超入門! お城セミナー 第109回【歴史】天守が建つ城は、いつ、どのように全国に広がったの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。それまで存在しなかった天守が建つ城を生み出したのは織田信長ですが、信長は本能寺の変で志半ばに他界したため、天守を全国に広めることはできませんでした。天守が建つ城を全国に拡散したのは誰だったのでしょうか。

安土城天守台
安土城天守台。信長が築いた本邦初の天守が建っていたが、本能寺の変後に焼失してしまった

城郭史においても規格外で革命児だった信長

2月7日の放映で最終回を迎えたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。城びとの読者の中には、いまだ長谷川光秀ロスを引きずっている人も多いのではないでしょうか。

戦国時代を舞台にした『麒麟がくる』では、明智光秀出生の城である明智城(岐阜県)やユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景の居館・一乗谷館(福井県)など、じつに多くの城が登場しました。中でもインパクトが強かったのは、光秀の坂本城と織田信長の安土城(どちらも滋賀県)でしょう。主人公・光秀の居城である坂本城は設計段階から描かれ、第36回では琵琶湖畔にたたずむ異形の天守が表れました。まあ、城の姿よりも最上階での煕子とのキュンキュンシーンのほうがインパクトは強かったわけですが。

安土城は覇王信長の城らしく、天守の絢爛豪華さも大広間のだだっ広さも規格外! ドラマ内で信長自身が語っているように、「日輪のように光り輝く」存在として、信長のスケールの大きさやら強欲ぶりやらを体現していました。ちなみにこの安土城、第39回ではじめて建設計画が語られ、その後何度か建造中の天守が写され、完成したのは最終回直前の第43回。ここまで引っぱるなんて、制作者のこだわりが感じられます。

坂本城跡
坂本城跡はほぼ城の痕跡を残しておらず、光秀の石像だけがたたずむ。いろいろと残念な城跡である

実際の坂本城や安土城も、かつては城全体が石垣で築かれ、城の中央に天守などの高層建造物が建ち並んでいました。このような城は「近世城郭」と呼ばれ、それ以前の土造りの山城とは構造も建物も一変した、革命的な城郭でした。当時の人は、日本史上類をみない天守という存在を見て、度肝を抜かれたことでしょう。この近世城郭を生み出したのが、誰あろう織田信長。一般的には安土城が史上初の近世城郭であり、光秀が築いた坂本城は、安土城の試作品(プロトタイプ)だったのではないかと考えられています。

現在、都市の中心に残り、観光地となっている名城のほとんどは近世城郭です。それでは、信長が創出した近世城郭は、どのように全国に広まったのでしょうか。

『麒麟がくる』で、安土城が完成した次の回に本能寺の変が起こったことからも察しがつきますが、安土城完成(1579年)から本能寺の変(1582年)まではわずか3年しかありません。この時期に建てられた天守は、豊臣秀吉の姫路城(兵庫県)や柴田勝家の福井城(旧名:北庄城)(福井県)など、信長の家臣が手がけたごく数城だけでした。

「あの人」の時代に近世城郭は全国へと拡散

それでは、天守のある近世城郭はいつ全国に広まったのか。それは、憎々しくて腹黒な佐々木蔵之介、もとい、豊臣秀吉が天下人になってからでした。

秀吉は、天正11年(1583)に大坂城(大阪府)、天正15年(1587)に聚楽第(じゅらくだい。京都府)を完成させます。どちらも天下を治める政庁兼居城として、諸大名の前に君臨。安土城を凌駕する巨大な城、そして巨大な天守を築くことで、万民に天下人が交代したことを示したのです。

大坂城天守
秀吉が築いた大坂城天守は安土城よりも一回り大きく、諸大名へのインパクトは絶大だった。現在の天守は昭和初期に再建されたもの

そして、自らに臣従した大名に対し、近世城郭の建造を認めました。その最初期の例が、天正17年(1589)に築城工事がスタートした毛利氏の広島城(広島県)。大坂城や聚楽第を訪れた毛利輝元は、その絢爛たる光景に心を奪われ、新城の築城を決意したそうです。広島城は方形の本丸に大馬出が付属しており、その構造は聚楽第と酷似していました。それだけ秀吉の城への憧れが強かったともいえますが、もしかしたら広島城の設計に、秀吉に近しいアドバイザーが関わっていたのかもしれません。

また、秀吉の家臣が地方に領土を与えられ、新しい居城として石垣と天守のある城を築いたことも、近世城郭伝播の一助となりました。蒲生氏郷(がもううじまさ)による会津若松城(福島県)、堀尾吉晴による浜松城(静岡県)、小西行長による宇土城(熊本県)がその一例です。天守の建つ近世城郭は秀吉政権を知らしめるシンボルであり、新しい領地を治める際に権威として機能したのです。

こうして、秀吉に臣従した大名や秀吉配下の家臣らによって、近世城郭は徐々に拡散していきました。そうした過程の中で、画期となった城が名護屋城(佐賀県)。朝鮮出兵の前線基地&司令部になった城です。

名護屋城
広大な石垣の城だった名護屋城築城には多くの大名が動員された。江戸初期の破城の跡が残る

名護屋城の築城には九州などの諸大名が動員され、さらに名護屋城の周辺には、無数の陣屋が築かれて160もの大名が在陣しました。大名は名護屋城の築城・補修に関わったり、直接関わらなくても城に招かれてその凄さに圧倒されたりすることで、近世城郭の構造や築城技術を学んでいったのでしょう。そして、「オラが国にもあんな立派なもん建ててぇ〜」とばかりに、技術を持ち帰って自身の居城を近世城郭へと改修したわけです。こうして雨後の筍のごとく、全国に近世城郭が生み出されることになりました。

明智光秀がお手本を示し、織田信長が完成させた近世城郭ですが、それを全国に広めたのはライバル秀吉の功績でした。光秀はその点でも、草葉の陰で地団駄を踏んでいるかもしれません。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。弊社が編集協力で関わった西股総生著『パーツから考える戦国期城郭論』(ワン・パブリッシング)が絶賛発売中。「堀」「馬出」「曲輪」「天守」など、パーツを切り口に城の軍事的発展に迫る意欲作です!

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