割とこじんまり
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2024/06/14 11:07
2024/06/14 11:05
2024/06/14 09:04
104【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の初陣(1/2)-高天神城に登城する前に) (2024/02/16 訪問)
(26人目)「井伊直政」の続き⑥です。
直政初陣の地、高天神城を訪れました。今回はその登城前の様子から先にお伝えします。
まず、JR掛川駅の構内にある「掛川観光ビジターセンター」に寄り情報収集をしました。駅からのバスの時刻表(平日30分毎、土日祝1時間毎)や乗り場(写真⑥)、降りてからのルートや縄張り図(②③④⑤)などたくさんの情報をいただきました(ありがとうございます)。そして何と!ここには「続100名城スタンプ」がありました。途中のスタンプ場所になっている大東北公民館で降りなくても駅のここで押せば、最寄りの 「士方(ひじかた)」のバス停までバスで直接行く事ができます(写真⑧)。荷物も預かってくれるようですが、5時に閉館で、それまで戻れるかわからなかったので、念のためすぐ前にあった駅のコインロッカーに入れました。すると何やらいい匂い、おいしそうなメロンパンを売っている店が目の前にあり買って行きました。これが正解! バスを降りて高天神城まで、店は一軒もありません(写真①のように何もない所です)。食べ物必要なら駅で買って行くべし!
掛川駅北口(写真⑥)から静鉄バス浜岡営業所行に乗り、車窓から掛川城を横目でちょこっと眺めつつ(写真⑦)20分、士方のバス停(写真⑧)で降り、追手門→本丸→岩窟→井戸曲輪(三日月井戸→かな井戸)→西の丸(高天神社)→馬場平(休憩)→堂の尾曲輪(堀切)→搦手門→バス停、のルートで歩きました(参考地図②③)。4時間くらいかかるかなと思っていたのですが、意外と2時間くらいで回れました。
登城後にまたバスで掛川駅に戻って駅前にあるホテルに宿泊。夜は掛川名物「まぐろ丼・茶そば・静岡ビール」で疲れを癒しました。特にまぐろは新鮮でおいしかったです😊(写真⑨)。どうやら掛川は、「まぐろ」と「お茶」と「メロン」の街のようです。
では次は高天神城の登城内容に続きます。万千代(直政)は、いったいどうやって水の手を断ったのでしょうか? そこに着目して登ってみようと思います(解るかな?🤔)。
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2024/06/14 06:59
少しだけの立ち寄り (2024/05/19 訪問)
一泊二日の山陰旅で少しだけ立ち寄りました。
ニッポン城めぐりの国宝5城イベントのためです。
今回は天守の写真はありません。
休日は県庁の駐車場が開放されているのは嬉しいです。
千鳥橋を渡り南口門から二の丸へ、櫓を見ながら天守のところまでは行きました。
今回は天守には入らず北惣門橋へと降り、武家屋敷、小泉八雲旧居、堀川を見ながら一周、駆け足での登城でした。
このあとはお昼、出雲蕎麦です。
美味しいお店はいくつかありますが個人的に好みの上田そばさん。
美味しかったです!
番外、写真10枚目の八重垣神社は夫婦の神様。
裏手の池に硬貨を乗せた紙を浮かべ婚期を占うことで有名なパワースポットです。
早く沈めば婚期は早い。
若い女性に人気のスポットです。
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2024/06/13 23:41
宗良親王ゆかりの山城 (2024/04/29 訪問)
大平城には三回行ってます。一回目は道が良くわからなくて断念しました。比高はそれほどでもありませんが、なかなか手ごわい山城です。もうちょっと草を刈ってくれたらと思いますね。
なかなか由緒がありまして、南北朝の時代、三岳城が落城した際に宗良親王が逃げ延びて来ています。しかし高師泰、仁木義長らに攻められ、暦応3年(1340)に落城し親王は信濃に落ち延びています。
五体力神社に入口があり、神社の東(右側)背後から出曲輪に道が続いています。出曲輪から本丸への道が最大の難関で北東側に道がありますが、ヤブシダで覆われていて良く見えない上に急坂が下に続いています。ここを下ってから本丸に登って行きますが、ここも雑草が生い茂っています。心が折れそうになりますが、本丸まで到達すると雑草もめっきり無くなるので、散策がしやすくなります。
東に曲輪が続いていて先に堀切がかかっています。これらの遺構から戦国期に今川か徳川の改修を受けているようですが、それほど凝った構造ではないです。本丸の西側にも曲輪が続き先に堀切があります。
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2024/06/13 22:49
天神山城跡・神奈川県鎌倉市山崎 (2024/06/12 訪問)
大船駅辺りから南西に低いが三角錐の山が見える。ここが北野神社の建つ天神山城跡になる。大船観音寺から23分ほどで神社参道入口に着く。参考資料は覚えていないが、文献等はないらしく、玉縄城の出城だったと伝わる、とあった気がする。
参道は石段が折れながら続く。石段の斜面は急で如何にも城跡を思わせ、斜面に後世の改変かも知れないが、狭い平坦地も見られる。最後の鳥居への石段の左に、斜面を斜めに上がる古い石段があるが、こちらが虎口跡だったら面白い。社殿の右奥から土塁状の遺構があり、先に行くと神社左奥の10mほど高い場所に出る。物見台でもあったのだろうか。先は木々が密生し踏み入れない。鳥居の両脇にも土塁跡らしき高まりがある。鳥居下から北にかけて腰曲輪らしきものがあり、下りてみたが草刈りがしてあり、先は狭いが下の道路に出られたので、単に参道なのかも知れない。
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2024/06/13 22:39
無印投稿 水城 (2014/01/16 訪問)
水城は白村江の戦いでの敗戦後、大宰府を守護するために大野城、基イ城と共に築かれました。国の特別史跡に指定されており、続百名城にも選ばれています。現在でもかなりの部分が残り、全長1.2km、高さ9mの土塁が延々と続き、基底部の幅80m、上部の幅25mの二段構造になっているようです。香川源太郎氏の「よみがえる日本の城」を参考にすると、かつては幅60mの水壕が並行し、土塁の高さは13mもあったようです。香川氏のイラストを見ると水城がただの土塁でないことがわかります。城壁の間に門が築かれ、城壁の上には物見台などが建てられています。城壁の開口部から御笠川が流れ大宰府まで通じており、その風景はいまも変わっていません。
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2024/06/13 22:18
長尾砦跡・横浜市栄区長尾台町 (2024/06/12 訪問)
案内板に、長尾砦は玉縄城の出城。長尾氏は源義家に従い後三年の役に活躍した鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に移り、長尾次郎と称し長尾氏の始祖となる。執権北条氏と三浦泰村の乱では安村に与し敗れ自刃し、鎌倉長尾氏は滅亡する。ただ一族はこの地に住み続け・・・と記されている。
居館跡から南西に60メートル位に、長尾砦跡の案内板がある。周囲は長尾台と呼ばれる台地の端になり、南側からは高低差がある。多くは畑地で、他は竹藪などで遺構があるのか分からない。竹藪内を覗き込むと、これは遺構かと思える地形もあるが、恐らく違うのだろう。
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2024/06/13 22:08
マルマル モリモリ 福束城と関ヶ原 執念の丸毛サミット (2024/04/14 訪問)
関ヶ原の前哨戦と言えば、7月18日に端を発した伏見城の戦いや、田辺城の戦い、安濃津城の戦いなどの一連の攻城戦が有名ですが、福束城周辺の津屋城、駒野城、高須城でもパチパチやってたんですね。ちなみに福束城は一番最初に落城しています。
福束城は揖斐川ぞいに築かれており、本丸を中心に郭が配されていた連郭式の平城と見られています。遺構は残っていませんが、案内板のある福満寺や白髭神社の周辺に深い壕があって、城郭の雰囲気を醸し出しています。
関ヶ原の合戦の一月前、旧知の仲の横井伊織の誘いを断って西軍に味方した丸毛兼利を、福島正則の命を受けた徳永寿昌らが攻撃、西軍の伊藤盛正らが加勢に来ますが、福束城は8月16日に落城し、兼利は大垣城に逃亡しました。
その後、高須城、駒野城、津屋城、加賀野井城、竹ケ鼻城ら西軍に味方する城は次々と落とされ、23日には岐阜城も落とされてしまいました。西軍、弱すぎねーか?
正直、いいとこ無しなのですが、去年の2月19日、輪之内文化会館で 「丸毛サミット」なるものが開催され、なんと広島大学名誉教授・三浦正幸先生が「幻の名城・美濃福束城」という題で長尺の講演をされているんですね。しかも短編のアニメーションまで作成したらしく、えらい力の入れようです。まさにマルマル・モリモリです! 盛りまくってますね!
ユーチューブでショートアニメを一部拝見しましたが、真ん中のイケメンが丸毛兼利として、後ろのハゲとスカシは誰? なになに‥西脇香右衛門? 渋谷多左衛門? 知らんがな‥。
表題の候補はいくつか考えました。
「丸毛戦記」
「丸毛兼利と愉快な仲間たち」
「関ヶ原前哨戦、丸毛兼利奮戦す!」
最後のやつがいいかなと思いましたが、結局マルマルモリモリになりました。なにせ、マルモとフクつながりでもありますし。(なんのこっちゃ)
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2024/06/13 22:05
覚鑁上人 (2024/06/13 訪問)
根来寺の大塔など主要施設付近を散策した後、道の駅ねごろ歴史の丘近くにある根来寺遺跡展示施設を見学しました。半地下倉庫や階段と通路のレプリカなどが展示してありました。半地下倉庫の赤く焼けた範囲は羽柴秀吉の紀州攻めに伴う火災の跡と書いてありました。
周囲にも遺構がいろいろと見つかっているようですが、由緒ある大寺院としてだけでなく軍事施設としてどのような規模で、どのような防御施設があるか興味があります。
JR紀伊駅からバスに乗り根来東バス停下車。徒歩15分くらいで行くことができます。
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2024/06/13 22:02
長尾氏居館跡・横浜市栄区長尾台町 (2024/06/12 訪問)
案内板に、平家打倒を掲げた頼朝に当初敵対していた長尾氏だが、その後頼朝・北条氏・鎌倉公方などに従い勢力を伸ばす。上杉謙信の先祖、長尾氏発祥の地と載っている、が長尾砦跡の案内板の方が詳しい。
東に御霊神社参道がある。石段を上がった先は広い平坦地で、北東隅が児童公園になり、そこからも来られる。一段高く社殿が建ち、南側辺りの斜面は如何にも館跡に思えるが、平地は公園等の造成により削られた跡かも知れない。神社右から裏手は更に一段高く、住宅・畑になるが土塁跡を思わせる地形が見られる。
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2024/06/13 22:01
復元光信公館と牡丹 (2024/05/21 訪問)
亀ヶ岡石器時代遺跡を終えて南下鰺ヶ沢へ約30km弱、探訪を長年願って居た津軽藩発祥の地なる種里城へ初登城。
駐車場:麓の休憩所駐車場、トイレ有(17時に閉まります)
参考資料:グーグルマップ、パンフレットに依る。
16時半を過ぎていましたが登城開始、光信公の館は大扉は閉まり脇扉が開いており入館OK、電灯も灯して頂き見学できるようにしてくれました。
延徳3年(1491年)光信公南部下久慈から部下を伴い津軽種里へ勢力の拡大し津軽藩統一の基礎固め、歴史勉強、種里城の模型、発掘調査、光信公の胴丸鎧レプリカなどの館内展示を見学して、光信公の像、裏の本丸跡、建物跡の地表展示見学、光信公の御廟所を本丸跡から拝み終了、5時を回って居ましたので登城口はロープで閉鎖、潜って出ましたが、トイレも17時閉鎖中でしたが待っていただき用を足しました。
当日は火曜日でボタン祭り(5月下旬~6月上旬)中は無休と有りましたので見学出来たようです。開館期間は5月1日~10月31日
開館日は金曜日、土曜日、日曜日となっています。が城跡、御廟所の見学は自由との事。
開館日、開館期間を知らずに訪ねたまたまボタン祭り期間に入って居たので見学出来ました。色とりどりの牡丹が咲いていました久しぶりに牡丹を鑑賞しました。
種里城の光信公の館は1990年平成2年の光信公入部500年祭のイベントに合わせ、事前の発掘調査、復元光信公の館設計等プロジェクトを組み建設したそうです。
30年前に光信公の館復元は認知して居たのですが中々青森は遠く、鰺ヶ沢までは弘前中心部からも遠く、やっと今回の企画に入れて探訪が叶いました。
弘前の帰路は館の方に聞き岩木山を北に廻って帰る県道31号線ルートを選択、昼以降晴れていましたので岩木山を、西から北から東から眺めての走行約40km、駐車出来る所で写真を撮りたかったのですが適当な駐車エリアが見つからず撮れず。脳内にバッチリ残しました。
十三湖から鰺ヶ沢、深浦、岩木山、岩木川と廻ると津軽を歌う演歌に地名が出てきて、何か懐かしくまた初なのに久しぶりと言う感覚に成りました、鰺ヶ沢からの日本海も本州北の日本海は初めて、ふるさと鳥取と比べ感慨深い、城廻も地域めぐりと一緒でありがたく楽しい事です。
種里城の探訪で青森県2日間は終了しました。明日は岩手県、岩手山が待っている。
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2024/06/13 21:53
2024/06/13 21:47
紀俊連 (2024/06/13 訪問)
戦国時代には太田城の支城であったと伝わっています。以前は堀跡などがあったようですが、なくなっています。グーグルマップの示す位置とイオさんの投稿を参考に写真を撮りました。堀跡があったのは吉野家やマクドナルドがある付近でしょうか。
和歌山駅より徒歩約20分弱でした。
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2024/06/13 19:45
ここなんだけど (2024/05/15 訪問)
旭川にあるチャシです。旭川にいらっしゃる際に訪問するのは大変ではありません。
写真2の奥が目的地です。写真3の大きな岩を回って行くことが出来ました。写真4~7がマーカー周辺です。確かに平削している感じではありますがやけに狭い。西南には何かの施設があってフェンスで仕切られています。マーカー誤差かもしれないのでフェンス沿いを探りましたがやみくもに動きまわっただけに終わりました。
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2024/06/13 19:41
飯田城 (2024/04/20 訪問)
【飯田城】
<駐車場他>飯田合同庁舎駐車場に駐車しました。庁舎が休みの日は観光駐車できます。平日は不可。
<交通手段>車
<見所>桜丸御門
<感想>日帰り伊那郡河岸段丘平山城の旅3城目。飯田城は13世紀初め頃に坂西氏が築城したとされます。1554年に武田氏が下伊那に侵攻してから30年間武田氏の城となります。1582年織田信長の甲州征伐にて城は落城しますが、明治維新まで城が残りました。
桜丸御門から本丸跡の長姫神社までゆっくりと散策しました。本丸が河岸段丘の先端部分にあたります。城跡内はほぼ現代の建物が建てられています。水の手御門跡やら移築門などは見落としてしまいました。
<満足度>◆◆◇
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2024/06/13 19:33
ここなんだけど (2024/05/19 訪問)
こちらと上名寄チャシは内陸にあるチャシで主要都市より随分距離があります(名寄市の皆様すみません)。ルートに組み入れるのが難しい場所でした。
写真2から入って行って、写真3.4のマーカー部分に辿り着きました。確かに平削してありますが首を捻るだけ。マーカー誤差もあるので移動して見渡しましたが安定の熊笹だらけ。
転んだついでに山菜が生えていたので撮っておきました。
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2024/06/13 18:51
二見する? (2024/02/24 訪問)
二見には二度見する、振り返ってもう一度見る、みたいな意味もあるようです。じゃあ、その辺にセクスィ~なお姉さんが‥(いません!)
あついっすねー! 最近、あまりの暑さに言動が少し怪しくなって来ています。そう、全ては暑さのせい。
二見城は吉野川にせり出した台地の上に築かれていました。妙住寺のあたりが本丸跡で、南側は二の丸跡になります。妙住寺の御勝手口から入っていくと、吉野川が見え、城址跡としての雰囲気を味わうことが出来ます。
二見城の始まりは南北朝時代に南朝に味方した二見氏の居城とされています。戦国時代、筒井氏三家老の一人であった松倉重政が豊臣秀吉に仕え8千石を領し、慶長13年に1万石に加増され、現在の二見城を築いたとされています。
松倉重政は五條では良政を敷きましたが、大坂夏の陣の功績で肥前日野江に4万3千石で移封すると、石高に似合わない島原城を築いたり、領民から過酷な取り立てを行いました。また、キリシタンの弾圧を幕命により徹底したため、後の「島原の乱」の原因を作ったとも言われています。五條市では今でも名君「豊後様」として称えられ、江戸時代には「松倉祭り」が行われていたようです。島原との落差が半端じゃないっすね。
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2024/06/13 14:53
【陸奥・亀ヶ岡石器時代遺跡】青森県つがる市 しゃこちゃん土偶がシンボル (2024/05/21 訪問)
安倍安藤氏遺跡群十三湊遺跡をチョットがっかりな探訪でしたが、種里城へ向かう途中に先ほど登録された世界遺産縄文遺跡群の一つ「亀ヶ岡石器時代遺跡」が通り道の県道12号線上に在りましたので寄ってみました、十三湊遺跡から南下約18km程の西側です。
住所:青森県つがる市木造館岡稲元176(縄文遺跡案内所)
駐車場:亀ヶ岡縄文遺跡案内所駐車場、砂利舗装でバスも含め大容量です、トイレ有。
参考資料:グーグルマップ、ネット資料に依る。
県道12号線を通て西側に社会の教科書に出てる遮光器土偶の大型モニュメントがしっかり東を見つめて居り直ぐに分かります、愛称「しゃこちゃん石像」と呼ばれているようです。発掘遮光器土偶現品は国重要文化財として東京国立博物館に収蔵されてるそうです。
亀ヶ岡縄文遺跡案内所よりすぐ北の県道12号線西側エリアに小公園として纏まっています、遮光器土偶の解説板、史跡亀ヶ岡石器時代遺跡の解説板、遮光器土偶石像モニュメントの立像、トイレ、駐車場数台分可能のまとまりです。
小公園の北西側200mのエリアに土壙墓群、竪穴住居跡、貯蔵穴などの発掘成果の地表展示がなされて居ります、遺物等は南の約2.5km程の木造亀ヶ岡考古資料室、また南南東約10km程のつがる市縄文住居展示資料館カルコ(つがる市役所東隣)に有るようです。
年代は3000年前から2400年前、遮光器土偶、ヒスイ製装飾具、色彩土器などが発掘されて居り、江戸時代から亀ヶ岡土器は有名で滝沢馬琴が鑑賞した、出土する土器の素晴しさは外国人も魅了し、出島のオランダ商館を通じヨーロッパ諸国にも流通した。(パンフレットより)
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2024/06/13 12:03
【陸奥・十三湊遺跡】青森県五所川原市 安倍・安藤氏で栄えた湊町 (2024/05/21 訪問)
安倍・安藤氏にまつわる福島城、唐川城を終えて今一度「安倍 安藤氏 奥州日之本将軍」の石碑に思いを馳せ中世繫栄したと言う、十三湖、十三湊を初探訪する。
住所:青森県五所川原市十三古中道61
駐車場:無し、十三湊遺跡前で路駐
参考資料:グーグルマップとネット情報に依る。
福島城初登城前に国道339号線東岸駐車エリアで十三湖を曇り空、強風の中、眺める、道の駅十三湖高原でも遠望、唐川城からも遠望し、国道339号線経由県道12号線に入り両脇の松林が素晴らしい、唐津城を攻城する前の虹ノ松原ドライブ以来の素晴らしさ、十三湖中島で休憩、中島と渡橋を眺めて、中島遺跡の説明板、顕彰碑、長山洋子の「恋の津軽十三湖」歌碑も眺める、茶店の方に日本のピラミッド靄山の話を聞く併せてパンフレットも頂く、十三湖大橋を渡りる、大橋からの景色も良い、県道12号線から町中の中道に入り、グーグルマップの史跡マーク「十三湊遺跡」へ到着。
ポッツンと案内板が立ってるだけ、周りは砂地の畑、松林だけ、淡い安倍安藤氏に関わる遺跡と思っておりましたので少しがっかりですが、脳内で整理し中世の繁栄の湊、安倍安藤氏の栄華を留めおきます。
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