田軍は、勝家の本拠・越前に通じる北国街道をおさえる位置に陣城を築いた

睨み合いが続く中、信孝のいる岐阜城(岐阜県)を攻めるため、秀吉が大垣城(岐阜県)に入った隙を突いて、柴田方の佐久間盛政が高尾山砦経由で余呉湖の西岸に進軍。麓の湖岸沿いに南下して賤ヶ岳砦を避け、大岩山砦と岩崎山砦を急襲して攻略します。

賤ヶ岳の戦い、陣城
佐久間隊の進軍路。盛政は高尾山砦を経由して余呉湖を南下。大岩山砦を急襲し、守将の中川清秀を討ち取った

しかし、佐久間隊が動いたことをいち早くキャッチした秀吉は、得意の(?)大返しを敢行。驚異の速さで本隊を動かし、岩崎山砦にいた盛政を撃退すると、柴田方最前線の茂山砦を守っていた前田利家が突如単独で撤退。撤退の理由ははっきりとは分かっていませんが、秀吉が若い頃から家族ぐるみのつきあいだった利家を事前に調略していたのではないか、という見方が強いようです。

賤ヶ岳の戦い、佐久間盛政
佐久間盛政は、北陸方面軍の一員として勝家とともに一向一揆や上杉景勝と戦った猛将。戦後、彼を捕らえた秀吉は、その武勇を惜しんで家臣になるよう誘う。しかし、盛政は勝家から受けた恩を忘れて秀吉に仕えることはできないと、拒否。自ら斬首を望み、処刑された(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)

ともあれ、これで勝負あり。柴田方は敗走、総崩れとなり、羽柴方に軍配が上がりました。

合戦の舞台となった陣城たちとは

では、この最大規模の築城合戦で築城・使用された主要な城を紹介しましょう。

玄蕃尾城(内中尾城)(福井県敦賀市/滋賀県長浜市)
玄蕃尾城、登城道
玄蕃尾城の主郭虎口から見た登城道

柴田勝家の本陣。福井県と滋賀県の県境、中尾山(標高460m)に位置する山城で、北国街道と若狭街道を監視できる交通の要衝です。二つの角馬出を備えた本丸を中心として、南北それぞれに2〜3の曲輪が並び、直角に何度も曲げられた1本の道が通り抜ける構造。どこを進んでも横矢が掛かる(側面攻撃できる)よう計算されており、最高水準の山城と称賛されます。

もとは朝倉氏の城があったと伝わりますが、この戦のあと使用されなかった上に、現在整備が行き届いているため、素晴らしい遺構をバッチリ見られる山城として、近頃特に人気。

賤ヶ岳砦(滋賀県長浜市)
賤ヶ岳砦
賤ヶ岳砦に立つ城址碑

合戦の名称となった砦で、羽柴方・桑山重晴を筆頭に羽田正親、浅野長政が守っていました。南の琵琶湖、北の余呉湖の間にある山で、山頂部の全長150mほどが城郭遺構。虎口や土塁が残ります。360度の眺望がきくため古くから城が築かれ、戦国末期は浅井氏の城があったと伝わっており、その遺構とみられる竪堀も。賤ヶ岳リフトで登ることができるので、絶景を堪能しつつ、地理・地形を確認してみては。武将像や七本槍の旗といった古戦場の演出もあり。

【大岩山砦】(滋賀県長浜市)
大岩山砦
大岩山砦に残る中川清秀の墓(びわこビジターズビューロー提供)

柴田方・佐久間盛政に最初に急襲され、落城した陣城です。中川清秀が在陣するも、討死。供養塔が立てられています。余呉湖の東、標高280mに位置し、曲輪は全長50mほどで部分的に低い土塁が残ります。

西に賤ヶ岳砦、北に余呉湖・岩崎山砦(高山右近の陣城)があるため、攻撃されにくいと考えられていたようです。岩崎山〜大岩山〜賤ヶ岳と、遺構を確認しながらハイキングする人も多いとか。

陣城の構築には多くの人員と蓄積された技術が必要なため、こういった築城合戦は、多くの兵を動員できるようになった戦国時代後期だからこそ可能でした。多くの陣城を築いたということは、両軍とも長期戦を覚悟していたということです。

さらに興味深いのは、柴田方の陣城が長期戦に向かない小規模・単純構造だったのに対して、羽柴方は横堀や枡形虎口など、防御を重視した複雑で巧みな縄張のものが多かったこと。前線突破したい勝家、持久戦に持ち込みたい秀吉という対比が、陣城を見ても現れているのです。陣城めぐりの際は、ぜひこんなことも意識して歩いてみてくださいね!


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。弊社が編集協力で関わった西股総生著『パーツから考える戦国期城郭論』(ワン・パブリッシング)が絶賛発売中。

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