高島城は、諏訪の浮城と言われておりますね。
城郭形式は、連郭式平城で有ります。
かつては、諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」とよばれていたが、江戸時代の初めに諏訪湖の開拓が行われ、水城の面影は失われた。
かつての天守は、独立式望楼型3重5階で、明治初期の古写真でその姿をうかがっています。
しかしながら、現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部に異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館になっております。
高島城主の諏訪頼忠は、徳川家康に敵対していたが降伏して諏訪郡の本領を安堵された。
その後、1590年に、諏訪頼忠は豊臣秀吉の命により
関東転封になった徳川家康に従って、武蔵国に移った。
代わりに豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が諏訪領主となり、1598年に現在の位置に城を完成させた。
1601年に、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水は徳川家康の恩恵により、旧領の諏訪に帰り藩主になりました。
以降、10代藩主の諏訪忠礼至るまでの270年間、諏訪氏ととに高島城は諏訪湖を見続けて来ました。
にのまるさん、松本城クイズは2問とも正解でした。
天守群に登られたと思いますが、次の事に答えて下さい。
① 大天守の最上階にぐるーと一周する狭い廊下があったと思うのですが、確認されましたか?
それが回り縁の痕跡で有ります。
② 辰巳附櫓には花頭窓があるのですが、確認されましたか?
③ 月見櫓には朱色の回り縁がありますが見られましたか?
長野の善光寺に将軍家光公が公式参拝されるとき、
松本城に寄る事を当時の藩主松平直政に伝えました。
そこで、急遽月見櫓を造ってもてなしに使おうとしたのです。
しかし、将軍家光公は予定が変更になり松本城には寄ることはなかったのでした。
だから、月見櫓は松平直政が造ったと考えられますね。
最後に、もう1問だけ松本城に関わる問題を出しときます。
それは、深志城の頃のお話です。
武田信玄が何故甲府から深志城を目指したのですか?
ヒントは、当時の歴史的背景と断層に関わっております!
また、考えて下さいね。
私は、現存天守の中で松本城が一番好きですね。
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