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本地城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。瀬戸市西本地町付近にあった城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありませんが、石碑と説明板がありました。城主松原平内は、今村城の松原広長の叔父にあたる人物で、広長と共に安戸坂の戦いで亡くなり、本地城はその後、廃城になりました。
お城は現在石碑が建っている場所ではなく、北に流れる矢田川の更に100m位北にあったようです。

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今村城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。松原市の城で愛知県瀬戸市共栄通の八王子神社付近が城址です。城びとには未登録の城址です。応仁・文明の頃、今村城主であった松原広長は桑下城主である永井氏と安戸坂の戦いで戦死したと伝わっています。城の規模は東西50 間(90m)、南北60 間(108m)、四方に幅5 間(9m)一重の堀を巡らせ、南側のみ二重の堀となっていました。土塁の高さは2丈(6m)の城構えであったことが推定されています。八王子神社北西端に外堀の一部が池として残っています。井戸もありました。

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大津城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県瀬戸市にある城です。城びとには未登録の城址です。児童公園となっていて「大津氏祖宗碑」の石碑と「大津城由緒」の説明板がありました。大津八郎右衛門重俊が1555年(弘治元年)に近江よりこの地に赴き大津城を築いたとされています。元亀~天正年間に、武田軍に攻められて落城し、天正年間に廃城となったという説もありますが、武田氏がここまで攻め込んできたのか否か疑問です。

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菱野城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県瀬戸市にある城です。城びとには未登録の城址です。赤津川南の民家の近くに説明板がありました。それによると近くの水路が堀跡を利用した唯一の遺構だそうです。
瀬戸ぺディアによると「山口川(矢田川)の高座橋のやや下流左岸(南側)には、羽根屋敷と呼ばれる小高い台地状の土地がある。ここには戦国時代に林次郎左衛門が居城したとされる菱野城跡である。林次郎左衛門は永正十四年(1517)の菱野熊野社の棟札にもその名が残り、田幡(名古屋市北区)から狩宿・井田(尾張旭市)周辺まで勢力を伸ばして織田家の重臣も輩出したとされる。
 また別の考証では、鎌倉時代初頭に山田荘の地頭職に補された山田重忠がこの地域を支配し、その後その係累の山田泰親・親氏兄弟が居城、城構えは東西三十九間・南北五十三間、土居・堀跡などの一部を残す現在地がそれという。山田泰親はその後上菱野に山口城を築造している。」とあります。

 瀬戸市には瀬戸ぺディアという瀬戸市の歴史、自然、文化などを紹介する瀬戸市の百科事典を自称するサイトがあります。城址の事も丁寧に掲載されていて助かります。さっそく利用してみました。


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山口城(上菱野城) (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県瀬戸市にある城で、城びとには未登録の城址です。本泉寺が跡地です。山門近くに説明板がありました。土塁と堀の一部が残っています。鎌倉時代、山田泰親が子の山田重元に地頭職を譲って隠居するにあたり居館として築城したと伝わっています。本泉寺を建立し1283年に廃城となりました。

 瀬戸市にある城址の多くには「せとモノがたりの会」の方の説明板が設置してあります。よく知られていない城が多く感謝しています。

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三浦の晃ちゃん

整備された。 (2024/09/14 訪問)

20数年ぶりに、訪問しました。以前に来た時は、まだ、大学が移転したばかりの頃でした。
今は、復元されているものも多く、見応えがありました。石川門の中に入れたのも、面白かったです。

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にのまる

天空の城下町 (2024/09/04 訪問)

沼田駅から急坂を登りますが、心臓破りの滝坂も河岸段丘体験中と思えばきつさも楽しさに変わります。
観光案内所に寄ってから園内を散策しました。沼田公園のシンボルである鐘楼、二重櫓があったとされる西櫓台石垣、想像力で再建してみる天守台、長大な石垣が足元に埋まっている本丸堀。小松姫と真田信之像は正面から見ても甲冑に身を固め心に秘めた決意がにじみ出る表情がすてきですが、後ろから見ると二人が信頼しあい、同じ方向を見ているのだということをより一層感じました。また、展望所から名胡桃城をさがしたり天空の城下町を実感したりと、心ゆくまで楽しみました。

その後、小松姫の墓所である正覚寺に向かいました。途中、市営の駐輪場があり、駅に近いわけでもないのに何でだろう?と思ったのですが、ここはまだ坂の上で、駅までの急坂を自転車で上り下りするのが大変なんだろうなと思いました。

立派な山門やコウヤマキが目を惹く正覚寺。小松姫(大蓮院殿)のお墓は彼女の印象そのままの背が高く上品な宝篋印塔で、今でも沼田城下を見守っているかのようでした。また同所には大正時代に沼田城の荒廃を憂い、敷地を購入して公園整備して町に寄贈された久米民之助翁の墓所もありました。久米翁によって息を吹き返した沼田城は、ひとつには市民が憩い活動する場として、もうひとつには歴史の証人としてかつての姿を後世に伝えるという役割をもって在り続けています。その二つがうまく重なり合ったすばらしいお城だと思いました。

そして帰りなのですが、沼田駅で試運転中のSLに遭遇!本当はこの3日後のSLぐんま運転日に沼田へ行こうと思っていたのですが進行方向窓側の席が予約で埋まっていたため諦めてこの日にしていました。なので偶然の出会いにびっくり。人生何がどう転ぶかわからない。名胡桃城から2時間かけて来たのもここに導かれるためだったのかと(極めて都合よく)解釈し、出発の汽笛を高らかに鳴らし、もうもうと黒煙をあげて彼方(高崎)へと走り去る姿を見送りました。そしてつかず離れずの間隔で上越線で追いかけました。

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にのまる

青空が似合うお城。 (2024/09/04 訪問)

18きっぷも残り回数と使用期限が終わりに近づいてきました。
名胡桃城は前回訪問時の記憶がお城それ自体よりも“歩くのが大変だった”という方が強かったため、このままではいけない、思い出のアップデートをしなければ!と出かけてきました。

上越線「後閑」駅で下車。夏の陽ざしを浴びた稲穂が黄金色に輝いています。
その向こうに見える月夜野大橋を歩くのが前回辛かった思い出があるのですが、このたびは周囲の景色を楽しむ余裕もあって快適でした。

30分ほどのウォーキングで名胡桃城に到着。案内所で係の方とひとしきりお話ししてから見学に繰り出しました。暑いなか草刈りをしてくださっていて、感謝しかありません。

馬出から三郭→二郭→本郭と喰違虎口や堀切を説明板で学習しながら見学しました。ささ郭の先端まで来ると見晴らしのよさに心奪われ「ここを歩きたいスイッチ」が!!
月夜野大橋を渡っていた時に眺めた景色。ここを通って後閑駅まで戻ろう!

前回は帰りに小川城に行きがてら上越新幹線の上毛高原駅まで歩いたのですが、途中まではその時と同じです。案内所の方は「目印が何もないから……」と心配してくださったのですが、遠くまで見渡せるので、高層ビルが乱立していたり住宅がびっしり建ち並んだりしているところよりもはるかに進む方向を定めやすかったです。最高に気持ちのいいお散歩でした。また、途中のみなかみ中学校から聞こえてきた合唱のハーモニーがとても美しくて、立ち止まって聞きほれてしまいました。ほんとうにすばらしかったです!

最後に利根川を渡るあたりで、どのくらい歩いたかな?と振り返ると山の中に名胡桃城の幟が小さく見えました。
「おーっ!あそこに城があるぞ!!」幟が狼煙に見えてきてなかなか感動ものでした。

とゆっくりゆっくり歩いて後閑駅に到着しましたが、お隣の沼田へ行く上越線の時間まではまだ30分以上あります。
名胡桃城から沼田城まで自動車なら15分程度。時間が合えばバス便もありますが、乗車時間4分の上越線をじーっと待ち、2時間かけて次の沼田城へ向かいました。
歩くの大変だった→歩くの楽しかったに思い出を上書きできてよかったです。

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ゆーこ

壮大な石垣 (2024/06/15 訪問)

松阪駅から10分ほど歩くと、街中に壮大な石垣が現れます。
(明治より町名が松阪になりました)


築城者は蒲生氏郷。私が二番目に好きな武将です。
築城に関してはあまり目立っていませんが、相当なプロですよ!
安土城を身近で見ていますので、それを築城、街づくりの参考にされているかと思います。


近世城郭初期の頃の城なので、野面積み中心です。
何度も折れ曲がらなくては本丸上段へ向かう事ができない構造、
防御の本気を感じました。



松阪はあの三井家発祥の地でもあります。

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赤い城

六萬寺陣所 香川県高松市 (2024/09/01 訪問)

ことでん六万寺駅から徒歩で10分、六萬寺駐車場も利用できます。
六萬寺は730年、聖武天皇の頃に建立された古いお寺です。

源平合戦の古戦場で門前には石碑が立っています。
安徳天皇の仮御所として利用されたとのことです。

戦国時代になると長宗我部元親が八栗城攻めの際に陣を置きました。
六萬寺隣の神社が建つ部分は一段高くなっていてここが本陣跡と思われます。
で、背後の丘を登ってみると薄いですが土橋と空堀の跡もみることができました。
さらに登り、山頂部に行くと祠があります。
八栗城の状況を伺う物見の役割があったのかな?

お寺に設置されている説明板には周辺の源平合戦関連史跡も記されていました。
いつか廻ってみようかな。

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にのまる

小山氏城跡 (2024/08/28 訪問)

JR水戸線の小山駅と小田林駅の間の線路沿いです。何とか線路伝いに行く近道はないかと乗車中に目を凝らして見たのですが無理そうだったのでGoogleナビさんに従って小田林駅から県道沿いを歩きました。片道30分くらいでした。
途中の川(西仁連川)に古い県境標があり、栃木県と茨城県を行ったり来たりしていることにようやく気づきました。電車と徒歩で県境越え2往復です。
県道から左に折れて少し進んで見えてきた小さな森が中久喜城で、城址碑と説明板の奥に大きな空堀がありました。ここは曲輪Ⅰの北側にあたるようで、お城はその外側の曲輪Ⅲと西側の曲輪Ⅱで構成されていたそうです。
見学させていただいた曲輪Ⅰは私有地のようでしたので、先に畑でお仕事をしておられた方にお断りを入れました。
「←順路」に従って進むと水戸線の城山踏切。電車で城内を駆け抜けたところにやっと戻ってきました。単線なのもあってか“分断された”という雰囲気は感じませんでした。踏切を超えると大きな空堀跡。さらに進むとこのお城の見どころである桝形虎口。外からは想像できなかった土塁に囲まれた広い曲輪に“何もない”うれしさを思いました。
帰りも小田林駅に戻って水戸線で小山へ出ます。ここで〈電車内から城山踏切を撮る〉ミッション発令。
ワンマン電車だったので後方の窓からパシャパシャやってミッションクリアしました。わりと一瞬でしたがテンション↑↑でした。

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にのまる

小山氏城跡 (2024/08/28 訪問)

祇園城(小山城)に行った際に、祇園城・鷲城・中久喜城が「小山氏城跡」として国史跡に指定されていると知り、鷲城と中久喜城はその存在さえ知らなかったので行ってみることにしました。
小山駅から路線バスで小山総合公園へ。ほぼ土塁に沿って住宅街を歩き、外城である鷲神社への参道を通りました。時期的なこともあってか遺構パーツはあまり確認できませんでしたが、広大な城郭であったことが理解できる大きな土塁でした。

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にのまる

佐野ラーメンといもフライは持ち越し (2024/08/28 訪問)

【佐野城跡・城山公園】
18きっぷ5回目利用で出かけました。
改札口を出て右に折れるとアーチ屋根の先に広がる鮮やかな緑の芝。一瞬で時を超え、いにしえの世界へと引き込まれます。
城山公園として整備されている主郭部は三の丸から北出丸までの直線が連郭式を理解しやすく、それぞれを隔てる空堀も見事でした。特に二の丸と本丸の間の空堀は上から覗いても下から見上げてもかっこよかったです。
本丸の発掘された石垣と通路を示す石のラインは絵図や写真で想像する昔の姿を補完してくれます。本丸を抜けた北出丸では窮屈感や閉塞感を感じ、“遊び”のない空間に、本丸防御の重要な役目を果たしていたということが感覚的にも理解できました。

【犬伏の別れの地】
『真田丸』の頃から行ってみたかった新町薬師堂へ行ってきました。関ヶ原の戦いを前に、徳川方と豊臣方、どちらが勝っても真田の名が残るよう親子が分かれて戦うことを決断したとされている場所です。
佐野駅(佐野城)からは約3㎞。佐野市生活路線バス「さーのって号」の犬伏線で「犬伏薬師堂西」下車です。
薬師堂の後背に聳える山は米山古墳だそうで社殿の横に登山道らしき道が見えました。
薬師堂には犬伏の別れの説明板のほか昌幸・信幸・信繁親子の甲冑が飾ってあり、かの地に立てただけで大満足でした。また、すぐ近くに「別れ橋(があったと伝わる場所)」があり、ここでも大きな別れの感傷に浸ってきました。
「さーのって号」は1日5本しか運行されておらず、帰りはバスを待つより歩いたほうが断然早いので、例幣使街道を歩いて戻りました。暑かったです💦


#福山城×東横イン、クイズだと察してくださりありがとうございました。
お出かけ先は『ひみちゅ』の語感で『ひめじ』でしょうか?

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しんちゃん

夢幻の如く成り (2024/05/03 訪問)

笹下城は成願院周辺の高台に築かれていたようです。調査より開発が先行してしまったため「幻の笹下城」と呼ばれるようになったとか。城址あるあるですね。笹下城を築いたのは小田原北条氏家臣・間宮豊前守信元と「空堀跡の碑」には記載があります。
かつてこの一帯は山あり谷ありで幾筋もの川が流れており、このような自然の地形を利用する造りを「谷津構え」というと記載が有ります。「谷津構え」をネットでググると笹下城ばっかり出てきます。‥これは言ってみたかったってやつですか? わかります。

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朝田 辰兵衛

【お城×東横イン】今度はクイズですね…❓ (2023/03/18 訪問)

「福山城鐘櫓」×「東横イン福山駅新幹線南口」ではないでしょうか…❓
同じアングルの写真はありませんでした…<泣>。

なお,明日から2泊3日で遠征に出かけます。どこに行くかって❓
「それは,ひみちゅだ」
天気予報はころころ変わっているので,☂持って行こうかな…。

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にのまる

【お城×東横イン】

朝田さん、トクさん、東横インに反応くださりありがとうございます🙇‍♀️
下書きしたものの、何なんだこれは?と投稿をためらったのですが…、思い切ってよかったです。

お礼にもう一枚、【城×東横イン】をどうぞ!

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歴史案内活動のご案内【9月14日(土)10:00~12:00】 (2024/09/14 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

8月が過ぎると「夏も終わりですね」とつい口にしたくなり
実際少しずつ涼しくなっていくような気もしますが
まだまだ猛暑日の予測が続いたり油断ならない今日このごろ、
武田神社では当隊による歴史案内活動を行います。

日時:9月14日(土)10:00頃~12:00頃
   雨天の場合は15日(日)10:00頃~12:00頃に延期します
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

「原則無料」について補足します。
ガイドは境内のみならず、
武田神社内に備えられた宝物殿、
神社に隣接する信玄公ミュージアム(正しくは「信玄ミュージアム」ですが畏れ多くて「公」は外せない)こと
甲府市武田氏館跡歴史館の展示物の案内を行うこともできます。
どちらも武田氏ゆかりのアイテムが展示され、見ごたえもあり楽しい施設ですが
一部施設を除いて入館料が必要になりますので、そのご負担をお願いしています。
ただし、ガイドの分の入館料は不要です。ご自身の分だけお支払いください。
念の為書き足しておきますと、たとえ何百人案内しても
我々には1円もキックバックのないシステムになってます。

武田神社宝物殿 入館料 高校生以上300円、小中学生150円
甲府市武田氏館跡歴史館(特別展示室) 観覧料 一般300円 高校生以下無料
            ※常設展示室は無料で観覧できます

今回ガイドの局長・大塚與左衛門は、ロックなスピリッツと少年のハートを甲冑で包み、
武田氏の最新研究を積極的に取り入れ、わかりやすく伝えるガイドを行います。
今回も多くの方をご案内できることを楽しみにしています。(E)

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しんちゃん

届いた! 藤堂高虎陣・京極高知陣 関ヶ原町関ヶ原 (2024/03/30 訪問)

岐阜県関ケ原町の藤堂高虎陣・京極高知(高次の弟)陣は関ヶ原中学校の校門を入ってすぐの場所に石碑と案内板が設置してあります。東軍の第二陣として中山道の南側に位置しており、藤堂が2400、京極が3000の兵を有しており、けっこうな大部隊だったはずなのですが二人まとめて扱われています。別にそんなに仲が良いわけでもないのに、セット扱い。関ヶ原って、けっこう雑なんですよ。

一次史料や二次史料を用いての関ヶ原合戦の布陣地の論争はまだまだ続くと思います。本音を言うと、太田牛一以降に書かれた関ヶ原の史料から当時の布陣を推測するのは、難しい(不可能に近い)と思います。太田牛一の「内府公軍記」の江戸時代の本を閲覧しても、文字の解読が難しいのですが、概要はいろいろな方がネットに載せてくれています。家康公には関ヶ原の合戦に勝利した後、自らの勝利を正当化するために平野部で堂々と敵を打ち払い、徳川方の武将が活躍したというシナリオが必要だったと思うのですね。
そのため宇喜多・大谷らの主力が山中の谷から降りてきて関ヶ原の北西部に移動するという不自然な描写が生まれ、小早川隊がそれを黙って見ているという、またもや不自然な事態が起きています。正直、史実としてもエンターテイメントとしても「?」な部分が多く、
延宝元年(1672)に書かれた「武家事紀」では、その不具合を解消するように、最初から宇喜多隊は関ヶ原に向かって陣を構えています。正徳3年(1713)に書かれた「関原軍記大成」はかなり話を盛っているようで、明治時代の偉大な郷土史家が岐阜県知事の依頼を受けて作成した「関原合戦図志」は「武家事紀」を大いに参考にしているようです。

陸軍参謀本部が県の協力を得て作成した「関ヶ原合戦図」が翌年発行されており、その翌年には日清戦争が勃発しています。鋭い方はもうこれでお分かりになると思います。

本来であれば神谷道一氏の書かれた内容が近代関ヶ原の草分けになるはずだったと思うのですが残念な限りです。
関ヶ原の「史実」の部分は、まだまだ不明な点が多いですが、できればこれ以上「遺構」を壊さないで欲しいですね(出城とか)。
私は「欲張り」なので江戸時代に「文化」として発展を遂げた関ヶ原も存分に楽しむつもりです。太田牛一に責があるかと問われれば無いと思います。太田氏はあくまで「武士」なので、家康公に都合の良い文章を作るのは出世の為に必要です。歴史を改ざんするのも当時の権力者(勝者)の当然の権利だと思います。もひとつ言うと陸軍参謀本部も戦うことや陣地の構築が本分で、歴史のことなど二の次です。
それでも江戸時代以降に真摯に歴史に向かい合った歴史家たちが記した書物は興味深いものが有ります。まずは「関原合戦図志」を読み解いて、じっくり「武家事紀」を楽しもうと思います。

※「戸田左門覚書」はインターネットで文字を常用漢字に置き換えたバージョンを閲覧することが可能です。文体は江戸時代のままなので解読には時間がかかりますが、関ヶ原の戦いの部分を読むことが出来ました。二次史料で間違いないと思うのですが、石田三成の布陣や小早川隊の「手返し」の経緯などが後世の作品と異なっている所が興味深いです。

※関ヶ原には絶対は無いと思います。私は太田牛一の「内府公軍記」は信憑性の点で怪しいと感じていますが、実は全て「真実」であるという可能性もあるわけです。ですから二次史料や「内府公軍記」をもとに山中決戦論を否定される方がいても必ずしも間違っているとは言えないと思います。



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トク

甲府駅前の東横イン (2024/03/17 訪問)

甲府駅前には東横インが2つあります。たぶん「にのまる」さんが泊ったのは「南口Ⅰ」の方だと思います。甲府城から見た東横インの写真の方向から推測しました。私が今年3月に甲府城を訪れた時は「南口Ⅱ」の方に泊まりました。ホテルⅡの前から見た甲府城登城口と部屋から見えた甲府城の夜景です(写真①②)。またにのまるさんが撮影したのとほぼ同じ場所(天守台)から東横インⅠと雪をかぶった山々が写っていた写真が見つかりましたので掲載します(写真③)。あと関係ない話ですが、私は東横インⅠの前の店で食べた「ほうとう」おいしかったのを思い出しました(写真④)。以上の位置関係を示した地図も作ってみました(写真⑤)。

何かよく考えたらどうでもいい話ですね(笑)。辰兵衛さんのペースにはまってしまい、東横インフォトコンテストに、おせっかいながらも思わず私もエントリーしてしまいました(笑笑)。
 

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朝田 辰兵衛

【お城×東横イン】まだ,開業前でしたが… (2022/01/09 訪問)

にのまるさんから発動(?)された,【お城×東横イン】1枚いきます。「東横イン富士山大月駅」を,岩殿山城から俯瞰しています。
「そもそも,富士山を撮る時に,写り込んだだけじゃネエか!」と言われそうですが…<苦笑>。
「東横イン富士山大月駅」ですが,開業後は重宝しています。

にのまるさんへ…
東横インのフォトコン📷にぜひエントリーしてみてください。チェックインして,にのまるさんの撮影画像があったらとても嬉しい気分になりますので。

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