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イタさん

伊予殿根(宅間上杉城館跡)横浜市港南区 (2024/10/17 訪問)

 横浜市港南区のHPに拠れば、山内・犬懸・扇谷・宅間の四上杉氏の中で、宅間上杉氏が永谷に根拠地をおくようになり、宅間氏の子孫である上杉乗国が永谷の地に城を築いたとされています。城がどこであったかは正確には分かりません。しかし、永野小学絞のあたりに伊予殿根(いよとのね)という地名が残り、乗国の子の憲方が伊予と呼ばれていたようで、伊予の殿様の屋敷か館があった所ではないかと言われています。
 永谷天満宮・貞昌院の辺りには環濠の跡があリ、背後の丘陵には人工的に削平したと思われる跡もありました。そのため、付近一帯は宅間上杉氏に関わる武将が築いた城跡ではないかと考えられています。戦国時代には宅間上杉氏は小田原北条氏に仕え、北条氏が没落した後は徳川家康の旗本として保土ケ谷に移るようになりました・・・。と載っている。

永野小学校の向かいが高く上永谷緑地になっており、台地端らしく高低差は感じられる。緑地は広場になり、端に東屋が建つ。南端の先は急斜面で竹藪などになる。広場周囲は、竹藪など以外民家が迫っている。城館跡はここで合っているか心配なまま訪問終了。

直線で南東に300メートルの場所に永谷天満宮がある。ここは菅原道真公の自作の神像3体のうち、1体を祀る。上杉乗国が明応2年(1493)に社殿を造営し、御神体を安置したと載る。鳥居前に水路・池?があり、これが環濠の跡かな?。行かなかったが、社殿の右か山頂部へ行けそうで、注連縄は張ってあるが。斜面などは上杉城館跡より、よほど城跡らしく見える。社殿まえからは城館跡が眺められる。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城② (2024/10/12 訪問)

JR乗り放題なのに来た道を戻るのが嫌で近鉄線を利用してアプローチしました。咋岡神社がその故地になります。城址碑の向かいの標柱はフィルムがはがれかかっていて、咋岡神社の説明板の文字も半ば消えかかっていました。かすかな土塁と濠跡だという用水路が残りますが、山城国一揆の故地だと思うとありがたみがじわじわとわいてきました。

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赤い城

暗渠

朝田さん正解、広島城です。

城南通りの地下道に暗渠の跡が展示されています。
立ち止まる人は少ないですが・・・。

天守のある城は建物や石垣で満腹になりそうですが周囲を歩くと意外なところに遺構ありますよね。
なかなか全部は見切れないですが。

東京は来年とのこと、桧原城や浄福寺城は遺構も良好なので冬がおすすめです!

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:願証寺 (2024/09/25 訪問)

長島城から徒歩10分くらいで、願證寺前(35.091536、136.705152)に着きました。

願証寺の創建は1501年(文亀元年)蓮淳(蓮如の6男)によって開かれたのが始まりのようです。
当地方の一向宗の最大の拠点として寺運も隆盛し、寺領は100,000石以上とも言われ周辺領主からは半独立状態だったようです。

1570年(元亀元年)織田信長の一向宗弾圧を発端に多くの門徒だけでなく周辺の豪族や信長によって稲葉城(岐阜城)を追われた斎藤龍興なども呼応し大一揆が発生しました。
周辺は複雑な水路が廻る天然の水城で、周囲には大小様々な砦や出城があった為、織田信興や滝川一益が敗れるなど織田軍は攻めあぐねていました。
1571年(元亀2年)織田軍5万の軍勢が3方に分かれて長島に侵攻するものの大きな戦果を挙げず退却、退き様に一揆勢に襲撃され被害を出しています。
1573年(天正元年)信長は2度目の大攻勢をかけ周辺の砦などを落として侵攻したものの、またしても責めあぐね、前回同様に引き際に襲撃され大きな被害を出しています。
1574年(天正2年)信長は3度目の大攻勢ではほぼ全軍の7万とも8万とも云われる大軍を長島に集結させ、九鬼水軍での海上閉鎖や大鳥居城や篠橋城の兵糧攻め、屋長島城や中江城の火攻め、降伏者の惨殺など凄惨な戦を繰り広げ、長島一揆勢を一掃しています。
寺は大破していましたが、1583年(天正11年)に村井新町に再興され1634年(寛永11年)には通寺として祐泉寺が創建、承応年間(1652~1654年)に誓来寺に1876年(明治9年)に願証寺に寺号を改称しています。

寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んだそうです。
現在は石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浜田城へ行く為、電車で近鉄長島駅から近鉄四日市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:長島城 (2024/09/25 訪問)

近鉄長島駅から徒歩10分ちょうとで、蓮生寺大手門前(35.093779、136.701124)に着き、その後、長島中部小学校説明板前(35.092373、136.698899)に向かいました。

長島城の起源は、1245年(寛元3年)に藤原道家が館を築いたことにさかのぼるそうです。
その後、1482年(文明14年)北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。
1570年(元亀元年)一向宗・願証寺の住職・証意(蓮淳の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりました。
その後、織田信長によって攻略されたのちは、滝川一益の居城となりました。
「賤ヶ岳の戦い」後、織田信雄の居城となりますが、1586年(天正13年)の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移っています。
江戸時代に入ると、菅沼氏が20,000石で当地に封じられ、長島城を改修し藩庁として用いました。1621年(元和7年)菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となります。
1649年(慶安2年)久松松平家の松平康尚が那須藩より10,000石をもって入り、長島藩が再興されます。
1702年(元禄15年)には、4代将軍家綱の生母の弟増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より20,000石で移され、以後8代続き明治維新に至ります。この間に城郭は順次拡大されたが、天守は築かれませんでした。
1872年(明治5年)廃藩置県と共に廃城となりました。

蓮生寺の大手門、長島中部小学校で説明板を確認しました。
深行寺にある奥書院については、時間の都合で見学を諦めました。
攻城時間は移動も含め15分くらいでした。次の攻城先=願証寺には、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:茂福城 (2024/09/25 訪問)

近鉄富田駅より徒歩15分弱で、城址跡前(35.000381、136.643305)に着きました。

茂福城は越前朝倉氏のもとにいた平貞冬が築城した城です。貞冬は築城当初は朝倉氏を名乗り、のちに地名から茂福氏を名乗っています。
茂福氏は1560年(永禄3年)に羽津城の田原氏と争い、神戸氏の援軍もあり勝利しています。

近鉄沿いに城址があり、案内板や城址碑が立っていました。
電車が頻繁に通るのでタイミングを合わせ、城跡と一緒に電車を撮影しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長島城へ行く為、電車で近鉄富田駅から近鉄長島駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:萱生城 (2024/09/25 訪問)

暁学園前駅から徒歩10分くらいで、暁高校外来者駐車場付近(35.033059、136.602010)に着きました。

1571年(元亀2年)に始まった伊勢長島一向一揆の鎮圧に先立って、1568年(永禄11年)に織田信長軍本隊の先鋒隊として派遣された羽柴秀吉・瀧川左近の連合軍により萱生城は攻撃を受けました。
当時の城主は、北勢三家衆の勢力頭として、近隣の大矢知経頼、伊坂(現伊坂ダム付近)の春日部太郎右衛門などの土豪を従えて活躍していた春日部俊家であったそうです。
織田連合軍は中村地内(学園向いの丘陵)に陣を布き、対峙し5年間も奮戦しましたが、1573年(天正元年)の総攻撃により、炎上落城しました。
その際、女人衆が身を投じた井戸が「髪のびの井戸」だそうです。

萱生城は現在、暁学園暁高校、暁中学校敷地となっています。
通学時間帯で生徒の皆さんが色んなルートで通学されていました。
高校北側の少し高くなった所に「髪(け)のびの井戸」が残り、「萱生城殉難者供養碑」等の石碑、説明板が建てられています。
ちなみに、三岐鉄道三岐線はICカードは使えません。キップ購入が必要です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=茂福城へ行く為、電車で暁学園前駅から近鉄富田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:菰野城 (2024/09/25 訪問)

ホテルでの朝食前に菰野城を攻城しました。
中菰野駅より徒歩5分くらいで、案内板/石碑前(35.011522、136.508920)に着きました。その後、隅櫓跡案内板前(35.011678、136.508028)➡菰野藩邸案内板前(35.012908、136.508687)の順番で巡りました。

1601年(慶長6年)ひしがた丹波守雄氏によって築かれました。それ以前は滝川一益時代の代官所跡であったそうです。
ひしがた雄氏は織田信長・信雄に仕えた雄久の長男で豊臣秀吉に仕えて3,000石の所領がありましたが、秀吉没後のに徳川家康と本多正信が画策した「幻の家康暗殺事件」の容疑者として父雄久に連座して改易となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦直前に罪を許された雄氏は、徳川家康の命で加賀の前田利家の説得にあたりその功で菰野12,000石を与えられ大名に列したそうです。

初代雄氏の時代の菰野陣屋は滝川一益時代の代官所跡を修築した程度で、雄氏は主に京の屋敷に住んでいましたが、織田信雄の娘八重姫を正室に迎えるにあたって「堀もないような城の主には娘をやれない」といわれ二日間昼夜兼行で堀を設けてたという逸話が残っているそうです。
陣屋の建物と城下町は二代雄高の時に整備されました。また幕末の1868年(明治元年)には堀と二重の隅櫓を整備しました。

菰野陣屋跡には現在、菰野小学校が建っており、小学校の南側道路脇に案内板と石碑が建っています。
遺構はほとんど残っていないようです。
城門が金蔵寺と光徳寺に移築され現存しているようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=萱生城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、電車で中菰野駅から近鉄四日市駅に向かいました。

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歴史案内活動のご案内【10月20日(日)10:00~12:30】 (2024/10/20 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡こと武田氏館跡にみそなわす武田神社では
そろそろ来月の七五三を控えて親子連れの参拝客が訪れるようになります。
神符授与所では千歳飴が並び、晴れ着姿の子供たちがおもちゃや飴を手にして境内を歩くのは
見ていると微笑ましい光景です。
ところが、甲冑姿に面頬で目元まで覆うEこと上田は
子供ばかりか大人にも泣かれ逃げられ怖がられるナマハゲ的存在。
それでも近づいてくれる子供たちも少しはいるのを嬉しく思ってます。
そんな10月、武田神社では当隊による歴史案内活動を行います。

日時:10月20日(日)10:00頃~12:30頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

今回のガイドは局長・大塚與左衛門が行います。
皆さんのご来訪も楽しみにしています。
(E)

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シャンシャン

夕暮れの米子城 (2024/10/11 訪問)

月山富田城とともに山陰を代表する山城である米子城。
麓にある桝形虎口をはじめ、山頂にある天守台・四重櫓台など見どころいっぱい!
天守台から見る夕暮れ時の大山や中海は絶景の一言!

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イタさん

城館跡は学校の敷地 (2024/10/17 訪問)

武蔵世田谷一帯を支配していた、足利市の流れをくむ吉良氏が、この地に移り住んだことが、蒔田城の始まりとされる。蒔田の城は「蒔田御所」・「蒔田殿」などと呼ばれていた。公園の一帯は馬場があったとされ、馬場の森(ばんばのもり)、馬場谷(ばんばやつ)と呼ばれていた。礼拝堂辺りが本丸跡で、南に天守台があったとされる。などが記されている。

城館遺構らしきものは確認できなかったが、学校周りを巡ると台地の先端に築かれていたのが分かる。学校正門脇に説明板があり、成美学園遺跡と呼ばれ、縄文時代から奈良時代の遺跡と載る。成美学園は、昭和59年の発掘当時の名を付けたようで、今は横浜英和学院となっている。南下の勝國寺に吉良家の供養塔がある。相国寺は吉良成高の建立と案内に載る。

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しんちゃん

南の郭は危険に見合うほどのものでは無い。 (2024/10/13 訪問)

「おすすめ出来ない城」土城の続き、主郭までです。北側にも郭があるようですが主要部は南にあると判断、そこには二段の扁平地(郭)があるようです。城址に入って目にするのが謎の石積らしきものです。遺構かどうかは不明ですが、このような石積が各所にあります。
尾根は城址の東側についていますが、その先はおそらく断崖絶壁です。草木が生えて来ていて見通しが悪いので安全な場所を選びながら尾根上を南に進みます。
そこから先は登りになっていて南の郭に続いています。東側(左手)をのぞくとそこは天然の断崖絶壁です。落ちたら大ケガです。フェンスで周囲を囲ってはいますが、主郭周辺は比高が高いので落ちたら大変です。ぶっちゃけ登るのは簡単ですが、大事なのは帰るときです。周囲は藪化しているので、うかつに西側に進むと先はコンクリの人口の絶壁です。
どうしても南の郭が見たいという方は、帰りのルートを確認しながら進んで欲しいです。おそらくピンクのリボンが帰り道を教えてくれるはずです。上まで登ると郭らしき扁平地があります。これが二段あるという南の郭の一段目ですが、残念ながらその先の郭は削られてコンクリートの断崖絶壁になっています。高所恐怖症の方は下をのぞかない方が良いですよ(そもそも来ない)。

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ぴーかる

東条城 (2024/09/23 訪問)

【東条城】
<駐車場他>東条城跡駐車場3台程
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅3城目。現地説明板(かなり細かく書かれている)を要約すると東条城は1222年頃、足利義氏は三河守護職となり3男義継が吉良荘東条を譲られ東条吉良氏の祖となります。12代持広は松平清康の妹を娶り清康が守山崩れで不慮の死を遂げた際には遺児の竹千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり松平家を助けます。桶狭間の戦いの後は松平家康は信長と同盟したため、吉良氏・今川氏と戦い14代義昭の時に家康に攻められ落城します。落城後東条城は松平家が入城します。1581年松平家忠の時には無嗣な為に家康の4男忠吉が後嗣となりますが1607年に没したために城は廃城となりました。一方、吉良氏は関ケ原の戦い後に家康が13代義安の子・義定を旗本に取り立て高家吉良氏として再興します。ちなみに義定のひ孫にあたる人物が忠臣蔵で有名な吉良義央にあたります。
 城跡は比高の比較的低い丘城といった感じで、主要部は主郭、八幡社のある二の丸、主郭下段の三の丸の3つの曲輪で構成されています。主郭は広い曲輪で東隅に櫓台、東南端に搦手門枡形虎口跡、北東辺に大手門跡と礎石の残る物見櫓跡と石積み土塁跡があります。堀切が無く、表面観察では傾斜面に竪堀等の遺構が見られなかったので、すごい防御性がある城ではなかったように感じた。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

どのくらい危険か確かめに来た (2024/10/13 訪問)

土城は「江馬氏城館跡」を構成する遺跡の一つとして国の史跡に指定されています。城郭大系には記載が無く、一連の支城の中では最も北に位置し、高原川と跡津川が合流する牛首城山の尾根の先端に築かれています。
国道41号線の工事の際に城址の山肌が削り取られコンクリートが吹き付けられています。ただでさえ段階絶壁の要害なのに人手によってさらに危険度がマシマシです。この城はそういった意味で「良くない城」なんですよ。
todo94さんの投稿によると、滑落の危険がある恐ろしい城とのこと。やだやだ‥とりあえず自分の目で見ないと良く判断できないのでやってきました。なんとなく昨日の酒が残っているし、落ちたらやだなあ‥と思いながら車を安全地帯に留め、南端から眺めます。
とてもじゃないが進入できる雰囲気はないので、昌官忠さんの投稿にあったハシゴを探します。だいぶ雑草が伸びて藪化が進んでいますね。これは良くない兆候です。フェンスに頭をすらないように城址に侵入します。足を滑らしたり、危険な箇所に足を踏み入れると大変なことになるので注意深く尾根に取り付き南に進みます。

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しんちゃん

破城の痕跡 (2024/06/15 訪問)

出丸から三の丸、二の丸を経て本丸に向かいます。三の丸には破城の痕跡が痛々しく残っています。天端(上側)と隅部を崩す方式がとられています。江戸時代に「天草の乱」が起きた後、全国の戦国期の山城(特に石垣の残っている城)が念入りに破壊されたとする説があり、金山城の石垣もその時に崩されたのかも知れません。痛々しい姿ですが、部分的にでも残ってくれているのは有難いことです。
二の丸に向かう途上に「古城山払下げ記念碑」が立っています。江戸時代には兼山の地を治めた尾張藩の「お留山」となっており、明治時代には皇室の御料林(ごりょうりん)となっていたようです。昭和28年にようやく住民への払下げが行われたのですが、長い間人手が入らなかったことが城址の遺構を残すことになったと案内板には書かれています。
とはいえ、それ以外にも小里城など遺構を良く残す城もあることから、地元住民にも城址に対する理解のある人も多かったのではないかと考えます。結局、山城などの遺構が残り、それを訪問できるのは地元の方々の理解と協力があったからなのだと思います。
近年荒れ放題の城址を訪問するたびにそれを痛感します。たいてい道が倒木で塞がれていることが多いので(マイナーな山城を訪問することが多い)。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~続・激ムズなクイズ~

赤い城さん,大ヒントありがとうございました。広島城ですネ!
攻城時の撮影写真を確認しましたが,あのアングルの写真はありませんでした…<泣>。
水堀を撮影した写真でご勘弁のほどを…m(__)m

来年のコンプ予定は,東京都,山形県,神奈川県の順になるかと思います。山形県は天候次第で大幅に遅れる可能性があります。できれば,春先あたりから立て続けにいきたいと画策しております。

もし,彦根城だったら…
城びとスタッフのみなさんは歓喜したかと思います。10月20日に「びわ湖EXPO」なんで。
所用があって,丸岡に続いて行くことができませんが…<泣>。

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しんちゃん

出丸の石垣の奥の方も見るべき。 (2024/06/15 訪問)

金山城にやって来ました。といっても訪問したのは6月ごろ、紫陽花の咲いている時期です。金山城は中腹まで車で行けるので私は大堀切の周辺の空きスペースに車を置いて、そこから徒歩で城址に向かいました。
西の出丸が駐車場になっており、そこに向かう道には紫陽花が咲き誇り、周囲の眺望と合わせてなかなか良い景色です。
文禄8年(1565)織田信長は烏ヶ峰城を奪取し、家臣の森可成に与え、可成はこの城を金山城と称したとされます。現在の石積みの遺構は安土城の築城期と同じころに改修したと見られ、破城の痕跡が痛々しいものの、本丸周辺には見事な石垣が残ります。チャートの岩盤がむき出しになっており、この山自体がチャートの岩山であることを感じさせます。
駐車場となっている出丸にも見事な石垣がありますが、正直違和感を感じました。積方や色合い、石材などから後世の物と判断してほどほどに写真を撮って本丸に向かいました。あとで可児市の文化財課に確認したところ、私が見た部分は後世に積まれたものだけど、奥手の方に最も古い石垣が残っているそうです。しまった‥だまされた。これは四回目の訪問もありですね。
良い城は何回行っても新しい発見が有るものです。

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猫八郎

すぎてるのに (2024/10/11 訪問)

閉城時間過ぎにハァハァ言いながら本丸天守到着。
スタッフさんのご好意で入れさせて頂きました。
ありがとうございました┏○ペコッ

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:上野上村城 (2024/09/24 訪問)

三河上郷駅より10分弱歩き、県道239号線沿い城址看板付近(35.010871、137.137601)の榊原康政生誕碑付近に到着しました。
上郷護国神社、上郷区民会館一帯が城跡のようです。

説明板によりますと、応仁年間(1467年~69年)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光により築城されたと伝えられています。
1475年(文明7年)宗光は次男・家光を残して渥美郡大津に移り、田原城を築いて田原城主となりました。その後、家光もほどなくして田原に移ったそうです。
1493年(明応2年)上野城に在った阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母の中條氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏らと連合して松平親忠と井田野(岡崎市)で戦い、敗れて松平氏に服属しました。
その後、上野城には松平内膳正信定・子清定が在城しました。1545年(天文14年)清定は松平広忠と戦い、翌年に降伏し桜井(安城市)に蟄居の身となり、代わって酒井将監忠尚が入城しました。
1563年(永禄6年)三河一向一揆が起こると忠尚は一揆方に味方した為、隣松寺に本陣を敷いた徳川家康に攻められます。
1565年(永禄8年)一揆は鎮圧され、上野城は落城し忠尚は駿河に逃れたそうです。
その後家康により上野七人衆と呼ばれる在番が置かれたそうです。

上野上村城についた時間、辺りは暗くよく見えませんでしたので、上郷護国神社へは行っていません。
暗い中、頑張って写真を撮りましたが、ほとんど使い物になりません。。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の近鉄四日市駅に向かう前に、一旦、金山駅に向かい荷物を取り出します。
本日の攻城徒歩=39341歩、攻城距離=27.53Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:松平氏館 (2024/09/24 訪問)

松平城から徒歩10分くらいで、松平東照宮鳥居付近(35.050335、137.260663)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、弘安年間(1278年〜1288年)在原信盛によって築かれたと云われています。
信盛が弘安年間に京より松平郷へ下向して館を築いたのが始まりとされるようです。

松平氏居館跡の水掘→松平東照宮→家康産湯の井戸の順番で廻りました。
松平郷館(資料館)は着いた時間が遅く閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上野上村城を目指す為、愛知県豊田市/おいでんバスと愛知環状鉄道を利用して、松平郷バス停から三河上郷駅に向かいました。

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