鮎貝八幡宮が二の丸に当たります。社殿後背にかなり立派な土塁、その外には水濠も巡っているなかなか素敵な城でした。
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2020/11/15 05:27
2020/11/06 12:05
二の丸神社裏手の土塁が素晴らしい! (2020/10/25 訪問)
前夜は長井市の温泉旅館に宿泊しGoTo割とクーポンをゲットし温泉、ビールと地酒熱燗、地元料理堪能一番は山形の芋煮絶品でした。
旅館から北上約10km程白鷹町の鮎貝城を目指す、鮎貝城は2,3年前にNHKこころ旅火野正平が立ち寄って居り神社裏手の土塁が一瞬放映され初認識し、今年の4月桜の頃に鮎貝城と桜の綺麗な城郭放浪記さん掲載紹介の清水城をセットで探訪を考えてたのですが武漢コロナウイルス禍、伸び伸び今回初登城と成りました。
車は鮎貝八幡神社南参道、神社下駐車場を利用。
参道階段を登り神社境内に鮎貝城2の丸の案内板、何とここは2の丸か?、本丸は?どこだ、先ずは参拝し、神社裏手の土塁、大きく素晴らしい出来、土塁に登り、手前の竪堀、北西角の櫓台が有ってもおかしくない広さ、北側外に水堀確認、西に大堀切(現在道路)も確認、本丸は?どこだ余湖図コレクションさんの俯瞰図で案内板と有る所を探し探して辿り着くと本丸跡の案内看板、2の丸が堀土塁で切岸で囲まれてるからさぞ凄いのかと思いきや、宅地と果樹園に変わってる、さらに北に四角く囲まれた曲輪が余湖さんの図に在るので訪ねると樹木が鬱蒼としてますが堀に土塁を確認、さらに北は崖に川、東面も崖、南面も崖、西から東へ最上川に突き出た台地を使った城郭、結構大きかった事でしょう。
歴史的には鮎貝氏の築城、伊達氏の家臣と成り最上氏内通疑いで伊達氏に攻められ落城、最上氏との境目の城にて守りを固め、伊達氏、蒲生氏、上杉氏時代も残った様子。色々手が加えられたのでしょうか?
2の丸だけでも素晴らしい残り方です、神社が鎮座して佳かった!
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2020/05/02 01:08
2019/01/20 16:25
伊達・最上の境目の城 (2018/06/09 訪問)
山形県白鷹町の鮎貝城です。1396年横越氏が築城、鮎貝氏を称したとされます。鮎貝氏は米沢地方から勢力を拡大した伊達氏に従属、同じ藤原氏の出であったことから、伊達一門に加えられたとされます。1587年、時の当主鮎貝宗信は、最上義光と縁戚関係を結び伊達政宗に対して謀反の気配を示し、それに反対する宗信の父宗重から一報を受けた政宗は、鮎貝城へ電光石火の急襲を行ったため鮎貝城は落城、城下も灰燼に帰したとされます。城主宗信は山形へ逃れ、一時、城は破棄されますが、その後、領国境の強化のため改修されたとされます。伊達氏が国替えとなると、蒲生氏・上杉氏時代には、境目の城として拡張整備を繰り返されたとされますが、詳しくはわかっていません。江戸時代に入ると、一国一城令により廃城となり、、御役屋と呼ばれる屋敷が本丸背後に建てられ、上杉氏家臣本庄氏が領主として鮎貝を治めています。城は、最上川の左岸段丘上に築かれ、現在の鮎貝八幡宮が二の丸、その北西側に本丸、本丸の北・西・南に三の丸が配され、各丸は水堀で囲まれていたとされ、麓の城下も水堀で囲む外城とした総構だったと言われます。現在、城跡は二の丸跡の鮎貝八幡宮に土塁や北側に水堀が残り、本丸跡は住宅地や果樹園となり、本丸跡の看板が設置されています。また、三の丸は住宅地となり、堀跡が一部残っています。
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分類・構造 | 平山城 |
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築城主 | 鮎貝成宗 |
築城年 | 応永3年(1396) |
主な城主 | 鮎貝氏 |
遺構 | 曲輪、土塁 |
指定文化財 | 町史跡(鮎貝城二の丸跡) |
住所 | 山形県西置賜郡白鷹町鮎貝 |