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零汰

あぶないからはいってはいけません (2024/05/15 訪問)

国道274号線沿いの滝の上自然公園の一角にあると案内板は表示されています。川と線路に挟まれた半島のような場所がチャシです。

入口にはタイトルの言葉が書かれています。看板の様子からだいぶ以前から関係者以外の進入は無かったのではないでしょうか。
公園自体は立派で吊り橋などあります。主要都市を繋ぐ場所にありますので休憩がてら散策するのも良いかもしれません。

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カズサン

縄文から戦国期まで遺跡が重層してる (2024/05/21 訪問)

 飯詰城(高楯城)を終えて国道339号線を北上、途中に太宰治記念館斜陽館に寄り約18km程の中里城(中里城跡史跡公園)を初登城。ナビは中里斎場を目指す。

 駐車場:中里城跡史跡公園駐車場、アスファルト舗装で余裕の駐車可能、トイレ無。
 参考資料:城びと、グーグルマップに依る。

 駐車場に駐めて、登城階段からいざ進行、先客が1台それも伊豆ナンバー静岡県人かな?後で遭遇し会話をしました。
 登城階段から尾根に登り尾根筋道を曲輪へ虎口があり広い草原に成っており東から西先端へ広がっており二段に成っており西が上段、段差には土塁と堀で南北に分断、下段の周辺には北、東、南に空壕(説明板による)、井戸跡、竪穴建物地面表示、下段と上段の南側には柵列の復元、上段北に中里城趾石碑、南に展望デッキ、展望デッキに登り中泊町、十三湖、日本海方向を眺望する、生憎の曇り雨気味で眺望は良く無い。
 各遺跡発掘跡には説明板が付いている。
 
 中里城遺跡解説板によると。
 ここの遺跡は、縄文時代前期(約6000年前)の痕跡、平安時代半ば(10世紀約1000年前)には、古代集落が成立し約100年断続し、竪穴建物跡が80棟余り発見、後半(11世紀約900年前)なるとムラを囲む様な空壕・土塁・柵列などの区画施設がつくられ「古代防御性集落」と呼び・・この時代を復元整備した。
 室町時代(15世紀約550年前)には安藤・南部両氏の武力抗争を背景に城(館)として利用された。

 伊豆ナンバーの方とは城内曲輪と駐車場で少し会話し、東海大学の大学院生で卒論の研究で訪ねたとの事、将来は学芸員に成りたいとのこと、何処かの遺跡発掘現場でお話を伺うことになるのかも?、私と同じ様に静岡から車を飛ばして900km、大変な熱意です。
 その方の情報で中泊町博物館?史料館?に中里城遺跡の模型ジオラマを展示されているとの事。(時間の関係で私は寄りませんでした)
  

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カズサン

城郭風建物に満足して (2024/05/21 訪問)

 東北城探訪・青森県2日目、弘前のホテルを7時半に出発し五所川原市を目指し約30km程北上、飯詰城へ初登城。

 駐車場:妙龍寺山門斜め前に参拝者駐車場有り。私は妙龍寺より北西約250m程の交差点道路工事中のジャリ駐車エリア(40°49'40"N 140°29'26"E h=30m)を利用駐車。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 妙龍寺山門下の細い道を登って行く脇には山水が流れているが全体薄暗い、熊注意看板は無かったが鈴を鳴らして登って行くと高楯城址由来なる案内看板がある所へ進む、この看板は風化により見ずらい読みずらい、飯詰城は別称高楯城とも呼ばれているようです。
 登って果樹園に着き、斜め上へ登る道を進み、写真で見ていた赤瓦の城郭風建物の有る曲輪へ更に曲輪を東に進み石碑がある、良く観ると青年団賛歌の楽譜が刻まれている、城跡碑では無い、がここは二郭だそうです、草が茂って奥に進む状態でない、ここで登城を終了とする。
 帰って投稿時よく確認すると果樹園をそのまま東に進むと主郭にたどり着けたらしい。城郭風建物に満足し、草が茂ってと諦めた所で主郭への探訪が出来なかった次第。

 高楯城址由来看板が読めないので、城郭放浪記さんの歴史を借りると。
 城主は朝日右衛門尉と伝えられ、朝日氏は藤原藤房の末裔といわれる。天正6年(1578年)津軽為信は北畠氏を敗ったが、その後も飯詰城の朝日行安は津軽氏に抵抗し続けた。天正16年(1588年)になってようやく飯詰城も落城したという。
 
 飯詰城を終えて北上する事、約9km程の太宰治記念館斜陽館が、道々案内が有りあの有名な小説家太宰治の家か寄ってみました、又前の無料観光駐車場の売店前に今年の春場所に新入幕110年振り平幕優勝した尊富士関の応援看板イラストが有りチョットほっこり184cmの背比べ体験。写真投稿します。
 
 

 

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にのまる

天神山城(三鷹市)・かるた第一幕おつかれさまでした。

天神山城は金子氏館(島屋敷)訪問の際に通り抜けていましたが、最近説明板が設置されたという情報を得たので散歩がてら行ってきました。
築城主や築城時期はわかっていないそうですが、城であった証がこの小山の下に埋まっていると思うとそれだけで感慨深いです。
柴田勝家の孫で北ノ庄城から落ち延びた柴田勝重の墓・柴田家墓所のある春清寺、柴田勝家のものと伝わる兜塚がある勝淵神社も近く、隙間時間で歴史散歩を楽しむことができます。

遅くなりましたが100名城かるたCF、残念でしたね。9月に7セット受け取って親族・知人に配り、12月のかるた大会に向けて腕を磨く予定でいたのですが…。加藤先生の解説講座も楽しみでした。
クラウドファンディングに挑戦すること自体が英断だったのだろうと推察しますが、何と言っても“日本100名城”かるた。頂は遥か山の上、思い描いたとおりにいかないのは城めぐりと同じ。難攻不落ですね。
しかし、高い山を麓から見上げるだけではなく勇気ある一歩を踏み出した結果ですから、この挑戦は必ずや次へと繋がると信じます。
一度目でまわりきれなかったり遺構を見逃したりしたところへリベンジ登城して素敵な景色に出会えた、何度も挑戦してよかった、失敗も無駄ではなかったという経験は多くの城びとさんがお持ちのことと思います。
100名城かるたも敗北ではなくて道の途中。次の一手を期待しています!
CFの写真を見ていてひとつ気になったのが、見間違いでなければ『た』の絵札が今治城になっていたような…?違ったらごめんなさい。
応援コメントでは既に「続100名城かるた」を見据えている方がいらっしゃいました。目標を高く持つことは大切ですね!

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カズサン

水濠と鏡石-7/7 (2024/05/20 訪問)

 本丸石垣の積直し工事で内濠は水が抜かれて居り、中濠、外濠を廻った個々の写真と馬出から続く本丸枡形虎口の巨石、立派な大石の存在感が在り併せ投稿を致します。
 東門口の弘前城案内図、弘前文化センター前の津軽為信公像も終わりに投稿させて頂きます。

 青森1日目夕刻に弘前城で無事終了、長く7編に分けての投稿ご覧お付き合い頂きましてありがとうございます。

 今回の企画、東北城探訪青森2日目の飯詰城へ続きます。
  

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チェブ

箱根関所の巻き。 (2017/08/20 訪問)

朝田 辰兵衛さん、しんしんちゃんさん、アドバイスありがとうございます。参考にします。
病院にも行かずにいたので安心しました。
これから少しづつ歩ける身体になるように、時間と歩数を気にしながら行動してみます。
それからロキソニン、常備品に加えます。

続100名城の「石垣山城」から車で30分位の所に「箱根関所」があります。
江戸時代の関所が再現されていて、寸劇も観られます。
「箱根関所」では、入り鉄砲と出女を重点的に取り締まったそうです。

出女で、御用にならないようにしようと思った「箱根関所」観光でした。
、、、その前に、梅雨と猛暑で家から出られないかもしれませんがヽ(;´ω`)ノ

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カズサン

現存桝形櫓門の北門と+α-6/7 (2024/05/20 訪問)

 弘前城には現存桝形櫓門が五つあります、先に写真投稿した追手門、南内門、東門、東内門の他に北を守る四の丸の北に枡形櫓北門が在ります、またの名を亀甲門と称し大光寺城の追手門が移築されてと言われています。
 更に三の丸と四の丸の間に丘陵差が在り築城当初は賀田御門が在り賀田城(大浦城)の大手門が移築されて三の丸の北門として折れを持った桝形で厳重な護りであったそうです。
 北門から外濠を東に廻り込んで東門、弘前文化センター駐車場へ戻りました、約1時間40分の探訪でした。
 北門と賀田御門跡の写真投稿を致します。

 水濠と鏡石-7/7に続きファイナルです。
 

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小城小次郎

じっくりゆっくり建築中 (2023/12/02 訪問)

公民館として長く使われていた書院が元の位置に戻るという朗報を聞いてから結構経ったがじっくりゆっくり大事に建築中で完成はまだ当分先らしい。最後の写真は公民館時代の書院。どんな姿に生まれ変わるのか。

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しんちゃん

無印投稿  高松城 (2013/12/11 訪問)

高松城は天正16年(1588)生駒親正によって築かれ、天正18年に完成しました。現在は玉藻公園として整備されていて、周囲は水堀で囲まれており、外堀と内堀は海水で満たされ、海城の雰囲気を良く残しています。
現在は高松港の南東に位置し、周辺にはJR高松駅や高松シンボルタワーなどインフラや市の中心的な施設が海岸近くに集中しています。本丸と二の丸を繋ぐ鞘橋は刀の鞘に見立てて名前が付けられていて、屋根付き廊下橋となっており、天守台から全容を眺めることが出来ます。月見櫓、艮櫓(うしとらやぐら)、水手御門、渡櫓が重要文化財として指定されていて、月見櫓と渡櫓は日曜日に公開されているようです。また三の丸にある旧松平家高松別邸・披雲閣も重要文化財に指定されていますが一般の公開はしていないようです。

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牛若丸

名古屋観光のついでに (2024/06/09 訪問)

大垣城から車で15分ほどでした。
若い時の秀吉が築城したお城。
駐車場はありますがちょっと遠いです。天守の上からは岐阜城が見えました。
もっとも秀吉が築城した時には天守はありませんが...。

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牛若丸

名古屋観光のついでに (2024/06/09 訪問)

桑名城の次に寄りました。
復興天守とはいえよくできていました。中も見ごたえがありました。

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牛若丸

名古屋観光のついでに (2024/06/09 訪問)

九華公園が桑名城跡です。
天守台跡が残っていました。

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しんちゃん

どかんどかーん ドカン坂……◎◎◎ 愛知県常滑市 (2021/05/30 訪問)

愛知県の焼き物の二大産地といえばご存じ常滑市と瀬戸市です。常滑焼は一時期、瀬戸焼に押され江戸時代前期まで勢いが衰えたのですが、尾張藩の支配下で勢いを取り戻しました。650~100万年前に存在した東海湖の底に堆積した鉄分を多く含む良質な粘土を使用しており、大きな壺や甕を製作するのに適していたようです。江戸時代後期(天保年間)に連房式登窯が導入され、効率よく土管、甕、朱泥茶器などを生産できるようになりました。瀬戸物と同じく猿投窯の系譜とされ、釉薬を用いない「焼締」による焼き物が特徴です。
また六古窯の一つに数えられ、日本遺産になっています。

土管坂は常滑市を代表する観光地「やきもの散歩道」の中にあります。海外でも有名らしく台湾人とみられる観光客が「タ~イワン」と言いながら記念写真を撮っていました。壁を覆い尽くしているのは明治時代の土管と昭和初期の焼酎瓶で坂道には「ケサワ」と呼ばれる土管の焼成時に使用した捨て輪の廃材(焼台)が敷き詰められ、滑り止めになっています。
写真のでかい招き猫は とこなめ見守り猫「とこにゃん」です。幅6.3mあり、日本一巨大と言われています。とこなめ招き猫通りの南側、陸橋の脇に据えられ、やきもの散歩道の入り口で観光客を出迎えてくれます。

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牛若丸

餃子を食べに行ったついでに (2024/04/08 訪問)

宇都宮ライトレールの飛山城駅から歩いて20分ぐらいです。駅からは歩くしかありませんでした。
土塁などの遺構が残っていました。
歴史館や本丸跡には定休日には入れませんので注意が必要です。
車は停められます。

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しんちゃん

常滑城  天下人と焼き物 (2024/06/08 訪問)

常滑城は緒川・刈谷水野家の分家、常滑水野(監物)家の城で、水野監物忠綱によって築かれたとされています。戦国期の産業としての焼き物の需要は高く、織田氏の経済力の源にもなっていたようです。徳川家康の叔父・水野信元のころには知多半島一帯に水野家の勢力が伸び、長篠の合戦のころには信元は24万石の所領を得ていたようです。尾張圏内で徳川に近い、水野氏が力を増したのが脅威になったのかは不明ですが、天正2年(1575)信長は瀬戸焼のブランド力を強化し販路としての街道の整備に力を注ぎます。しかも、翌年の天正3年(1576)信長の命を受けた徳川家康によって信元が大樹寺で殺されてしまいます。常滑水野氏と常滑焼には逆風が吹き続けている感じで、常滑焼は安土桃山時代から江戸時代初期まで一時衰退してしまったようです。
そうした経緯があってか信元の娘婿で常滑城主・水野守次は本能寺の変に際して明智光秀に味方し、常滑城を退去させられています。後に織田信雄の家老・岡部重孝が入りますが、豊臣秀吉に通じたとして重孝は信雄によって殺されてしまいます。その後、徳川家康の家臣・高木広正が信雄より常滑郷に500貫文を与えられますが、家康の関東移封に伴い関東に移り、常滑城は廃城になったようです。
正法寺のある丘陵が城址と見られ、正法寺の南の小公園に城址碑が立っており、近くまでソーラーが迫ってきています。

織田信長にとって焼き物は財力の源であり、家来に与える褒美であり、また趣味の一環としても欠かせない重要な存在であったようです。

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朝田 辰兵衛

チェブさんへ~もう数ヶ月待ちましょう…~ (2024/04/02 訪問)

かわいいのが生えてきているようですね。その子を大切になさってください。個人差があるかと思いますが,もう数ヶ月待ちましょう。回復後は,6時間超の歩き続けというのは控えて,せいぜい2~3時間(2~2.5万歩程度)で切り上げるようにしたらどうでしょうか…?
トレッキングシューズも徐々に足になじませるようにしないと,身体の不調に影響を及ぼす可能性があります。

さて,鮎貝城ですが,土塁奥の水堀見落とし注意です。鮎貝八幡宮本殿は,明治31年に鮎貝城本丸跡に移転したとパネルに表記されていました。

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WEST

鶴ヶ岡城探訪 (2024/06/06 訪問)

鶴ヶ岡城を訪問しました。現在のお城は、酒井氏が入封した江戸時代の姿とのことです。なお、この酒井氏は、あの徳川四天王の酒井忠次を祖とします。
JR鶴岡駅から自動車でアクセスしました。お城の周囲は鶴岡公園となっており、無料の駐車場が数か所ありますので、アクセスし易いお城と思います。
(なお、前日に村上駅からJR羽越本線で鶴岡駅に来ましたが、ICカードSuicaが使用できませんので注意です)
このお城の本丸跡には庄内神社が鎮座し、まずは参拝してからの散策です。本丸を囲むように水堀と土塁が巡らしてあり、平城のイメージそのものです。
また、二の丸跡には藩校の致道館、明治時代の致道博物館がありますので、見学をお勧めします。訪問時、致道博物館では「大名酒井家の名宝 国宝展示」が開催され、数々の貴重な国宝、重要文化財を見ることができました。

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WEST

村上城探訪 (2024/06/05 訪問)

村上城を訪問しました。このお城は臥牛山を中心とした平山城で、室町時代に本庄氏が築城したのですが、現在の本丸、二の丸の姿は越前松平氏とのことだそうです。
アクセスはJR村上駅前からにて、新潟交通観光バス 道の駅関川行のバスに乗り、二ノ町バス停で降り、向かいました。(このバスの本数は少なく、たまたま接続がうまくいきました)
途中に東北電力村上電力センターに寄り、パンフレットを入手して登城しました。なお、センター内では村上城の簡単な展示があります。
登城口から七曲りの階段を15分程度登れば石垣が見えてきます。建物の遺構はありませんが、見どころは、総延長が1kmを超える石垣です。東日本では珍しいとのこと。石垣ファンにはワクワクしますね。
また、本丸からの眺望も素晴らしく、平山城の魅力です。
登城後は城下町を散策するのも良いと思います。歴史的な建造物や街並みを見ることができます。なお、村上市は皇后陛下雅子様のゆかりの地であり、まいづる公園にある旧嵩岡家の住宅は、雅子様の曾祖父が住んでいたとのことです。

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WEST

新発田城探訪 (2024/06/05 訪問)

新発田城を訪問しました。JR白新線 新発田駅から徒歩20分程度ですので、アクセスし易いです。
このお城は戦国時代に入封した溝口氏の居城とのこと。残念ながら、明治時代の廃城令により、多くの建物が取り壊されました。しかし、表門と旧二の丸隅櫓は当時の建物として残されています。貴重です。
また、本丸、二の丸の半分は陸上自衛隊が駐屯しており、立入ができません。
見どころは、前述の表門と旧二の丸隅櫓及び復元された三階櫓と辰巳櫓の建物群、それに石垣でしょう。特に三階櫓は屋根の棟がT字型で非常に珍しいものです。自衛隊の敷地内にある三階櫓を除いて建物内部の見学ができるのも魅力ですね。
今後、三階櫓も限定日を設けていただいて見学できるといいですね。
なお、赤穂浪士の堀部安兵衛の生誕地が新発田とのこと、城内には銅像が設置されています。

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カズサン

現存桝形櫓門の東門と東内門-5/7 (2024/05/20 訪問)

 弘前文化センターに車を駐めて弘前城への登城口が三の丸東に在る東櫓門枡形を潜り三の丸内へ西に進み中濠に架かる弘前城唯一の石橋、渡って二の丸桝形東内門を潜り二の丸へ、本丸へと繋がります。
 弘前城に残る五つの桝形櫓門の内、東門と東内門、石橋の写真投稿を致します。

 現存桝形櫓門の北門と+αに続きます。
 

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