超入門! お城セミナー 第119回【歴史】お城をつくる時、人が捧げられたって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は、城に残る人柱伝説について。築城工事を円滑に進めるために行われたという「人柱」の風習は本当にあったのか? 松江城や白河小峰城、日出城、吉田郡山城…など、各地に残る人柱伝説を紹介し、その真偽に迫ります。



人柱伝説、松江城
悲しい人柱伝説が残る松江城。盆踊りの最中にさらわれた美しい娘は、本当に人柱にされたのか——?(Anesthesia/PIXTA)

人柱とは? 若い娘や僧侶が犠牲に……城に残る悲しき人柱伝説

「人柱伝説」——。城めぐりをしていると、築城悲話として紹介されているのを、よく目にしますよね。「人柱」とは、神の加護を得たり、穢れを払ったりする時に生きた人間を犠牲にして捧げる、人身供犠(じんしんくぎ)・人身御供(ひとみごくう)の一つとみられています。

いわゆる生贄(いけにえ)です。そして人柱伝説は、大規模で困難な工事の無事を祈って行われたと伝わり、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアの一部などにみられます。日本では、築城の他に橋や堤防の工事にまつわる話として、よく語られます。城を築く際、「土台や土の中に人間を埋めた」という、今では耳を疑うような儀式が、本当に行われていたのでしょうか?

各地の城に残る伝説を見てみましょう。最も多いのが、美しい未婚の娘が人柱に選ばれる例。その後の怪異や、供養のために城の施設に特別な名前を付けたというような、後日譚も共に語られます。

郡上八幡城(岐阜県)には、築城時(または改修時)に一番の美女だった「およし」という娘が人柱として生き埋めにされたという伝説があり、本丸石段の下で「オヨシオヨシ」と言って手を叩くと、鳴くような声がしたといいます。

天守前におよし観音の祠が建っており、城下にもおよし稲荷があったり、「郡上おどり」でも、およしのための縁日おどりが行われるとか。長浜城(滋賀県)でも、築城時に城下一の美女「おかね」が人柱になり、埋められた辺りの堀を「おかね堀」と呼んだという伝説が。ここには、盲目の妹の代わりに人柱に志願した漁師の娘「おきく」の伝説もあり、天守閣跡にはおかねの石碑と、おきくを鎮める稲荷祠が建っています。

人柱伝説、郡上八幡城、およしの祠
郡上八幡城の桜の丸に立つ「およしの祠」。案内板ではおよしの伝説が紹介され、来城者の涙を誘う

また、人柱になる若い娘を、盆踊りの輪の中から選んだという話が非常に多いようです。以下の山陰の3城の例で見てみましょう。松江城(島根県)の築城時、盆踊りの輪の中で最も美しく最も踊りの上手い少女をさらい、人柱として石垣の下に生き埋めにしたといいます。後日譚も多く、城の完成前後から城主が立て続けに死去して断絶。天守からはすすり泣きの声がし、城下で盆踊りをすると城が鳴動したため、なんと現在も松江の一部地域では盆踊りを開催しないのだとか。

また月山富田城(島根県)でも、盆踊りの輪の中から、神託通り「月の紋の着物を着た娘」を連れ去り人柱としたといいます。その儀式で供養のための太鼓を打ち鳴らしたのですが、毎年その日が近づくと、月山山頂から太鼓の音が聞こえてくるようになったとか。そして米子城(鳥取県)の伝説は、やはり盆踊りの輪から「おくめ」という娘がさらわれて人柱となり、城を別名「久米城」と呼んだというものです。

この他にも、供養に植えられた「おとめ桜」が知られる、白河小峰城(福島県)築城時の作事奉行の娘「おとめ」の伝説、くじによって人柱となり、城下の川がその名を取って「肘川」と名付けられたという大洲城(愛媛県)「おひじ」の伝説、城の別名を「宮が城」とし、櫓普請の人柱となった娘を偲んだという府内城(大分県)の「おみや」伝説などなど…… 若い娘の人柱伝説は枚挙にいとまがありません。

人柱伝説、郡上八幡城、おとめ桜
おとめが埋められた場所に植えられた「おとめ桜」。現在の桜は2代目である(TAKEZO/PIXTA)

未婚の若い娘以外が人柱とされたケースもあり、特に丸岡城(福井県)の伝説は有名です。築城時、二人の子がいて苦しい生活を送っていた片目のお静が人柱に選ばれました。彼女は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、天守中柱の下に埋められます。

しかし、城主の柴田勝豊が移封。約束が反故となったため、毎年堀の藻刈りの時に、お静の霊が春雨で堀をあふれさせたとか。他には、先ほどの松江城の異聞として、虚無僧が息子の仕官と引き換えに自ら人柱になった伝説、大垣城(岐阜県)では工事見学中の山伏が、丸亀城(香川県)では行商中の豆腐売りが、たまたま通りがかっただけで人柱にされたというむごい話もあります。

人柱は本当にあったのか?

「人柱伝説は実話?」 じつはこんな事例があるのです

これぞ「実例」と思われるのが、日出城(ひじじょう/大分県)の人柱です。昭和30年代。南西海沿いの遊歩道工事中、大岩を乗せて石垣基盤としていた岩盤の穴から、老武士らしき遺体が納められた木棺が発見されました。この城は、櫓や本丸石垣の鬼門隅部を欠いて、鬼門除けにしています(第56回【武士でも鬼は怖かった!? 城に設置された〝鬼門除け〟の工夫とは?】参照)。この南西石垣は、地盤が弱い上に裏鬼門にあたるため、石垣の隅を欠き、さらに人柱も立てられたのでは、と考えられています。老武士……これはドラマがありそうです。祠と説明板が立っているので、探訪時はぜひ合掌を。

人柱伝説、日出城
人柱の痕跡が発見された日出城の南西石垣(左)。遺体が見つかった岩盤の上には、老武士を祀る「人柱祠」(右)が建てられている

「ああやっぱり、お城を築く時は人柱が当たり前だったのか……」と、重い気持ちになってしまうでしょうか。しかし、これだけ多くの城が調査されていて、「これは人柱だ」といえるようなものは、実は日出城以外では確認されておらず、研究者の間では「築城工事で人柱を立てることはなかった」というのがほぼ定説になっています。

ただ当時の風習として、築城時に地鎮祭のような何らかの儀式が行われていたのは確実だとみられています。では、実態はどうだったのか? そのヒントになりそうなのが、以下の伝説です。

吉田郡山城(広島県)の築城当初、人柱を立てる話が持ち上がったが毛利元就が止めさせ、代わりに「百万一心」と刻んだ石を埋めて築城を成功させたといいます。彦根城(滋賀県)でも、天守の移築中に人柱の要望があり、家臣の娘が志願しましたが、城主の井伊直継は関係者をごまかして空き箱を埋め、娘は逃がして工事も成功させたという話があります。また鳥取城(鳥取県)では、美人で聡明な侍女の手水鉢を人柱の代わりにしたという話も。そして、清洲城(愛知県)では足を切り落とされた犬の骨が出土したという実例もあります。

人柱伝説、吉田郡山城、百万一心
元就が埋めた「百万一心」の石は、江戸時代に長州藩士が発見し拓本を取ったという。しかし、この石の実物は現在行方不明である。写真は拓本を元につくられた「百万一心碑」

実際の人柱事情がどうだったのか、今のところは「わからない」としか言えませんが、上の例から、生身の人に代わるものが立てられた例は多かったのでは。いずれにしても、築城は大工事。さまざまな犠牲を払って築かれたことは間違いありません。今後も築城にたずさわった多くの人たちに最敬礼の上、遺構を楽しませていただくことにしましょう!


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)や、『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)、『歴史を深ぼり! 日本史を動かした50チーム』が好評発売中!

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