築城時期・城主は分からない事が多く、千葉氏の一族であったことは確かのようだ。亥鼻城を追われ、千田庄に逃れたた千葉宗家の終焉地とある。城郭は小田原の役まで存続していたようだ。
多古台の広範囲が城跡だが、主要部は畑・果樹林で、北側には新興住宅地が多く建つ。南端まで時間の都合上行けないが、定番の堀跡のみとなる。
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2025/02/01 15:28
2025/02/01 07:58
陣ヶ森城 高知県土佐郡土佐町・いの町 (2025/01/26 訪問)
城びと未登録城です。
大豊インターから国道439号線を西に進みます。
途中、四国の水瓶と言われる早明浦ダムの近くを通ります。
さらに進み、トンネルの手前から県道6号線方面へ右折。
県道も細く、ここからがロングアンドワインディングロード。
対向車が来ない前提で走ることになります。
陣ヶ森方面への案内板を左に登ると登城口に、ここに車を置きました。
ここからは徒歩で登ります。
コンクリートで舗装されているので急峻ですがそんなに苦にはなりません。
南国土佐でも流石にこの標高、ところどころに雪が残っていました。
さらにこの日は冷たい北風がかなり強く吹いていました。寒い😒
主郭である山頂部には小さな祠と展望台が。
展望台からは北嶺地区の山波を望みます。
展望台の背後を降りてみると腰曲輪と横堀、土塁が残っていました。
近沢氏の居城とされます。
眺望の良いこの地で争奪戦があったとのこと、それにしても山深い場所にあります。
城目当てでいらっしゃる方は少ないと思います。
【見どころ】
・展望台からの眺望
・展望台背後の腰曲輪と横堀
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2025/02/01 04:14
奥州合戦 (2024/09/16 訪問)
阿津賀志山防塁は藤原泰衡によって築かれました。文治5年(1189)に源頼朝率いる鎌倉軍と、泰衡の命を受けた藤原国衡の軍がこの周辺で対峙しました。短期間で築かれたとされますが、今でもしっかりと遺構を見ることが出来ます。
阿津賀志山の中腹から阿武隈川旧河道まで3.2kmの距離に及び、かつては三重の土塁と二重の堀で構成され、現在でも中土塁と内堀が良く残っています。
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2025/02/01 00:04
久々の大坂城 (2024/12/15 訪問)
昨年末に久々の訪問でしたが
時間が足りず十分には見れませんでした
残念
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2025/01/31 20:37
丸子城 (2024/12/22 訪問)
【丸子城】
<駐車場他>丸子公園駐車場
<交通手段>車
<見所>虎口跡・土塁・眺望
<感想>1泊2日上田の旅2日目ラスト4城目。現地説明板によると丸子城は戦国時代の山城で1585年には城主の丸子三左衛門は真田昌幸に属して徳川家康の軍と戦った「丸子表の戦い」(第一次上田合戦ののち徳川軍が矛先を丸子城に向け攻城しますが丸子三左衛門は城を守りきった戦い)。
城跡は依田川と内村川の合流する山の東端にあり、おおむね東西に長く伸びる山の尾根上に築かれています。二郭には模擬櫓が建っていて、そこから東方向(上田市街)の眺望は抜群です。主郭以外の二郭を含む曲輪が超細尾根で両側が崖になっていて、通るのにちょっと怖い、曲輪としてはこれまでに一番細い尾根曲輪でした。主郭は手前に堀切・切岸を設け強固に進入を防いでいます。主郭はまあまあ削平されていて2段構造になっています。主郭の西側は急斜面になっていて、巨石を防壁とした強固な造りとなっています。
この細尾根の奥を塞いでおけば、敵は1兵づつしか当たれないので多勢は無効となる、城を守り切った理由がわかりました。1本道の攻城でしたが、なかなか面白い城跡でした。
これにてこの旅終了。上田城と周辺の山城を目的として冬場に行くためとっておきにしていましたが、逆に積雪で予定がだいぶ削られてしまいました。でも念願の上田城攻城できたので良しとします。個人的には長野県の蕎麦はやっぱり旨い!日本一だと思う。また長野県の百・続百名城を制覇してしまったが、行きたい魅力的な山城が沢山あるので、ゆっくりと攻略したい。走行距離894㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2025/01/31 19:40
クマったね (2024/09/15 訪問)
長沼城は長沼小学校の北にある小山の上に築かれていました。入り口にクマ出没情報ありと案内板があります。最近じゃん、クマったねえ・・
ここ小学校のすぐ近くでしょ、良くないね・・ほんと。とりあえず登ります・・熊は一日に何十キロも移動しますが、まだそのへんにいる可能性も有るので慎重に登ります。本丸には神社があり、背後に土塁が残り、西側に二の丸が配されています。今回は本丸と東側の曲輪を散策し、二の丸の訪問はほどほどで引き返しました。比高はそれほどでもありませんが、各曲輪の周囲は切岸となっていて防御力を高めているようです。
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2025/01/31 19:23
南北朝時代 (2024/09/16 訪問)
大波城は比高40mほどの丘陵に築かれ、現在は公園として整備されています。遺構は見当たりません。
南北朝時代、北畠顕家に仕えた大波倶成民部丞の城のようです。顕家が戦死した後は弟・顕信が鎮守府将軍となり後醍醐天皇の孫・守永親王を奉じて国政と軍政を司るが正平7年(1352)3月に多賀国府が足利の軍勢に攻撃され15日に陥落、17日に足利軍の追撃を受け親王、顕信らは逃れて、刈田郡三沢城を経て大波城に逃れたようです。
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2025/01/31 19:10
2025/01/31 15:03
鳥羽城探訪 (2025/01/22 訪問)
九鬼水軍で有名な鳥羽城を訪問しました。織田信長のもとで第二次木津川口の戦いにて活躍した九鬼嘉隆が築城したお城です。
愛知県の田原城を探訪後、伊良湖港から伊勢湾フェリーで鳥羽港まで渡り、訪問しました。駐車場は鳥羽駅近くの鳥羽駅西駐車場を利用しました。(鳥羽観光に関するHPにて紹介されている駐車場)
まず、駐車城からお城に向かう途中に鳥羽市歴史文化ガイドセンターに立ち寄りました。ここではパンフレットもあり、また九鬼水軍関連の展示もありますよ。
鳥羽城の見どころは石垣ですね。本丸の石垣、家老屋敷の石垣は必見です。また、本丸跡からは鳥羽湾が一望でき、その風光明媚さが窺えます。
鳥羽城も廃城令により建物は取り壊されましたが、当時は天守を含め13の櫓があったとのこと。残念なことです。
ところで、最近のニュースでゴミの中から未発見の鳥羽城関連の絵図が発見されたとのこと。興味深いですね。
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2025/01/31 14:29
田原城探訪 (2025/01/22 訪問)
愛知県にある田原城を訪問しました。自動車によるアクセスで、駐車場は田原市博物館の駐車場を利用しました。
田原城は戦国時代に戸田氏が築城しましたが、遺構としてある石垣や水堀は江戸時代に整備されたとのことです。
残念ながら建物は明治時代の廃城時にて取り壊され、現在ある桜門、二の丸櫓は昭和以降に復興されたものとなります。
二の丸跡にある田原市博物館では田原城に関連した展示を見ることができます。また、田原藩江戸家老であった渡辺崋山に関する展示もされており、時間があれば是非寄ってみてください。
なお、田原市博物館で田原城のパンフレットは頂くことができますよ。
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2025/01/31 09:27
黒田六端城を行く:(2城目)若松城 (2025/01/24 訪問)
黒田六端城2城目は若松城です。黒田長政は洞海湾の入口にあった中島に、父の官兵衛から仕えた重臣で黒田藩船手頭(水軍頭)の「三宅家義」に3600石を与え築城させました。おそらく細川忠興が海から攻めて来た場合に備えたものと思われます。しかし若松城は、明治時代の洞海湾工事で、石炭を運搬する大型船の航路確保のため島ごと削られ消滅したようです。現在の若戸大橋の橋桁の先(湾の中央)付近、つまり(写真①)の航跡のあたりにあったようです。
JR戸畑駅から徒歩5分の所にある若戸渡船場(戸畑港)の前からまず眺めました。下から見上げた若戸大橋は迫力がありました(写真②③)。そして、船で若松城があった場所の真上を通り若松港へ渡りました。料金はたったの100円です(安い!)。何度でも乗りたくなりますね(笑)。
若松港に上陸し、洞海湾の潮風に吹かれながら、晴れなのにまたもや「もや」がかかる遠くの皿倉山や花尾山を眺めて歩く事10分(写真⑤)、JR若松駅に着きました。この駅は、昔は筑豊炭鉱から掘られた石炭をここまで蒸気機関車で運び、ここで船に乗せ換え全国へ運ぶ、石炭産業時代の重要な駅と港であったようです。駅の歴史を説明するパネルや石炭(黒いダイヤ)が置いてありました(写真⑥⑦)。そしてここから折尾行の電車に乗ろうとしたら何とビックリ! あれ?電車なのにパンタグラフが下りている。よく見ると上に架線がない!(写真⑧⑨)。どうやらこの電車はハイブリットのようです(つまり電化・非電化区間どちらも走れるDENCHA😲!)。
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2025/01/31 08:14
朽木陣屋と信長の隠れ岩 (2024/11/09 訪問)
高島七頭にかぞえられる朽木氏が室町中期に拠点を岩神館から移して築いた城館で、安曇川に北川が合流する段丘上に位置します。小浜と京を結ぶ若狭街道と西近江への朽木道が交わる水陸交通の要衝にあたり、金ヶ崎の退き口の際には朽木元網は朽木谷を越えて退却する織田信長に味方して朽木城に宿泊させ、京まで先導しています。その後、元網は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、江戸期には交代寄合として朽木城の地に陣屋を構えて、明治まで朽木氏がこの地を領有しました。
朽木陣屋の建物は明治に全て撤去され、陣屋跡はグラウンドや史跡公園、住宅地になっています。遺構としては周囲にわずかに土塁や堀があり(水堀は見落としました…)、駐車場に石垣、公園内に井戸が遺っているくらいです。公園内の朽木資料館は昨年3月で閉館しており、展示は中江藤樹記念館に引き継がれる予定とのことでした。また公園内には茅葺の民家が移築されていますが、朽木陣屋とは特に関係ないもののようです。
陣屋跡をひとめぐりすると、朽木城の詰城にあたる西山城に登城して(別途投稿します)、信長の隠れ岩へ。信長の隠れ岩(高島市朽木荒川)は、金ヶ崎の退き口の際に織田信長が身を隠したと伝わる岩で、ここから朽木元網のもとに松永久秀と森可成を派遣して自らに味方するよう説得させたんだとか。国道沿いに説明板があり、そこから5分ほど登って行くと巨岩が林立する中に案内表示があります。この日は折よく草が刈られた直後でしたが、隠れ岩への遊歩道は夏場は藪に沈む上にヤマビル出没地なのでご注意を。
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2025/01/31 07:07
新居城・宮尾城・新居氏館 香川県高松市 (2025/01/19 訪問)
いずれも城びと未登録城です。
勝賀城の香西氏配下の新居氏関連の城を廻りました。
まずは新居城。
高松市の国分寺地区にある盆栽神社を目覚します。
神社の裏手に登城口があり、リボンを頼りに登っていきます。
明確な道はないのでリボンが頼りです。
途中、石が転がるエリアがありこの辺りから城域かと。
主郭には祠が鎮座し、その背後の岩場からの眺望は良いです。
勝賀城を望み、その南西側を新居氏が守っていたと想像できます。
派手な遺構は無く段になった曲輪が少しみられるくらいです。
新居氏の詰めの砦でした。
下山し宮尾城へ。
城跡には楠尾神社が鎮座し、遺構は残りません。
周辺より高い位置にあり、天然の要害だったことが想像できます。
最後は新居氏館、宮尾城から西に住宅地を歩いて行きます。
畑の中に土居の宮という場所があり、小さな祠が鎮座します。
北側には石垣もありますが後世のものかな?
説明板も立っていて背後には先ほど登った新居城を見あげます。
新居氏も長宗我部元親の讃岐侵攻で香西氏に従い戦いましたが討死してしまいました。
ここから西に進んだところに八十番札所の国分寺があります。
本堂や鐘楼などが国の重要文化財でこの日もお遍路さんで賑わっていました。
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2025/01/30 23:06
南北朝時代から (2025/01/26 訪問)
行ってきました♪最後の坂が急でしんどかったです😊
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2025/01/30 22:08
城郭検定松江城内にて開催 (2024/12/24 訪問)
城郭検定が松江城内の興雲閣内で開催。詳細は城郭検定公式HPで。
松江城は国宝指定10周年。イベントにも注目です。
松江城近辺では、高層マンションの建築中です。松江城天守からの眺望に影響がある模様です。
今後も高層マンションの建設が続くかは、未定です。
しかし今のうちに、松江城天守からの眺めを堪能しておくのがお勧めです。
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2025/01/30 21:54
石垣など散策 (2025/01/30 訪問)
石垣を観て廻るだけでかなりの時間が経ってしまいました。緑泥片岩、和泉砂岩、花崗斑岩などの石が使われています。積み方も野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギと築城された時期によるものですが、各種そろっていて楽しませてくれます。「和歌山の近世城郭と台場」(戎光祥出版)には特徴の一つが野面積みの高石垣と書いてありました。見どころいっぱいの城址です。
久しぶりに登城したので、風景が新鮮に感じ多彩な石垣などにテンションも高くなってしまいました。次回来る機会があれば、のんびり半日以上かけて散策したいと思っています。
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2025/01/30 21:36
徳川頼宜 (2025/01/30 訪問)
久しぶりの登城です。和歌山市近傍の城跡に来ることはありましたが、和歌山城はなぜかスルーしていました。前は緑の季節に登城したので、いつか葉の落ちた季節に行こうと思い今日の登城となりました。この城の魅力は石垣だと思っています。多彩な石を使った多彩な積み方を楽しむことができます。時間の関係でさらりと回りましたが、それでも3時間近くかかりました。1日過ごしてもいいかなと思います。
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2025/01/30 20:14
2025/01/30 20:12
真田氏館 (2024/12/22 訪問)
【真田氏館】
<駐車場他>御屋敷公園第1駐車場
<交通手段>車
<見所>虎口跡・土塁
<感想>1泊2日上田の旅2日目3城目。現地説明板によると真田氏館は1583年に真田昌幸が上田城を築城する前の真田氏の居館で真田幸隆・真田信綱の代から用いられていたとされます。館跡は土塁囲みで東西に上下段の2段構造になっています。南面の土塁下部と大手門跡には石垣が残されています。内部の皇大神社は荒廃を憂いた真田昌幸が勧請したとされます。添付写真のように昨晩からの降雪で積雪が酷くて遺構があまり見られなく、この後の天白城・松尾古城の登城を断念し、隣接の真田氏歴史館を観覧しました。出発時の宿泊した鹿教湯温泉の方は積雪があまりなかったので昨日行けなかった丸子城に向かいました。
<満足度>◆◆◇
<宿・温泉>宿泊は鹿教湯(かけゆ)温泉に宿泊しました。菩薩様が鹿に化けて信仰厚い猟師に温泉の場所を教えてくれた伝説のある温泉地です。匂いや色の無いあっさりした温泉ですが温泉からあがった後に効いてくるいい感じの温泉でした。
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2025/01/30 20:04
稲村御所 永享の乱 (2024/09/15 訪問)
稲村御所とは第二代・鎌倉公方足利氏満の四男である足利満貞を指すとされています。福島県須賀川市稲字御所にある稲村御所は満貞の御所が有った所とされ、釈迦堂側に稲川が合流する地点の南西の丘陵に築かれ、現在は畑地や荒地になっているようです。
草が生い茂っていて解りづらいですが、周囲には土塁が残っていると見られ、北側には堀跡も残っているようです。
足利満貞は永享10年(1438)に発生した「永享の乱」で足利持氏に味方し、永享11年2月10日に鎌倉の永安寺で持氏と共に自害しています。
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