新潟県上越市の高田城です。1610年60万石でこの地に入封した徳川家康の六男松平忠輝は福島城に入城。徳川幕府は加賀の前田氏、出羽の上杉氏をおさえるため堅固な城を築城することとし、諸大名に国役普請を命じ1614年伊達政宗や上杉景勝など13の大名が工事に参加、大雨などにより難航したとされますがその年のうちに完成させ、福島城を廃して忠輝が入城しています。城は石垣を使用せず天守閣もつくらず本丸西南隅に三重櫓が建てられています。大阪冬の陣の前で工事を急ぎ、付近に石材がなく遠方から集める余裕がなかったためとされます。しかし、忠輝は大阪夏の陣での失態や伊達政宗と陰謀を図った疑いなどから1616年領地没収となり、以降は領主が多数入れ替わり、1742年徳川四天王と言われた榊原康政の子孫の政永が15万石で入城し明治維新まで続いています。城は高田平野の菩提ケ原に築かれ本丸の周囲に土塁と堀、さらに二の丸、南側に三の丸、北側に北の丸を置き、関川と青田川を外堀とし東西1200m南北1000mの規模の平城とされます。現在城は、明治に入り旧陸軍第13師団駐屯のため大規模な土塁撤去・堀の埋め立てが行われ東半分はなくなり、本丸を含めた西側が高田公園となり三重櫓が再建され、公園の桜は三重櫓とお堀に映える様が日本三大夜桜の一つに数えられています。
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