八神城は毛利氏の城とされています。現在は土塁の一部とされているものが残り、城址碑が立っています。真福寺には八神城の城門が移築されています。毛利氏は土岐氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と仕え江戸時代には尾張徳川家に仕えていたようです。案内板には名古屋藩と書かれています。まあ、そんなに間違っても無いですね。今でも名古屋県とか言われますからね。
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2024/04/02 23:30
名古屋藩といわれたこともありました。(尾張藩) (2024/03/30 訪問)
八神城は毛利氏の城とされています。現在は土塁の一部とされているものが残り、城址碑が立っています。真福寺には八神城の城門が移築されています。毛利氏は土岐氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と仕え江戸時代には尾張徳川家に仕えていたようです。案内板には名古屋藩と書かれています。まあ、そんなに間違っても無いですね。今でも名古屋県とか言われますからね。
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2024/04/02 21:24
直鳥城 (2024/02/11 訪問)
【直鳥城】
<駐車場他>直鳥クリーク公園駐車場
<交通手段>車
<見所>水濠
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅6城目。現地説明板によると、この地は弥生時代から人々が定住を始め、中世には現在に近い形の集落が形成されていたそうです。直鳥城は永正年間(1504~1520年)に犬塚家久によって築城され、要塞化された環濠集落として発展していったそうです。犬塚氏は当初大友氏に味方します。3代目城主犬塚鎮家は鎌田江城に居住し龍造寺氏を攻めますが、逆に1571年、龍造寺隆信に鎌田江城を攻め取られ逃げ落ち、直鳥城は打ち捨てられたようです。
城跡の主要部中心地は広い曲輪になっていて現在は貸畑地になっています。畑地以外の曲輪跡は藪化している所が多く、現地説明板には竹藪化している場所には土塁が残っているそうですが、濠を隔てては見えません。奈良県の環濠集落は見ましたが、中世平城でこれ程水濠と曲輪が明瞭に残っている遺構は初めて見るし、初めて見るこれまでと違った城郭構造に興奮しました。いびつな形がまたいい感じ。水壕と藪化した場所は現在は水鳥たちの楽園になっています。
<満足度>◆◆◇
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2024/04/02 19:07
多くの将兵が討死。 (2024/03/30 訪問)
加賀野井城は田んぼの端っこに、ぽつんと標柱と案内板が立っています。下の土盛りは土塁の跡でしょうか?
案内板によると、天正年間(1573~1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文(1万石)を領して城主となったそうです。小牧・長久手の戦いの後、天正13年5月豊臣十万の大軍の攻撃を受けたそうです。織田信雄の援軍2千も一緒に籠城しましたが、防ぎきれず講和を申し入れるも受け入れてもらえなかったので、5日に夜陰に乗じて大手より打って出るも、多くの城兵が討死し城主秀望は関東に逃れ落城したとのことです。
この場合城主が切腹を申し入れれば降伏は受け入れてもらえたかもしれませんが、自分がやれと言われると、なんとも言えませんな。やだやだ。
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2024/04/02 17:53
南北朝のころの城 (2024/03/30 訪問)
日比津城は南北朝の時代に築かれたとされ、大円寺北隣一帯が城址とされています。小ぶりだが堅固な城で、堀は水で満たされ、正門と裏門の橋の橋板はいつでも取り外せるようになっていたそうです。城主は野尻氏で境内に残る二つの石塔の左の五輪塔地輪には「貞治4年(1365)」「三月十八日」、右の宝篋印塔の基部には「為道誓禅門」「一周忌故也」「応永十七年(1410)二月十二日」と刻まれているそうです。中央に立つ石碑には「日比津城主碑誌」の文字がはっきりと刻まれています。
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2024/04/02 17:39
城主・簗田政綱は桶狭間合戦で活躍。 (2024/03/30 訪問)
九之坪城は「ふれあいの家」の周辺に築かれていたようで、駐車場に立派な城址碑が立っています。尾張国守護斯波氏の家臣・簗田政綱は斯波氏の衰退後は織田信長に仕え、九之坪城を与えられたと案内板には書かれています。
桶狭間の戦いでは大きな功績を挙げ、「太閤記」には、この合戦の功で三千貫の知行と沓掛城を与えられたとされているようです。それ以外の合戦でどれだけの功績を挙げたのかはわかっていません。
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2024/04/02 17:27
アングルベストは?
犬山城はどのアングルが1番いいのでしょうか?
まず犬山橋から撮るとなると伊木山をセットに撮ることができ、綺麗な写真が撮れます。ただ欠点としては犬山城から少し離れるのでドアップしないと天守が小さくなってしまいます。
次に木曽川から。これは遊覧船に乗れば撮れます。木曽川から撮ると結構綺麗ですよ。多分これがベストアングルだと思うのですが、お金がかかりますね。
最後に岐阜県側から撮ると、これも結構綺麗に撮れます。春には桜と一緒に撮ることもできます。
アングルはこんな感じです。よかったら参考にしてください…
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2024/04/02 06:59
2024/04/02 06:54
時の流れは・・・ (2024/03/24 訪問)
国道2号線沿い、姫路市東出張所周辺が城趾です。
播磨三大城の一つですが遺構はほぼなくなっています。
大河ドラマ軍師官兵衛では初期の舞台でしたね。
その名残の顔出しパネルは半分消失、ボロボロに。
時の流れは時に残酷です。
本丸には天守風の公会堂が建っている他、黒田家の墓所や石碑があります。
向かいのグラウンドが二の丸、その間の道路が堀跡のようです。
北側の天川橋がかかる下の窪みが僅かに遺構として残っています。
公会堂は地域のイベント会場になっているようでこの日は親子連れも多く見られました。
遺構は少なくても地域に密着した良い城かと思います。
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2024/04/01 21:19
蓮池城 (2024/02/11 訪問)
【蓮池城】
<駐車場他>蓮池公園駐車場20台分程あり。
<交通手段>車
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅5城目。蓮池城は応永年間(1394~1428年)に小田直光によって築かれたとされたとされます。戦国時代後期に小田氏は龍造寺氏に臣従し、近世は鍋島氏佐賀藩の支藩として分地され蓮池藩5万2千石、陣屋が設けられます。
城跡は佐賀江川の北側にあり、方形の堀跡が残ります。城跡にあった蓮池神社も老朽化してなくなっています。陣屋跡は川の南側にあるようで、現在は公園化されています。
<満足度>◆◇◇
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2024/04/01 20:25
鞍掛合戦古戦場 (2024/01/01 訪問)
鞍掛山城は鞍掛山(240m)の山頂部に本丸が築かれ、そこから北に降っていった先に二の丸があり古戦場址の石碑が建っています。さらにそこから北にのびる尾根上に三の丸が配されているようです。弘治元年(1555)厳島の合戦で陶晴賢を滅ぼした毛利元就が防長二国に侵攻した際に最初の合戦場になったとされています。
大内氏の奉行三家老の一人で玖珂盆地の領主であった治部大輔杉隆泰は2600の兵を率いて毛利軍7000を迎え撃ちましたが、将兵1370とともに討死し落城したそうです。城の近くまで車道が通じていて駐車場にトイレも整備されています。ありがたいですね。
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2024/04/01 20:05
神社の方が城址っぽい。 (2024/01/03 訪問)
枝ノ城は枝宮八幡神社の東約100mの位置に築かれていました。神社の宮司・森脇氏に関わる城とされています。丘陵の上に築かれ、背後を堀切で区切り、頂部を一辺20mの方形と15m×6mの三角形の郭に分けているようです。南方約10m下方の□40mの郭も城址になるようです。枝宮八幡神社には森脇氏の主筋にあたる吉川元春公の坐像が据えられています。
最初、どこにあるのかわからず地元の人に聞いてようやくわかりました。
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2024/04/01 19:47
かつては三方を沼に囲まれた要害の城であった (2024/01/02 訪問)
須々万沼城はかつては城の三方を沼に囲まれた要害の城であったようです。現在はケアハウスの敷地内になっていて、かつての要害のイメージは有りません。ケアハウスの南西側の道を行くと、お地蔵さんが並んでいる場所があり、そこに小さな城址碑がありました。おそらくケアハウスの北東側に丸太で組んだ模擬見張台(櫓)があったと思うのですが、老朽化のせいか撤去されたようです。
須々万沼城は室町時代に築かれたとされていますが詳細は不明です。弘治年間には大内氏に属していたようで、山崎興盛、江良賢宣らが籠城して攻め手の毛利軍と戦っています。弘治3年(1557年)に毛利軍の侵入を許し、城内にいたものは悉く惨殺され、山崎興盛・隆次父子は自害し、江良賢宣は城を出て降伏したそうです。保福寺の正門の前に説明版があるようですが見落としてます。
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2024/04/01 19:26
織田信長の弟・織田信治の居城 (2024/03/10 訪問)
野府城は現在の一宮市開明字城堀、圦西郭、圦東郭、雲閑寺郭地内にあり東西約300m、南北約200mの規模であったようです(現地案内板による)。織田信長の弟(織田信秀五男(七男とも))織田信治の居城だとされています。信治は元和元年(1570)9月19日に浅井・朝倉の軍が宇佐山城に迫ってきた際、救援に駆けつけ、翌20日に森可成らと共に近江坂本で討死したそうです。
一宮市立開明小学校は城址の一部を占めており、城址碑と説明版が立っています。ちょうど親子連れが校内で遊んでいたので便乗して写真を撮らせていただきました。
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2024/04/01 18:45
2024/04/01 15:01
満開前の登城 (2024/04/01 訪問)
今年も桜の時期に成って参りました、チョット早かったのですが翌日からの用事と雨予想で今日の晴れ間に出掛けてきました、浜松の開花は28日、29日で早めでしたが5部咲きの桜、蕾と咲き始め、咲き振りの良い桜の下では花見をなさっており、何時も早い二の丸北角土塁の桜は5部咲き、二の丸広場大河ドラマ館跡は表の衣装、表示は無くなり黒の建物が残ってるだけ、松潤家康夢の跡状態、何時もビューポイントとして撮ってる富士見櫓辺りからの天守閣、天守曲輪埋門南石垣上からの天守閣では桜の咲がまだまだで後2、3日は掛かりそうです。
日本庭園の枝垂れ桜葉満開、染井吉野桜より1週間は早く咲き、タイミングを合わせて撮影するのが難点です。
浜松城公園桜まつりは3月23日から4月7日、桜と日本庭園のライトアップが日没から21時まで、屋台など出店されています。
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2024/04/01 14:12
2024/04/01 08:52
掛川城に行ってきました。 (2024/03/31 訪問)
この城は、今川義元の祖父である今川義忠が、室町時代中期に家臣朝比奈泰煕に築かせた城です。
その後は、朝比奈氏が代々城代をつとめ、城を子角山から現在の龍頭山に移しました。
しかし、今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にすると、今川領は武田及び德川の侵攻によって領土を切り取られ、
ついに、1568年に当主氏真は駿府館を捨て、掛川に籠城。数ヶ月に渡る籠城戦の末、1569年2月に開城した。
掛川城には、石川数正の叔父、石川家成が城代として入城。武田軍との激しい攻防戦の中でも落ちることなく、
德川の城として、石川家が城代をつとめ続けたが、1590年豊臣秀吉により関東へ移封となると、
秀吉の命で山内一豊が五万石で掛川に入城。天守を築き、近世城郭へ変えた。
1600年、関ヶ原の戦いにて山内一豊は東軍につき、その功績により土佐・高知城22万石に移封され、
松平→安藤→松平→朝倉→青山→松平→本田→松平→北条→井伊→松平→小笠原→太田→(德川)と
譜代大名によって治められた。
1854年安政東海地震により天守、二の丸御殿などの建物が倒壊、
天守は再建されなかったが、二の丸御殿(重要文化財)は1861年に再建した。
その後、1994年。日本初の木造で天守が復元された。(白河小峰城とも)
1995年には、元の位置から50m離れたところに大手門も復元された。
【城情報】
・形式 ❙平山城
・築城年 ❙1469年~1487年頃
・廃城年 ❙1871年
・築城者 ❙朝比奈泰煕
・最後の城主 ❙太田備中守資美(德川家達)
・廃城理由 ❙大政奉還のため(廃藩置県のため)
・主な城主 ❙朝比奈→石川→山内→松平→安藤→松平→朝倉→青山→松平→
❙本田→松平→北条→井伊→松平→小笠原→太田→(德川)
・遺構 ❙ 石垣、掘、土塁
・主な建築物 ❙天守、二の丸御殿、大手門
・説明看板、石碑 ❙両方有り
・駐車場、トイレ ❙両方有り
・天守 ❙有り
・保存状態(自身判断) ❙遺構が良く残り、当時の姿が色濃く残っている
・城レベル ❙4(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考 ❙最後の城主太田氏は太田道灌の家系
❙駐車場が満のところが多い
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2024/04/01 06:52
京阪の城めぐり③ (2024/02/24 訪問)
物集女城からの転戦です。例慶公園に標柱が建っています。(推定)の記載付きです。公園内には願徳寺宝菩提院跡の説明板もありますが、その中に寺戸城に関する記述はありません。
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2024/03/31 23:59
調布飛行場(の隣の公園)に移設の石積みを見に行きました。
今月いっぱい開催の『京王×西武×JR鉄道めぐりスタンプの旅』を制覇しようと京王線の一日乗車券を購入した際、せっかく乗り放題なのだからスタンプ設置駅以外にも寄り道しようと思い、
① 調布飛行場に移設のお台場の石垣
② 府中競馬場に移設の江戸城の石垣
を行程に絡めて見に行くことにしました。
いずれも“いつでも行ける=なかなか行かない”で、延び延びになっていたところです。
①の調布飛行場は調布市・三鷹市・府中市にまたがっていて、お台場の石垣があるのは飛行場と「武蔵野の森公園」のふるさとの丘との間の通路です。
飛田給駅から徒歩30分くらいでした。(西武線「多磨」駅の方が近いです。)
きれいに積み直された石垣は、説明板によると東京都港区にある汐留遺跡の屋敷跡と第一台場から出た石を有効利用しているとのことです。品川台場は第三・第六台場以外は残されておらず、第一台場も埋め立てられてしまっているので、こんなに離れたところで出会えたのは驚きでした。
説明板には「神奈川県足柄群真鶴町を産地とする安山岩系の新小松石と呼ばれているものです。」ともあります。
そこで思い出したのが真鶴の「しとどの窟」(源頼朝が身を隠したといわれる窟)にあった「品川台場礎石の碑」です。真鶴の名石が台場の礎となったことを後世に伝えるため、また採石にあたった方々の労苦を偲んで、台場埋め立ての際に真鶴の地に運ばれたものでした。
今回の移築石巡りは(一日乗車券の元をとろう!)というセコさMAXからの思いつきでしたが、『品川台場は12基計画され、完成したのは6基、未完成が2基、未着工が4基』と本で読んだ知識(数字)だけを記憶して理解した気になり、築造に携わったたくさんの人たちがいたことに思いが及んでいなかったことに気づかされました。
残された石が語る歴史に耳を傾け、思いを石に託した人々のことを知ろうとすることも大切だと思いました。
近くにある警察学校の石垣も何だかすごくてこれももしかして?いや、憶測で語ってはいけないなと思いながら帰ったのが2週間ほど前のことです。
その後、武蔵の森公園内に見逃していた石積みがあったことを知ったので、本日改めて行ってきました。
公園入口(正門)近くの小高い丘のあたりに積んであり「台場石」のプレートには「発掘調査にあたった港区立郷土館の好意により、ここに運ばれて第二の活躍の場を得ました。」と刻まれています。
やむなく消えてしまう遺構も多いなか、温かい人たちの手で大切に守られてきた石たちがこれから先も「ここにあったのか!!」と石垣好きの人たちを驚かせ、感動させてくれますように!
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2024/03/31 22:12
ペットに (2024/01/27 訪問)
厳しいお城でしゅ
敷地に入らせてもらえない感じでしゅねー
仕方ないので城下町食べ歩きでしゅ
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