2023/04/18
超入門! お城セミナー 第56回【構造】武士でも鬼は怖かった!? 城に設置された〝鬼門除け〟の工夫とは?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。「鬼門」(きもん)とは何かご存知ですか? 鬼門とは万事に忌むべきとされている方角で、北東(丑寅)のこと。城を襲ってくるのは敵の軍隊だけにあらず。今よりも迷信深かった江戸時代には、「鬼門」の方角から「災い=鬼」が入ってくるのを防ぐために、さまざまな方策がとられました。今回は、城内に設けられた「鬼門除け」の工夫を見ていきましょう。
隅部が凹んでいる鹿児島城の高石垣。一見、洒落たデザインにも感じられるが、これが鬼門除けだった
切りたくても切れない!日本建築と「鬼門」の深くて長い関係
よくないことが起こりやすい場所や状況、時間帯などを指して、「鬼門」と表現しますよね。「●●高校にとって準決勝は鬼門だ」「鬼門である数学の点数が良ければ合格するだろう」なんて使われ方をします。鬼門とはもともと日本古代の陰陽道から生まれた考え方で、北東方向は鬼が出入りするとされ、万事に忌むべき方角とされました。現在でも風水や家相に応用され、新築の家や部屋のレイアウトで北東側の鬼門をどうするか気にされている方も多いかと思います。
鬼門とは「北東=丑寅」の方角のこと。だから昔話などに登場する鬼は、牛(丑)の角を生やし、虎(寅)模様の腰巻きをはいている。さらに昔話の『桃太郎』では鬼退治のために猿・キジ・犬がお供するが、その理由は猿(申)・キジ(酉)・犬(戌)が裏鬼門の方角にあたる動物だから、という説がある。(図版:かみゆ歴史編集部)
鬼門と日本の都市計画、または鬼門と日本建築は切っても切れない関係にあります。古くは奈良時代の平城京において、鬼門の方角に東大寺が建立され、都市を守る魔除けとされました。京の平安京においては比叡山延暦寺が、江戸においては東叡山寛永寺が鬼門除けの役割を果たしたのは有名な話。また、日本建築では北東側にわざと欠落部分をつくり、これを魔除けとしました。現在でも京都御所(京都府)の築地塀は、北東隅だけが凹んだ構造になっています。
鬼門除けのために凹みが設けられた京都御所北東側の築地塀。魔除けとして猿の像が用いられたことから、この角を「猿が辻」とも呼ぶ
まだまだ迷信深かった戦国時代や江戸時代に、城郭建築でもこうした鬼門除けの思想が受け継がれたのは、ある意味当然の成り行きでしょう。お城における鬼門除けとしては、
① 不開門(あかずのもん)を築く
② 堀や石垣の一部を欠落させる
③ 神社や祠を置いて祀る
の3パターンを見ることができます。ひとつずつ、具体例を見ながら解説していきましょう。
鬼門除け① 不開門にすれば鬼も不幸も入れない!
不開門は、北東側の門を開かずの扉にしてしまえば鬼も不幸も入ってこないだろうという、わかりやすい発想で築かれました。代表例としては熊本城(熊本県)の不開門が知られていますが、他の城でも北東側の城門は不開門とするのが一般的でした。江戸城(東京都)の鬼門の位置に建つ平河門は日常的に使用されていましたが、付属する不浄門は、城内で発生した死者を城外に搬出するときの通路でした。このように、凶事のさいに使用される門が鬼門方向に設置されるケースも多かったようです。
熊本城の不開門。2016年の熊本地震で半壊し、復旧が待たれる(写真は地震前のもの)
不開門と同じような魔除けとして、御殿内の北東側に位置する部屋を開かずの間にするということもありました。例えば、江戸時代の岡山城(岡山県)には開かずの間があったのですが、この部屋は城主の小早川秀秋が自分に意見した家臣を斬殺し、そのときの血痕が消えなかったことから入室を禁じられたという伝承があります。鬼門除けの部屋と小早川秀秋を暗愚だったと貶める逸話が結びつき、このような伝承が生まれたのでしょう。
鬼門除け② 鬼を防ぐためなら建物だって凹ませます!
第2の方法として、北東方向の石垣や堀、建物の一部を欠落させることがあります。京都御所で鬼門に建つ築地塀が凹んでいるのと同じ発想ですね。
石垣や堀を凹ませたり斜めに切り落としたりした現存例としては、鹿児島城(鹿児島県)の石垣や上田城(長野県)の土塁、広島城(広島県)や江戸城(東京都)の水堀が挙げられます。また、北東側に建つ櫓は艮(うしとら)櫓、またはずばり鬼門櫓と呼ばれることが多く、やはり建物の一部に凹んだ部分をつくりました。その現存例として日出城(大分県)の鬼門櫓があります。
上田城本丸に設けられた鬼門除け。水堀に面した北東側の土塁が内側にへこんでいる
日出城の鬼門櫓。建物の北東側(写真の右側隅)が斜めに切り欠いたような造りになっている
世界遺産である姫路城(兵庫県)は、この手の鬼門除けが徹底されていました。姫路城は内堀・中堀・外堀と三重の水堀を持っており、定規で引いたように直線で築かれているのですが、鬼門側だけは斜めだったり丸みを帯びていたりするのです。また、姫路城の天守台の北東箇所は、まるでそこだけ積み忘れたのかと思うような凹みがあります(現在は立ち入り禁止で見ることができません)。悪霊退散のために魔除けの札を何枚もベタベタと貼るように、何重もの鬼門除けを徹底して設けたわけです。
江戸時代に描かれた姫路城の絵図を見ると、北東側の内堀は斜めに走り、中堀と外堀は曲線を描いていたことがわかる(「姫路御城廻侍屋鋪新絵図」姫路市立城郭研究室蔵)
鬼門除け③ 神社や祠を置いて魔除け
第3の方法は、魔除けとして神社や祠を置くこと。現在建つ建物では、松山城(愛媛県)の天神櫓や福岡城(福岡県)の祈念櫓があげられます。「祈念櫓」なんて名称からしていかにもですね。ちなみに、古くから鬼門除けとして、鬼門と反対の方角に位置する猿の像を鬼門に安置する風習がありました。そんな猿の像(猿石)が高取城(奈良県)に残ります。北東方向に置かれているわけではありませんが、古代の奈良の都でつくられた猿石を、鬼門除けの意味をこめてこの地に運んだのかもしれません。
松山城の本壇(天守曲輪)の鬼門を守る天神櫓(復元)。天神様(菅原道真)を祭っており、建物も寺社風で城郭建築としては非常に珍しい
高取城の登城道沿いに置かれた猿石。古代、飛鳥の都で鬼門除けに用いられた猿像が、築城の際に運ばれたとも考えられている
ここまで城内に設置された鬼門除けを紹介してきましたが、京都の延暦寺や江戸の寛永寺と同様に、城下全体の鬼門除けとしては神社仏閣が設置されました。鬼門除けの例としては、大坂城(大阪府)の片埜神社、金沢城(石川県)の宇多須神社、松山城の常信寺、岡崎城(愛知県)の弘正寺など枚挙にいとまがありません。というよりも、城下町には例外なく鬼門除けとなる寺社仏閣が設置されていたという言い方のほうが正しいのでしょう。それだけ、「鬼門」は近代以前の人々の生活・風習のなかで重要な存在だったわけです。